天下の大宰相・呉鳳明伝   作:蘇芳ありさ

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紙の発明者・呉鳳明

 

 

 

 舞台は中華。空想上の古代中国。

 

 時代は数多の小国が淘汰され、七雄と呼ばれる強国が鎬を削る春秋時代の末期。

 

 中華のほぼ中央にて緩やかに衰退する戦国七雄の一角──魏国の王都安邑よりこの物語は始まります。

 

 

 この時代、他国の多くがそうあるように、この魏国も秦国六大将軍……特に白起の侵攻に晒されて苦しい立場です。

 

 王都安邑も活気がなく、行き交う住人もどこか元気がありません。

 

 

 そんな街並みに相応しいといったら失礼かもしれませんが、そう表現するしかないほど寂れたお屋敷に小さな子供たちの姿がありました。

 

 着衣は素材こそ上等なものでしたが、適切に管理する者がいないのでしょう。

 

 くたびれた漢服に、痩せ細った矮躯──まともに歩くのも大変そうな男児の手を引いた少女が、兄らしき少年におずおずと話しかけます。

 

 

「ごめんなさい、兄様。龍譚(りゅうたん)がお腹すいちゃったみたい」

 

 

 そう口にした直後に自分のお腹が鳴って、赤面する少女に彼は言います。

 

 

「謝ることはないよ、玲麟(れいりん)

 

鳳明(ほうめい)兄様……」

 

 

 ……しかし兄妹揃ってなんて名前ですか、というツッコミはお控えください。今回の趣旨はそこではありません。

 

 

「まだお芋がある。他にも収穫できるものがあるかもしれない。先に戻って手を洗ったら、卓に着いて待っていなさい。すぐ準備する」

 

「はい、鳳明兄様」

 

 

 笑顔で弟妹の背中を見送るこの少年は、名を呉鳳明(ごほうめい)

 

 魏国の大将軍・呉慶(ごけい)と正妻の間に生まれた正式な嫡男です。

 

 

 ですが、それにしては見窄らしい身なりで、自作と思しき敷地内の農園で大根を掘り返しているのですから疑問も当然でしょう。

 

 この国は大将軍の子息さえ、食うや食わずの生活を送るほど貧しいのかと……しかし、それには理由があります。

 

 他の大将軍が頼りにならないという切実な理由で、戦地送りにされることが多い呉慶将軍でしたが──彼は屋敷に相応の人員を雇い入れ、正妻亡き後の子供達が困窮しないように十分な手筈を整えていました。

 

 

 しかし、留守を任せた男がしょうもない小悪党でございまして。

 

 彼は主人である呉慶の在宅時は仕事に精を出しますが、不在時はとことん手を抜く佞臣(ねいしん)でした。

 

 

 ……もともと不在がちな呉慶です。バレないと思ったのでしょう。

 

 次第にその行動はエスカレートして、家人を勝手に解雇するわ、子供達に与える食事すら減らして浮いた経費を横領するわと、まさにやりたい放題。

 

 その結果が芋掘り鳳明の誕生です。

 

 原作ファンにしてみれば噴飯ものでしょうが、しかし、彼は自身の置かれた境遇をそれほど悪いものと思ってはいないようです。

 

 

「よし……最初は苦労したが、これなら何とかなりそうだ。やはり黒土最強。こちらでも向こうのやり方が通用しそうでホッとしたよ」

 

 

 実はこの呉鳳明、中身はまるきり別人です。

 

 なんの因果かはるか未来の島国からこちらの世界に生まれ変わった、所謂ひとつの転生者でありまして……ご幼少のみぎりより趣味の農業に専念できたとあって顔はニコニコ、心はウッキウキと本性が透けて見えます。

 

 

 大量の野菜を乗せた籠を抱えて屋敷に戻った鳳明は、早速喜ぶ妹たちに手料理を振る舞います。

 

 といっても蒸した芋を潰した米代りの主食に、火を通した野菜を混ぜた粗末なものですが、量だけはあります。これで子供たちの腹ペコも少しは慰められるでしょう。

 

 貧しいなりに助け合い、慈愛の精神を学んでいく子供達の日々は他者の目にはどうあれ、当人たちには十分に幸福なものでした。

 

 

 しかし、ある日──突然の転機が訪れます。

 

 

 

 

 

「……これは何事だ?」

 

 

 屋敷の正面には騎馬の一団──その先頭で下馬した甲冑姿の男性が厳つい顔をさらに顰めてそう呟きます。

 

