天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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季節の変わり目で体調を崩してしまいましたが、なんとか回復してくれました。

皆様も筆が乗っているからといって徹夜するのは控えた方がいいかもしれません。

翌日に書ける分が減りますからトータルでマイナスになりかねませんし、霞んだ目を擦って執筆しても碌でもないゲテモノしか仕上がりませんしね。

直前までR-18スレスレの官能シーンを書いていた私が言うのだから間違いありませんとも(オイ)





水運同盟の立役者・呉鳳明

 

 

 

 開封の秘匿された造船所より新型の商船が進水してから、およそ二年──三ヶ国共同の水運事業は順調に業績を伸ばし、この鄴の港にも多くの商人が押し寄せるようになりました。

 

 ……その中に、いかにも場違いなほど貧しい身なりの男がいました。

 

 名は尾蝉(びぜん)。趙国北部・宜安領内の農村出身であり、村を代表して初めて開封を目指す彼にとって、この光景は何もかもが圧巻でした。

 

 

 百戦錬磨の行商人がごまんと詰めかけるのは、これまでの中華の常識にない巨大な帆船。

 

 漕ぎ手を必要とせず、雄々しく掲げられた帆が向かい風すら推力に変えるという、万能の天才・呉鳳明が手かげた傑作船。

 

 その威容だけでも圧倒されるというのに、船の上で待ち受けるのは水夫の役割を担当する異国の益荒男たち……尾蝉の腰が引けるのも当然ですが、ここで幸運な出会いに恵まれました。

 

 

「ねえ父様、あのおじさんも商人なの?」

 

「ハハ、馬鹿だな紫夏は。あんな見窄らしいオッサンが商人なわきゃねえっつうの」

 

「ああ、いいとこ丁稚かなんかだろ」

 

「こら、やめなさいお前たち。失礼ですよ」

 

 

 密かに子供達のオッサン呼ばわりに傷つく尾蝉でしたが、それをもって逆上するほど彼の気性は荒くありません。ここは素直に仲裁を受け入れます。

 

 

「いや、亜門たちが失礼しましたな。私は邯鄲の行商・紫啓と申しますが、貴方様は?」

 

「は、はい。オラは北にある長作村の尾蝉ちゅう者で、実は村の者が近くで採れる椎茸が高値で取引されとるっちゅう話を耳にしますてな。いつもはオラたちで食っちまうんだが、今回は噂に聞く開封まで売り出しに行こうって話になって、オラがこの港まで」

 

「なるほど、それは良い物です。きっと開封の商家が高値で引き取ってくださるでしょう」

 

「ほ、本当だでか?」

 

「ええ、子供達が迷惑をかけた詫び代わりです。私達が乗り込む船はもう満載ですが、荷の少ない貴方だけなら受け入れてくださるでしょう。私が責任を持って交渉いたしますので、どうぞこちらへ」

 

「あっ、ありがとうごぜえますだ」

 

 

 そう言って紫啓の親切に最大限の感謝をみせる尾蝉でしたが、その内心は初めてこの港に足を踏み入れた時と大差ありませんでした。

 

 

 とりあえず海千山千の商人たちに食われる事はなさそうだども、噂の呉鳳明様はなんちゅう馬鹿デカい船を造ってくれたんべか。

 

 それに他国の兵士なんて見たことねえし、殺されたりはしなくとも因縁をつけられて大事な椎茸を奪われたりしねえだでかな。

 

 尾蝉の内心はそのようなものでしたが、紫啓が話をつけた魏の船員はとても親切でした。

 

 

「ふむ? 積荷は椎茸の袋が二つで、船を利用するのも今回が初めてと……それなら私としては運搬料の免除を提案したいが、そちらは如何かな?」

 

「趙国も異論はない。魏国の配慮に感謝する次第だ」

 

「よっ、宜しいので!?」

 

「ああ。趙国宰相の藺相如様が仰るには、お前のように商いを志す者が増えれば増えるほどこの国は豊かになるそうだ。……俺たちもその事は日々実感している。しっかり稼いで来い」

 

「あ、ありがとうごぜえますだ……!!」

 

 

 感激のあまりその場に土下座する尾蝉でしたが、無理もありません。

 

 

 自国の兵士に怒鳴られた記憶はあれど、こうも親身に励まされたことが初めてならば。

 

 故郷の村が戦火に晒されでもしなければ、まず目の前に現れることもない他国の兵士から格別の配慮を受けたのです。

 

 

