天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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無自覚な年上殺し・呉鳳明

 

 

 

 ──紙の発明。書の普及。

 

 これを最も喜んだのは各国の文官たちではありませんでした。

 

 

 むろん彼らも紙や書に初めて触れたときは歓喜しましたとも。

 

 もはや竹簡など過去の遺物。これで帳簿や戸籍の作成、史の編纂が捗るぞ、と。

 

 

 だがその歓喜も、彼らの上役が新たなる国の方針を伝えるまで。

 

 

「国庫に蓄えられたすべての竹簡を書に変換せよ。過去の記録を余すことなく書に転載するのだ」

 

 

 ……ああ、無情なるかな。

 

 魏国より数年遅れてやって来た地獄の底で苦しむことになった各国の文官たちは、紙の発明者たる呉鳳明に思うことこそあれ、感謝する立場にありませんでした。

 

 

 よって各地に紙の製造場が設けられ、お値ごろ価格となった紙を手にして喜んだのは、先述の地獄と無縁の立場にあった者たち……即ち、在野の文士たちになります。

 

 

 彼らも立場は様々ですが、自らの文才をもって世に名を示したいという野心は共通のものです。

 

 情熱のおもむくままに筆を()った文士たちは様々な書を世に残します。

 

 

 殷周易姓革命や、春秋各国の興亡にまつわる歴史書はもちろん、各国の政策を舌鋒鋭く批判するものまで。

 

 識字率の高い都市部で流通して、人々に読書の楽しみを教えた書物は人気を博し、多くの写本が作られましたが……中には写本がまったく追いつかず、奪い合いになるほど人気を博した物もあります。

 

 

 ──魏史鳳明伝。

 

 著者は蕭阿。魏国の前宰相であり、鳳明の名を世に知らしめてしまった(・・・・・・・・・)彼は、その責任から師であり教え子でもある少年の実像を残そうとしたようです。

 

 

 早すぎる母親との別離から始まる鳳明の苦難。佞臣たる家令に背かれ、日々の食にも困るようになった鳳明が小さな弟妹のために、知恵と勇気を振り絞って大地と格闘するところから始まったこの書物は、当時としては異例の物語仕立てで、これを目にした多くの人を感動させました。

 

 

 そして───。

 

 

「ンォフゥン。ご覧なさい騰ォお。よもや戯れに殲滅した野盗どもが念願の魏史鳳明伝を所有していようとは……これは運命というものを感じてしまいますねェええ?」

 

「ハッ。魏国で大人気の、殺してでも奪い取るというヤツですな」

 

 

 何の因果か、今や好事家のみならず魏人垂涎の書物はこの人物の手に渡ることになりました。

 

 

「ンフ、著者は蕭阿、と……この名が記載されているということは原本か、限りなくそれに近い写本ということになりますね。これは胸のトキメキがとまりませんね」

 

「ハッ、勃起ものですな」

 

 

 ……当時の彼は、あくまで敵を知るという立場でそれを求めていました。

 

 

「これは、なかなかに読ませますね……。しかし鳳明は何も恨まなかった。家に帰らぬ父も、佞臣たる家令も。彼はただ、あまりの困窮ぶりを見かねて芋を分けてくれた女に感謝し、それを空腹の弟妹に惜しまず与えた。彼がわずかな食い残しを畑に植えたのも、そのときの弟妹らの笑顔がまた見たいがためにこれを行った、と……なるほど。これが聖君とまで呼ばれる彼の原点ですか」

 

「……殿。そろそろお休みにならないとお身体に障りますぞ」

 

「そんなにヤワじゃありませんよ。騰もご覧なさい。健気な童子の奮闘ぶりを。土に塗れ、民の笑顔に触れたことが、彼の治世の出発点となったのですよォ」

 

 

 しかしその物語は次第に彼を魅了していきました。

 

 

「ところで昌文君、貴男(あなた)のツテはどうなりましたァ? 私は魏史鳳明伝の続刊が手元に届くのを、一日千秋の思いで待ち焦がれてるんですがねェ……?」

 

