「サカキッ!!」
ミキは悲痛な声を上げて駆け寄る。
炎に巻かれて力を失い落下する小柄なサカキの身体は、すんでの所で落下点にたどり着いたミキもろとも地面を転がった。
体全体が痛んだ。そして、口腔に硬い苦味が迸った。ミキは唾を吐き出す。黒ずんだアスファルト片がいくつも飛び出た。
何事か、遠くでモズが憤怒の声を上げるのが聞こえる。
しかし、それを気にする余裕はミキにはない。ミキは膝をつき、サカキの身体を抱きかかえた。
「サカキ!しっかり……」
((……ミ、キ……聞いて……))
ミキの思考に、サカキからの念話が弱弱しく聞こえる。
ミキは、抱いたサカキの身体を見回し、ふと違和感を覚えて首を傾げた。
ステイル=マグヌスは勝利を確信していた。
「
薄ら笑いを浮かべて、ステイルは言った。片手に摘んだカードが燃え上がり、火の粉を散らす。
「これくらいの“ぬるま湯”にも耐えられないなんてね。神裂も買い被り過ぎたかな、こりゃ」
「お前!よくもサカキを!!」
金髪の少女、ミキが憤怒に顔を歪め、片手の平をこちらに向ける。
何か仕掛けてくる―――そう察したステイルは、より素早く先手を取って、矢のように炎を相手目がけて射る。
息を呑んだミキが咄嗟のところで炎を回避し、どうにか受け身を取って転がった。
「舐めるなよ、娘」
ステイルはルーンを刻んだカードを新たに一枚取り出し、それを起点に炎の壁を創り出す。
壁はあっという間にアスファルト上を延伸し、モズを取り囲んだ。
炎の向こうで、汗を浮かべたモズの顔が見え隠れした。
「お前達は異教徒であり、インデックスを―――つまり、僕らの資産を奪った。もうとっくに、明確な敵なんだ。インデックスの行方を吐け。さもないと、次は
ああ、言っておくが、時間を稼ごうとしてもムダさ。ここら一帯には人払いのルーンをしてあるんだ―――先ほどからこれだけ鉄火場になってるのに、警察やら野次馬が来ないのもおかしいだろう?ぼやぼやしてると、お前も、あの落ちた女も手遅れになるぞ。命が惜しいだろう?つまり、お前達に選択権は無い訳で―――」
「なあ、魔術師」
不意に聞こえた声とともに、頭上に影が落ちたのに気付き、ステイルが上を見上げる。
「お前こそ、見くびるな」
頭上の人影がそう言い放った次の瞬間、ステイルは突風に目を塞がれ、それと同時に腹に渦巻くような強烈な衝撃を受け、強かに地面へ背中を打ち付けた。
何とか身を起こしたステイルは、自分の目を疑った。
先ほど、炎に焼かれて戦闘不能になった筈のサカキが、鋭い目でこちらを睨み、立ち塞がっていた。
「何―――
ステイルはマントの内側に忍ばせていたカードを取り出し、詠唱を試みるが、その前にサカキから突風の追撃を受けた。
それから間もなく、ステイルはがっしりとした体つきの黒髪の女―――ミキに、腹這いになる形で押さえつけられた。
「馬鹿な!」
咽ながら、ステイルは困惑の声を上げる。
「あれは500℃だぞ!手加減したとはいえ、動けるはずが―――」
「だから言った。見くびるなと」
サカキが静かに言った。
ぼさぼさの髪が至る所ちりちりに焦げ、白装束にも黒い跡を無数に残しているが、しっかりと自らの足で立つことができていた。
「ミキ」
顔を灼熱のアスファルトに押し付けられたステイルの耳に、サカキの声が届く。
「そいつは多分、ルーン使い。ちょっと
「ちょっとでいいのか?」
ミキが答えるや否や、ステイルは首を締め上げられ、意識を手放した。
「サカキ!」
術者が意識を失ったことで、自らを囲む炎がかき消えたモズが、すぐさま仲間のもとへ駆け寄って来た。
「大丈夫!?ケガは……」
「動ける」
サカキは、煤だらけになった自らの装束を手ではたきながら答えた。
「とりあえず、今は」
「でも、どうやって……」
「自分でもよく分からない」
サカキは首を振ると、ミキがのしかかる下で気を失っている赤髪の魔術師を見下ろした。
