天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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二回も一皮剥けた男・呉鳳明

 

 

 

 自身の構想する水運事業実現のため、斉との交渉に赴いた鳳明が王建王と意気投合してからおよそ数日後──この時代にあり得ぬほど高い(・・)視点を持った英君達の姿は、臨淄の全景をすっぽり収める王宮の展望台にありました。

 

 

「見えるか、鳳明。その(まなこ)に、今日を生きる国の姿が」

 

 

 誇らしげに胸を張った王建王が見つめるのは、復興した王都そのものではなく、そこに生きる民たちの姿でした。

 

 

「この国は燕の楽毅によって一度滅びた。国内の七十余城は莒と即墨を除いてすべて陥とされ、そこに逃げ遅れた民は死すら生ぬるい虐殺と陵辱を味わったという」

 

 

 当時の光景を、世に生まれ落ちる前の王建王は知りません。

 

 しかしながら、絶望の底にあった莒での暮らしがそれを可能としたのでしょうか。

 

 この時、(くら)い業火を宿した王建王の双眸は、たしかに阿鼻叫喚の地獄絵図を捉えていたのです。

 

 

「それがどうだ? 田単の火牛の陣によって滅亡こそ免れたものの、斉の国は荒れ果て、焦土からの再建となったというのに、民達は……生きることを諦めなかった!

 死者を弔い瓦礫を片し、乏しい食料を分け合い新たに家を建て、子を生み田畑を耕し、ものの数年で復興を確実なものとし────オレはそれら生の讃歌に育まれて王となったッ!!」

 

 

 そこで鳳明に振り返った王建王の(かんばせ)はとても晴れやかでした。

 

 

「……だからオレは民が好きだ。人間が好きだ。楽毅と燕軍、そして昭王は大嫌いだが、そこに生きる民に罪はない。愛してやろう。骨の髄までな」

 

 

 親愛に満ちた微笑を向けられた鳳明は自然とそれに応えました。

 

 そして、いったい誰がこの人を狂王と呼んだのだろう、と疑問に思いました。

 

 よく知りもしないでそう決めつけるから戦争がなくならないんだ、とも思ったのです。

 

 

「周の代より栄えしこの国はまさに人種の坩堝(るつぼ)で、諍いも絶えぬし騒々しいことこの上ないが、オレは何よりもその点が気に入っていてな。多種多様な染料を混ぜ合わせても汚濁にしかならぬ。混沌たる多彩はすべてを塗り潰す黒に勝るのだ。

 開封の暮らしは楽しかったぞ……これより魏と斉は兄弟の国となる。互いに切磋琢磨して民をますます笑顔にしていこうではないか鳳明ッ!!」

 

「はいっ! 王建王……!!」

 

 

 固く握手する両者の姿に、魏斉の群臣たちはこぞって敬意を表したそうです。

 

 ともに民こそを見て、民のために(まつりごと)を行う呉鳳明と王建王の盟約はこうして成立しました。

 

 

 滅亡寸前から再興したかつての覇権国家という、よく似た歴史まで持ち合わせる魏斉両国は、しかし直前まで手を取り合うのは難しいと思われていました。

 

 これは周の武王の弟である畢公高を始祖とする魏と、周の軍師太公望を国父とする斉のプライドが大変高く、ともに中華の正統を譲らなかった歴史もあるからです。

 

 

 よって魏斉両国の間に対等な盟約が結ばれたことは、それを知る諸国に大きな衝撃をもって受け止められました。

 

 共通の敵と戦うため一時的に合従するだけならまだ分かりますが、将来的な合併すら想定しているとしか思えないほど足並みを揃えた合意が成立するとは、その場に立ち会った秦の外交官である蔡沢にも想像できませんでした。

 

 

(……これは困ったことになりおったわい)

 

 

 間違っても表情に出しませんが、蔡沢は激しい焦燥に駆られました。

 