「ぬ? それなら先ほど届いたと聞いたが……オイッ、迷わず駆け出して儂の屋敷を荒らそうとするな!? せめて帰還するまで待て!!」

 

 

 それはさながら恋を知った少女のようであったと、彼の副官は言い残しました。

 

 

「遷都の話を知った鳳明は喜んだ。これでまた皆の笑顔が見れると喜んだのだ。だが、鳳明がそうなることを失念していた儂と信陵君にとって、これは明白な失敗であった。駆け出した鳳明にこの老耄が追いつけるはずもなく、途中で壮年の信陵君も振り切られて、短時間ではあったが鳳明を独りにしてしまったのである。安邑の地に他国の刺客がいなかったことなど、なんの慰めにもならないと……ンフフ、意外とヤンチャな面もあるのですねェ」

 

「王騎様、また鳳明様の伝記を読んでいるの……? なんだか妬けてくるわね。鳳明様って女の子みたいな顔をしてるって聞くし……まさか王騎様もそのつもりで?」

 

「それこそまさかです。私も彼を恋人にするつもりは……おや、ご覧なさい摎。貴女の機嫌が直りそうな話を見つけましたよォ」

 

「あら、どんな話かしら?」

 

「ンフフ、綺丹公主が近侍たちから鳳明の話を聞き出そうとせぬ日はなかった。過去の逸話だけではなく、特に親しい女性の立ち振る舞いをも聞き出そうとする綺丹公主に、近侍たちは困惑したのだ。なんせ、この時の鳳明はまだ成人前の童子も同然。関係のある女性などいるわけもなく、架空の恋敵を上回らんとする姫君に、近侍たちは努めて貞淑にと助言するしかなかったのである……なんとも可愛らしい姫君ですよねェ?」

 

「……そうね。その話を私に振ってくる王騎様には、是非ともこの機会に乙女心を学んでほしいものだわ」

 

 

 ……騰は知っています。王騎将軍が夢追い人だと。

 

 たとえ悪鬼羅刹と畏れられようとも、武力による統一をもって戦乱の世に終止符を打ち。

 

 この流血を最後に、決して崩れることのない王道楽土を中華に築きあげる。

 

 そんな昭王の夢に、王騎将軍は夢見たのだと……。

 

 

「白起サン……やはり貴方は私と合いませんねェ」

 

 

 だからこそ、王騎将軍は激怒したのです。

 

 これが赦されるのならば、黄河と長江の水源に毒を投じて。流域の住人、これ悉くを殺戮し尽くすことも許されるではないか、と。

 

 

 その批判は正しいものだと、騰には思えました。

 

 たしかに白起の計略の行き着く先はそこでしょう。

 

 故に、決して認めてはならない。

 

 騰もまた、その怒りを胸に覚えたのです。

 

 しかし、騰は決して見逃しませんでした。

 

 

 昭王がこの件にどこまで関与しているか、騰には判断がつきませんでしたが……王騎将軍にはひとつの矛盾がありました。

 

 平和のための流血を肯定するという看過できぬ矛盾に、英邁な王騎将軍が気付かぬはずがありません。

 

 

 すべては、後世の平和のため──そういって自分を騙し続けるのにも限界があります。

 

 何故なら王騎将軍は流血に依らず王道楽土を実現した人物を、すでに知っているからです。

 

 

 魏の大聖君・呉鳳明の築きたもうた王道楽土はまだ範囲こそ小さいものの、いずれ中華を席巻するだろう。

 

 何故なら交易で結びついた諸国間において、戦争は利にならない。

 

 塩や海産、木々や氷といった、自国にありふれた物を金に換えてくれる他国を減らす意味はない。

 

 よってこのまま行けば、中華の統一は遠からず呉鳳明の手で完遂される──騰の眼にはそうした未来が見えていたのです。

 

 

 だからあの巨船に翻る鳳の旗があることは、夢に敗れた王騎将軍の救いとなった。

 

 

 だから王騎将軍を、我が殿を行かせてならない。

 