「もう駄目だって、切羽詰まって……咄嗟に、新しい演算式を組んだ。真空断熱のようなものかも。お陰で、苦しかった」
「そんな、簡単に言うけどさあ」
煤けたサカキの頬をハンカチで雑に拭いながら、モズが言った。
「魔法瓶じゃあるまいし」
ほっぺたをわしゃわしゃとされるサカキは、迷惑そうながらもどこか緩んだ顔をしていた。
「サカキ様!モズ様!ミキ様!お怪我は!?」
そこにばたばたと走り寄って来たのは、運転手を務めていた神官だ。顔中汗びっしょりで、利休帽が今にもずり落ちそうなくらい傾いていた。
「こちらは平気」
短くサカキが告げると、神官はほっと胸を撫で下ろした。
「それはよかった……今しがた、ミヤコ様に報せを致しましたが、神殿にも『魔術師』を名乗る者が押し入っているとのこと」
「何だって!?」
モズが血相を変える。
「ミヤコ様は!」
「無事とのこと。案ずるに及ばずと―――」
「なあ、ちょっと」
魔術師に圧し掛かったままのミキが唐突に言った。
「携帯、鳴ってんだけど」
軽やかなシロフォンの旋律が、ステイルの纏う修道服のどこかから聞こえてくる。
サカキは黙って魔術師の身に手を這わせ、やがて着信を告げる携帯電話を取り出した。
「日本語、通じる相手かな……」
モズがぼそっと呟いた。
サカキは電話の画面に指を走らせる。
『―――ステイル。あの子の行き先が分かった』
聞こえて来たのは、急き切った女の声であり、自然な日本語だった。
「ステイル、というのか」
サカキは、気絶している男をちらりと見やって、抑揚のない声で言う。
「……お前も、魔術師か」
『……ミヤコ教の“娘”ですか』
ほんの少しだけ息を呑む音が聞こえた後、相手の声は、打って変わって静かな、警戒心を表したものに変わった。
『その電話の持ち主は別にいる筈。彼をどうしたのですか』
「質問しているのはこちらだ」
サカキはにべもなく言った。
「お前は、魔術師かと聞いている」
『……いいでしょう』
ため息交じりの沈黙の後に、相手が口を開いた。
『イギリス清教下、
「ならば答える。こちらは、ミヤコ教団の徒だ」
サカキは淀みなく言った。
「今、十字教の装束を身に付けた男と交戦したところだ。ステイル……お前の仲間か?」
『……ええ』
間を置いて、神裂が答えた。
『彼は私の仲間。神父です』
「神父様だってェ?」
ミキが怪訝な顔をした。
「冗談だろ、メタルバンドの賑やかしって言われた方がまだ信じられる」
「その『神父』のお陰で、我々は一時、死に瀕した」
言葉とは裏腹に、サカキは怒りを示すことなく、冷静に言う。
「だがそれはともかく……そちらが目的としていた
『ええ。その点については、こちらとそちらとの間で……齟齬がありました』
神裂が言った。
『失礼をしました。我々はあなた方を追いません。そこで、ステイルを……彼は今、どうしているのですか』
「赤い髪の魔術師なら、我々が拘束した。今、私の仲間が跨っている」
サカキの言葉を耳にするや否や、モズがぷっと噴き出した。
サカキは怪訝そうに顔をモズへ向ける。
「―――何?私、何か変なこと言った?」
「ごめん、えっとね、言い方がね……」
モズがくすくすと笑いながら言った。
『……ステイル、この非常時にあなたは……』
神裂の内心がそのまま声に現れた。それから、誤魔化すような咳払いが聞こえた。
『とにかく、我々は今後一切、あなたがたに関知しません。そこで、ステイルを解放して頂きたい』
「私は反対だ、サカキ」
ミキが憮然とした顔で言った。
「私ら、こいつに殺されかけたんだぞ。なのに、タダで見逃せってのは納得いかないな」
「……ミキの言う事は、最も」
サカキは電話を一旦離し、小声で言った。
「ただ、こいつのお陰で、あの植物の化け物から救われたのも事実。だから……情報を得よう」
すると、サカキは再び携帯電話を耳に当てた。
「分かった。解放する」
相手の答えを待つことなく、サカキは電話を一方的に切った。
それから、サカキはミキに押さえつけられているステイルの横でしゃがみこみ、顔を覗き込んだ。