 呉鳳明と王建王は、ともに過去の遺物には目もくれない革新性の持ち主です。ある程度ならば歩み寄るだろうと蔡沢も思っていました。

 

 ですが呉鳳明が大地を照らす太陽ならば、心に闇を抱えた王建王は夜に佇む月……決して交わることはないと判断していたのに、これはどうしたことか。今の王建王は別人としか思えませんでした。

 

 狂王と言わしめた奇行も(おさま)り、以降の王建王は後世の歴史家に“斉の大聖君”とまで讃えられる名君ぶりを発揮していきます。

 

 

 この変貌ぶりをNNNの大河ドラマ『鳳よ、麟よ、龍よ』の脚本を担当した歴史作家の南冲尋定はこう分析します。

 

 

「斉にとって最も過酷な時代に誕生してしまった王建王の心に、ある種の闇があったことは間違いありません。燕に思い知らせてやりたい。楽毅にされた事と同じ事をやり返してやりたい──そういったやるせない思いを心のどこかに抱えていたことは、現在まで残されている側近たちの手記からも読み取れます。

 しかし王建王は斉がふたたび隆盛を極めた時代になっても外征を行わず、宿敵燕との間に生じた揉め事も武力を使わずに解決しています。

 何故そうしたのか……これは僕の想像ですが、呉鳳明という太陽のような人物が輝ける未来を提示した時、彼の、拭いがたい汚濁のように染みついた過去が色褪せてしまったのではないでしょうか。

 彼は過去を振り返ることもありますが、本質的には未来こそを見据える名君です。呉鳳明と手を結んだことで、王建王のやりたい事は10倍に増えたと言われます。その多忙を生涯の喜びとした彼にとって、もはや個人的な溜飲を下げるだけの行為は意味を為さなくなったのでしょう。

 ……あとはそうですね。王建王が開封の宙を舞ったときに初恋を経験したことは有名ですが、その後もしつこく言い寄ったそうですから、よほど玲麟にいい顔をしたかったんじゃないですかね?

 つまりケツですね。なんちゅうエロさだってわけですよ」

 

 

 その真偽は不明ながら以降の王建王は、太陽の君子と呼ばれる呉鳳明の盟友として恥ずかしくない振る舞いをするようになります。

 

 

「──この後すぐに趙へ向かうのか?」

 

「はい。開封の使者から受け取った親書に、恵文王がぜひ邯鄲に招きたいと」

 

「そうか、気を抜くなよ。趙は取るに足らん弱小国ではあるが、()は手強い国だぞ」

 

「弱いのに強いんですか?」

 

 

 矛盾した表現に込められた皮肉が面白かったのか、鳳明はたまらず吹き出してしまいました。

 

 王建王も愉快そうに喉を鳴らし、その意図をこう説明しました。

 

 

「うむ。他の七雄など比較するのも烏滸がましい弱小国ばかりよ。オレたちも頑張っているが、残念ながら秦との間にはまだまだ埋めがたい差がありよる。

 ……元からあの国は強かった。難攻不落の盆地に本拠地を構える秦は、外から入ってくるモノを選べるという圧倒的な優位性があった。新天地を求める他国人を歓迎して有為な者を採用する一方、オレ達にとっては面憎いことこの上ない儒家どもを抑えつけることができた。

 そうして国力を蓄えていたところに、公孫鞅が画期的な法制度を確立したことでその脅威は飛躍的に高まり、昭王と六将どもまで現れる始末だ。手に負えん。

 だが、そんな秦をもってしても趙には容易に手出しできん。それが何故だかわかるか?」

 

 

 鳳明は歴史に詳しくありません。ここがキングダムという創作の世界であることも知りません。

 

 ですが架空戦記物は好きな部類なので、こちらに来てしっかりと勉強していたので答えることができました。

 

 

「宰相の藺相如と廉頗将軍がいらっしゃるからですね。秦が趙を攻めきれないのは」

 