 あの船上で呉鳳明と会ったが最後、我が殿は決してこの場所に戻っては来るまい。

 

 

「ご覧なさい騰。船上から小舟が降りてきますよォ。わざわざ迎えまで寄越してくれるとは至れり尽くせりですネェ」

 

「ハッ、感謝感激です」

 

 

 そこまで読んでいたというのに、騰の口から王騎将軍を諌める言葉は出てきませんでした。

 

 

 王騎将軍と同じ目線を持つ騰の望みは主君と同一。翻意を促すことは決してありませんでした。

 

 

「本当に殿を行かせて大丈夫なのか、隆国」

 

「……俺にもわからん。魏の公子はとても穏やかな性格で、腰も低い人物だと聞いているが、あれだけの事があったばかりだ。鏖殺はなくても拘束はあり得るかもしれん」

 

 

 騰に近い視線を持つ隆国という武将も、判断材料の少なさからそのように述べるに留まりました。

 

 

 残念なことだと騰は思いました。

 

 この場所に立つことができるのは、やはり自分だけか──だが摎と昌文君が同行の意思を見せたことは朗報か。

 

 彼らが一緒なら殿も、私も、退屈だけはするまい。

 

 

 そうして迎えの船に乗り、鎖に巻き上げられた船上で、目当ての人物はすぐに見つかりました。

 

 

「お会いできて光栄です、王騎将軍。何やら僕に話したいことがありそうに見受けられましたので、僭越ながらこの席を設けさせていただきました。もしこれが僕の勘違いであったらすぐにお伝えください。魏国の一切を預かる宰相として正式に謝罪いたしますので」

 

 

 思わず感心するほど気遣いにあふれた言葉とは裏腹に、美しい少女のような顔立ちをした少年の装いはなんと割烹着。

 

 そう、魏国の太子にして宰相たる貴人が、他国人たる自分たちを出迎えるにあたって厨房の料理人が着るような服に身を包んでいたのである。

 

 ならば会談のために用意された思しき卓上の料理は、すべて彼の手作りか──王騎とともに魏史鳳明伝に精通し、呉鳳明という稀代の変人に詳しくなった騰はそう断じましたが、彼ほど鳳明の生態に詳しくない昌文君はいかにも何か言いたそうです。

 

 

 見れば、無言で同席の意思を匂わせるふたりの人物──その特徴的な刺青から判断に困らなかった呉慶はともかく、もうひとりの貴人は鳳明の奇行に振り回されているのが明白でした。

 

 

 なるほど、あれが魏史鳳明伝の驚き役を務める信陵君か。

 

 人望豊かな政治家との評判だが、内心を悟られるようではまだまだ修行不足だな、とカケラも同情しなかった騰は無言で主君の隣に控えました。

 

 

「ンフフ、勘違いなんてとんでもない! 私のような敵国人、しかも直前まで交戦していたにも関わらず、これほどまでに礼を尽くした歓迎ぶり……心より感謝しますよ、鳳明サン」

 

 

 魏史鳳明伝を三巻まで所有する王騎は、鳳明が堅苦しい作法を苦手とすることを知っていたので、挨拶は立ったまま行いました。

 

 

「コココ。殿の副官を務める騰と申します。どうぞ良しなに」

 

「……コイツらの目付け役を押し付けられた昌文君だ。同情は要らんぞ」

 

 

 騰と昌文君もこれに倣いましたが、初めて眼にする開封料理──特に煌びやかなお菓子に目を奪われた摎はまるでダメでした。

 

 

「……すごいわ。開封のお菓子は、爺やが取り寄せてくれた物を何回か頂いたことがあるんだけど、どれも初めて見る物ばかり! ねぇ鳳明クン、ひょっとしてこれ全部、キミが作ってくれたの?」

 

 

 これが非公式の会談であり、過度の礼節は不要であると察してくれはしたものの、彼女の中で年上の娘として振る舞うことに落ち着いた摎の姿はなかなかに殺人的(・・・)です。

 

