互いに使者を派遣すること、実に七度──ようやく雁門の地に足を踏み入れた匈族の民は、目算によると50万にも達したと伝えられています。
もし彼らにその気があれば、この雁門はおろか、趙国北部の地は廉頗将軍が大軍を率いて駆けつけるまで蹂躙され、甚大な被害を被るでしょう。
その想像に雁門の少女兵・カイネは複雑な視線を向けずにはいられませんでした。
この事態を招いた魏の宰相と、和やかに談笑する雁門の長官である李牧将軍に……。
「……嬉しそうですね、李牧様は。こっちはアイツらが攻めてきたらどうしようかって、ずっと気を揉んでるのに」
「バッ……やめろカイネ!!」
カイネが高官同士の会話にぶつけたのは紛れもない恨み言です。即座にこれを聞き取れる位置にいた傅抵という少年兵が仰天して制止に入り、カイネ自身も「しまった」と言わんばかりに顔を強張らせます。
彼らの反応も無理はありません。実は泣く子も黙る趙国宰相・藺相如は『呉鳳明を疑う者、侮る者、これ悉く斬首に処す。私に二言があると思うなよ』という通達を出しており、むろんその事をカイネと傅抵も知らさせていたからです。
いつもはこの地にろくな支援も行わない中央政府を、陰で無能と罵っている二人ですが、趙国三大天の藺相如はその限りではありません。
その彼が言うのです。呉鳳明を子供と侮りその能力を疑う者は、彼を認めた私が断じて許さんと──まさにカイネはそれに近い事をやってしまいました。
私はこんな愚かな死に方をするのかと悔しがるカイネと、せめて自分の首で肩代わりできないかと苦悩する傅抵ですが、彼らを穏やかに見やった鳳明は李牧にこう語りかけたそうです。
「もしや僕の態度に何か問題があったのでしょうか? 李牧様の部下の方々をえらく恐縮させてしまったようですが……」
「いえ、私も鳳明様との会話が楽しくて、彼らが来たことに気付きませんでしたが、おそらく報告があるのでしょう」
「なるほど、これは失礼しました。ぜひ部下の方々から報告を伺ってください。僕も向こうで信陵君と話してきますから」
「ありがとうございます、鳳明様」
そう言って立ち去る鳳明の背中に頭を下げる李牧の後ろで、カイネと傅抵がヘナヘナとその場に座り込みました。どうやら腰が抜けたようです。
「し、死ぬかと思ったぜ……」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、傅抵。私も直接話したのは今回が初めてですが、言葉の端々から彼の善良さを感じられましたし、藺相如の通達も、彼を見た目で侮ると損をするぞという意味ですから」
「そうは言いますけど、見た目は本当にただの子供ですよね」
その言葉に懲りない奴だなと呆れる傅抵ですが、鳳明のことをよく知らないカイネがそう言うのも理解できます。
魏の輝ける新星。紙の製作者にして、趙国の農耕も劇的に改善した恩人とはいっても、実際目にした呉鳳明はまだ14歳の線の細い少年。侮るつもりはなくても万全の信用には至りません。
少なくとも部下の反抗にもめげずこの地を守り抜く、李牧に対する崇敬には──。
「ところでさっきも言いましたが、どうするつもりなんですこれ。匈奴が協定違反をやらかしたら、奪われるのは魏国の物資だけではすみませんよ?」
「そうですね、カイネ」
「だったらこんな大軍を誘き寄せないでくださいよ。何かあったら今度は罷免じゃすみませんよ」
「いえ、よくご覧なさいカイネ。あれは軍ではありません。あちらに匈族の天幕と家畜の姿が見えます。彼らがこの地を侵すために来たなら、家族と財産は安全な所に置いてくるはずですから」
「本当だ……よく見ていますね、李牧様は」
「それに、これだけの物資を何の苦労もなく持ちされると思いますか? 少なくともこの雁門から攻撃がないと確信できないかぎり、彼らは物資に近寄ることもできないでしょう」
「……もしかして困ってますか、アイツら」
