……そろそろ投下しても大丈夫かな?
思いっきり長くなりそうなその後のお話。たぶん参か肆まであります。
上党一帯の領有権をめぐる秦趙の争いも、いよいよ佳境──。
より多くの軍を興し、数的優位を確保しながらも堅固な城砦に籠り、揺るぎない防戦を維持する趙国総大将・廉頗将軍の采配に感嘆した秦国は、密かに自軍の総大将を白起に変更。
そして前任者から報告された戦況を分析した白起は、純粋な軍事力による趙軍の排除は難しいと判断したのか、恐るべき計略を提案したと言われます。
それはなんと、黄河の流れそのものを変更して人為的な洪水を引き起こすに留まらず、煮えたぎった油を満載にした船団を趙軍の主力が籠る城砦にぶつけるというものでした。
ご存知のように、ひとたび火の点いた油は水を掛けても逆効果になりがちで、容易には鎮火しません。
また水より比重も軽いため、途中で船が転覆しても漏洩した油は洪水の上に炎の壁を広がるだけで、広範囲に被害をもたらすことでしょう。
事実、趙軍の本陣がある砦の城壁に衝突した船団は、白起将軍の目論見どおりの大量の油を飛散させました。
そう、城壁の向こうから降り注ぐ飛沫が冷たい水から高温の油に変わったのです。
このとき最悪だったのが、城砦内部が数十万の将兵の詰めかける過密状態にあったことと、夜間の照明として用意された多数の篝火が、まだ煌々と燃え盛っていた早朝の時間帯を狙われたことです。
廉頗将軍の腹心であった人物が残した手記によると、高温の油を浴びた兵士は少数に留まったそうですが、直後に篝火を薙ぎ倒した油が猛威を振いました。
なんの前触れもなく降り注いだ油は瞬く間に燃え広がり、城内は大変な混乱に見舞われたそうです。
周囲は洪水。内部は火災。この惨状を前に廉頗将軍は必死の消火活動を指揮したと言われますが、そのための手段は限られていました。
特に厄介だったのか火元の船団です。不幸にも濁流に流されることなく、西側の城壁に引っ掛かったままのこれらは、もはや手のつけられぬ火勢となって通常の消化活動を受け付けません。
そんな阿鼻叫喚の趙軍でしたが、真の災厄は夜明けとともに襲ってきました。
そう、遂に秦軍総大将の白起が20万の増援を率いて現れましたが、これに対処するのは洪水と火災で物理的に隔離された本陣の惨状に気を揉む、その他の将兵の仕事となります。
白起将軍も他には一切目もくれず、長平北部の山岳部を占拠する趙軍の別働隊を最後の障害と見なし、迷わず進撃──。
迎撃する趙軍別働隊の主将を務めるは、新たに趙国三大天の威名を授けられた守戦の名将・李牧。
指揮下の軍の中核を担うは、峻険なる雁門の地で戦い慣れた益荒男たち。
そしてその陣地は何重もの馬防柵に守られているだけではなく、より高地に配属された兵らの落とす巨岩や倒木にも注意を払わねばならない。
……これだけの優位を備えてなお、彼らは迫り来る秦軍に恐慌をきたし、壊滅の危機に瀕したのです。
「現刻をもって第一陣を破棄します! 弓兵は撤退する将兵の援護を急ぎなさい!!」
「ハハッ」
李牧の適切な指揮も敵軍をわずかに押しとどめる効果しかありません。
死をも厭わず進撃し、全身を矢や槍で貫かれながらも柵を破壊するその軍は、落石の下敷きになる戦友の姿にもまるで怯まないのです。
瞬く間に血と鋼鉄と肉と骨に埋もれる地獄に翻るのは、秦国六大将軍・司馬錯の軍旗。
しかし李牧がいくら目を凝らしても、その中から司馬錯本人の勇姿を見つけることはできませんでした。
率いる将の不在にも拘わらず、将兵らの異様な士気──その真相に気づいた李牧は唇を噛み締めました。
「そうか、司馬錯はもう……」
司馬錯の身に何事が生じたのかも、李牧には想像がつきました。
最古参の六将・司馬錯がかなりの高齢であることは有名な話です。
おそらく彼は、黄河の流れそのものを長平に引き込む大工事の際に、何らかの事故に巻き込まれたか、あるいは長期の陣頭指揮に身体が耐えられなかったか──いずれにしろこの戦いの前に斃れたのだろう。
……だからこそ司馬錯の軍はここまでの猛威を発揮している。
主将の死を華々しい勝利で飾らんと、全軍が死兵と化してしまったのだと……。
「……厄介ですね。こうも損害を度外視されては打てる策がありません」
「なら一度撤収しますか? 今なら賛成しますよ」