 いつもの甲冑と仮面を脱ぎ捨て、礼服代わりに授けられた亡母の衣装に身を包んだ摎は肌面積こそ控えめなものの、隠しきれない色香がプンプンと漂っており……不覚にも年上の女性に微笑まれた鳳明は赤面を余儀なくされたのです。

 

 

 しかし、母を知らない鳳明がそうなるのも無理はありません。

 

 決して公言できることではありませんが、この摎とて、歴代の大王が美女の血こそを取り入れてきた秦王の娘。

 

 その類い稀なる美貌は神々しいばかりで、戦働きで鍛えあげられた女神のごとき肢体を包み込むは、後宮の主人を誘惑せんがために考案されたた艶やかな衣装。

 

 そんな摎が微笑み、年下の鳳明に目線を合わせて来たのです。何事が生じたのかは、珍しくも真っ赤に染まった鳳明の顔が物語っています。

 

 

 ──デカい。なんて豊かな実りなんだ。綺丹たちとはまるで違う。これが中華最強たる秦の王騎将軍が随伴に選んだ女性。こんなエッチなお姉さんをこの場に連れてきた理由はなんだ? まさか色仕掛けとか? だったら耐えなきゃ。ダメだ、見ちゃいけないとわかってるのに、まるで逆らえない。もう少しで見えそうな、秘密の果実に視線が吸い寄せられて──。

 

 

「は、はい……その、皆様に喜んでいただきたくて……」

 

 

 大きく開いた胸元から見えるたわわ(・・・)に、複数の妻を持つ鳳明は激しく動揺しましたが、摎はこの点にも無頓着でした。

 

 

 彼女に男の醜い本性を見せつけようとする輩は、事前に王騎将軍の計らいで遠ざけられています。

 

 そのため男がどういう生き物か学ぶ機会のなかった彼女は、躊躇いもなくそれを実行しました。

 

 

「……いい子ね。お姉さん嬉しいわ」

 

 

 ギュッと抱きしめられた鳳明は窒息寸前。

 

 呉慶は眉を顰め、王騎将軍は楽しそうに喉を鳴らし、信陵君はこれ見よがしにため息をつき、常識人は昌文君ただ一人という有様。

 

 

「貴さっ……何をしておるか摎ぉオオオ!!」

 

 

 だがこれがいい。むしろこうでなくてはならぬ。

 

 

 何もかも我が殿の仰るとおりだ。

 

 世界は広く、我らの知らないことなど幾らでもある。

 

 故に乾杯を。

 

 我らはこれより新たなる知己となるのだから──。

 

 

「殿。摎様の嫁入りの件はどこまで本気で?」

 

「ンフフ、どォしましょうかねェ……放っておいたら勝手に子供を作りそうですから、しばらく目を離せないことはたしかですがね」

 

 

 昌文君が怒りに任せて引き剥がすや、鼻血を噴いてブッ倒れる鳳明と慌てて介抱する摎を愉快そうに眺め、王騎将軍は忠実な副官の問いに喉を鳴らすばかりでした。

 

 

 

 

 

 ……そんな痛ましい事故こそ存在したものの、船上の会談は終始和やかな雰囲気で行われました。

 

 

「ンフ、これも素晴らしい──鶏卵と小麦粉の衣に閉じ込められた肉汁の旨みが、濃厚極まるタレとともに口の中で弾けるようです。私には製法を想像することすら適わないほど技巧を凝らしたこの料理が、あくまで自国の大衆料理だと信陵君はおっしゃる?」

 

「ええ、串カツは港湾労働者がこちらの発泡酒ともども、特に好んで口にする料理ですよ。むろん格式の高い宮廷料理もお出しできましたが、そちらはこの場に相応しくないと鳳明が言うので……」

 

「そうでしょうとも。どの国の人間も、他国の人間に自国の料理を自慢するときは見栄を張りますからねェ。こうした大衆に愛される料理を食してこそ、その国の真価が理解できるというものですよォ」

 

 

 鼻にティッシュを詰め込まれた鳳明は席にこそ着いていますが、明らかに摎の視線を意識して陰キャモードを発動。

 