「そうかもしれませんね。何しろこの雁門に収まりきらず、野に山と積まれている物資です。あちらの使者が見たものをありのままに報告していようとも、実物を目にしては平静ではいられないでしょう」
……狂ってる。傅抵とカイネはそう思いました。
匈奴と交渉しようという発想も。これだけの物資をくれてやろうとする国力も。この最果ての地まで運び込む運搬力も。何もかもが狂っている。そう嘆いたのです。
そして、そうした思いは匈族の者たちも同じでした。
厳重に梱包された大量の物資は、ご丁寧にも運搬用の荷車に搭載されています。
力で奪うことをむしろ誇りとする匈族の男たちも、さすがにこんなモノを目にするのは初めてでした。
狂ってる。あちらの使者は友好の証などとほざいておったが、どうせ我らを謀る甘言であろう。だがその為だけに自国の財を、丸ごと焼き払う暴挙に出るほど追い詰められているとも思えぬ。これをどう判断しろというのだ。そうした困惑が滲み出ています。
しかし、いつまでもそうしてはいられません。やがて匈族の騎兵に動きがあり、中から美髯を蓄えた偉丈夫が姿を現しました。
一目で歴戦の勇姿とわかるこの人物こそが、匈族の君主・
彼は匈族の男たちにその場から動かないように命じ、事前の約束通り二名の供回りだけを同行させて雁門に向かいました。
「出てきましたね」
李牧もその場で開門を命じ、鳳明と信陵君に同行して会見の場へ向かいました。
百万と下らぬ荷車に搭載されてなお余ったのか。それともこの場で中身を確認してもらうつもりなのか。山と積まれた物資の前で邂逅するや丁寧にお辞儀をした鳳明は、流暢な古代モンゴル語でこう挨拶したそうです。
「お会いできて光栄です、恫遼単于。こちらは趙魏両国が友好の証として用意した贈り物です。残らず持ち帰っていただけたらこれに勝る喜びはありません」
「多すぎるわッ!! 加減を知らんのか貴様はッ!!?」
これに対して、恫遼単于は見事な漢語でそう答えたそうです。
信陵君がもっともなことだと頷き、城壁の上から眺めるカイネと傅抵も心から同意しましたが、李牧は別の理由で感心しました。
「とても流暢な漢語ですね」
「……貴様が李牧か。吾輩を字も知らぬ蛮族の頭目と思い込んでおったか?」
「いいえ、恫遼単于はとても理知的な方とお見受けしてました」
「フンッ、吾輩を煽てたところでこんなモノしか出てこぬぞ」
李牧の感心と鳳明の感想は恫遼を不快にはしませんでした。むしろ彼は、上機嫌に一冊の本を取り出したのです。
「書といったか。今はこういう物があるからな。記録を残すのも貴様らの言葉にも不便せぬ。呉鳳明とやら。この点だけは貴様を褒めてやらんこともない」
「ありがとうございます」
「……それで? これだけの貢物をして、貴様は吾輩に何を望む?」
「往来する商人の安全を」
「そんな事は言われずともやっておる。もっとも積荷の半分と引き換えだがな」
「はい、そんな匈族だからこそ北の地を西から東まで治めていただきたいのです」
「……なるほどな。そういう魂胆か」
鳳明の意図を理解した恫遼単于は、ニヤリと犬歯を剥き出しにして笑いました。
北の地には匈族以外にも、月氏や東胡といった遊牧民の部族がいますが、彼らは中々に凶悪です。
もちろん匈族の兵とて気分次第で無用な殺戮や陵辱を楽しみますが、その点は中華の軍も大差はありません。例外は軍律の厳しい秦軍のみ……しかし月氏や東胡は比較にならないほどの暴虐を働きます。
少なくとも恫遼単于は将来の略奪相手に事欠くような虐殺は許しませんが、月氏や東胡はその限りではありません。彼らは奪う相手は地べたから幾らでも生えてくると考えています。だから鳳明はまだしも話の通じる匈族と交渉の席を持ったのです。
「確かにこれほどの余裕があれば大規模な軍事行動も起こせる。しかし支援は一度きりか?」
「いいえ、これは匈族と中華の盟約がある限り続けられるものです」
「ならば我等も子を増やせる。匈の覇権は一時的なものではなくなるだろう。……しかしその暁には、そちらの李牧を困らせることになりやしないか?」
「なぜ私が困ることになるのでしょうか」