「そうだ。あの二人こそ趙における政治と軍事の両輪。本来であればどうにもならぬ国力の差すら跳ね返す中華の巨人どもよ」

 

「では僕の小賢しい献策など必要としませんか?」

 

「いや、それはない。あの国にはそちらの信陵君らと並び称される平原君もいるし、藺相如も十分に理性的だ。蹴ることはない。

 ……貴様を捕らえて取り込む動きもまずあるまい。そんな事をしたら魏斉両国が敵に回るし、彼の地を狙う昭王にも絶好の口実を与える。そんな危険を藺相如が犯すことはない。

 だから安心して行ってこい。そら、貴様の第二の妻も夫を見送るために待っておるぞ」

 

「……嬉しそうですね、王建王は」

 

「嬉しいとも。可愛い可愛い妹夫婦を揶揄うこの機会。逃してなるものかよ」

 

 

 群臣たちが思わず後退(あとずさ)るのも無理はありません。

 

 それほどまでに鳳明をうながして振り返った王建王は黒い笑みを浮かべていたのです。

 

 しかしながら、その視線の先で待つ少女はまるで動じませんでした。

 

 兄の邪悪な顔など最初から視界に入れてなかったのです。

 

 

「──どうか何事もなくお帰りなりますよう、鳳明さま」

 

 

 うっとりと頬を赤らめて鳳明に礼を尽くしたこの少女こそ、斉の王妹・思涵(しかん)

 

 

「うん、ありがとう思涵。少し待たせるけど行ってくるよ」

 

「はい、思涵はいつまでもお待ちしております」

 

 

 その名の通り思いやりにあふれた性格で、王建王があわよくば娶らせようと鳳明の世話役につけた少女ですが……どうやら鳳明の言動を見るに、彼も満更ではなさそうです。

 

 

 思涵の年齢は15歳と年長ですが、この点がまさに鳳明に弁明の余地をもたらしたのです。

 

 彼が「女子高生ならギリギリセーフじゃね?」と思ったかどうかは不明ですが、思涵は美女の血こそを取り入れてきた王族の娘らしく、その容姿は大変に麗しいもので。

 

 性格も兄とは異なり素直なもので、苦しい生活を送る民に寄り添って生きてきただけに、慈愛と献身の精神に恵まれた大変好ましいものです。

 

 そんな娘が兄の命令で甲斐甲斐しく世話をしてきたのですから、鳳明もたまらないでしょう。

 

 

 具体的に二人だけの空間で何があったかは分かりません。

 

 しかながら余人の視線を気にする余裕もなく、静かに頬を染めて見つめ合っているのですから、答え合わせはもう済んでいるようなものです……。

 

 

「ククッ、スマンな。無粋なマネをした。こんな事なら最後にしっぽりやる時間を与えるべきだったわ」

 

「もうっ、お兄さまったら……わたしと鳳明さまはそんな仲ではありません!!」

 

 

 即座に兄の妄言を切り捨てる思涵でしたが、その麗しい(かんばせ)は耳まで真っ赤です。

 

 鳳明も死ぬほど真っ赤な顔を下に向けています。居並ぶ群臣たちもこれにはほっこりしました。

 

 鉄面皮の奥で笑いを噛み殺す斉の重鎮達の姿は、これより向かう趙との交渉が望ましいものになることを暗示しているようでした。

 

 少なくとも、すでに平原君との交渉に成功している信陵君にはそう思えました。

 

 

 平原君は迂闊なところもある人物ですが、鳳明の施政を取り入れる利点をすぐに見抜き、大々的な宮廷工作をすでに完了しているとのことです。

 

 危険はない。信陵君がそう判断したのも当然です。

 

 

 ですが──。

 

 

 

 

 

「聞けば聞くほど良い話ではないか。儂はこの話を受けようと思うが、そなたはどうじゃ。何か存念があるなら申してみよ、相如」

 

「ではお答えします。この者を生かして返してはなりません。信陵君ともどもこの場で処するべきです」

 

「ほう? 客を手にかけるのは初めてだが、相如が言うのだ。儂に異論はないのォ」

 

 

 その予想を、趙の英傑たちは軽々と飛び越えてきました。

 

 

 馬鹿な──他国から賓客として招いた者たちを害するだと!?