 呉慶はもちろん、騰もまた主賓をさしおいて自己主張するような性格でもないため、彼らの口は食事以外の用途では開かれず。

 

 卓上の会話は、ほとんど王騎と信陵君の間で行われています。

 

 

「ンン〜! この発泡酒も実に素晴らしい味わいです。麦芽が原料とのことですが、この豊かな泡の秘密は炭酸ですよねェ。私は以前、天然の炭酸水を口にしたことがあるのですぐに分かりましたよォ……魏国ではアレを人為的に再現できると?」

 

「ハハハ、私はそちらに深く関わっていないので……ご興味がおありでしたら、後で鳳明に説明させますが?」

 

「いえいえ、結構ですよ。魏史鳳明伝の二巻に、彼が知己の娘に相談され、廃れた醸造所に乗り込んだ話がありますからね。今のも世間話程度にお尋ねしたもので、この場で製法を聞き出そうとしたわけではありません。どうかご安心を」

 

「ええ、そう仰っていただけると、私としても……」

 

「ただ開封より遠い秦人の一人としては、こちらの清酒ともども、魏の醸造所が各国に開かれるのを、まだかまだかと期待しているところがありまして……」

 

 

 もっぱら攻め込むのは王騎ばかりで、防戦一方の信陵君は見えないところに冷や汗ばかりかかされています。

 

 

「紙の前例もありますから、私のような文明人は、魏国が適切な時期を測っているのだと承知しています。しかし野蛮人、かつ強欲と悪い評判しか聞かない燕の劇辛や、楚の汗明はどうでしょうか……?」

 

「……さて? そればかりは何とも」

 

 

 彼なりの打算もあって許可したこの会談ですが、主賓たる王騎将軍の博識ぶりは信陵君に安易な誤魔化しを許しません。

 

 

「そのときは魏国が不当に貯め込んだ富を解放する、なんて名分で合従軍が興るかも知れませんねェ……用心に越したことはありませんよォ?」

 

 

 信陵君とて王騎将軍を、所詮は学のない武人と侮っていたわけではありませんが、これは予想以上です。

 

 ただ王騎将軍も話の流れで警告しただけであり、本気で信陵君を追い込むつもりはありません。

 

 

「何が来ようとも、魏の国は私が防衛する。警告は無用だ」

 

 

 だから呉慶がそう口にしたときも、王騎は楽しそうに笑うばかりでした。

 

 

「ンフフ、そうでしょうとも。胡傷戦で見せた武略の冴え。そして先日に拝見した堅牢極まる兵たちの甲冑。さらには難攻不落と評判の開封を擁する魏国は野心家たちの悩みの種。容易に滅びるものではありませんが……合従軍の厄介なところは多方面から襲来してくることです。貴男の居ない戦場が不安なら、そのときはこの王騎にお声掛けを。気分次第で不埒者をとっちめてやりますとも」

 

「お、おい王騎……」

 

 

 酒盃を片手に摎のやらかしを警戒する昌文君が慌てるのも当然です。

 

 今のは秦国の将軍である王騎が、他国である魏のために働く意思があることを匂わせたのも同然ですから。

 

 

「……そのような言葉をいただけるとは、今後は王騎将軍と良い関係を築けるものと期待しても?」

 

 

 咄嗟に表情を取り繕った信陵君が、思わせぶりに確認するのも当然でしょう。

 

 

 ──やはりこうなるか。

 

 この展開を予想していた騰は内心でうなずきました。

 

 

 今の魏は、思った以上に善い国だ。

 

 今回のことで秦に見切りをつけた殿が心を動かすのも当然であり、裏切り者と非難される筋合いはない。

 

 

 殿は魏国に亡命し、呉鳳明が築きあげた王道楽土の防衛にあたる。

 

 それが我が殿にとって一番いい選択だ。騰はそのように判断しました。

 

 

 しかし……。

 

 

「……よく分かりませんが、王騎将軍は我が魏国に亡命を希望されているのでしょうか?」

 