「や、やっぱり都の人たちが言うように世の中が変わっちまったんですかい? 魏のお偉い呉鳳明様のお陰でみんなが豊かんなったから、それだけ親切に……?」

 

「おうっ! だが鳳明様だけではないぞ? 鳳明様と手を結んだ斉の王建王や、趙の藺相如様の格別の働きかけがあってのことだからな!!」

 

「ワハハ、抜かしよるわ。そんなに相如様を持ち上げても、くれてやるのは開封の発泡酒くらいのものだぞ? お前も飲め。此度の出航を祝って乾杯と行こう」

 

 

 否応もなく圧縮式の樽から注がれた黄金の酒盃を手にするその光景は、今の中華でよく見られるものでした。

 

 もはや国籍も職種も関係なし。肩を組んで乾杯する彼らを見守る紫啓の笑顔はとても穏やかなもので、その事が彼の養子である三人の子供達にとっては何よりも喜ばしいものでした。

 

 自分たちの言動を反省した子供達は、尾禅が上機嫌な兵士から解放されると見るやその足元に駆け寄って謝罪しました。

 

 

「おじさま、さっきはごめんなさいね」

 

「まぁアレだよオッサン。椎茸がそんなにあったらがっぽり儲かるからさ。何を買う気か知んねえけど、もうちょいまともな服も買えよな」

 

「そうそう。せいぜい出世して、父ちゃんの一番弟子ぐらいは名乗れるようになりなよ」

 

「あ、アハハ。気持ちは嬉しいけど、来年の行商は他の(もん)がやるだろうから、紫啓さんの弟子は続けられんでねえか?」

 

 

 紫啓の子供達も相応に懐き、ほろ酔い気分のなか開封への船旅を満喫する尾蝉でしたが、その時間は彼の予想よりはるかに短いものでした。

 

 

「尾蝉さん、間もなく開封に到着しますよ」

 

「えっ、こんなに早く着くもんだでか!?」

 

「はい、鄴から斉の臨淄まで半日の船旅ですから……そら、右手に開封の堤も見えてましたよ」

 

「なっ……!?」

 

 

 尾蝉が促されるままに目撃したのは、実に全高20mにも達する白亜の堤防でした。

 

 雨季に黄河の水を遊水池に引き込む巻き上げ式の水門を等間隔で備えた、まさに万里の長城をも凌ぐ総鉄筋コンクリート製の巨大建造物は、しかし、水平線のはるか彼方に望む開封の三重城壁の一部でしかありません。

 

 ぐんぐん近づく開封の港もまた白亜の城壁に覆われて、玄関口である巨大な桟橋群が、この船を歓迎するように巻き上げられた水門の下から見えてきました。

 

 数多のクレーンが荷下ろしする、あまりに先進的な開封の威容に圧倒された尾蝉はその場で腰を抜かし、紫啓らの手助けを受けても容易に立ち上がれなかったそうです。

 

 

 これが開封──魏の公主を娶って太子となり、紙の発明以降も農政、外交、工学、文化と多方面で活躍する“万能の天才”。魏国宰相・呉鳳明の築きたもうた国際都市。

 

 その景観こそ白亜の三重城壁を除けば尾蝉の知る宜安のそれと大差ありませんでしたが、そこに組み込まれたインフラ施設や、都市そのものの規模はまさに雲泥の差でした。

 

 

 この時期の開封の人口は、旧大梁の王宮に詰める文武の官僚たちだけでも三万人。市街地に戸籍を置く住民だけでも四十万人。商業地区に店を構える住人とそこで働く人々の合計は八万人。港湾関係者は一万人ほどだったそうですが、そこを訪れる商家や行商人の数が五十万人を切った日はないそうです。

 

 

 まさに中華随一の大都・開封──商いのため下船した尾蝉は早速その洗礼を浴びることになります。

 

 

「氷室に運ぶ氷を取り扱う者はおるかァ! 臨淄より参ったが、水夫が気密の徹底を怠ったようでな。念のため予備の氷を積んでおきたいのだ!!」

 

「氷ならそちらの地下に向こう数年分は蓄えておるから、好きなだけ持ってゆけ。それより臨淄から持ち込んだのは斉の海産物か!?」

 

「おう。そちらの市に半分を納め、もう半分は鄴に納める予定だ」

 

「そういう事なら話は早い。斉の海産物は王宮にも上納するゆえ、手続きはこちらで纏めて引き受けよう」

 

「さあさあ、買取りなら開封一の萬屋満天堂がお勧めだよ!! なんたってこちらは薄利多売が信条だからね。他所に持ち込むなんざ愚の骨頂って寸法さ」

 

