天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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幕間『長平の虐殺』

 

 

 

 最終的に秦軍60万と、趙軍57万、魏軍8万が激突したとされる、史に名高き長平の戦い。

 

 彼らは何故、これほどの大軍を動員してまで争ったのか。

 

 その理由は、過去に韓より分離した上党郡と呼ばれる地域の領有権問題にありました。

 

 

 この上党一帯がまだ韓の一部だった時代──彼の国は瓢箪(ひょうたん)のように、広大な南北の領土を狭隘な中央部が接合する、ひどく歪な国土を形成していました。

 

 

 ……その脆弱性を見逃すような秦ではありません。

 

 秦の宰相である范雎は、昭王にくびれ(・・・)の要地である野王の城を攻撃するように進言。昭王は嬉々として軍令を発したとされます。

 

 

 もちろん韓も野王の城が自国の生命線であることは理解しており、必至の防戦を展開しましたが……秦の大軍を率いるのが白起将軍ではどうにもなりません。

 

 大敗した韓は野王の城を奪われ、韓北の上党郡は孤立しました。

 

 これを受け、韓はこれ以上の抵抗を断念。秦に野王以北を差し出す和議を提案しましたが、韓王政府に見捨てられた上党一帯の民は憤慨しました。

 

 

 特に上党の太守であった靳黈という人物は、「水を汲むしか能のない男でも桶はなくさない」と吐き捨て──野蛮な侵略者である秦の支配に不安を覚える民の懇願を聞き入れ、かつての同胞である趙に帰順することを選択。ただちに使者を趙の王都・邯鄲に派遣したそうです。

 

 

 ……こうして降って湧いた上党郡の領有権問題に、趙国王政府の議論は紛糾しました。

 

 戦国四君の一人である平原君が「何もせず大領を得る機会を棒に振ってどうするか」と積極論を唱えれば、同じく趙の重臣である平陽君が「ここで割り込んでも秦の怒りを買うだけではないか」と慎重論を唱えましたが……。

 

 

「藺相如よ。そなたの存念を聞かせてくれ」

 

「ではお答えします。平原君の積極論、平陽君の慎重論、どちらも今回の本質を捉えているとは申せませぬ。

 よくお考えください……これが上党の太守・靳黈の保身から出た話ならば、趙を戦火に巻き込もうとする彼奴の首を獲るのも一興でありましょう。しかしながら今回の嘆願は、上党一帯の民から出たもの。秦の支配を許したら何をされるか分からない。だから趙に守ってほしいと、そう願う民の間から出た話なのです。

 ならば秦の昭王に口実を与えることを恐れるあまり、これを見捨てるはあまりに情けない。もはや上党の民を見捨てるは、趙国全土の民を見捨てるのに等しいことを、まずはご理解いただきたい」

 

 

 恵文王の下問に応じた藺相如の言葉に、新たな権益に目が眩みつつあった平原君と、秦国を過剰に恐れた平陽君は襟を正したとされます。

 

 

「そして、これが趙の地を侵す秦にどう対処するかという話ならば答えは簡単です。

 仮に寸土であろうとも、秦にくれてやる領土はありません。趙の国と民は私と廉頗将軍がお守りいたします。

 ……趙奢が病に倒れたのは残念ですが、代わりの男には目処がついています。個人的に一発殴りたい男ですが、奴を北の地で浪費することもありますまい」

 

 

 かくして、上党郡の編入を閣議決定した趙国王政府は、予想される秦軍の侵攻に備えることになりましたが……なんと秦の昭王はこの問題を数年も放置してしまいました。

 

 

 むろん昭王も、この問題を解決するために幾つかの手を打ちました。

 

 結果として約束を反故にした韓には、報復のために王齕の大軍を派遣しましたし、上党と国境を隣接する魏には胡傷を派遣して、趙に援軍を送れないように計らいました。

 

 しかし予想に反して30万もの大軍を用意した韓に王齕は苦戦して、胡傷も魏の反撃に敗れてしまったのです。

 

 

 ……もはや上党一帯は手に入ったものと楽観して、白起を司馬錯とともに楚へ差し向けていたのも痛手でした。

 