 そう。この人物こそが屋敷の主人であり、子供たちの父親である呉慶将軍その人です。

 

 彼は、一目でわかる屋敷の荒廃ぶりに怒りを覚えているようです。

 

 曰く、屋敷を任せた者たちは何をしているのかと──。

 

 

「……申し訳ありませんが、この爺にも分かりかねます。まずは中に入って、鳳明様たちの安否を確認せねば」

 

 

 傍に進み出た副官らしき老人も怒りを滲ませて進言しますが、どうやら最悪の事態は避けられたようです。

 

 父親の帰還を目敏く見つけたのでしょう。屋敷の中から鳳明を先頭に三人の子供達が駆け出してきて一団に安堵の空気が広がります。

 

 

「父様お帰りなさい。爺やもおかえり」

 

「父様、父様、おかえりなさい。嶺と譚もいい子にしてましたよ」

 

「あー、うー」

 

「……おお、鳳明さま。玲麟さま。龍譚さま。よくぞご無事で」

 

 

 こうして実父と忠臣達の帰還をもって、子供達の困窮生活には終止符が打たれました。

 

 もちろん例の小悪党も厳正に処分されましたので、ご安心を。

 

 

 屋敷はただちに呼び戻された家人たちによって復旧し、子供達は久しぶりに昆虫以外の蛋白質を摂取してご満悦です。

 

 そんな鳳明たちの笑顔に爺やの顔も弛みっぱなしですが……それを見守る父親の心中はあまり穏やかではありません。彼は変わらず怒っていたのです。

 

 

 呉慶将軍は苦労人です。

 

 生まれた国はとうに滅び、生き延びた王族である彼は出自を偽るため顔に墨を入れ。

 

 ようやく手に入れた安住の地を護らんと魏国に忠誠を誓って、武人として戦場に出向き。

 

 数えきれないほどの泥と血に塗れて大将軍に任ぜられるも、派閥争いに明け暮れる他の大将軍は頼りにならず。

 

 その重責を一身に背負って戦線を支えたばかりに、亡き妻に顔向できないことをしでかすところだった、と。

 

 歯軋りしかけたところで、彼は気付きます。

 

 所詮は言い訳ではないか、と……。

 

 

 自省した呉慶は子供達──特に亡き妻の面影を色濃く残した長男を見つめました。

 

 彼にとって早すぎる妻との別離は受け入れ難いことでした。

 

 だからこそ軍務を言い訳に妻のいない家に帰ることを、妻とよく似た長男を視界に入れることを無意識の内に避けていたのではないか。

 

 たしかに他の大将軍たちに思うことはあれど、混同するなかれ。これは我が身の不始末。

 

 妻の忘れ形見を失いたくなければ、父としての責任を果たすべし──そう強く自分を戒めた呉慶は、不器用に口元を歪めて長男の頭を撫でました。

 

 

「……よく、私の代わりに家を守ってくれたな。感謝するぞ、鳳明」

 

 

 一方、記憶にある限り初めて父親に褒められた鳳明は驚いた様子です。

 

 創作の世界でしかあり得ないほど筋骨隆々とした巨体もそうですが、安易に話しかけることを躊躇わせる空気を纏った呉慶将軍を、中身は丸ごと現代人の鳳明は内心で畏怖し、敬遠しているところがあったのです。

 

 本人の精神年齢の問題もありますが、それ以上に厳つい実父に甘えるという発想を持たなかった彼は、自身の頭部に置かれた(おお)きな手にだいぶ戸惑っていましたが……ようやく甘えていいんだという実感を得たのでしょう。赤面して返礼の言葉を探しているようです。

 

 

 そんな不器用な親子を爺やは温かく見守っています。

 

 王命により呉慶を燃え落ちる城から連れ出した彼にとって、人生を共有する主君の苦悩も、実の孫も同然な鳳明の遠慮も容易に察するところにあったのでしょう。

 

 ただ良かったと、そう目尻に熱いものを湛えた爺やの脇を玲麟が駆け抜けたところで、場の雲行きが怪しくなります。

 

 

「父様、父様、これを見て」

 

「むっ……?」

 

 

 満腹して船を漕ぎ出した弟を寝かしつけた娘が大喜びで見せてきたものに、呉慶は困惑します。

 

 何しろ彼が見たものは薄い茶色の紙束と、それを一纏めにした本なのですから渋い反応も当然です。

 

 