 

 そんな事をしたら他国の信用が失墜する以前に、この数年で国力を飛躍的に高めた魏を激怒させ、どちらかの国が滅ぶまで終わらない全面対決は必至よ!

 

 直前に魏と手を結んだ斉も愉快には思わないだろうし、歴史的敵国である秦と燕にも絶好の口実を与えるのは確実ではないか……!!

 

 

 だというのに藺相如は言うのか?

 

 それらの損失をものともしないほどの利が、鳳明を殺すことにあると──馬鹿な、有り得ないッ!!

 

 

 そこまで理解していながら、邯鄲の王宮に詰める者たちは誰も動けませんでした。

 

 趙の大王である恵文王も。その弟の平原君も。鳳明を守るべき立場にある信陵君も。その他の群臣も。

 

 誰もが渾身の顔芸を披露するばかりで、藺相如と廉頗の放つ本気の殺気を前に目蓋すら動かせなかったのです。

 

 

 例外は殺気を感知する術を持たない鳳明くらいのものでしたが、彼もなぜ自分がこの場で殺されることになるのか理解できなかったようで、彼はいつもの調子でぼやきました。

 

 

「参りましたね。僕には幸せにしないといけない女の子が二人もいるのですが、せめて(ふみ)を認める時間だけでもいただけませんか?」

 

 

 その健気とも受け取れる嘆願を藺相如と廉頗は無視しましたが、その平坦な声は周囲の大人たちをハッとさせる効果がありました。

 

 ただちに腰を浮かせた恵文王が制止の怒号を放ちます。

 

 

「ならん廉頗! 相如も待て! 何故じゃ!? 何故そんな野蛮な事をせねばならん……せめて理由を説明せいッ!!」

 

「理由でございますか」

 

 

 主君の命にその口調はだいぶ柔らかいものになりましたが、鳳明を見つめる双眸はますます冷たくなっていきました。

 

 

「では申し上げます。この鳳明なる者の提案、中々に見るべきものがございます。

 魏の収穫を数倍に跳ね上げた農法が趙の荒地でどこまで通用するか、些か疑問もありますが試して損はありますまい。

 技術交流も大いに結構。紙の製造所をこの邯鄲に設ける件も旨みしかありません。

 ……そして何より、趙魏斉共同での水運整備。これを成し遂げた暁には流通そのものが変わります。地方に奪われた徴税権を取り戻すことすら適うでしょう。

 なるほど。たしかに鳳明の提案は受けるべきです。それはこの藺相如も理解しております」

 

 

 なんと、分かっておるではないか──恵文王の発した安堵が場を包み、一同がホッと胸を撫で下ろした時でした。

 

 

「ですが哀しいかな、この者は趙の人間ではありません。もしこれなる少年が私の元におりますれば守ってやれますとも。仮に奪われてもこの藺相如が乗り込んで奪い返してみせますとも。

 しかし、呉鳳明は他国人。迂闊な魏の者どもでは守りきれますまい。遠からず秦に奪われ趙の災厄をとなるのは目に見えております。

 故にこの場で殺さねばならないのです。速やかに、苦しませることなく。

 ……鳳明とやら。家族に文を残す時間はくれてやる。廉頗将軍も子供を手にかければ恥となろう。斬首は別の者に担当させる。それでよろしゅうございますね?」

 

 

 この場で鳳明を手にかける理由を整然と説く藺相如に、それでも恵文王は「ならん、ならん」と(まく)し立てました。

 

 