側近として戦況を俯瞰して、敗戦の気配を濃厚に感じ取った傅抵が縋るように進言しますが、李牧は黙って首を振りました。
「ご覧なさい傅抵。前衛を司馬錯の軍に任せた白起は、まさにその為に待機しているのですよ」
「……なんていうか厭な野郎ですね」
ここからでも白起将軍の能面のような無表情が確認できたのか、傅抵は内心の恐怖を誤魔化すように吐き捨てました。
その軍と矛を交えて生き延びた将兵がこの中華にどれほどいるか……戦場で100万の首を斬ったとも言われる白起将軍は、傅抵のような敵国の兵から見れば破壊と殺戮を司る悪神としか思えませんでした。
……事実、このとき白起の冷徹な思考は悪辣を極めていました。
自ら先鋒を志願した司馬錯の軍は、ここで全滅しても構わない。この軍はなかなかに巧緻な守りを得意とするようだが、さながら殉死のみを渇望する狂信の歩みは止められるものではあるまい。
仮に彼奴等が勝利しても無事では済まず、残敵の掃討は容易。ならば退路を狭めるのみよ──そのような思考の下、友軍すら駒のように扱い、李牧軍の潰走にこそ備える白起は、なるほど、たしかに悪辣でしょう。しかし、李牧も彼を責める立場にいるわけではありません。
李牧もまた敵軍の壊滅こそを目的として、いかに効率よく味方の人命を消費するかを検討する用兵家です。この考えられるかぎり最悪の盤面も彼の想定下にありました。
(少し勿体ないが、ここであの策を使うか……? いや、それで白起直轄の軍を混乱させたところで、眼前の脅威である司馬錯軍を退けるには……)
李牧が幾つかの致命的なリスクのある策を決断しかけたときの事です。
思考に没頭するあまり、彼がその異変に気付いたのは、副将の軍へ伝令に走ったカイネが大慌てで帰還してからでした。
「李牧様! 李牧様!! ふ、船が……見たこともない巨大な船が……って聞いてますか!?」
「──カイネ?」
「『カイネ?』じゃないですよ、もうっ……しっかりしてください。てっきり久しぶりの負け戦さに脳みそが焼きついたのかと思いましたよ」
「いえ、今回は挽回の芽が十分にありますよ、カイネ」
「それは頼もしいですね! それじゃあ、そんな頼もしい李牧様にお尋ねしますが……アレが何だかわかりますか?」
……ふと気がつくと、戦場の喧騒はどこか遠くへ消え去って。
目の前には腰を抜かした傅抵と、心配そうなカイネが指差す“何か”……。
「……ああ」
さすがの李牧もソレが何なのか、初見では判断がつかなかったようです。
つい数時間前までひび割れた長平の地を飲み込む洪水を逆走する巨船──そんなモノは彼の常識には存在しませんでした。
できれば永遠に理解したくない……そんな弱音を吐きたいのに、李牧の優れた頭脳はその事象をひとつひとつ分析し、実に嫌気のする回答を寄越してきたのです。
「アレは援軍ですね。ご覧なさい二人とも。軍旗に魏の文字と鳳の文字がありますよね。よってあの船は魏国軍籍、呉鳳明保有の船と見て間違いありません」
「……よりにもよって
李牧の解説により、巨船地を走るという怪現象に鳳明が関わっていると理解したカイネの物言いはなかなかに辛辣です。
別に嫌っているとか、恨んでいるというわけではないのですが、苦手意識があるのでしょう。
わざわざ助けに来てくれたことは評価するが、できれば二度と関わりたくなかった……そう言わんばかりのウンザリ顔に、こんな時でも死滅せずに残っていた李牧の茶目っ気が大いに刺激されました。
「いいじゃありませんか。どんな奇人変人が乗っていても援軍であることには変わりありませんし……実のところ私にもよく分かりませんが、火災の大元を迅速に処理して、城内の引火にも対処しているのは事実なんですから……それに、これは使えそうです」
「『使える?』」
頭上に疑問符を浮かべるカイネと傅抵でしたが、彼らはたちどころに理解することになります。
後に白起や廉頗に並ぶほどの将と目される李牧が、どれほど悪辣な思考をしているのかを──。
「聞きなさい李牧軍の将兵よ! ただいま我等の朋友である魏の大聖君が援軍に参った!!」
その声を耳にした将兵のざわめきが戦場に流れます。
「魏の大聖君……鳳明様のことだ」
「……俺たちの村を救ってくれた鳳明様があの船に?」