 思わぬ油断が趙の先手を許し、上党一帯に廉頗の大軍が展開されてしまったからには、残る王騎と摎の連合軍だけでは短期間での制圧は望めません。

 

 そして、何より呉鳳明の名が中華に轟くたびに、飛躍的に国力を高める魏の出方が分からなかったのも、秦の昭王を慎重にさせました。

 

 

 ですが、どうやら見極めの時期は終わったようです……。

 

 

 

 

 

「クフ、クフフ……この咸陽にそなたら六将全員が集うのはいつ以来かのォ」

 

 

 昭王の言うように、秦の朝廷には他国を震え上がらせる暴虐の化身が集いに集っていました。

 

 

 第一将・白起。戦場にて屠った敵は100万に達し、陥落せしめた城は200を数えるという紛れもない秦の名将。

 

 第二将・司馬錯。瞬く間に蜀の地を平定して長江の上流を抑え、白起とともに楚を屈服せしめた秦の驍将。

 

 第三将・王騎。戦場においては堂々たる振る舞いと先を見据えた戦略を好み、征服した地においては如何なる狼藉も赦さない秦の勇将。

 

 第四将・胡傷。軍略のみで諸国の軍勢を圧倒する、合理徹底の兵法と奇抜な計略を併せ持つ秦の知将。

 

 第五将・王齕。正面切っての激突ならば六将最強とも謳われる、豪快無比の秦の猛将。

 

 第六将・摎。自軍の将兵から崇拝に近い士気を捧げられ、苛烈なまでの多重攻撃を得意とする秦の麗将。

 

 そして秦国宰相・范雎。昭王の腹心にして、各国に派遣した間者を束ねて中華統一の絵面を描く秦の智囊。

 

 

 それら全員をグルリと見渡した昭王は、御前の盤面に投じた駒を動かしながら長平の戦況を説明しました。

 

 

「そなたらも聞き及んでいようが、どうやら趙国は廉頗めを全面に押し立てて、何年でもこの戦いを継続するつもりのようだ。

 すでに上党一帯を掌握して、長平に砦を築いた廉頗の軍は40万を超えるとのことだが、ここに来て邯鄲にまたひとつ大きな動きがあった。

 魏の呉鳳明が匈奴と交易を始めたが故に無用になった、雁門の長官を務めておった李牧なる男を呼び戻し、新たに10数万の軍を与えて長平に差し向けたというのじゃ。

 クフフ、まったくもって強気なものじゃのォ……」

 

 

 ほう、という感嘆の息が六将達からこぼれました。

 

 大軍を指揮統率するのは武人の本懐であり、敵ながらその規模の雄大さには感心せざるをえない方々です。

 

 

「贅沢な話ね。それだけの兵を前線に張り付かせたら農耕が打撃を被りそうなものなのに、今の趙にはそれだけの余裕があるのかしら。それとも魏の真似をして完全な兵農分離を?」

 

「いや、それはない。アレは鳳明の農政改革により農耕の効率化と収穫の倍増……そしてその豊かさに惹かれた移民の大量流入と、信陵君が戸籍管理を徹底してようやく手が届いた代物だ。

 しかもそれだけの要因に恵まれてなお、新たに再編された魏の正規軍は20万程度よ。いかな藺相如が辣腕を振るおうとも、60万に届かんとする専業兵など用意できるものではない」

 

 

 摎の疑問に答えた昭王に、傍らの范雎も深く同意しました。

 

 

「いずれにしろ何かと余裕のある今の魏国とて、長平に差し向けることが可能な兵は10万には届くまい。最大70万。それが長平にて相対する敵軍の最大数だ」

 

「……趙の窮状を見かねた信陵君あたりが合従軍を興す可能性はありませんかァ? あの御仁ならば声望もありますし、趙を見捨てれば明日は我が身と理解しそうなものなんですけどねェ」

 

「それもない、合従軍の芽は儂が潰した。韓には楚軍総大将・項燕の追い落としを狙う汗明という男をけしかけ、開封の水運事業に関われなかった燕には臨淄への南下を唆してな。魏もこちらの動向がわからぬ限りは全軍を差し向けることは適うまい」

 

「そォですか……私は別に100万でも構わなかったんですがねェ」

 

 