「そのようなことに手を染めれば、儂らはあの昭王と同じではないかッ!? 和氏の璧を奪おうとし、黽池の地でこの儂を辱めようとしたあの昭王と……先のことはこの儂にはわからん。そなたの危惧が現実になることもあるだろう。しかしその時はその時よ。皆で知恵を出し合って鳳明を自由にしてやればいいだけではないか、相如よ……?」

 

 

 後に歴史家の司馬遷は、この時の恵文王を「弱王の勇気、この時に発揮せり」と称賛しましたが、この分析はすこしズレていました。

 

 これは勇気ではありません。恵文王は嫌なことを先送りにしただけであり、その事は藺相如の察するところにありました。

 

 

「わかりました。ではそのように取り計らいましょう」

 

 

 それでも藺相如はその視線も柔らかいものにして振り返り、恵文王の前に拝跪しました。廉頗将軍も矛を納め、元の位置へ戻ります。

 

 その様子に群臣たちはあらためて安堵しつつも疑問に思いました。

 

 

 この藺相如は見た目からは想像もできないほど苛烈な性格をしており、一度口にした事は己の命を引き替えにしてもやり遂げる人物として有名です。

 

 その彼がこんなにも簡単に引き下がった。これの意味するところはもしや──信陵君が疑問の回答を見出したときには鳳明が礼の言葉を口にしていました。

 

 

「ありがとうございます、相如様。今のは僕が安易に国外に出ればどうなるか教えてくれたんですよね?」

 

「その通りだ」

 

 

 フッと笑顔を閃かせた藺相如が立ち上がり、あらためて鳳明に向き直りました。

 

 

「廉頗将軍の殺気に動じなかった事もそうだが、大した子だ」

 

「あれ、そうだったんですか? すみません、殺気とかよく分からなくて……廉頗将軍がすごく大きい矛を振り上げたまま動かないのは知ってたんですけど、あの姿勢のままじゃ腰をやりそうで心配だなって……」

 

「ヌハハ! ほざきよるわこの(わっぱ)めがッ!!」

 

 

 にこやかに談笑(?)する廉頗らの姿に、ようやく藺相如が呉鳳明を殺す事はないと確信したのでしょう。

 

 恵文王の痩身がヘナヘナと玉座の上に落ち、信陵君や平原君ら群臣たちも緊張を解いたときでした。

 

 

「でもそういうコトなら匈奴との交渉は他の人に任せるしかないかな? 僕がノコノコ向かおうとしたら相如様に怒られそうだし……」

 

「匈奴と交渉するだと──」

 

 

 鳳明が漏らした言葉はまさに爆弾でした。それが炸裂したときの衝撃たるや、藺相如が鳳明の死を宣告したとき以上です。

 

 その証拠に藺相如すら諌める言葉に迷って沈黙し、廉頗もあんぐりと口を開けています。平然としているのは事前に内容を知っていた信陵君ぐらいですが、その彼も初めて聞いたときは鳳明の正気を疑いました。それほどの内容なのです。

 

 

「お前は中華の北に聳える長城を何と心得る。北の遊牧民に悩まされた歴代の諸国が共同で築いた長城こそは、まさに奴等の侵入を少しでも遅らせるための防波堤よ。

 金子も食料も、民すらも奪っていく蛮族どもに話など通じぬ。お前が交渉を望む匈奴はその筆頭格。何を望むかは知らんが、盟約など結べる相手ではない」

 

「そうでしょうか? 僕らはそちらの許可がいただけ次第、北の地に100万人分の食料等の献上物を運び込む用意ができています。

 僕には満腹の虎が小鼠を追いかけるとは思えません。奪う必要さえなくなれば、酒の肴に話ぐらいは聞いていただけると思うのですが」

 

「……それほどの余裕が今の魏にはあるのか?」

 

「あります。大王様や信陵君も同意済みです」

 

「そうか、揃いも揃って馬鹿ばかりか……」

 

 