「まさか……こんな危険な戦場に鳳明様が……」
それは必ずしも歓喜には繋がらず、むしろその様子は誰が死んでもおかしくない戦場にやって来た鳳明を案じるようでした。
だからこそ李牧はその心理を踏まえ、さらなる一石を投じました。
「すでに城内の火災は大半が鎮火され、負傷者の救出も始まっています。すなわち、この長平における趙軍の危機は鳳明様の献身に救われたと言えます。ならば──今度は私達がお
雁門の地で貧しい農民と接する機会の多かった李牧は、鳳明が自国の民にも崇敬されていることを知っていました。
故にこの激は彼の想像を超える効果を発揮することになります。
「鳳明様が俺たちのために……チクショウ、なんて勿体ねえ……」
「うう、うぉおおおお鳳明様万歳!!」
司馬錯の軍勢に圧倒され、逃げ腰だった兵たちが武器を掲げて叫び──巨船の目的を見極めるために足を止めた敵に駆け出したのです。
「『ブルぁあああ!!』」
「なっ、此奴ら急に──」
今度は攻守逆転とまではいかないものの、両軍は一進一退の攻防を続け、李牧は崩壊した戦線を再構築する時間的猶予を得ることになりました。
「良し、すでに馬南慈の騎兵隊にはカイネを伝令として派遣しています。ただちに黄色の軍旗を掲げて後方を撹乱させなさい! 高峻の弓兵隊にも側方支援を! 決して司馬錯の軍に前だけを見させないように!!」
「ハ、ハハァ!!」
「それと各隊の突出を諌め、絶対防衛戦の第二陣を堅守するよう徹底を……おや、どうしました傅抵。体調が優れないなら奥の天幕で休んでいていいですよ」
「いや、俺の調子はそんなに悪くないんですけど……鳳明様を士気向上のダシにするなんて、李牧様って、意外と酷い性格しちゃいないッスか?」
「……そうですか?」
「そうですよ! 敵に狙われたら大変だとかあんな大声で言ったら……ほら、王騎軍が濁流越しにあのデカブツに近寄ってるじゃないスか!! これで鳳明様になんかあったら、あのおっかない相如様に責任を問われて、ブチ殺されても文句を言えないッスよ!?」
「いえ、そちらは位置的に廉頗将軍の管轄ですから私は知りませんよ」
「言い切った! やっぱりイイ性格してますね
李牧の割り切りのよすぎる言動に狂乱する傅抵を眺め、カイネは「なにを今さら」と小さなため息を漏らしました。
彼女は李牧を擁護する立場にも、傅抵を諌める立場にもありません。
何故なら彼女は用兵家と呼ばれる人種の本質的な残酷さを、李牧の側近を務める日々の中で学んでいたからです……。
「……傅抵もそれぐらいにしておけ。戦場からすべてを持ち帰れないことはお前も知ってるだろう。李牧様や廉頗将軍は部下を一人でも多く連れ帰るために尽力なさってるんだ。自分からノコノコと首を突っ込んできた間抜けをダシにするくらい大目に見ろ」
「そ、そうは言うがよ……」
ため息がてら一応の仲裁こそしましたが、鳳明に悪戯小僧の印象を持つカイネの言い草には隠しきれない棘が何本もありました。
本陣に詰める兵も気心の知れた雁門の仲間ばかりではありません。数名の将校が『小娘』の不敬を咎めるような顔をして、傅抵は密かに冷や汗をかきましたが……鳳明の突飛な介入に釈然としないカイネは止まりません。
「たくっ……毎回良い方に転がってばかりだから我慢しますがね。あのお偉い鳳明様の神がかった登場はなんです? まるで秦軍の計略を全部見抜いた上で、出番が来るのをすぐ近くで待っていたかのように乱入してきたじゃありませんか……」
「さあ? そればかりは何とも……ただ鳳明様は神農の生まれ変わりとも言われていますからね。もしかしたら本当に神のみぞ知る秘密があるのかもしれませんよ」
「……李牧様の言うように鳳明様が本当に神様だったら、不敬の咎で真っ先に天罰が降るのはカイネだよな。おまえホントにやめろよ……ここに居るのは雁門の仲間達だけじゃないんだ。おまえが鳳明様をコケにする都度、必死に誤魔化す俺の身にもなれよな」
「うっ……それは、その……悪かったな……」
カイネをやり込める傅抵に新鮮な驚きを覚えた李牧は微笑し、その一方でこの場で持ちあがったひとつの疑問に興味を覚えました。
魏の大聖君と讃えられようとも、鳳明とて人間……だというのに白起の計略が水と火の連環計であることを見抜き、洪水を逆流できる巨船と大量の消火剤まで用意した上で、これほどまでに最上の適時に駆けつけることができた理由は……。