 王騎は戦争にこの手の不純物(・・・)が混入することを好みませんが、参戦可能国を制限する范雎の采配はまだ許容範囲にありました。

 

 それ以上の質疑応答が出なかったことから、盤上の駒を整えた昭王が六将達に最終的な指針を通達しました。

 

 

「よいな? そなたらも承知しておろうが、これは上党一帯の領有権をめぐる小競り合いなどではない。これは秦と趙の決戦よ。

 所詮は上党など、趙の全軍を誘い込む餌に過ぎず、奴等はその罠を見抜けなんだ。ならば目指すは趙全軍の殲滅、もしくは降伏のみ──王騎よ」

 

「ハイ、昭王」

 

「おそらく廉頗はこのまま砦に籠って、容易に軍を進めることはあるまい」

 

「ハイ、私もそう思います」

 

「数において大きく優りながらそれを選べるのが廉頗の手強いところだが、そなたは摎とともに現有戦力でこれと相対しろ。いずれ趙魏両国から援軍が到着せしときは、胡傷と王齕を援軍に差し向けるが、その数は最大でも15万だ。

 これは魏・韓・楚の守りに就かせておる蒙驁・張唐・麃公らの軍から兵を動かせぬのもあるが、あえて劣勢を維持するのが目的だ。……無論そなたなら、何故そうするのか解るな?」

 

「ハイ。あえて少数に留めることで、包囲殲滅の誘惑をチラつかせるためでしょう」

 

「さすがよ。そうして作り上げたこの最終局面で、白起と司馬錯を投入するが……」

 

 

 そこで言葉を切り、司馬錯を見やった昭王の落ち窪んだ眼窩には、言葉にならない寂寥の念が滲み出ていました。

 

 

「すまんの、司馬錯。そなたの老体をまたしても鞭打つことになった。どうやら儂はそなたを戦場以外で死なせることが出来ぬようじゃ」

 

「なんの、なんの。最後に一花咲かせていただき光栄にござる。死地への旅が廉頗との決着をつけての事ならば、これに勝る冥土話はございますまい」

 

「……うむ。頼りにしておるぞ」

 

 

 軍議はその言葉で終いとなりました。

 

 

 高齢の司馬錯に残された時間が残り少ないならば、それは六将たちが忠義を捧げる昭王とて同じこと。無駄にしていい時間はどこにもありませんでした。

 

 速やかに一礼した秦国六大将軍は与えられた役割をまっとうする為、それぞれの死地へ向かって旅立ったのでした……。

 

 

 

 

 

「長平の廉頗将軍から伝令です。俺達はこのまま北の高台に布陣して、敵の秦軍を半包囲下におけってコトらしいです。……あと『儂らの足を引っ張るなよ、小僧ォ』とも言ってましたね」

 

「そうですか、ご苦労様です。使者の方には謹んで拝命したと伝えてください」

 

 

 傅抵があえて余計なことまで報告したというのに、邯鄲の朝廷に呼ばれてからの李牧はずっとこの調子でした。

 

 大軍の指揮官に任命されたというのにどこか覇気がなく、その顔色も冴えないまま……。

 

 

「何がそんなに気に入らないんです? あのおっかない廉頗将軍の下でコキ使われるんじゃなくて、独立遊軍として好きに動けって言われてるんじゃないスか。まさか雁門から呼び出されたせいで、四六時中カイネとイチャつけなくなったからって拗ねてるワケじゃないですよね?」

 

「おい傅抵ッ!! あまり余計なコトまで言うな──!!」

 

 

 傅抵の言葉を皮切りに、露骨にニヤニヤする雁門の男たち。

 

 その様子にクスリと、久しぶりに微笑を誘われた李牧は穏やかに否定しました。

 

 

「いえ、不満はありませんよ。趙国王政府……藺相如の采配にも、廉頗将軍の配慮にも、もちろんカイネにもね」

 

「……李牧様まで」

 

「でも気に入らない事があるからさっきまであんな顔をしてたんスよね?」

 

 

 李牧の言葉にカイネは赤面するのみでしたが、傅抵の追求はなかなかに鋭いものでした。

 

 