「ハイ、鳳明サン。私はこの身を貴男に預けたいと思っております」

 

 

 いよいよ形にされた申し出に、鳳明はしかし、その秀麗な眉に悲しげなものを漂わせました。

 

 

「僕も、王騎将軍が何故そのように仰るのか、理解できるつもりです。今回の計略を是とするなら、黄河と長江、両方の大河の上流を抑える秦が、毒を投じて流域の住民を絶滅させる計略も是としなければならないからです。……それは清廉潔白な王騎将軍にとって、耐え難いことだと思います」

 

 

 さすがにその計略は頭になかったのか、信陵君が青ざめて呉慶元帥もその表情を険しいものにします。

 

 

「でも、僕は昭王がそのようなことを許さないと思います。ですから王騎将軍には、もっと昭王と話をしてほしいんです」

 

「……鳳明サン。貴男、昭王とお会いしたことが……?」

 

「いいえ、ですが斉の国で蔡沢様にお会いして、昭王がどんなに立派な方なのかをお伺いました。同席した王建王は蔡沢様の話を、半分も聞いていませんでしたが……僕は信じます。昭王が中華の戦乱に終止符を打つためにこそ立ち上がった、偉大な王なのだと……」

 

 

 その言葉を耳にした瞬間、殿の蒙はすべて晴れた──騰は微塵も疑うことなくそう信じました。

 

 

「だから、よく話し合ってからにしてほしいんです。だって誤解だったら、僕らが昭王と王騎将軍の仲を引き裂くことになります。こんなに悲しい事はありませんし、話し合ってもダメだったら、そのときは僕が何とかしますから……王騎将軍?」

 

「ンフ。ンフフ。ンフフフフフ」

 

 

 その巨躯にふたたび力が籠る。信じるものがある限り、彼は無敵だ──。

 

 

「……たしかに、たしかに。私としたことがすっかり騙されておりましたね。胡傷サンがあまりに自信たっぷりに断言するものですから、白起サンの計略も了解済みだと早合点してしまいましたが……よく考えたらあの昭王が! この私の面目をつぶすような策に許可を出すワケがありませんよネェ!?」

 

「うわ、すごい自信だ」

 

 

 己が肉体美を誇示するように立ち上がった王騎は、そこであらためて周囲を見回しました。

 

 鋼鉄以外の材料を使われている箇所を見出せない巨船は、その先進性からは意外なほど武器の類を搭載していませんでした。

 

 

「……あらためて素晴らしい船ですが、黄河じゃちょっと手狭ですねェ。これはもともと黄河ではなく大洋を越えるために開発された船じゃありませんかァ?」

 

「はい、その通りです」

 

「それを貴男は目的外の黄河に突っ込ませた。回収の見込みもなく、巨額の建造費を黄河の藻屑とする覚悟で……そこで苦虫を噛み潰す信陵君以外にも、反対する者には事欠かなかったでしょうに」

 

「いえ、きちんと説明したら分かってくださいましたよ」

 

「……すべては人命の為ですか? やはり貴男は私の思っていた通りの方でしたよ、鳳明サン。

 貴男は昭王を信じると言った。ですから私も信じることにします。昭王はもちろん、貴男自身のことも……そして貴男は話し合うべきだとも言った。

 ですから私は帰国して昭王に提案します。この中華を治める国がどうあるべきか、貴男と話し合うべきだと昭王に提案します。よろしいですね、鳳明サン?」

 

「はい、そのときは最高の開封料理で歓迎いたします」

 

 

 ……こうして、史に名高き『船上の会談』は終幕の(とき)を迎えました。

 

 王騎将軍と呉鳳明は晴れやかな笑顔で。

 

 王騎将軍をこの場で引き抜く策を、結果として愛弟子の鳳明に潰される形となった信陵君はやれやれといった表情で。

 

 呉慶と騰は最後までその内心を窺わせず、予定外の会談に神経をすり減らした昌文君はやや憔然と。

 

 そして後の確認で、秦国六将の摎と判明したそのうら若き娘は……。

 

 

「鳳明クン」

 