 ──わからない。わからない。腹を満たした匈奴がどう動くかわからない。鳳明の言うように無駄な軍事行動を控える可能性もある。だが生まれながらの騎兵でもある奴等が狩猟の文化を捨てるとは思えない。しかしその対象が中華の人々でなくなる可能性もたしかに存在するのだ。

 

 ああ、困った。無難に行くなら鳳明を思い留まらせるのがいい。奇抜な発想をする子だが、事前に周囲の大人に相談するあたり聞き分けがないわけではなかろうよ。だが、しかし、仮に損をするにしてもそれは趙ではない。鳳明が匈奴に何を求めるかにもよるが、まったく協力できないわけでは──。

 

 

「……ひとつ聞かせてくれ。お前は匈奴から何を取り付ける気だ?」

 

「往来する商人の安全です。彼らが何かしらの理由で難儀していたら、あちらで保護していただけるよう交渉できれば文句ナシなんですが……」

 

 

 鳳明は最後まで続けることはできませんでした。その前に藺相如が笑い転げたからです。

 

 

「……そんなにおかしいですか?」

 

「可笑しいともっ! その程度の見返りのために莫大な贈り物をしてまで気を惹こうとするとはな……!!」

 

「いや、そうは言いますがね。これは大事なコトなんですよ? いくら僕のためなら何処にでも行くって言ってくれる懇意の商人たちでも、こちらの都合で送り出すからには万全の備えをしなきゃいけないじゃないですか……って、聞いてますか?」

 

 

 今度は藺相如も返事をしませんでした。廉頗と一緒に蹲って痙攣しています。恵文王も似たようなものでした。

 

 他の群臣たちは他国からの使者の手前、歯を食いしばって自制しましたが……彼らは鳳明の言うことがおかしかったから笑っているわけではありません。愉快だったから笑っているのです。

 

 平原君に「貴公も大変だな」と言わんばかりの視線を向けられた信陵君は、言葉にこそ出しませんでしたが肩を竦めて同意することに(やぶさ)かではありませんでした。

 

 

 ……それから時間にして数分後。

 

 ようやく発作の治った藺相如が立ち上がりました。

 

 彼は、鳳明の拗ねた顔を視界に入れると笑ってしまう自信があったのでしょう。目を逸らしたままこう続けました。

 

 

「いいだろう。勝手は許さぬが手筈は整えてやる」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。北の雁門の守備に就かせた将軍に李牧という男がいる。有能だが搦手を好む変人でな、お前とも気が合うだろう。奴に手筈を整えさせ、用意ができ次第こちらから連絡する。それでいいな?」

 

「はいっ!! 有り難うございます、相如様……!!」

 

 

 鳳明の計略がどちらに転ぶかはまだ判断がつきません。だが、賭ける価値はあるように藺相如には思えました。

 

 今後も慎重に見守る必要はあるでしょうが、老いた藺相如の目には目の前の少年が眩しく思えたのです。

 

 それは若さであり、新しいことに挑戦する気概であり──ままならぬ現実に何度も妥協を強いられた藺相如が諦めたものばかりでした。

 

 穏やかに微笑する藺相如はやがて自覚しました。

 

 手の震えと、心拍の異常。自己を駆り立てる熱気と高揚が、これより中華が変革するという確信がもたらした興奮によるものだと──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 趙より帰還した鳳明が主君である安釐王と会談して交渉の成果を報告すると、彼はその足で綺丹公主を訪ねました。

 

 

「どうされたのです鳳明様っ!?」

 

「こんな時間にごめんね。どうしても丹に話したいことがあって……もしダメだったら出直すけど?」

 

 鳳明の腰が微かに引けているのが目に入った少女は、髪が乱れるのも構わず(かぶり)を振りました。

 

「いっ、いえ、構いません鳳明様。どうぞこちらへお入りになって」

 

「……ありがとう。君の部屋に入らせてもらうよ、丹」

 

「え、ええ、どうぞ、どうぞそうなさってくださいまし……」

 

 