「これね、兄様が字を教えるために作ってくれたの。玲もいっぱい勉強してね、他にも、他にも──」

 

 

 しかし優れた頭脳を持つ呉慶です。すぐにその利点に気がつきます。

 

 

「これは……なんという、なんという……」

 

 

 驚愕に打ち震える父と、喜色満面の妹に挟まれた形で、鳳明はなんの危機感もなくのほほんとしています。

 

 やらかしたことに気がついた転生者特有の焦りとも無縁。

 

 日本人でありながら自国のサブカルチャーに疎く、ここが漫画・キングダムの世界であるとも気づいていない鳳明は、蔡倫以前の古代中国に紙を持ち込んだ意味にも無頓着です。

 

 そんな彼が大事になったと自覚するのは、翌日に父親が王宮から戻ってきてからのことでした……。

 

 

 

 

 

「呉慶将軍。前線に張り付かせた貴公の代わりに我らが気にかけねばならなかったというのに、怠ったばかりにご子息らを困窮させてしまった。重ねて謝罪いたす」

 

「……謝罪は無用に。所詮はこの身の至らなさ故に生じた事なれば、むしろお耳を汚したことを申し訳なく思う次第であります」

 

「いやいや。我ら一同、呉慶将軍の献身には感服するばかりでしてな。まったく、他の者たちは大将軍を任せられながら派閥争いなどと……」

 

 

 翌日に王宮へ出向いた呉慶を歓待するは、魏国の現大王・安釐王の異母弟である信陵君と、宰相の地位にある蕭阿(しょうあん)という恰幅のよい老人でした。

 

 彼らは恐縮する呉慶を慰めるが、口にしたのは紛れもない本心ばかり。

 

 何しろ蕭阿が口にしたように、呉慶以外の大将軍がまったく頼りにならないのです。

 

 

 そもそも魏火龍七師と銘打った制度そのものが悪かった。

 

 これは領土拡大を続ける大国・秦の六大将軍に対抗するために、その制度を真似たものでしたが、現状ではまるで機能していません。

 

 六大将軍のような戦争の自由こそ許しませんでしたが、莫大な予算と人員を要求して独自の軍を編成する彼らは、ただでさえ蕭阿のような文官からしたら悩みの種。

 

 それでも戦場で相応の働きをしてくれれば良いのですが、性格などにも問題を抱える彼らは主義主張の違いから内部で睨み合い、互いの謀反を警戒して身動きが取れなくなる始末です。

 

 必然的に、魏火龍以前から大将軍の地位にあった呉慶の負担はいや増すばかり。人の好い信陵君と蕭阿が今回の事を、自分たちの落ち度だと謝罪するのもわかろうものです。

 

 

「……それはさておき、前線の報告を」

 

 

 呉慶もそれは理解していたので、努めて家中の恥を些事と切り捨てることで決着を図りました。

 

 信陵君と蕭阿もそれに合わせ、真剣な表情で耳を傾けます。

 

 

「そうか……。だが白起出陣が誤報であったとも思えぬ。奴は何処に消えた?」

 

「こちらでも探っておりますが、どうも白起は司馬錯が平定した蜀の地に赴いた様子……残党狩りに手間取っておるのだろうか?」

 

「……まったく。彼の国の六大将軍は来なくても来ないなりに我らを悩ませてくれるな」

 

 

 そんな大人同士の会話は終始穏やかで、呉慶が切り出した戦況報告も信陵君たちの予測の範囲にあったのでしょう。

 

 油断ならない秦国の動向を警戒しながらも善後策を協議し、遠く前線から自国の大将軍を呼び戻した目的がひと段落したときでした。

 

 珍しく躊躇った様子を見せた呉慶将軍が、手荷物から取り出したものを信陵君たちにお見せしたのです。

 

 

「呉慶将軍、これは──」

 

「愚息の鳳明が妹に字を教えるために作ったものだそうです。名を、紙と」

 

「……紙。そしてこれは、それを束ねたものか」

 

 

 英邁な頭脳を持つ二人は、呉慶同様すぐにその利点に気付きます。

 

 この時代で紙の代わりに広く使われている竹簡とは比べ物にならないほど薄く、そして軽い──。

 

 書き込める情報量といい、必要に応じて束ねることができる利点。これを見逃す信陵君と蕭阿ではありません。

 

 

「『呉慶将軍!! 今すぐご子息に会わせてくれまいか!?』」

 

 

