天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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幕間『長平顛末記・其の参』

 

 

 

 ──その光景はまさに青天の霹靂でした。

 

 

「なっ!? 巨船が──」

 

「濁流を遡って、炎上する城壁に取り付いただと……?」

 

「ば、馬鹿な……一体どうやって……」

 

 

 鳳明の鉄甲船に計略の大元を崩されて、さすがに動揺する幕僚達の中にあって、微かに視線を動かした白起はひとつの事実を認めました。

 

 

 ──面倒なことをしでかしてくれたものだ。

 

 

 正直、疑問は尽きない。なぜ間に合った。なぜ見抜けた。しかしそれらは個人的な興味だ。後回しにして構わない。

 

 火災に対処され、逃げ場のない城内の趙軍を殲滅する策を凌がれたのは痛手だが、盤面そのものをひっくり返されたわけではない。

 

 

 戦況は未だに秦軍の圧倒的優位。

 

 胡傷と王齕の秦軍およそ13万と相対する南方の魏軍は、わずか5万。

 

 こちらの趙軍別働隊およそ10万ともども駆逐すれば、砦内の趙軍が孤立するのは変わらない。

 

 

 ──厄介なことになったものだ。

 

 

 包囲の完了さえかなえば、打てる策は無限にある。

 

 火計はもう通じぬだろうが、腐敗させた趙兵の死体を投げ込んで疫病を流行らせるのもいい。城壁の一部を破壊して、内部に水を流し込むのもいいだろう。

 

 この盤面に挽回の芽などない。秦軍の勝利は此度も盤石──。

 

 

 この混乱の中にあって、戦況を俯瞰した白起将軍はそのように結論付けました。

 

 

 しかし、それでも、なお──稀代の名将である白起将軍はこう吐き捨てたそうです。

 

 

「──よもや魏冄(ぎぜん)の同類とは、まことに厄介なものよな」

 

 

 魏冄とは、秦の恵文君(恵文王とも)・武王・昭襄王(昭王のこと)の三王に仕え、丞相・相国(事実上の宰相)に任ぜられ、内外に比類なき権勢を誇った人物であり、当時は在野の士であった白起を見出し、将軍の地位にまで引き上げた人物でもあります。

 

 ……そして非常に強欲な人物であり、たびたび罷免されたのもそれが理由だと言われています。

 

 

 

 

 

『アッハッハ! それ見たことか! 俺の言うとおりになったであろう白起よ!!』

 

『……だが自重しろよ。こうも度々では肝が冷える』

 

『なんだ、俺のことを心配しておるのか? ならば安心しろ。この国が俺を切ることはもうない。

 ピーチクパーチク鳴くことしかできん宮廷の雀どもは、俺のことを強欲と謗るが、それの何がわるい?

 無欲な宰相などつまらんぞ。率いる者の欲の強さが国の強さよ。昭王もそのことは理解している。

 だから俺はもう止まらん! この中華そのものを俺の物とするまで止まらんぞ!!』

 

『……強欲なことだ。だが、それが国の原動力だということは理解できる』

 

『お? ならば覚えおけよ、白起……おまえは天下無敵の将軍だが、もしお前を打ち破る者が現れるとしたら、それは俺の同類だと』

 

『……おまえの同類?』

 

『そうだ。仮におまえが俺の敵となるなら、俺は惜しみなく全財産を注ぎ込む。他国にも媚び諂い、奴等から奪った領土の返還を景気良く約束してな』

 

『それでは勝っても跡に何も残らん。おまえに言わせれば大損ではないか?』

 

『なに、ようは最終的に勝てばいいのだ。約束など俺は知らん、知らーん』

 

『フッ……それなら再戦の暁には(オレ)が勝つぞ』

 

『だろうな。だが、そこはこの件の本質ではない。いいか、要は泥くさい(・・・・)ヤツだ。

 底辺から頂点に駆け登っても満足しない。己の治める国が貧しいままなど我慢できん。率いる軍が常勝不敗でないなど許せることではない。民や部下の称賛が途絶えると気持ちが落ち着かん……そういう強欲なヤツの治める国を攻めるときは注意しろ。

 ソイツは相手が誰だろうと、くれてやるモノは銅貨ひとつとしてないと必死に喰らい付いてくるぞ?

 そんなヤツが俺以外にいるとは思えんが、一応覚えておけ』

 

 

 

 

 

「────面倒な。厄介この上ないぞ。この盤面で貴様の亡霊と相対するとはな。魏冄」

 

 

 短い追憶を終えた白起将軍は過去から未来に視線を移しました。

 

 

 魏冄の警告通りならば、この敵が打った策はあの巨船に留まるまい。

 

 何処だ。この盤面をひっくり返すには、水の牢獄に幽閉された砦内の趙軍を可及的速やかに解き放つしかない。

 

 

 北は無い。臣が居る。西も無い。王騎が包囲を狭めている。

 

 南は少々怪しいが、そちらに布陣する魏軍の数は胡傷や王齕らの半数に満たぬ。

 

 数的不利を抱えながら砦内の趙軍を救済するのは如何にも苦しかろう。

 

 ならば、唯一の活路は……。

 

 

