「お前、何者だ」
サカキは再度、冷たい目をした黒ずくめの男に誰何した。
高所から叩きつけられた衝撃に加え、先ほどまで、熱されたアスファルトに体を押さえつけられていたせいで、体のそこかしこがじりじりと痛む。
自分たちを襲った植物が、何者かの手によって燃やされ、撃退された。それは、目の前のこの男の仕業なのかもしれない。
しかし、煙草を咥え、忌々しいものを見るような目でこちらを見下ろす男の様子は、決して善意でこちらを救ってくれたのではないと、サカキには簡単に理解できた。
「仮にも助けられておいて、随分と舐めた口の利き方だ。日本人はもう少し礼儀正しい民族だと思っていたけどね」
どこか片言気味の発音だった。そして、声には少年のようなあどけなさが感じられ、サカキは違和感を覚えた。
男がゆっくりと歩み寄って来た。夏真っ盛りだというのに、頭を覆うフードも含め、全身を漆黒のローブで身を包み、それでいて汗ひとつかいていない。フードを被っていても明らかな、燃えるような赤い長髪、右目元のバーコード様の刺青、耳の輪郭に沿うように多量にぶら下げたピアスが、近寄り難い印象を与える。
サカキは男が近づいて来たことを受け、痛みを堪えて立ち上がるが、想像以上に相手の背が高いことに気付き見上げる形になる。2mは優に越えているだろうか。
「ならば、あの化け物を燃やしたのはお前ということか」
「新大陸の田舎くんだりから出て来た、
気取ったような口調で言うと、男は煙草を路面に落とし、紐の無い黒一色のブーツでじりじりと踏みつけた。
「それにしても、3人も雁首を揃えておいて、あんなお粗末な術式にも良いようにやられるとは。極東の新興宗派だと聞いたからどんな連中かと思えば……神裂から得た情報も、買い被り過ぎだったということか」
「さっきから言うねェ、ボーズ」
天然パーマを乱したモズが、サカキの隣に立って言った。
「坊主だと?」
男の目元がひくりと動いた。
それを見たモズが笑った。
「そーだよ。アタイには分かる。アンタ、イケメンでワル気取ってるけどさ、実は案外年下だろ」
「馬鹿にするな、女」
男が凄んだ。
「お前達など、この僕の研ぎ澄まされた魔術の前では、足元にも及ばない」
「へえ、タバコ臭い上にどーてー臭いけど、口だけはいっちょ前ってヤツか」
「何だと!」
「おい待て、お前、今『魔術』って言ったな?」
口元から流れる血を拭いながら、ミキが加わって言った。
「お前もあの大言壮語な
「……無駄話をしているヒマは無い」
男の目が、フードの陰の中で、ギラリと光った。
男が、懐に隠していた右手を出す。ゴテゴテとした銀の指輪が5本の指全てに嵌められており、夏の陽光を反射した。そして、その指で、1枚のカードを挟んでいる。サカキには詳細が分からなかったが、見えている柄はトランプの裏面のようだった。
「Fortis931。東洋人には聞き慣れないだろうがね、僕の名ということにしておいてくれ」
相変わらずの気障ったらしい口調だったが、その中に、こちらを刺すような攻撃性が含まれているのを、サカキは感じ取った。
((モズ、ミキ。構えろ。何か仕掛けてくる))
サカキは足の痛みを堪えて立ち上がりながら、男に悟られぬよう、念話を用いて2人の仲間に警告を発する。
その時、ふわりと涼やかな風が吹いた。
「ああ、そうさ。僕達『魔術師』の―――」
男が指を離すと、風にカードが舞い上がる。男の身長を軽々と越えてゆく。
サカキはそのカードを目で追った。
「―――殺し名さ……
物騒な言葉を口にしたのに続けて、男は何事か、聞き慣れない、異国の短い言葉を呟いた。
その瞬間、舞い上がったカードが、爆発した。
予想外の爆風に、サカキは両手で顔を覆った。熱さを感じる。
しかし、それだけで終わらなかった。
オレンジの弾丸のようなものが迫り来るのを垣間見て、サカキは足元に全力で上昇気流を生み出し、跳び上がった。
炎だ。
猛禽のような形をとった、高熱の塊が、先程までサカキがいた路面を抉り、黒く焦げ跡を残す。
「サカキ!!」