「趙の名産を取り扱う市場は何処だ? 今回は羊毛も大量に入荷したのだが……」

 

「私は韓より参ったのだが、鳳明紙を取り扱う商家はあるか? できれば継続的に購入したいので、大店を紹介していただきたい」

 

 

 見渡す限りの商人達が早口で捲し立てる漢語は、仮に聞き取れても意味はまるで解らない代物……。

 

 

「え、えらい所に来ちまっただな……オラはここから生きて帰れるんだか?」

 

 

 荷下ろしのため船に残った紫啓から、市で買取専門の商家を探すように助言された尾蝉ですが、何しろこの混雑です。何もかもが初体験の尾蝉は途方に暮れてしまいましたが、そんな彼の弱みに付け込もうとする開封市民は一人も存在しませんでした。

 

 ……それどころか、救う神は直ちに現れたのです。

 

 

「あれ? もしかしておじさん、開封は初めてですか?」

 

 

 そう言って困惑する尾蝉に声をかけたのは、従者と思しき青年を引き連れた身なりの良い少年でした。

 

 

「あっ、じ、実はそうなんだ。とても親切な方にここまで連れて来てもらったのはええけど、オラ買取商ってのがどんな人かわかんなぐで、途方に暮れちまったでな」

 

「それならあそこの鳳明堂が一番ですよ。国営ですから統計局の相場通りの買取が望めます。案内してあげますよ良」

 

「はい、何様」

 

 

 ……もし彼らの正体を知っていたら尾蝉はまたしても腰を抜かしたことでしょう。

 

 この胡散臭い笑顔の少年の名は、この国に三人もいる副宰相の一人である蕭何その人であり。

 

 引き連れる従者の名も、彼が韓で見出した張宰相が一子・張良と、間違ってもこんな場所をウロチョロしていい人物ではありませんが……何しろ彼らの上役である鳳明からして頻繁にウロチョロしているのです。

 

 

 よって、蕭何らとエンカウントした開封の市民は誰も気に留めず、尾蝉が渾身の顔芸を披露することになったのも、彼らの案内で面談した商人に買取価格を告げられたときでした。

 

 

「おお、椎茸に留まらず、松茸まで持ち込んでくれるとは……ならば金袋にして六袋半の値を付けようではないか」

 

「アイヤッ!! こ、こんなに……!?」

 

 

 この時、尾蝉の前に積まれたのは目も眩むような大金でした。

 

 彼個人の金銭感覚と照らし合わせても、人口わずか三十人のあまり裕福でない村が過去に取引した事例から見ても……。

 

 

「あ、ありがたい事だけんど、オラみたいな貧乏人がこんな大金を持ち歩いたら速攻で奪われて、オラ自身も開封の土に還っちまうんじゃねえかな……?」

 

「あはは、この街にそんな不届者はいませんよ。もし心配なら僕が責任を持って管理しますが……尾蝉さんはそのお金で何か買って帰るおつもりですか?」

 

「じ、実は近くの村が開封の農具を手に入れて、それがあまりに見事なもんだから、オラ達も欲しいなって……」

 

「わかりました。開封式の農具一式を梱包して倉庫に保管しておきます。……こちらの札をお持ちください。それを港の衛兵に見せれば伝わるように手配しておきます。それまでこちらのお金で開封をお楽しみください」

 

「あ、ありがてえんだども、縁もゆかりもないアンタに頼んじまってええもんだか? オラ、こう言ったらなんだが、さっきからずっと狐に摘まれてるみてえでよ……」

 

「ああ、その辺は気にしないでください。僕はこう見えてもこの国の副宰相ですから、皆さんのお役に立つのが仕事なもんで」

 

「え? 副宰相……?」

 

「ええ、この方は私ども韓の恩人にして、魏の前宰相・蕭阿様の御尊孫。蕭何様でございまして」

 

「アイエエエ!! 蕭何様? 蕭何様ナンデ!?」

 

 

 ウンウンと張良の肯定する買取商の姿に、そう叫ぶしかない尾蝉でした。

 

 

 ……この多くの出会いに恵まれた尾蝉の逸話は、しかし開封の繁栄ぶりを示すほんの一例に過ぎません。

 

 鳳明の提唱した水運事業は期待以上の実を結び、この開封を商人の拠点たらしめる成功を収めたのです。

 

 今や黄河とその支流群は中華の流通を根底から変化せしめ、斉趙魏韓の各国は末端の地方までその恩恵を受け取れるようになりました。

 