……その疑問はもっともですが、実は後年になってもこの問題はなかなか究明されず、幾多の推測を呼ぶこととなりました。
まずこの問題を難しくしたのが残された手記の少なさと
ご存知のとおり長平の地は、秦軍の策略によって最終的に黄河の底に沈んでしまったからです。
そのため一般的に『鳳明の鉄甲船』と呼ばれる巨船に関する記述は、識者に古代中国史にありがちな誇大表現であると見なされていました。
……だからこそ近代になって黄河の河川工事が進み、長平の跡地から本艦が発掘されたときは大変な騒ぎになりました。
船体の主要素材は鋼鉄で、主動力に原始的ながら内燃機関まで備えていると判明したこの艦の全長は、船首水線下の衝角から船尾まで250メートルに達すると言われますが……これを目撃することとなった当時の将兵にとっては、まさに青天の霹靂であったことでしょう。
この点に関しては、長平攻略軍の副将でもあった秦の王騎将軍が手記を残しており、後に会談した呉鳳明の人柄ともども絶賛していますが、いま読み返しても大変な興奮が伝わってきます。
しかし敵の立場からこの艦を好意的にとらえたのは彼くらいのもので、その他の将兵にとっては、長平跡地を発掘した考古学者たちの「なぁにこれぇ……?」と大差ない心境だったでしょう。
この逸話はとても有名なので、NNNの大河ドラマ『鳳よ、麟よ、龍よ』の第22回で趙軍の危機に駆けつけたときは大いに盛り上がりましたが……一方で、なぜギリギリのタイミングで間に合ったのかという疑問の回答は、残念ながら次回に持ち越しとなりました。
今日はこの点を脚本を担当した歴史作家の南冲尋定さんにお聞きします。南冲さん、今日はよろしくお願いします。
『はい、よろしくお願いします。……ただ僕のことは、ちゃんと南冲尋定ってフルネームで呼んでいただけると有り難いですね』
これは失礼しました。
それで南冲尋定さん。鳳明がこうも的確なタイミングで長平の危機に駆けつけることができたのはなぜなんでしょう。
一部ネットでは、鳳明の鉄甲船があまりにオーパーツなのも含めて、ご都合主義とも言われておりますが……?
『これは率直に申し上げて演出の都合ですね。実は鳳明が開封の都を築きあげるに当たって、真っ先に警戒したのは敵国による人為的な洪水と、まさに白起将軍が長平でやったことなんですよ。
そのため彼は各地に観測所を設けて、黄河の水位や魏国周辺の雨量を定期的に報告させていたのですぐに気づいたんですよね』
なんと、それは驚きですね。
『ええ、しかも作中の李牧将軍が『今の戦況で長平を水攻めをしても決定打にならない』と言ってますが、実はこの点も見抜いていまして……氾濫して流れを変えた黄河を逆流できる艦を持ち出したのも、徹底した火災対策を施したのも、まさに鳳明の神算鬼謀の為せる業ですが……この話を時系列通りに作っちゃうと、世界史でも稀な名将である白起将軍の策謀が事前にバレてしまって、緊迫感が損なわれますからね。だから演出家と協議して、種明かしは次回に持ち越したわけなんですよ』
なるほど、そういった事情でしたか。
『まぁテレビだと演出の都合以外にも色々と制約がありますから、僕の執筆した原作小説との違いも出てきますよね。
例えば第四のヒロインとして僕もイチ推しの摎将軍なんですけど、彼女の濡れ場も丸ごとカットされてしまいまして、まったく嘆かわしい限りですよ。
あの野郎、他にも摎将軍のチャイナドレスが時代錯誤だのほざきやがって……。いいじゃないですか。仮面と甲冑姿じゃ彼女のエロさが伝わらないでしょう?
摎将軍はね、高名極まる魏の大聖君と会談するにあたって、泥に塗れた甲冑姿じゃ無礼になると、急いで身を清めて正装までしたって王騎将軍の手記が残ってるんですよ!?
それがあるからこそ摎将軍の人柄の良さとか、彼女の美貌に圧倒される鳳明の純な部分や、後に惹かれ合う両者の濡れ場が盛り上がって、まさになんちゅうエロさだって視聴者の熱狂に繋がるというのに、何が配慮だ馬鹿野郎が……!!』
ほ、本日は誠にありがとうございました。
NNNジャーナル。南冲尋定さんにお越しいただきました……。
次回は廉頗将軍の動きと会談前の王騎将軍の話になると思います。たぶん。