「フンッ、その時この地を踏む吾輩の軍勢は50万を下らぬだろう。防ぎ切れる自信があると申すか」
「道理に合いません。この雁門から僅かばかりの戦利品を奪うために、100万の民を食わせる盟約を破棄すると仰いますか?」
痛い所を突かれた恫遼単于はもう一度不快そうに鼻を鳴らし、ぐるりと周囲を一望してから鳳明を見ました。
「とりあえず麦などの食い物はこの半分で良い。他には何がある?」
「こちらの樽にはお米から作った日……清酒が。お試しになられますか?」
「無論だ」
今さら毒殺などあり得ぬと見切ったのか、酒盃を奪った恫遼単于の飲みっぷりは見事なものでした。
盃を空にした恫遼単于は快心の笑みを閃かせるとこう言ったそうです。
「ぬうッ、この吾輩を毒殺しようとはけしからん奴等よ。貴様達は飲むなよ。吾輩はもう助からんから樽ごと飲むが」
勿論これは冗談の類です。我等も死地へのお供にと嘆願した供回りの者たちが、主君に盃を授けられて歓喜します。李牧は匈族の男たちがあまりに旨そうな様子なので、少しだけ羨ましくなってきました。
「どうぞ、李牧様も」
そのタイミングで鳳明が酒盃を渡してきたものですから、李牧もつい口をつけてしまいました。
「……これはすごい」
強烈な喉越しと、一口で酩酊する酒精の強さでありながら、後味はどこまでも爽やかで、清酒とはよく言ったものだと李牧は感動しました。
そして飲み慣れた様子で二杯目を注ぐ信陵君を見て、今さらながらにこの酒をいつでも飲める魏国の人間が羨ましくなりました。
「ううむ、実に良い酒だが他には何がある? どんなつまらん物でも怒らんから、この吾輩に見せてみい?」
「でしたらこちらの絹の織物は如何でしょう。男性物と女性物をそれぞれ用意してきましたが」
「ほぉ〜う? これも良い物だな……」
しげしげと手に取った恫遼単于は、特に女性物の絹織に興味があるようです。
「……うむ。これを妻や娘に着せたがる男は多かろう。こちらの美しい装飾の施された皿もそうだ。家臣への褒美や他部族の懐柔にも使える」
「では盟約を結んでいただけると?」
「いや、まぁ待て。そんなに急ぐでない」
そう言って意気込む鳳明を片手で制した恫遼単于ですが、彼も勿体つけているわけではありません。
「どちらにしろ、これらの対価が商人どもの安全だけでは、釣り合いが取れぬにも程がありよるわ。これほどの誠意を見せた相手に何も渡せぬようでは
鳳明とやら。貴様も吾輩に恥を掻かかせるつもりがないなら、吾輩の手持ちから何か持ってゆけ。それで我等は貴様の朋友になってやろうではないか」
「それでしたら、その見事な外套を頂戴しとう存じます……!!」
恫遼単于が鳳明の言葉に快心の笑みを浮かべるのもこれで二度目です。
「欲しいか?」
「はいっ! その外套の中には何が入っているのでしょうか? とても暖かそうで羨ましいかぎりです!!」
「羊の毛よ。これは貴様らの国にはまだないのか?」
「ございません。それらを薄く仕上げる製法も中華にはないものです」
「それは良い事を聞いたわ。鳳明よ、貴様に君主の外套を授ける。羊の毛と衣装の製法も追って授けよう」
「ああ、何とお礼を言ったら……心より感謝いたします、恫遼単于」
早速モコモコとした外套を身につける鳳明は大喜びです。清酒で心も体もポカポカになった大人たちは見落としていましたが、このとき雁門に吹きつける風は寒く、北国を初めて訪れた鳳明は少し震えていたのです。
供回りから予備の外套を受け取った恫遼単于は、すごいすごいと子供のように喜ぶ鳳明を腕組みして見つめたあと、ジロリと背後の部下を睨みました。
「ところで貴様らは何をしている? 見ての通り鳳明は吾輩の朋友となった。ならば宴であろう。女どもに伝えて肉を焼かせよ。男どもに今宵は飲み明かすと伝えよ。これは単于の命令である」
「ハハッ」
こうして鳳明の盟約は成立しました。
この時代でもコーヒーが飲みたい。チョコレートも欲しい。そんな理由で多くの者を巻き込んだローマとの交易が始まろうとしたのです。