 

 これには鳳明の設計した商用の帆船が大型の氷室を搭載していたのも大きいでしょう。

 

 これにより、それまで沿岸の漁村や斉の王宮でしか食されていなかった海の幸が、新鮮なまま各国に輸送されたのも大きければ。

 

 なんの産物もない地方の寒村に、製氷というまったく新しい産業をもたらしたのも見逃せません。

 

 

 匈族との交易により、羊毛や各種伝統工芸も雁門を経由して次々と中華に入って来ています。

 

 玲麟が広めた開封の食文化も各国を魅了し、開封を訪れるためなら大枚を惜しまぬ富裕層を対象とした、ある種の観光業まで成立の兆しを見せつつあります。

 

 そうした開封の評判は今や中華を席巻しており、多くの移民まで生み出しています。

 

 

 ですが、それほどまでに他国の人間が入ってくると、どうしても治安の面が不安になるでしょう。

 

 鳳明の水運事業に関われなかった国々は、その秘訣を探らんとこぞって間者たちを送り込んできましたし、それがなくても開封の新しい商習慣に馴染みのない者や、粗暴な移民が増えれば治安が悪化するのは当然ですが……その点も抜かりありません。

 

 

 斉の王建王に自国の不備を指摘された信陵君が猛省し、帰国するや魏国全土の法整備と戸籍管理を厳格に推し進めたからです。

 

 これにより他国の間者達は魏人と偽ることが不可能になり、他国の商人として開封の法に行動を縛られる結果となりました。

 

 

 開封に押し寄せた初期の移民達に、名だたる文士が大勢含まれていた点も幸運でした。

 

 率先して王宮に士官した彼らは、鳳明の登用以降慢性的に不足していた文官達を質的にも量的にも拡充させ──その中にこの男が含まれていた事は、後の中華を決定付ける点においても特に重要でした。

 

 

 

「法政大臣ッ!! 開封周辺における土地売買を規制する新法の草案が出来上がりましたぞ!!」

 

「でかした! 草案は俺が宰相に届ける。貴様は信陵君の卓で行われている諜報活動防止法の議論に参加しろ!!」

 

「はい、李斯様ッ!!」

 

 

 李斯──史実においては始皇帝の覇業を大いに助け、これを達成した大宰相が魏の高官となった理由は、学友である韓非の進言にありました。

 

 

 荀子の下で韓非と同様に帝王学を学んだ李斯は卒業後に士官の道を探しましたが、秦の白起によって国土の半分を奪われた楚は必然的に人材が飽和状態にあり、師のネームバリュー以外は無名の新人である李斯の士官への道を閉ざしたのです。

 

 これに失望した李斯は祖国を棄て、韓の新鄭を訪れた際に韓非と対談──旧友の変貌ぶりに目を剥いたそうです。

 

 

『韓非! 吃音が治ったのか!?』

 

『うむ、今ではすっかりな』

 

『そうか、それならばお前が重用されるのも納得だ。お前ほどの男が吃音を理由に冷遇されるなど中華の損失も甚だしいからな』

 

『ふふ、嬉しい評価だが……お前まで出奔するとはな。今の楚はそんなに拙いか』

 

『ああ。あの旧態依然とした国は滅亡の途にあるが、俺まで殉じてやる義理はない。新天地を目指すつもりだが、お前はどの国が良いと思う』

 

『それならば魏国一択だな。私も開封の遷都に関わったが、あの国はかつての魏国とはまるで別の国だ……。ぜひ行くべきだな』

 

『……俺も開封の話は聞いているがそれほどか』

 

『うむ、あの国はいいぞ李斯よ。私はあの国で厭な思いをした事は一度もないし、その働きも正当に評価されてな。魏韓の連携も進み、私も今ではこの国の宰相だ。ぜひ行くべきだ』

 

『そうか、他ならぬお前が言うのだ……俺もこれを天命と思って魏に仕官してみよう』

 

 

 その時、嬉しそうに──本当に嬉しそうに微笑したとされる韓非の内心はわかりません。

 

 彼が、この有能極まるかつてのライバルを高く評価していたのは事実でしょう。革新的な開封の王宮こそが李斯に相応しい職場と思ったのも事実でしょう。

 

 ですが、かつて経験した地獄をこの旧友にも味わわせたいという、一抹の邪念は存在しなかったのでしょうか……?