「ええ、気に入りませんね、秦軍の動きが。多数の敵が籠城する趙軍に無意味な攻撃を続ける王騎と摎もそうですが、この戦況を何ら改善しようとしない昭王がひどく気に入りません。

 無能を装うにも限度がある。裏で何を企んでいる……」

 

 

 それは気性の穏やかな李牧のものとは思えないほど強い言葉でした。

 

 カイネと傅抵は思わず顔を見合わせてしまいます。

 

 

「無能って言いますけど、王騎と摎の攻撃には廉頗将軍も手を焼いてるって話でしたし、秦の増援も近づいてるって話じゃないスか。たしかに王齕と胡傷の連合軍15万が、明日にでも長平に到着するって」

 

「秦の六大将軍が四人も……」

 

「ええ、だからこそ無能に過ぎると言っているのです。戦争の自由を許された彼らが、何を凡百の将軍たちみたいな動きを──」

 

 

 ここまで来ると、まだ一般兵に過ぎない傅抵には李牧の言わんとするところが理解できなかったのか、彼は視線をやったカイネが全力で頭を振るのをもって沈黙してしまいました。

 

 そんな側近たちの姿を目にした李牧は小さく息をすると、言葉を噛み砕いて説明しました。

 

 

「私に限らず朝廷の命を受けた将軍たちには、大抵の場合“戦略の自由”はありません。今回のように急行を命じられた戦場に赴き、練り上げた戦術を披露するしかありませんが……」

 

「……秦の六将たちは違うと?」

 

「ええ、カイネ。昭王に“戦争の自由”を認められた秦の六将には巨大な裁量権があります。

 誰が、どの国を攻めるかだけは、秦国王政府の命令に従うしかありませんが──どの都市をどう攻めるかはもちろん、より有利な戦場を選択するためならば、交戦を放棄して撤退するのも自由ですし、なんなら“戦争しない自由”すら認められているのですよ?

 今の戦況は、独自の軍を編成して、行軍と交戦の自由──趙国王政府の信任が厚い廉頗将軍にすら許されない大権を与えられて、戦略すら意のままに出来る王騎ら秦六将が、戦術しか振るえない将軍のように振る舞っている結果なのです。疑わしいと思うべきでしょう」

 

「『……………………』」

 

「この際はっきりと言ってしまいますが、この長平の戦いは上党一帯を餌にして趙の全軍を呼び寄せ、白起ら六将の全軍をもって殲滅させるために仕掛けた昭王の罠ではないかと、私は疑っています」

 

「いや、それは──」

 

「ないと言い切れますか、傅抵」

 

「……さすがに数が足りないでしょうよ。廉頗将軍の籠る砦だけなら、秦の六将で包囲して兵糧切れを狙えるかもしれませんが、今は俺達も北の高台に布陣しちゃいましたし、聞いた話じゃ魏のお偉い鳳明様も、5万の精鋭を黄河経由で送ってくれるって話じゃないですか。

 そうなったらますます戦場は広くなりますから、いくら六将が全員揃ったって、そこまで大きく出られるはずが……」

 

「そうですね。廉頗将軍が私たちをあえて手元に置かなかったのも、秦軍の迂回や包囲に対処させるためでしょうが……それでも嫌な予感がします。全軍に秦軍の挑発に乗らないよう徹底させねばなりません」

 

 

 驚くべきことに、このときの李牧はその優れた知性だけで昭王の計画を半ば看破していました。

 

 ですが、さすがの彼も具体的な“手段”までは特定できず、秦軍の攻勢をいなしながらその瞬間を待つことしか出来ませんでした。

 

 

 そしてこの翌日に王齕と胡傷の援軍が到着。

 

 総勢40万となった秦軍は数と地形の不利を物ともせず、総勢57万の趙軍に襲い掛かりましたが、その攻勢もさらに2日後の昼に魏の船団が長平の南に現れるまででした。

 

 魏軍副司令・霊鳳を総大将とするこの軍勢には、第四席の凱孟将軍率いる5000の鉄鋼騎兵団と、8000の鉄鋼歩兵団が含まれており、これに対処した胡傷の軍は規格外の装甲に手を焼きました。

 

 

「たぁ〜のぉ〜しぃいいいッッ」

 

