多分、ヤンデレ   作:都月とか

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虹彩が縁取る筆無しの絵

 

 ピンポーン♪

 

 玄関から呼び鈴の音が聞こえる。連絡は先程来たというのにもう家の前に居るのかと、コンロの加熱を止める。

 

「今! 行きますー!」

 

 エプロンを冷蔵庫の横にかけて、急いで玄関へと向かう。

 扉の前に立っているのが誰かなんて、そんなこと分かりきっているのに覗き穴へと顔を近づけた。

 

 狭まる視界の先には、一人の女性。艶のある茶髪を腰まで伸ばし、サイズの大きすぎるTシャツを来ながらも瀟洒な訪問者、つまりいつもの来客であると確認して鍵を開ける。

 すると、僕がドアノブに手をかけるまでもなく扉が開かれた。

 

「おはよう、君。何度も言っているが、私が来る時は鍵を開けておいてくれ。……待つのが面倒だよ」

 

 気だるげな声を響かせながら彼女はするりと部屋へ侵入し、既に靴を脱ぎ始めていた。さながら自分の家のごとき気やすさで。

 

「好き勝手言わないで下さい。最近物騒なんですから、セキュリティの意識はちゃんと持っておかないと」

「"ちゃんと"なんて言葉、私は嫌いだね」

 

 ウンザリとした顔をしている。彼女の様な人間は、どうも常識の枠に嵌められる事を嫌うらしい。

 

「そうですか。ついでに言えば、もう『こんばんは』の時間ですよ。十九時です」

「……私が起きた時間が、朝だよ」

「太陽が昇って居る時が、だと僕は思いますけどねぇ……」

 

 恐らく先程起床したであろう髪の乱れっぷりを見せながら、家主よりも先に部屋の奥へと彼女は歩いていく。

 

「今日のご飯は何?」

「今日はオムライスです。もう直ぐ出来上がるので、適当にくつろいでいて下さい」

「わかった」

 

 そう言って、二人がけの仕立ての良い白革張りのソファへとちょこんと座る。一人暮らしの大学生にはそぐわない高級家具。僕が大枚はたいた訳ではない。彼女が僕の家に上がり始めてすぐの頃、突如送り付けられた——本当に突然、家に帰れば既に設置されていた——物だった。

 

 ソファに限らず、この部屋のところどころの家具や小物はここ数ヶ月で様変わりしていた。やぼったい安物は、女性好きのするデザインへと、尚且つ質の良い高級品へと入れ替わっていく。俺の手元にあるフライパンを始めとした調理器具に至るまで、共通する事はどれも彼女がネット通販で買い付けた物だという事だった。

 

 最早、目を逸らせないほどに、彼女の色が僕の生活に混ざって居る。

 

「……焦げそうだよ?」

「っ!! ありがとうございます……」

 

 慌てて卵をひっくり返し用意していたチキンライスへと被せる。あらわになった卵の裏面には黒い焦げが目立つ。…………コレは僕の分にしよう。

 

「良いね。君が作るものはどれも美味しそうだ」

 

 こじんまりとしたカウンターの付いたキッチン。そこに肘をついて俺のオムライス製造の調理工程、その失敗を見られていた。

 

「慰めてくれてます?」

「……? 思ったことだよ?」

 

 この人も慰めなんて口にするのだなぁと、奇矯な人物ではあるが、やはり優しい所もあると実感する。

 

「コップとか出してくれますか? ……スプーンは僕が出します」

「ん……わかった」

 

 そうして五分後。無事な卵を焼き上げ食卓に着いた。

 

「じゃあ、いただきます」

「お上がり下さい。朝ごはんには重いかもしれませんが」

「問題ないよ。お腹、ぺこぺこだから」

 

 そう言って彼女は、ウキウキとケチャップを握り、オムライス目掛けて勢いよくかける。チキンライスを包む黄色い卵の、その周りを赤い調味料が侵食していく。かけるというより最早、纏わせると言って良い様相だった。オムライスか、ケチャップか、どちらが主役なのかまるでわからない。

 

「…………それ、全部食べて下さいよ……」

「もちろん。君の料理を残すなんて事、もうしないさ」

 