モズの叫び声が聞こえるのと、炎の鳥が軌道を変え、サカキを追撃していくのはほぼ同時だった。
サカキは目を見開いた。
再び熱が迫り来るのを感じ、痛みを押しのけて、脳が危険信号を発する。
全力でこの状況を回避しなければならない。
サカキは腕を上から下へ思い切り薙いだ。
演算を通して思い描いたのは、巨大な団扇。
強引に作られた気流が渦を巻き、轟、と耳に唸り声を満たす。
向かってきた炎は、拡散し―――巨大化した。
「あっ」
悪手だった。
そう気付いた瞬間、炎は開いた嘴で、サカキの身体を包み込んだ。
モズとミキが悲鳴を上げる。
「お前達のようなよちよち歩きの異教徒どもに、『あの子』を渡す訳にはいかない」
炎に巻かれて力を失い落下していくサカキをつまらなそうに見ながら、男が言った。
「さあ教えろ。
―――第一二学区、ミヤコ教団本部
「壮観ですね」
「さしずめ、ここは法王の謁見の窓といったところですか」
「
教団の長たる老婆、ミヤコが、神裂に背を向けて言った。
空間を、信者の喧騒が揺らしており、聖人として聴覚を研ぎ澄ましている神裂でも、辛うじて聞き取れる声だった。
ミヤコ様、ミヤコ様―――バルコニーから見下ろせる下層の広間では、数百人はいるだろう信者が、瞳を輝かせて名を呼んでいる。老いも若きも、男も女も、幼い子どもを胸に抱く者もいたが、身だしなみに余裕の無い貧しさを漂わせている者が多い。ある者は手を合わせ、ある者は目を拭い、またある者は跪いて何やら祈りを唱えている。
「それに、お主らの本拠は
ひとしきり手を振った後、信者の観衆に背を向け、ミヤコが神裂へ振り返って言った。
「ええ。ご理解頂いているようでよかったです」
神裂は静かに言い、ミヤコをじっと見据えた。
「宗教観の薄いこの国では、どうも十字教といえば何でも一括りに考えてしまう人も少なくないですから」
「……こう見えても、一宗教の祖であるからにして」
神官(神裂には仏僧のように見えたが、ミヤコはそう呼んでいた)の介添を受けながら、ミヤコはゆっくりとした足取りで神裂の横を通り過ぎた。
「最低限の常識は弁えておるつもりじゃよ」
神裂はミヤコの後についていく。信者たちの歓声は徐々に遠ざかっていったが、巨大な
「時間はあまりないのです」
神裂は言った。
「今朝、我々イギリス清教の
先ほどまでのただ静かな声とは違い、ほんの少し、鋭さを秘めた声だった。
「あなたがたの手の者が、彼女を車に乗せ、西へと連れて行った。どこへ向かわせたのですか?―――いえ……」
神裂は、左手で腰に下げた巨大な太刀、
「彼女を返していただきたい」
「……妙じゃの」
ミヤコの声色は、変わらず飄々としている。
「あの者、追われてここに来たと申しておった。じゃが、お主らは同じ神に仕える者、いわば仲間であろう?」
神裂は、杖をついてこちらへ向き直ったミヤコをまっすぐ見る。神裂の常人を超える視力は、ミヤコの赤黒い斜光眼鏡に、自分の姿が映っているのを捉える。
―――なんて心細い顔をしているのだ、私は。
神裂の胸に、苛立ちが募る。
しかし、目の前にいる、この不気味な老婆に悟られてはいけない。
ミヤコの顔。老いて伸び切った頬の皮の中に、栄養価の高い食事を摂っているのであろう、脂肪がしっかりと蓄えられている。
この老婆には、貧しい衆生を救う聖人とは程遠い本性がある、と神裂は看破していた。
腰もすっかり曲がり、杖や介添を要する程、足取りも不確かだ。それでも、底知れない不気味さがあり、任務を一刻も早く遂げたいと願う神裂に、焦りをもたらす。
神裂は、雑念を振り払おうと唇を噛み締めた。
「あなたに、その仔細を離す義務はありません」
努めて冷静を装った。
「しかし、あの子―――アレはお喋りな故、あなたも耳にしたでしょう?アレは危険なものだ」
「魔導書、とやらかえ?」
「確かに、アレを狙うものは多い」
神裂は、言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。
「我々の仲間の魔術師が、あなたの手の者と、アレを追っています。新大陸の
「保護、のう」