「オイ、起きな……」
「どうするつもり?」
「奴らは、イギリス清教、と名乗った」
モズが聞くと、サカキはステイルの頬をぺちぺち叩きながら答えた。
「だとすると、インデックスを追うのは何故?奴らにとって敵ではなく、味方であるはず」
「うーん、裏切り、とか?」
「そんなことするようなヤツには見えなかったが」
ミキが唸るように言った。
「食べ物の恨み、ってならあり得るかも」
その時、サカキに顔をはたかれていたステイルが呻き声を上げた。
「なあ、お前、イギリス清教の魔術師なんだってな」
目覚めたばかりで薄く目を開けているステイルに、サカキが静かに言った。
「ちょっと、話、聞かせろ」
「ああ、あと、あのヘンテコなカード、全部出してもらおうよ」
モズも寄ってきて言った。
「また何か抵抗されたら困るし……全部服、脱いでもらおうか?」
「そりゃあいい」
ミキがせせら笑って言った。
「せめてそのぐらいはお返ししてもいいよな?」
「お、お前ら……」
3人の会話を聞いて、ステイルが震えた声で言った。
その青褪めた顔を、サカキは間近から見据えた。
「……正直に答えた方がいい。すぐ終わる」
ステイルが目を見開くのを見て、サカキは薄く笑みを浮かべた。
昼 ―――第七学区、学生街
「……でも、ここらのアパートはみんな八階建てだぜ?踏み外したら、あの世へ直行じゃねーか」
上条当麻は、先ほど突然自室のベランダに出現した、修道女風の身なりをした少女へと怪訝そうな声で問い掛けた。
「仕方なかったんだよ、
壊れたエアコンのせいで、湿っぽくうだるような空気が支配する居間にちょこんと座った少女は、上条にとってよく分からないことを言った。先ほどから聞く所によると、ビルとビルの間を飛び移ろうとして、落下し、7階にある上条の部屋の外、ベランダの手摺に、布団よろしく引っかかっていたのだという。
上条には俄かに信じ難い話だった。しかし、それはともかく上条は、空腹を訴える少女のために、冷蔵庫で干からびていた残り物をフライパンに放り込んで揺すっている所だった。
「追われていたからね」
少女の発した言葉に、フライパンを揺する上条の手が止まる。
「……追われてるって」
上条は、視線をフライパンの形容し難い内容物から、少女へと移した。
「誰に」
「何だろうね」
落ち着かないように、純白の修道服を纏った上半身を左右に揺すりながら、少女が言った。
「私、連中から逃げて……そう。朝、一度は助けられて」
「助ける?」
「そ、それで―――」
上条は目を丸くした。
不意に、少女の言葉が詰まり、嗚咽が混じったからだ。
「ちょ、お前、どうした?」
上条は慌てて駆け寄った。
俯いていた少女が顔を上げる。
雪のように白い肌に2つ、大きなエメラルドの瞳。
その端から、きらきら光るものが零れていた。
「あれ?」
少女が、目の端を細い指先で拭った。
「わたし、どうして泣いてるの?」
「はァ?」
上条は、相手の言っていることが理解できなかった。
それでも、突然泣き出した少女の様子を見て動転し、理由もよく分からないまま謝ろうとした。
「あの、俺、もし気を悪くしたんなら―――」
上条の言葉にすぐ返事をせず、今度はより強く、少女が目をごしごしと擦った。
拭った後の目尻に、ほんのり赤みが差していた。
「必ず、辿り着けって―――守ってくれた……」
少女が小さくしゃくりあげた。
「モズ……みんな、忘れない……忘れない、よね?」
何事かを自問自答すると、少女は目の前のテーブルに突っ伏し、顔を両手で覆った。
「なんで……どうしよう、忘れ、たくない……!」
「インデックス」と名乗る少女がさめざめと泣くのを、上条は結局、台所から焦げた臭いが漂ってくるまで、困惑しながらただ見守ることしかできなかった。
真空だけで炎の高熱を遮られるとは実際思いません。輻射熱があるので、タダじゃ済まないでしょう。
もっといいアイデアが思いつけばよかったのですが。