……むろん史書には、そんな心底しょうもない理由までは記されていません。
この時期になると、鳳明のそうした部分に理解が及ぶようになった信陵君も、あえて余計な手記は残しませんでした。
よって後世の歴史家は鳳明をことさら神聖視して、このとき恫遼単于が残した「どう見てもただの子供だった」という、不都合な記述は意図的に無視します。
そして李牧は──。
「お前は行かないのかよ、カイネ」
「行くわけないだろ。匈奴と酒を飲み交わすなど、考えただけで虫唾が走る」
あちこちに篝火が焚かれ、昨日までの敵と肩を組み合う宴が夜通しで行われる中、匈族に並々ならぬ怨恨のあるカイネは強硬でした。
「そうは言うがよ、李牧様の話じゃ
「そんな事はわかってるッ!! 今やあの有り難い呉鳳明様とやらのお陰で、この私が雁門のお荷物になった事ぐらいはな……!!」
こりゃダメだと傅抵は溜め息を吐きます。
カイネも頭では理解しています。これで父母の地が荒らされる事はなくなったと。
匈族と手を結ぶことを選んだ鳳明と、それを認めた藺相如と李牧の決断はいずれも正しいと。
しかし、カイネの心は納得してくれません。なぜ卑劣な略奪者に餌をくれてやらないといけないのかと。
家族と同郷の民を虫ケラのように踏み躙り、ありとあらゆるモノを奪った蛮族と、どうして……。
そんなふうに思う自分の居場所は、もうこの地にはないのだろう……そう思い詰めるカイネですが、長い人生、何があるか分からないものです。
「二人とも飲んでますか?」
「あ、李牧様」
「えっ、李牧様!? ど、どうしてこちらに……!!」
ワタワタと応対するカイネの姿に、傅抵は小さな諦めをもってその事実を認めました。
結局コイツのことは李牧様に任せるしかねえんだよなぁ、と……。
「いやぁ……私はあまりお酒に強くないので、もっともらしい口実をぶち上げて逃げてきたんですよねぇ……」
「そっすか。それじゃあ、俺は代わりに向こうで飲んでますんで、終わったら声をかけてくださいや」
「おい傅抵ッ!? 終わったらって何だ!! り、李牧様もどうされたんですか? まるで別人ですよ……?」
「別人? うーん、そうかもしれませんねぇ……実は先ほどからカイネが可愛らしく思えて仕方ないんですよ……ああ、やっぱり今日の貴女は愛らしい……」
「やっぱり酔ってますね!? ベロンベロンじゃないですか!!」
そんな会話を背に、女を変えるのは簡単だと傅抵は思いました。男がしっかりすればいい、と。
だから翌日、妙にスッキリしたカイネを見て、傅抵は収まる所に収まった事に納得しました。
実はカイネに気があったことなど
「……ありがとう傅抵」
「ハァ? 礼を言われるようなコトは言ってねえし」
すっかりしおらしくなったカイネに背を向けた傅抵は、魏の清酒をしこたま痛飲して悪酔いしたそうですが、年長の仲間たちは誰も責めなかったと李牧配下の馬南慈という部隊長は語ったそうです……。
遷都の完了以降も、革新的な成長を見せる開封の都──その原動力は鳳明ですが、伝達手段は妹の玲麟が担っていました。
「はぁーい。弱目の火で砂糖を溶かしたら、卵黄も溶きほぐして、木べらで混ぜながらとろみがつくまで煮込みましょうね」
開封の商業地区にある玲麟の料理教室は今日も大盛況です。
女は男の所有物だと当たり前のように考えられていた時代に、まだ少女の玲麟が運営する料理教室に多くの女性が詰めかけていたのです。
「そうして冷やしましたらっと、こちらの金属製の筒に注いで蓋をしたら、氷を塩水でさらに冷やした桶の中で回転させて……みんな冷たいから気をつけてね?」
女性が家の外に出るのを好まない儒家の影響力はこの開封にはありません。年下の娘に教えを乞うことを恥と捉える価値観は廃れました。
鳳明の後押しを受けた玲麟が女性の社会進出を
「ふふっ、できました。これが兄様の考案した抹茶の
そうして玲麟の料理教室が試食会に移行したときでした。軒先を見渡す玲麟の視界に見覚えのある人影がチラつきました。