ミヤコが顎を撫でて、何か考え込む素振りを見せた。手首の数珠が、じゃらりと鳴った。
「そして―――率直に言って、あなた方も疑わしい」
神裂の声は、決して大きい声ではないが、辺りの空気を切り裂くような、ひりひりとしたものへ変わっていた。
「ミヤコ教―――極東のこの地において、あなたがたった一代で勢力を伸張させた、新宗教。その力はただ民衆に留まらず、今や政財界にも及んでいると聞きます」
「買い被りすぎじゃよ」
俯き、僅かに笑いながら、ミヤコが言った。
「いえ、違います。現に、野党第一党の重鎮も幾度となくあなたの許を訪れているではありませんか」
「週刊誌の情報を真に受けるのかの」
「それだけ疑わしいと言っているのです」
神裂は、徐々にミヤコの言葉に対して間を置かずに応答するようになった。
この老婆を逃がしてはいけない。
「私の同僚の魔術師は、ルーン魔術の天才です。彼は強い。他の追っ手だけでなく、終にはあなたが同行させた配下の者も制圧するでしょう。もしも、市井の人間が、純粋な善意で彼女を助けた、というのなら、我々ももっと穏便に済ませたでしょうが……しかし、あなた方は、我々にとって異教徒―――つまり」
神裂は、右手で七天七刀の柄に触れる。
「―――我らの資産―――『
ぐるりと取り囲むように立つ神官たちの視線が、じっと神裂に注がれた。
信者の喧騒が、本当にどこか遠くへと消えてしまったかのように、静寂が流れた。
ミヤコは、視線を落とし、俯いて黙っている。
「資産、とな」
ミヤコがその一言とともに、肩を震わせた。
「……何が―――」
刀の柄を握る神裂の手に力が込められた。
「―――何がおかしい!!」
怒りを露わにした神裂を前に、ミヤコが顔を上げた。
「倫敦より来たりし魔術師、神裂とやら」
笑みを浮かべていた。
「……己自身を
神裂の背筋に寒いものが走った。
ミヤコの言葉は、胸の内をすっと抉るナイフのようだった。
「何を、根拠に―――」
「護ろうとする、強い意志を感じたまでのこと。なあに、長年の勘というヤツじゃよ」
ミヤコが杖先で床をコツコツと軽く叩いた。
「しかし……困ったのう」
神裂は、もはや感情を隠さず、惚けるようなミヤコを睨みつけている。
七天七刀をいつでも抜ける体勢をとっている。
「あの者の力を欲しているわけでもなし、特段、行き先を隠し立てする義理も無い。のだが……
「ならば―――」
「さりとて、お主の力量は相当な物であろう?イギリス清教の魔術師よ。それこそ、ここにいる者共が束になっても敵わん程と見受ける……先ほどからひりひり伝わって来るわい。この老いた、乾いた肌に。お主の怒り、焦り、不安……何をそこまで焦っておる?神裂よ」
「……気安く、名を呼ぶな」
神裂は、静かに、だが怒りを込めて言った。
しかし、ミヤコは意に介す素振りを見せない。
「あの
「何が……ッ」
神裂は、ミヤコに言葉を返そうとした。しかし、普段は容易に繋がる筈の、単語と単語の結びつきが、ぷっつりと切れてしまったかのようだった。
なぜ、そんなことが言える。
この老婆は、自分の何を知っている。
暫しの間を置いて、言葉にならない感情の渦から、神裂はただ、目の前の存在に対して任務を遂行しようとする義務感だけを取り出すことができた。
「……これが最後です」
神裂は口を開いた。
「
「断れば?」
ミヤコが言った。
「その太刀でもってわしを成敗するか?今までそんな機会は幾度もあったと思うが」
「いえ」
ミヤコの言葉を聞き、神裂は短く言った。小さなその声は、唯の呟きに近かった。
「それには及びません」
神裂の右手が、ほんの一瞬、動いた。
雷を落としたような音と共に、上質な檜の床板が、幾つも木っ端を作って舞い上がった。
はらはらとそれら木屑が落ちる中、ミヤコの華奢な身体が、袈裟懸けに深い傷を作って
「私は、イギリス清教下、
七天七刀をとうに鞘に収め、宣言する神裂の足元には、からからと複数の欠片に分かれたミヤコの杖が転がって来た。
「悪く思わないでください」
ミヤコの身体が横たわる周囲には、七つの斬撃の軌道が、床を抉る傷跡となって残されていた。