 

 

 韓非の紹介で魏国の文官達に歓迎された李斯は、文字通り何度も血を吐きました。止むに止まれず寝たまま仕事する術も身につけました。

 

 ……しかし、それで終わらなかったのはさすが(・・・)です。

 

 李斯は文官達の仕事の仕方そのものを改革して大いに称賛されました。

 

 

『ありがとう! アンタのおかげで俺は三年ぶりに自宅に帰れた!!』

 

『俺なんか五年ぶりで、大きくなった娘におじさん誰って言われちまったが、とにかく李斯殿には感謝だ! 俺もこれからは仕事と家庭を両立させていくよ……』

 

 

 そう喜ぶ同僚達を李斯は本気で心配したそうですが、この働きが信陵君の目に留まったことで出世街道をひた走り、今では彼も大臣の顕職を与えられました。

 

 一時はあの地獄を知っていながら薦めた韓非を本気で恨めしく思ったこともある李斯ですが、彼もようやく面憎い学友に感謝する気持ちになれたことでしょう。

 

 

「──ところで鳳明の予定はどうなっている? 明日から例の都市を視察することは俺も知っているが、それまでこの宰相府に出てこない気か?」

 

「いえ、その件は私の口からは……」

 

 

 文官の仕事は宰相である鳳明の決裁がないと次に進まないものが多いので、そうした観点から鳳明の予定を確認する李斯でしたが……部下の反応はまるでこの国の禁忌に触れるが如き歯切れの悪さで、謹厳な法学者でもある彼としては嘆かざるを得ませんでした。

 

 

「……またか。この国はどこまで鳳明に甘いんだ?」

 

「はは、その点はご寛恕願いたいところだな。法政大臣殿」

 

 

 その深刻極まる嘆息に反応したのは若手官僚と議論する信陵君でした。

 

 彼は同じ卓を囲む文官達に小休止を告げてから、この気難しい法家の不満に向き合います。

 

 

「私も貴官の言いたいことは重々承知している。宰相の任にあるのならば宰相府に詰めるのは当然だが、あの子は綺丹公主の夫として安釐王の後継者として認められた太子でもあるし、今は王建王の妹である思涵殿を娶った直後の大事な時期だ。仕事より家庭を優先して悪い事はあるまいよ」

 

「……俺が言いたいのは、信陵君を始めとする魏の重鎮たちが揃って鳳明を甘やかしてる事だ。家庭の事は信陵君の言う通りであろう。書類の決済も信陵君と前宰相の代理署名で事足りる。だが鳳明が散歩感覚で開封の街まで出向くのを止めないのは何とする。如何に護衛体制に不備がなかろうと、これでは示しがつかんぞ?」

 

「それこそ勘弁してくれ。私たちは勿論、安邑出身の民は鳳明を幼児の頃から知っているのだ。あの子を独占することは、少なくとも私には出来ない相談だな」

 

「……鳳明ももう妃が二人もいるのだ。そろそろ子供扱いを止めてやった方が本人の為だと思うがな」

 

 

 その事は後世においても活発に議論されました。

 

 ある歴史学者は全土に厳格な法を施行しながら、呉鳳明という法の例外を認めたことを激しく非難しますが、ある歴史学者はその処置こそが稀代の改革者の柔軟な発想を擁護したと称賛します。

 

 その議論に関わる立場にない李斯は、その生涯において鳳明の特別扱いを問題視する立場を崩しませんでしたが、一方で魏人の抱く鳳明への感謝と崇敬の気持ちも理解できたので、この自他に厳しい男にしてはそこまで強硬にならなかったそうです。

 

 

「……とは言えだ。部下の多忙を他所に、上司が昼間から妻と戯れていると知られているのはやはり問題だ。信陵君におかれては、鳳明の私生活を安易に語ることなきように願いたいものだな」

 

「ああ、今後は貴官を煩わせないことを約束しよう」

 

 

 そう言って王宮内の機密保持に腐心する上官に釘を刺した李斯は、彼が批判の矛先を納めてくれたことに安堵するような信陵君が浮かべる笑みの意味に、最後まで気がつかなかったようです。

 

 鳳明が昼間から妻の上で励んでいるという李斯の見立ては間違っており、彼もまた魏国の権謀術数を一手に握る信陵君に踊らされる側にいたのでした。

 

 

 このとき鳳明はなんと、三人(・・)の美姫たちを連れて開封の港にいたのです──。

 

 

「ありがとうごぜえますだ! アンタ方のような立派な貴族様が、オラのような田舎者に勿体ねえ……!!」

 

「いえいえ、どうかお気になさらず。開封料理をお楽しみください」

 