「なっ、なんだこの化け物どもは!?」

 

「ええいっ、槍も弓もまるで歯が立たんぞ!!」

 

「……凱孟め。あまり突出するなと言い含めたのにこれか」

 

 

 この日だけで20000の損害を出した胡傷軍は後退を強いられ、長平派遣軍総大将の霊鳳は追撃する凱孟将軍を呼び戻すのに苦労したそうです。

 

 李牧の布陣する高台を攻撃した王齕の軍も、巧緻を凝らした防御を突破できずに撤退を余儀なくされ、王騎と摎の連合軍も、敵中で孤立することを避けるためこれに同調……秦軍の戦線は今日だけで3里(約12km)も後退したそうです。

 

 

 ……その日の夜、顔面をボコボコに腫らした凱孟を連れて趙軍本陣の軍議に参加した霊鳳は、追撃を禁止した廉頗の決断を支持したそうです。

 

 

「俺も趙軍の方針に賛同する。今さら白起や司馬錯が参戦してもどうにもならん。専守防衛に徹する廉頗将軍を臆病者と誹謗中傷する声が邯鄲にあるそうだが、どうせそんなものは趙軍の総大将を愚将にすげ替えんとする秦の策謀であろうし、不届者は藺相如に更迭されたそうだ。気に病むことはない」

 

「……なんじゃオマエ。儂のことを慰めとるつもりか? 青白くて生っちょろいツラをしとるクセに案外いい奴だな」

 

 

 廉頗も開戦以来の鬱憤が晴れたかのように呵々大笑し、無謀な攻撃が命じられなかったことに李牧も安堵したようでした。

 

 

 ……ここまでの趙魏連合軍に失策と呼べるものはありませんでした。

 

 数的な優位に恵まれながらも、一人でも多くの趙兵を故郷に帰すために辛抱強い防戦を選択した廉頗の英断が、これまでの戦況に正しく反映された形です。

 

 

 それでも……。

 

 それでも、彼らは……ここから壊滅的な被害に見舞われてしまうのです。

 

 

 

 

 

 ──端的に表現すると、白起将軍の視野(しや)は他の将軍たちとは決定的に異なっていました。

 

 

 その権限の大きさから、他の六代将軍が格別に広い視野を持っていたのは事実です。

 

 おそらくは、その信任の厚さから全軍を託された廉頗に匹敵するほどに……。

 

 

 しかしそんな彼らをもってしても、最終的に目指すのは、手持ちの戦力で敵軍を撃破することでした。

 

 如何にしてより効率的に勝利し、与えられた目的を達成するか……それこそが将たる者の本懐だからです。

 

 

 ……だから彼らには最期まで白起という将軍が理解できませんでした。

 

 白起が見据えるのは中華全土であり、それを統一する障害を排除するのに武力を行使するのは、他により効率的な手段がない時のみ。

 

 そんな白起の軍事思想を理解してきたのは、彼の先輩である司馬錯だけでした……。

 

 

「……司馬錯はどうした?」

 

「亡くなりました。工兵を率いての陣頭指揮の最中に倒れて……見事な最期でした」

 

「そうか。惜しい男を亡くしたな」

 

 

 長平のはるか北西で戦友の訃報に触れた白起は黙祷し、やがてゆっとりと目蓋を上げると使者を質しました。

 

 

「して、手筈は?」

 

「はい、すべての工事が完了しました」

 

「わかった。計画の実行は明後日の早朝だ。王騎らには現在の丘陵を下るなと伝えよ」

 

「ハハッ」

 

 

 かつて長江の上流より楚に侵攻した白起は、氾濫のたびに流れを変える大河の脆弱性を知り尽くしていました。

 

 故に全幅の信頼を寄せる司馬錯とともに、黄河の上流を測量してその計画を実行したのでした。

 

 

 

 

 

 その早朝に現れた長平の異変は、ただちに起床した廉頗の知るところとなりました。

 

 

「──何事だッ!?」

 

「こっ、洪水です!! 土砂や岩石の混じった濁流が、この砦に押し寄せてきます……!!」

 

 

 物見の報告に、しかし廉頗はニヤリと笑いました。

 

 