「はい?」

 

「キミ、いい子ね。ホントいい子。大好きだよ。お姉さん応援しちゃうわ」

 

 

 別れしなに、鳳明の痩身を両手で抱きしめたそうです。

 

 

 両手で頭を抱えた先ほどと異なり、右手を肩に、左手を腰に回しておそらくは十分に加減して。

 

 されど鳳明の全身は、摎にピッタリと密着して。

 

 鳳明の胸板に押し付けられたたわわ(・・・)の肉感は、まさに圧巻で。

 

 薄衣越しに、摎の体温と、しっとりとした素肌の感触まで伝わってきて──激しく動揺し鳳明は、柔らかな膨らみの中心にある悩ましい突起の感触まで意識。すぐさま鼻を押さえるも、密着状態で身体を動かしたことにより、摎の許可なく触れてはならない箇所にも触れてしまい──。

 

 

「あら? 鳳明クン……?」

 

「摎ぉオオオ!? 貴様、またしても──!!」

 

「コココ、これで二度目ですな」

 

「ンフフ、何度だっていいじゃありませんか。たとえ鳳明サンが妻子ある身であろうとも、こればかりは止められるものではありませんよ。父親代わりの私としては、些かならず寂しい気持ちもありますが……これも若い男女の特権というものです」

 

 

 その言葉は寛容ゆえか、それとも大事な娘に手を出したことをもって、鳳明に責任を取らせる意図があってこの場に連れてきたのか……。

 

 密かに警戒する信陵君でしたが、ひとつ確かなことはこの娘に一切の悪意がないことです。

 

 鼻血を噴いて膝から崩れた鳳明を抱える摎の顔面は蒼白で、自身の行動がもたらした結果に衝撃を受けているのは明白でした。

 

 

「ごめんね鳳明クン。怪我をさせる気はなかったから、優しく抱きしめたつもりなんだけど……こんなに血が出るってことは、どこか痛めちゃった?」

 

 

 ……ここでひとつ四方山話(よもやまばなし)を。

 

 

 物理演算を得意とするとある動画サイトの検証によると、王騎将軍の身長は2m70㎝。

 

 全長4m、重量30kgの宝刀をマッハ3の速度で振るうことのできるその腕は、150tもの衝撃を敵に与え……その反動を受けることになるその手も、決して武器を取り落としません。

 

 

 まともに考えると頭がおかしくなりそうですが、そんな王騎将軍と同格の地位にある摎将軍のことです。

 

 自分の力がズバ抜けているとの自覚はあるでしょうし、それ故に加減を誤ったと不安にもなるでしょうが……彼女の隣にいる昌文君からしたら、何もかもが的外れ。頭を抱えたくなるというものです。

 

 

「いや、そうでなくてだな……むっ、鳳明。おぬしもこの馬鹿に言ってやりたいことがあるのか? 遠慮なく申せ……」

 

 

 鳳明も最後に何事か伝えようとしました。

 

 

「な、い……す……。お……おっ……ばい……」

 

 

 彼の性格を思えば、おそらく正確な発音は「この方は悪くない(・・)()。悪いのは、年上の綺麗な()姉さんに免疫がなく、()もい()きり狼()してしまった僕自身にあります」あたりになるでしょうか。

 

 しかしその声はくぐもっており、途切で何度もかすれ……見た目よりはるかに心優しい昌文君は、この少年にとって不名誉となる一切の証言を拒否しました。

 

 

 そのため、史には「長平の救援におもむいた呉鳳明。体調の優れぬ身で王騎との停戦交渉に望み、二度倒れるもこれを完遂する」と記載されましたが……後に昌文君の手記が発掘されたことで、その真相が現代の世にまで伝わることとなりました。

 

 このことにより鳳明は、日に二度も血の花を咲かせた男の勇姿を、NNNの大河ドラマで描かれることになるのでした……。

 

 

 

 

 







なお、この時点の摎将軍に恋心的なものは一切なく、彼女自身、鳳明に抱いた感情が何なのかも理解しておりません。


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