 異口同音にそう叫んだ自国の重鎮たちの姿に、呉慶将軍は小さく息を漏らしながら頷くのでした。

 

 

 

 

 

「ええと、紙の作り方を教えればいいんですね?」

 

「うむ、頼む。……文官たちが正気を失う前にな」

 

「わかりました。製紙場と呼べるほど上等なものではありませんが、作りかけのものもあります。まずはそちらで順を追って説明を」

 

 そうして血相を変えてやって来た魏国の高官たちと、少しだけ申し訳のなさそうな実父を前に、鳳明はどこか嬉しそうです。

 

 それもそのはず。農工大出身の鳳明の気質は、基本的に理系。合コンの席で披露すればスルー確定な理系の知識を「是非ともご教授願いたい」と、こんなに大勢押しかけてきたのです。嬉しくないはずがありません。

 

 

「なんと、よもや原材料が斯様にありふれた植物とは」

 

「だが、なるほど……余計なものを濾して流した後に残った糸状のものを、乾燥させることで紙となす工程は理解できる」

 

「これほど偉大な発明が実用化の段階にあるのだ!! ただちに専用の部署を立ち上げ普及に努めねば技術大国の名折れと思えよ!?」

 

「わかっておるわ! だが規模はどうする? 今年度の予算は既に──」

 

「落ち着け諸君。予算は異母兄である大王にも話して、王室から工面することを約束する」

 

 

 途端に鳳明の私的な製紙場を揺るがす侃々諤々とした議論と、それをもたらした興奮。

 

 それらを背に振り返った蕭阿が満面の笑みで鳳明の両手を握りました。

 

 

「いずれにしろ、お手柄でしたぞ鳳明殿。貴君の名は我らが責任をもって史に刻みましょうぞ。──紙の考案者、偉大なる呉鳳明とな」

 

 

 途中から置いてけぼりのような気分を味わっていた鳳明はぎこちなく微笑み、その隣で呉慶将軍も重々しく頷きました。

 

 かくして諸国が麻のように揺れる春秋戦国時代末期──呉鳳明の名は竹簡に代わる紙の考案者として知られることになります。

 

 

 鳳明の作った紙は和紙に近く、身内向けということもあって作りが荒かったものの、魏国の技師たちが製錬した結果、現代に流通しているものと遜色のないものが完成します。

 

 特に最上級の判定をもらったものは、考案者の名を取って鳳明紙と呼ばれ、他国への親書などに使用──これを初めて目にした者たちを大いに悔しがらせ、同時に嫉妬と羨望の感情を湧き立たせます。

 

 そうして紙の現物と書の概念は遠からず中華全土に普及することになりますが、その前に小話をひとつ──。

 

 

「いやいや。この紙というものは実に素晴らしいな」

 

「うむ。何がいいって、書き込める情報量が竹簡とは比べ物にならん」

 

「裏面も問題なく使用でき、束ねて書にしても、表裏に題名を記しておけば何について記したものか一目瞭然なのもいい」

 

「竹簡のように嵩張らず、薄くて軽いのもいい。これは仕事が捗るぞ」

 

「うむ、それは確かなんだが……」

 

 

 そこで王宮の広大な一室で、棚に床にと蓄えられた莫大な竹簡を見やった文官はこう言ったそうな。

 

 

「……なあ、本当にこれ全部書き写さねばならんのか?」

 

「何を今更」

 

「家に帰りたくば筆を休めるな。写本が完了するまで我らに他の仕事はないぞ」

 

「うむ。他の部署も大変なのを忘れるなよ」

 

「……今年中に終わると思うか」

 

「終わるんじゃない。終わらせるんだ。こんな便利なものを使えるようにせずして何が魏国の文官か。技術大国の名が汚れるわ」

 

「ははは、それは確かに」

 

「まったく呉慶将軍も、大したご子息をお持ちだ」

 

「嗚呼、恨みますぞ。まだ見ぬ鳳明少年よ。君は本当に偉大なものを作り出してくれた」

 

 

 後に、この逸話を知った歴史家の司馬遷はこう書き記しました。

 

 曰く、魏国の文官が昼夜を問わず仕事に没頭していたことをもって、上司である呉鳳明を批判するのは間違っている。

 

 何故ならば、彼らは鳳明の配下となる以前からそうしたあり方を尊び、脱け出せなくなっていたのだから、と……。

 

 

 

 ……紀元前の中国にこそ、社畜の起源は存在したようです。

 

 

 

 

 

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