「フンッ、何を仕掛けてくると思ったら、またしても水計とは白起も芸のない」

 

 

 これは負け惜しみではありません。白起が楚の王都・郢を攻めた際に、長江の水を引き込んで陥したことを李牧の報告から知っていたからです。

 

 

「この砦は長平の古城を何年も掛けて改修した堅牢なものよ。人為的な水害など恐れるに能わんぬ! 兵らに城門を土嚢で封鎖させよッ!! 水はいずれ引くし、城内の兵糧も潤沢。城外の兵も地理的に優位な山間部を占拠しておる。包囲の恐れは無い──にも拘らず狼狽するようでは趙軍は末代まで笑い物になるぞ!?」

 

 

 場内に響き渡る廉頗の声に、やがて冷静さを取り戻した将兵の笑い声が唱和しました。

 

 

 

 

 

「李牧様、洪水です! これより先は危険にございます!!」

 

「やはり、こう来ましたか……」

 

 

 白起の手管を知る李牧にとって、この事態は予想の範疇にありました。

 

 だからこそ廉頗に警告して、彼自身もこれに呼応する秦軍への対処に備えていました。

 

 

 ……しかし、だからこそ腑に落ちませんでした。

 

 今の両軍の配置状況で、水計が決定打とならないことを白起が見落とすはずがありません。

 

 故に李牧の思考は、まだ何かあると秦軍の布陣する丘陵地帯に向けられましたが……。

 

 

「そんな……李牧様、アレを……」

 

「──白起?」

 

 

 甲斐甲斐しく李牧の傍らに控えるカイネが発見したのは舟でした。

 

 ただし、それはただの船ではありませんでした。煌々と燃え盛る無数の船だったのです。

 

 大量の油を積んだ船は横転し、内容物を濁流の上に撒き散らしながらも長平の砦に押し寄せたのでした。

 

 

「白起……オマエは勝つ為ならここまで手段を選ばないのかッ!?」

 

 

 油は水と混ざらず、そして比重も軽いため瞬く間に濁流を炎で包みました。

 

 燃え盛る船は堅牢な城壁に弾かれましたが、そのとき生じた飛沫から城内を守り抜くのは不可能でした。

 

 

「ひッ、ヒィイイイ!!」

 

「ギャー!! 誰か消してくれェ……!!」

 

 

 着火した夥しいほどの油が降り注いだとき、可燃物はそこかしこに存在しました。

 

 引火に次ぐ引火は、将校らに城門を破壊して黄河の水を引き込むことを検討させるほどでした。

 

 

「……白起ッ!!」

 

 

 あまりの地獄絵図に、憤怒の形相となった廉頗の奥歯が砕ける音が聞こえました。

 

 

 そして濁流と火災に続いて真の災厄が迫りつつありました。

 

 長平の北西より朝日を浴びて現れたるは、白起と旧司馬錯の連合軍およそ20万──彼らは李牧軍およそ12万を敵と定め、一気呵成に進軍してきました。

 

 

 

 

 

 その光景を王騎は魂を焦がすような怒りをもって眺めていました。

 

 

「白起サン……やはり貴方は私と合いませんねェ」

 

 

 これは単なる価値観の問題ではありません。王騎は廉頗と趙軍に深い敬意を感じていました。

 

 目の前の強敵にどう勝つか。それこそに没頭する勇将だからこそ、堂々たる強敵を虫ケラのように踏み潰す白起が許せなかったのです。

 

 

「王騎様」

 

「……殿」

 

 

 そんな王騎に寄り添う摎と騰も同じ思いです。

 

 命のやり取りは戦場の慣わし。今さら人の道など語る資格はないが、これは違う。

 

 これでは、ただの虐殺だ──。

 

 

「何をしておる王騎、摎」

 

 

 そこに現れたもう二人の六将たち──王齕と胡傷は、未だに軍を動かさぬ王騎と摎を非難するようでした。

 

 

「ただちに軍を動かして、魏軍の本陣を陥せ。しかる後に趙軍の退路を絶って完全に殲滅するぞ」

 

「もう勝敗はつきましたよォ? それでもさらなる虐殺を望むのは何の為ですか?」

 