 目の前でオムライスの尊厳を破壊している彼女は、以前より顔色が改善されたように見える。

 

 ……出会ったばかりの頃の、一口だけを口に運んだ後、ひどく申し訳なさそうに泣きそうな表情で『お腹いっぱい』だと、『ごめんなさい』と口にした彼女はもういないのだ。

 

「だから、ホラ」

 

 匙を渡される。その次に、彼女の皿が俺に近づけられる。

 

「あー 」

 

 その後、親鳥に甘えるヒナの様に口を開いて、僕を待っていた。

 

 スプーンへと餌を掬い乗せ、口へと運ぶ。

 匙を持てない彼女に食事を食ませる。

 僕が彼女に。

 

 否が応でも口元に目がいく。その細身とは相反する、肉付きの良い唇。

 

「んー。んんんー!」

「それは良かったです」

 

 過分に掬いすぎたか、口が小さいのか、もぐもぐとがんばって頬張っている。

 

 気恥ずかしい行為。それにも関わらず小癪にも手慣れてしまった行為。未だに、見慣れはしない光景。

 

 こんな新婚夫婦の様な甘ったるい行動にも、意味があった。理由もあった。

 原因があった。

 

 彼女は、新進気鋭の天才芸術家であった。

 

 数年ほど前から、SNSを中心に人気を集める抽象画を得意とした絵師であった。

 

 筆を持てなくなった、絵描きであった。

 

 文字の通り筆を持てない。握れない。重篤なトラウマ。

 単なるスランプか、絵への情熱が尽きてしまったのか、それとも、手酷い批判に、無慈悲な否定にでもあったのか。

 

 邪推するも、理由は僕には分からない。知っている事は、彼女は筆やそれに類似するものを持てば酷く錯乱するという事。ペンや箸、スプーンにフォーク、果ては細いドアノブに至るまで抵抗があり触れる事を恐れている。

 

 だから、コレは睦まじいイチャつきというより介護とでも言った方が正しいだろうか。隣人への単なる奉仕だ。

 

 数ヶ月前。衰弱して倒れてしまった彼女に行き逢った僕の、これまでして来たような献身の趣味。

 

 弱い立場の病人を助ける事は、正しい。

 正しい事は、気持ちがいい。

 癖になった自慰行為の紛い。

 それだけだった。

 

「いただきます」

 

 彼女が咀嚼している間に自分の分に手を付ける。まあまあの出来のチキンライスだ。そこそこに美味い。

 

 僕は交互に匙を持ち替え、倍の手数の食事を進めた。二人揃ってあっという間に食べ切ってしまう。そして、最初から最後まで美味しそうに食事をとる美人の姿は、まぁ、眼福であったと言っておこう。

 

「んーむぅ。ん。あーー、美味しかった」

 

 残りを噛み切り、そう言ってコップを呷る。満足してくれた様だ。

 

「ぷふぁ……。……あ、そうそう。この後なんだけど……ヒマ?」

「? 特に予定はありませんが……」

「じゃあ、私の部屋に来てよ」

 

 彼女の部屋。僕の家の隣の部屋。そこは彼女の工房でアトリエである。そして、彼女の口の周りが汚れているのを確認した。ティッシュはどこに置いただろうか。

 

「いいですけど……、ちゃんと片付けてます? 大丈夫ですか?」

 

 彼女に付いたケチャップを拭いながら問う。

 

「ん」

 

 以前、一度だけ彼女の部屋を覗いたことがある。言葉をオブラートでぐるぐる巻きにして述べれば、仕事場としても、人の生活場としても0点の部屋だ。信じられない程の散らかり様であった。…………やはりオブラートなんて薄いもので包もうと大して変わりはない。

 

「うん。随分と物は処分したからね」

 

 そう言って、笑った。その笑みに空虚が滲む。

 

 食欲。身の回りの片付け。風呂。タイミングが乱れてはいるが、睡眠。どれも"ちゃんと"し始めて来ている。間違いなく回復の兆しであった。

 

 それにも関わらず、いや、回復に比例する様に彼女から感じる『不気味さ』の様な物は、存在感を増していた。生活が整っていく毎に、異物感は大きく実っていく。

 