 ああ、これは困っています。綺丹公主はその端正な(かんばせ)を朱に染めながらも困っておられます。鳳明の突然の訪問を予期できなかった宮女たちも、右に左にと駆け回って二人分の(ねや)を整えるべく奮闘しているようです。これは少々先走ってる気もしますが、余計なことをしているとは言えないでしょう。

 

 そもそも男がこの時間に女性の部屋を訪ねる目的は一つしかありません。綺丹公主もそう聞いていますし、日頃から鳳明を誘うときはそのように命じています。だから鳳明が中の様子に眉を顰めたとき、この少女は生きた心地がしませんでした。

 

 

 ──ああもうっ、鳳明様に知られたらどうするのよ。で、でも鳳明様も入浴を済ましていらっしゃるようだし、私も身を清めたばかりだから、急ぐのも分かるのよね。ただそんなコトがあるのかしら。今まで頑なに私の部屋に寄り付かなかった鳳明様が、こんないきなり──。

 

 

 部屋と言っても綺丹は魏の公主です。玄関から寝室までそれなりの距離があります。主人である少女が到着する頃には宮女たちも隣室に引っ込み、乳母の娘である藍という娘だけが控えています。

 

 彼女にも茶を持参したら休むように申し渡し、いよいよ鳳明と自分の寝室で二人きりになった少女はごくりと喉を鳴らしました。

 

 

「……それで鳳明様、お話というのは?」

 

「……うん、それがね」

 

 

 綺丹公主に促された鳳明は照れた様子で口を開きました。もちろん宮女たちは全員聞き耳を立てています。しかし鳳明の話は要領を得ないものでした。

 

 王建王のこと、蔡沢のこと、藺相如のこと、廉頗のこと──多くの宮女たちが乾杯するつもりの発泡酒を手に、違う、そうじゃないと焦ったく思う中、ただひとり綺丹公主だけは真剣に耳を傾けました。彼女にとって聞き逃していい鳳明の言葉は何一つとしてありませんでした。

 

 愛する人を理解したいというその想い。綺丹公主にとって鳳明と語り合う時間は貴重なものでした。だから一途な少女の口元に、自然と幸福の笑みが浮かんだのです。

 

 ……だから鳳明は観念しました。ついに目の前の少女の幸福こそが自身の幸福であると認めたのです。

 

 

「それでね、斉にいる時に王建王から自分の妻にどうだって言われたんだ。でも断った」

 

「どうして断られたのですか?」

 

「僕は君のことが一番好きだ。だから妻にするなら君がいいって断ったんだ」

 

 

 これは夢を見ているのだろうか、と綺丹公主は疑問に思われました。

 

 しかし自分の頬を優しく撫でる鳳明の手の平からは、微かな震えと一緒に彼の温もりが伝わってきました。

 

 

「僕は今から君と夫婦の契りを交わして、君のことを娶りたい。いつか君の言ったように徒然なるまでじゃなくて、死がふたりを分かつまで……もちろん大王様の許可は取ってある。だから丹。この臆病な僕に、君の答えを聞かせておくれ」

 

「はい、鳳明様。この丹は貴方様の妻となることを格別の喜びとします……ああ鳳明様っ、私……」

 

 

 明かりが消されて、ほのかに開封の灯火が差し込む寝室でふたりの影が沈み込む。微かな衣擦れの音とともに切ない吐息が溢れゆく。覗き見の誘惑に駆られた宮女達は、互いに視線で牽制しながら乾杯した。

 

 

 呉鳳明が13歳。綺丹公主が14歳。桜の花々が散る春の宵口の慶事でした。

 

 

 

 

 







今回は第一部完的なお話です。第二部は二年後の開封からスタートします。


それと思涵はああ言ってますが、実際はどうでしょう。ご想像におかせしますが、ちゃんと鳳明の奥さんになって綺丹公主とも仲良くなります。

問題は兄を取られた玲麟ですね。荒れなきゃいいんですが……。


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