「昭王の為だ。ここで趙軍を徹底的に叩けば、邯鄲を陥すのに三月も掛からぬ。そして趙さえ滅ぼせば他国など物の数ではない。二年、いや一年で中華統一を成し遂げれば昭王の夢が叶うのだ。今さらこんな簡単な道理を吐かせるでないわ。

 わかったらさっさと動け。前衛の貴様らが動かねば我等も動けんのだ。さっさとしろ」

 

「なるほど、なるほど……ならば私は梃子でも動きませんよォ?」

 

「何?」

 

「わかりませんか? 私はッ、昭王に認められた“戦争しない自由”を、今こそ行使すると申し上げているんですよ胡傷サン」

 

「王騎、貴様裏切る気か?」

 

「裏切る? これ異なことを……胡傷サン。王齕サンはさておき、貴方は白起サンの計略の全貌を知っていましたね? 知っていて私に教えなかったのは、教えたら協力を拒否すると思ったからじゃないですかァ?」

 

「────」

 

「これほどの不義理を重ねられた挙句、同格の六将ごとき(・・・・・)にあれこれ指図されるのは大変不愉快です。いつも笑顔を絶やさず聖人の如く穏やかな人格者の私にも、我慢の限界というものがありますよォ……?」

 

「……もういい、行くぞ王齕。王騎達など迂回すれば事足りる」

 

「おや、私との問答を一方的に打ち切って? ならば騰、録嗚未たちに伝えなさい。胡傷軍と王齕軍を行かせてはなりません。彼らの前に立ちはだかり続けなさいと」

 

「ハハッ」

 

「『貴様……』」

 

 

 まさに一触即発の対峙の中、王騎の左腕が傍らの摎によって何度も引かれました。

 

 

「なんです摎ォ? 巻き込んですみませんが、私も昭王の名誉のためにも引く訳には……」

 

「違うわ王騎様。それよりも、アレ……」

 

 

 ふと、摎の指差すものを視野におさめた王騎は彼らしくもなく絶句しました。

 

 王齕も、胡傷も、騰ですらそれを見た瞬間に思考が一時停止しました。

 

 

 それはあまりにも巨大な、城砦と見紛うほど巨大な帆船でしたが、ただの巨船ならば彼らもこれほどまでに動揺しませんでした。

 

 しかしその全体が黒一色の鋼板で覆われており、今や黄河に達する土石流を物ともせず長平の砦に迫っていると知れば話は別です。

 

 鋼鉄の帆船はやがて火元の小舟を粉砕し、燃え盛る業火に包まれても小揺るぎもせず、船上から不思議な粉末を振り撒いて周囲の消火を開始しました。

 

 

 誰もが、何が起こっているかわからない様子でした。

 

 例外は貴重な望遠鏡で船上を確認した霊鳳だけでした。

 

 

「やれやれ。あんなところに停めたら乗り捨てるしかなかろうに。あくまで人命救助が優先だというのか……鳳明らしいな」

 

「ンフッ、ンフフ……ンフフフフッッ」

 

 

 その視界を共有したわけではありませんが、王騎の頭脳はこのとき誰よりも()に行きました。

 

 白起や李牧ですら全容を掴めぬ中で、王騎だけが事の真相に到達したのです。

 

 

「これが一目惚れですかねェ? さすがは魏の大聖君といったところですかァ……私が男に抱かれてもいいと思ったのは、貴方で二人目ですよ鳳明サン」

 

 

 その喜色満面の呟きに、船上の呉鳳明がくしゃみをしたという記録は残されていませんが、不思議と惹かれ合うものがあったようです。

 

 望遠鏡で周囲を一望した鳳明の動きが止まったとき、そのレンズは黒衣の将軍を捉えていたのです。

 

 

「うわっ、なんかメチャクチャ見られてる……なんだろう、目が合った途端に手を振ってきちゃって、まさかこの距離でこっちが見えてるとか? 見えてるのかなぁ……どうしよう。なんか投げキッスまでしてくるんだけど……?」

 

 

 これが史記に伝わる魏の太子・呉鳳明と、その父呉慶、ならびに信陵君と、秦六将の王騎と摎、そして王騎の副官騰が大いに語らったという『船上の会談』の始まりでした……。

 

 

 

 

 

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