 時折、彼女から奇異な視線を感じるのだ。観察するような、舐めるような、線。全身をくまなく偏執的に目に焼き付けられる。その瞳に閉じ込められてしまうのでは、とあり得ない妄想すら頭をよぎった。

 

 あぁ、今だってそうだ。

 

「見せたいものがあるんだよ」

 

 この目だ。

 

「一緒に来てくれるかい?」

 

 吸い込まれる。

 呑まれる。

 絡まる。

 

 落ちて、いく。

 

 僕は、操られたように首を縦に振った。

 

 

—————————

——————

———

 

 

 玄関の前に立つ。同じ形の見慣れた扉。されど、鍵穴の違う扉であった。

 

 時間はもう二十一時に近づき、空には月が浮かぶ。空には雲一つなく、薄く輝く三日月が柔らかな光を落とす。

 

 空気はひどく静謐であった。鍵を開ける音が大きく響く。

 ドアが開かれる。

 

 先程から僕と同じく無言である彼女の向こう、部屋の様相は様変わりしていた。とにかく多かった物やゴミが消え、とても広さを感じる。僕の部屋と同じ間取りだと言うのに、そうは思えなかった。

 

 そうして短い廊下を歩いた先、部屋の中央に"それ"はあった。

 

 白い布が被せられ正体の隠されたスタンドの上のキャンバス。

 

 片付けられた部屋。寝床だと思われる布団と散乱した絵の具以外を除かれた簡素さが、中央のキャンバスを何らかのオブジェクト染みて仕立て上げる。

 

 背後に伸びた月光すら、芸術性を帯びていた。

 

 全ての疑問を放り投げ、魅了される。

 

 目につく。

 引き寄せられる。

 

 キャンバスに。

 

 彼女の絵に。

 

「めくっていいよ」

 

 その言葉に先んじるように布に手を掛けた。反してゆっくりと恐る恐ると布を上げる。

 

「見て」

 

 布をめくり切り、現れたのは———『天使』だった。

 

 背後から翼を生やし頭上に光輪を携えた女体を形取った天の使い。空を舞いながら自らの下の、『黒い炎』に向かって手を伸ばし、何かを救おうとしているのか。光輪がその顔に被さり表情は伺えない。

 美を形にした妖艶な、人外。

 

 だが、これは……

 

「この絵はね、君へのプレゼントなの」

 

 全てが違う。

 髪色。服装。顎の輪郭。翼。光輪。人にあらず。身長。尺。性別。肌の色。爪の色。

 硬さ。柔らかさ。ふくらみ。へこみ。

 全ての要素がかけ離れている。全くもって類似は無く、一から百まで食い違っている。

 

「私の一年半振りの作品」

 

 だと言うのに、何だ。これは。

 

「この絵のモチーフは……」

 

 この天使は

 

 

 

 

「"キミ"だよ」

 

 僕だ。

 

 

 

 

 不思議な感覚だった。

 鏡、とも違う。写真ともまた違っている。

 自己の形状と全く異なるモノを『自分である』と認識する。認識してしまう超越した体験。

 

 絵について造詣の浅い素人の僕でも、込められた意図を的確に感じた。

 

 この絵は、僕だ。

 この絵には、僕だけだ。

 僕と、渦巻く炎だけだ。

 

「…………ふでを、もてなかったんじゃ」

 

 絵を描けなくなったのでは無かったのかと言外に問う。

 

「筆が握れなかったからね。この絵は指で描いたんだよ」

 

 手を広げ僕に見せつける。その爪の間には、絵の具が詰まっていた。

 彼女の指。手のひら。手の甲。爪。

 彼女で形作られた、僕。

 背筋に悪寒が走る。

 

「初めての手法だったから時間がかかってしまった。やはり、先人の作った道具は偉大だね」

 

 そう言って、僕へと近づく。

 硬直から抜け出せない、僕に。

 

「しかし」

 

「私はもう少しで、また、筆を持てるようになる。自分のことだから分かる。確信している」

 

 側に張り付いた彼女は両の手で僕の腕を絡めとる。俺の右手に腕を巻き、指間に指を入れ込む。

 その指先は僅かにカサついていた。

 

「今日は、君に感謝を伝えたかったんだ」

 

 力が込められる。

 