「結さんごめん、あとお願いしていい?」
「え? ええ、いってらっしゃい玲麟。後事の一切は任せて頂戴」
助手を務める娘に店を任せた玲麟はすぐさま駆け出しました。
大通りに出て左右を確認──おかしい。たしかこの辺りに──周囲の見渡す玲麟の背後から、ぬうっと不審な手が伸びます。
「きゃっ!?」
「成長したな玲麟。オレは嬉しいぞ」
「……怒りますよ」
「すでに怒っているではないか」
「そのにやけ顔に張り手をくれてやるって意味です」
その剣幕に人夫の建さん──もとい、今度は商人に扮した王建王は破顔しました。
「兄がこの国の
「……何ですそれ?」
「今はオレの戯言よ。だが後世はこう謳おう。玲麟こそが魏華繚乱とまで称えられる開封文化の礎とな。何故ならオレがそう史に刻むからな」
「よく分かりませんが、用件がそれだけなら帰ってくれませんか? こう見えても忙しいので」
「そう邪険にすることはあるまい。ほれ、向こうに茶屋があるではないか。そちらで話すぞ。もっともあの店は、恋人どもが
「やっぱり引っ叩かせてください」
「おお怖い怖い。女がそんな事では男が寄り付かなくなるとは思わんか?」
「別にずっと結婚できなくてもいいですよぉ〜だっ」
「鳳明の三人目の妻になれぬなら……か?」
その言葉に玲麟は俯き、そしておずおずと尋ねた。
「……どうしてわかったんですか?」
「わからいでか。貴様もすでに14歳。成人と認められて多くの婚約者が殺到したというのに一顧だにしなかったそうではないか。呉慶と鳳明も口には出さんがだいぶ案じておったぞ」
「質問の答えになってません」
「たわけ、それぐらい見れば分かると言っておるのだ。この国で最も鳳明に救われたのは誰だ? 貴様と龍譚であろうが」
「……………………」
「貴様は何も間違っておらん。女が恩ある男に身を捧げて感謝するのは当然だ。されど実兄との婚姻は血が阻む。どうした理由か近親婚は生まれる子を呪うからな」
「…………やっぱりそうなんですね。わたしがもう、兄様の温もりに包まれることは二度とないんですね」
そこで王建王は、向かい合う玲麟が驚くほど大きく息を吐き出しました。
もしやと思って話を誘導してみましたが、さすがの彼もここまで深刻だとは思わなかったのです。
「……ここで現実に打ちのめされて弱り果てた貴様を説き伏せ、逢引き茶屋に連れ込んで抱くのは簡単だが」
「なんかもう、わたしもどうでもいい気分です」
「諦めるでない! 貴様の恋を公然と応援することはできんが、オレが何とかする。何か良い手筈を考えてやるゆえ泣くでないわ!!」
「本当ですか!?」
途端に涙を湛えたまま咲き誇る玲麟の笑顔に、気押された王建王は「う、うむ。オレに二言はない」と確約することしかできませんでした。
「嬉しいッ!!」
ふと、王建王の視界に影が差しました。それは両手を一杯に広げて王建王の首筋に抱きついた、玲麟が靡かせた金髪が生み出した影だったのです。
王建王の胸板に押し付けられるのは、たしかな成長を感じさせる少女の膨らみ。
そして左の頬に重ねられるは、しっとりとした柔らかい唇──。
「────」
乙女の抱擁は一瞬のことでした。すぐに身体を離した玲麟は、人目のあるところではしたない事をしてしまったと照れた様子です。
ですが脳が痺れた王建王にとって、その抱擁は永遠のことのように思えました。
「約束ですよ建さん! 嘘を吐いたら承知しませんからね?」
玲麟は最後にそう念押しして自分の店に戻っていきましたが、難事を抱え込むことになった青年の顔は晴れやかでした。
「──それで良い。貴様は笑っていろ。魏華はこれより永遠に咲き誇るのだから」
魏華繚乱──それが先進的な開封の文化を称賛する言葉であり、それをもたらした玲麟を
しかし彼が何故そうしたのかは、近代になって玲麟の手記が発見されるまで分かりませんでした。
玲麟の手記はさまざまな論争を呼び、後世の歴史家がこの時代を見直す一つのきっかけとなったのです……。