 

 開封きっての料亭が立ち並ぶ一角で右往左往した尾禅は目も眩む思いでした。

 

 親切にも開封一の大衆食堂を教えてくれた鳳明自身も、その背後でにこやかに微笑む三人の少女たちも、一目でやんごとのない出自だとわかる気品がありながら、他国の農夫でしかない自分に勿体なくも声を掛けられ、その事を鼻にかける様子もなかった。

 

 なんて出来た御方々なんだ──何度も振り返って頭を下げる尾禅ですが、あの調子で料理の味がわかるのでしょうか。鳳明はちょっとだけ心配になりました。

 

 

 ……むろん他国人の尾禅は気付きませんでしたが、鳳明や彼の妹にあたる少女の姿を何度も見かけている開封市民です。一目で絶世の美姫さながらの少女たちの出自にも気付きましたが、お忍び中であることを察して知らん顔に徹しました。

 

 好意の視線すら向けることのないその徹底ぶりは、最後まで鳳明達の正体を他国の間者に悟らせませんでした。

 

 

「本当に素敵な街ですわね、鳳明様。今の方も、街の方々も、もちろん鳳明様自身も本当に素敵です」

 

「そう思ってくれるのかい、思涵」

 

「はい。今なら貴重な時間を割いてまで、この街を案内してくださった鳳明様のお気持ちがよく分かりますわ。民こそ愛せよは亡き父の教えを受けた兄がよく口にする言葉ですが、私は鳳明様がそれを実践なさるお姿を拝見して、ますます貴方様のことが好きになりましたもの……」

 

 

 うっとり新婚ほやほやの亭主を見つめる思涵の口元に浮かんだ艶やかな微笑に、珍しく照れた様子を見せる鳳明の姿にいま一人の少女──玲麟は焦燥を露わにしましたが、最後のすでに男の子を儲けている綺丹公主は余裕の構えです。

 

 

「……いいんですか? そんなに余裕ぶっていると、そのうち思涵様に子供の数で負けてるなんてことにもなりかねないですよ、綺丹様も」

 

「その心配はないわよ、玲麟。明日から私と思涵様は同じ褥を使うことになっているの。だからきっと鳳明様は、私たちを公平にご寵愛くださるわ……もちろん貴女も一緒にね。玲麟」

 

 

 鳳明の正妻である綺丹公主の采配に、カアッと耳まで赤くなる玲麟。

 

 

「……なんか自分で言い出したことですけど、今になって怖くなってきました。建さんも近親婚は生まれる子を呪うって言ってましたし、本当にこんな幸せでいいのかなって」

 

「ええ、貴女の名目上の立場は側仕えの侍女。私もこの秘密は墓場まで持っていくつもりだし、鳳明様もきっと最後の一線は越えられないでしょう。でも貴女が産めないなら、そのぶん私と思涵様が鳳明様の御子を産むわ。そして私たちが産んだ子供は貴女の子供でもある。頼りにしているわよ玲麟。色々とね……」

 

「はい、綺丹様」

 

 

 二人が満面の笑顔で内緒話をしていることに気付いたのでしょう。二人目ならぬ三人目の妻を連れて戻ってた鳳明が気楽な様子で尋ねます。

 

 

「随分と楽しそうだね。玲麟は綺丹と何を話してたんだい?」

 

「ふふふ、玲麟は明日からの夜が気になるようで、あちらの逢引き茶屋で予行演習がしたいようですわよ旦那様」

 

「えっ、それはさすがにまずいよ。玲麟だってみんなに漏らさないって約束しただろ?」

 

「ち、違います兄様……今のは冗談です。まな板の上の鯛をわたしに見立てた、綺丹公主の悪質な冗談です」

 

 

 このとき呉鳳明15歳。呉玲麟14歳。綺丹公主16歳。田思涵17歳。

 

 図らずもこの時代ならではの一夫多妻制を営むことになった鳳明ですが、彼がその気苦労を他人に漏らしたという手記は現代まで発見されておりません。

 

 

「ま、まぁ玲麟も綺丹の付き人なんだし、見てただけってコトにしておけばギリ行けるかな……?」

 

「えっ!? ちょっと兄様、冗談ですよね……」

 

 

 なお鳳明が現代から持ち込んだ床の技は凄まじいもので、二人の妻たちはその被害を代わりに引き受ける者が他にいたことに感謝せぬ夜はなかったという、中々に壮絶な手記も残すことになるのでした……。

 

 

 

 

 

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