 何なのだろうか。くぐもった声が聞こえてくる。側の彼女からではない。違う。コレは、この声は何だ。このメッセージは、誰だ。彼女だ。この絵の、彼女の絵の、天使が手を伸ばす先の、僕が手を伸ばす先の、『黒い炎』が、『彼女』が、『地獄』が、語りかける。貫かれる。焼かれる。

 

 脳に、瞳に、込められたものが反響する。

 

 形なき声が、絵から響いた。

 

————————————————————————

「私は」「『絵を描く』ことが好きじゃない」「ただ、私の想いを寸分も違わずに表現する方法をコレしか知らなかっただけだ」「幼少から描き続けた」「溢れ出る疑念を」「隠せない落胆を」「あるがままに描き続けた」「そうして出来た作品が運良く評価されていった」「それだけだった」「天才」「鬼才」「麒麟」「私の世界は称賛された」「何処か満ち足りない、齟齬を探す日々だった」「そうして、一年半前。二十四の冬だ」「ふと『何を描くか』を考えた」「短い半生で初めてその思考をした」「そうだ」「才能には寿命があった」「私の描くものは尽きてしまっていた」「内にはもう何も無くなっていた」「地獄だったよ」「自身の浅い底を知った」「どれだけのものを詰め込もうとも、穴の空いたそこを埋められない」「死にたくなったさ」「大袈裟じゃない」「最早、絵を描くために私が存在している」「そう錯覚するほどに全てだったから」「生きる目的を、突如取り上げられてしまったのさ」「そうして、苦しんで」「そうして、嘆いて」「そうして、泣いて」「死にたくなくて」「助けて欲しくて」「「「キミに、出会えた」」」

————————————————————————

"  "が語る。"『  』に" 語っている。

————————————————————————

「拒食で弱った体が崩れて、玄関で倒れ伏した時」「ここで死ぬのかと覚悟した時」「扉の先から声がしたのさ」「『大丈夫ですか』『大丈夫ですか』って」「その声に突き動かされるように、錠に腕を伸ばした」「変わる気がしたんだよ」「糞みたいな現状が」「扉越しの声だけで何故かそう思えた」「覚束ない体に鞭打って、必死に腕を伸ばした」「それが実って指が引っかかって」「扉が開いて」「助けが降りて来た」「運命だったよ」「間違いなく天啓だった」「ラッパの祝音すら聞こえる」

 

「君は———天使だった」

 

「大事な部品が抜け落ちた私に、君は浸透した」「君が与えてくれた物が私を作り変えた」「そして目的は、手段と成り変わったのさ」「君のために絵がある」「君のために私がある」「私の為の絵は尽き、絵の為の私は死んだ」「私は溶けて、形を変えた」「変わることが出来た」「あぁ、なんて、なんて今が心地いいか」「何と有難いことか」「何と幸福か」「ありがとう」「目的をくれてありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「私への使い」「天からの使い」「愛おしい天使」「可愛らしい天使」「いじらしい天使」「涙ぐましい天使」「私の天使」「私だけの天使」「私だけの」「私だけの」「私だけの」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」「閉じ込めたい」

 

「檻の中に」

「箱の中に」

「私の中に」

 

「君を」

 

 

 

「お前を」

————————————————————————

 

 

「私を助けてくれて、救ってくれて、ありがとう」

 

 

 耳元の言葉。浮上。浮上。浮上。誰だ。私は。私は。誰だ。僕だ。僕か。僕なのか。僕だろうか。私だろうか。僕だ。僕だ。僕じゃなきゃいけない。引き摺り込まれていた。ここは私の部屋じゃない。僕の部屋だ。違う逆だ。僕は、彼女の部屋で絵を見せられていたのだ。この絵を。天使を。僕を。彼女を。

 

 早く正気を取り戻せ。さもなくば殺される。さもなくば奪われる。さもなくば吸い込まれる。さもなくば囚われる。

 

 必死に叫ぶも、声は出せなかった。荒い呼気と冷や汗が溢れる。

 

 才人の作品とはここまでのものなのか。芸術家が、ただ一人に向けた作品はここまでの情報と情熱と情念があるのか。圧倒される。圧巻される。

 

 正しく、鬼才。まごう事なき、奇才。

 

「前にも教えただろう? 私は以前、少しばかり絵をかじっていたものでね。命の恩人である君に返せる物が、こんな絵か現金くらいだなんて恥ずかしいのだけれど」

 

「どうだい? 気に入ってくれた?」

 

 返す言葉がない。返す言葉が見つからない。

 

「ふふふ。お気に召したのなら、幸いだよ」

 

 頷く事すら忘れて、ただ夢中になる。夢中にさせられる。それが本当に夢の中なのか、はたまた絵の中なのか判別がつかない。

 だかしかし、間違いなく僕は囚われてしまっていた。

 

「今、物件を探しているんだ」

 

 唐突に彼女は語り出した。

 

「マンションやアパートじゃなくて一軒家。色は白。場所は……そうだね。私は海の近くがいいな。君が嫌なら他でも良いけど、とにかく人気の少ない静かな場所がいい」

 

 熱を帯びて浮かされた様な、夢を語る女の声。

 

「提案なんだけど……そこに住まないかい? 一緒に。二人で。二人きりで」

 

「ホント情けないことに家のことは君に頼りっきりになってしまうかも……いや、恐らくそうなると思う。生活能力の死んだ、女子力の欠片もない女だからね」

 

「でも、ごめん。小間使いとかは雇いたくない。君以外に他に人を入れたくはないんだ。ワガママでごめん。できる限り頑張って手伝うから、許してほしい。私、社不だし、多分役に立たないけど……」

 

「その分。お金のことは気にしなくても良いよ。今のままでも蓄えは充分にある。人の一人や二人養うなんてわけないさ。幸い君はひどい散財癖なんて持ってない。ちょっと、謙虚すぎるくらいだしね」

 

「それに、足りなければ私が稼ごう。君のおかげでまた絵の仕事が出来る。作風は変わってしまうけど、私の作品だというだけで飛びつく好事家達はごまんといるからね」

 

「勿論、この絵のような君を描いた絵は売らない。気慰みに描いた物を売るよ。それは約束する。こんな剥き出しの、あられもない君は絶対に公開しない。したくもない」

 

「他にも不満があれば可能な限り応えるよ。許容の範囲で何だって応える」

 

「何だって、君のためなら」

 

「一緒に暮らそう。必ず君を幸せにする」

 

「ねぇ……。だから、どうかな?」

 

 

 

 

 

 破格の、将来に不安がある者なら誰だって飛びつく条件が並べられた、美しい異性からのプロポーズ。

 

 その全てが、耳を過ぎて行く。

 

 きっと、どちらだろうと変わらないのだ。

 僕がプロポーズを受けようと断ろうと、彼女がより厳しい条件を出そうと出すまいと、僕が彼女を好こうと嫌おうとも、何一つ変わらない。既に手遅れだった。

 

 だって、この絵を見せられてしまったから。

 

 心を掴むなんて生優しいものじゃない。捕えられた心。手錠の片方で、僕の心臓は彼女の心臓と繋がれた。

 

 最早、檻も鎖も牢も城も何もかも不要になっている。

 

 彼女に対する強烈な『共感』。この記憶が吹き飛びでもしない限り、逃れることなど出来はしない。僕は終わっていた。

 

 彼女もまた、そうなのだろう。既に手遅れ。既に終わり。時はもう遅い。とっくのとうに手遅れ。

 

 終わりに終わって終わり切って、完成していた。

 

 一目で、終わったんだ。

 

 返答は一言で済む。

 

「うん……。うん! うれしいよ!!」

 

「あぁ」

 

「ああ!」

 

 嗚呼、終わる。

 

「全てキミなんだな」

 

 指先で僕の胸が撫でられる。優しく輪郭を沿う。心臓を、命を心から尊んでいた。

 

 それを横目に、また僕は目の前の絵を見る。

 

 『天使』『僕』『炎』『執着』『檻』

 

 多分どれも違うのだろう。全てでは無い。

 

 きっと、これは瞳だったのだ。

 

 彼女の瞳。

 

 彼女の視界。

 

 彼女の世界。

 

 キャンバスに転写された、俺を捉える愛の瞳だった。

 

 

 

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