「豹子牙よ」

 

「──ハハッ」

 

「砦の東を視て参れ。(わし)の思い通りならば、そこに魏軍がおる。まず間違いなくな」

 

「なんと! ただちに……!!」

 

「うむ。だが、そのときは少数でも攻撃は無用ぞ。敵の数が2万以下なら紫紺の旗を、5万以上なら朱赤の旗を、中間なら黄土の旗を掲げよ。それによりこちらも動きも変える」

 

「御意ッ」

 

「皆の者も聞け。もはや、すべてを刈り取ることはできん。だが廉頗だけは逃すな。奴こそが中華統一における最大の障害……できれば別働隊の主将も仕留めておきたかったが、贅沢は言わん。

 こちらの備えに2万を残す。これは羌貂が率い、他の者も不測の事態に備えよ」

 

「『ハハァ!!』」

 

 

 秦の勝利は揺るがない。

 

 何故ならすでに勝っているからだ。

 

 

 上党一帯の要地である長平を黄河の底に沈めた時点で、趙の選択肢は全軍退却しかない。

 

 ならば、完璧な勝利のために──いよいよ中華最強の白起軍が動きだす。

 

 

 

 

 

「あ。とうとう見つかってしまいましたね、良さん」

 

「そのようですね、龍譚様」

 

 

 そして、その軍と相対することになったのは、まだ将として未熟な龍譚と、軍師の張良でした。

 

 

 率いる軍は2万に満たず、友軍として展開する魏軍もまだ5千……続々と集結して陣容を整える白起軍と比較してあまりに劣勢……。

 

 

「……ちなみに龍譚様。呉慶元帥の後継者として自信のほどは?」

 

「ありませんよ。白起将軍といったら敵軍絶対皆殺しにするマンじゃないですか。ここは逃げの一手が最善ですって」

 

「そうですね。それでは私たちはこの辺りでお暇して、白起軍と善戦する栄誉は輪虎将軍にお譲りしますか」

 

「嫌ですね。年齢もそんなに違わないんだし、僕も仲間に入れてくださいよ」

 

 

 だというのに能天気な笑顔で、のほほんと会話する龍譚、張良、輪虎らの姿に安心したのか、兵たちはクスクスと忍び笑いを漏らしています。

 

 まだ10代半ばと若く、なにかと侮られがちな彼らですが、この様子を見るに兵士たちからは慕われているようです。

 

 

「ま、こうなったらやるしかありませんが、輪虎将軍もご存知のように、こちらの兵は兄様肝入りの重装歩兵が中心です。馬に撥ねられたり、オリハルコン製の武将ウェポンに薙ぎ払われた程度じゃ死んだりしませんから、存分に盾として活用してくださいね」

 

「……胡傷軍を苦しめた凱孟軍と同じ装備ですね。了解しました。頼りにさせてもらいますよ」

 

 

 ちなみに龍譚の言葉遣いが変なのは、幼少期から兄の鳳明と会話しているからです。

 

 鳳明も古代中国で現代風の言い回しはマズイと自覚していたものの、身内だけの席となるとその自戒も緩み……10年以上もそれと接し続けた龍譚はすっかり汚染されてしまいました。

 

 

「来ますよ、龍譚様。……白起軍およそ8万。どうやら数に任せて突撃してくるようです」

 

「さすが白起将軍。父様も大軍に小狡(こざかし)い戦術は無用って言ってましたが、的確にこちらの嫌がることをしてくるなぁ……はたしてどこまで拠点を守り切れるか……」

 

 

 もしこのとき、長平の上空から下界を眺めるものがいたら、きっと巨像が蟻の群れを踏み潰す光景に思えたでしょう。

 

 北の高地から戦場を広く俯瞰できる立場にあった李牧はまさにそう思い、青白い頬に冷や汗を流したのです。

 

 

「マズイっすね。魏軍の連中がコソコソやってるのが白起のヤツにバレちゃいましたよ」

 

「そのようですね。すでに浮き橋が完成して、廉頗将軍も精鋭を送り込んでいますが……この様子だと間に合わないでしょう」

 

「李牧様……こちらから援軍を送りますか? 必要なら伝令に走りますが?」

 

「いえ、こちらも危機を脱したものの、司馬錯の遺軍という強敵をいなしながら、それは難しい。下手に兵を減らしたらこちらが押し切られてしまいます」

 

 

 刻々と悪化する戦況に、李牧はいよいよ決断を迫られました。

 

 

 これをやったら最後。外患誘致の罪で斬首もあり得る。

 

 だが、どれだけ思索を巡らせても、これ以外に逆転の一手はない……もはや笑い出したい心境で、李牧は本陣の兵にこう命じました。

 

 

「旗を……黒地の旗を新たに掲げなさい。それで伝わるようになっています」

 

「えっ? ハ、ハハァ!!」

 

 

 ……その効果はすぐに現れました。

 

 李牧が視線を背け、何食わぬ表情で背中を向ける北東の森……何かあると、目敏く見つけた傅抵が叫びます。

 

 

「おいカイネ! アイツらって──」

 

「なっ!? なんで匈奴の連中がこんな所まで!!」

 

「おや、匈奴の騎兵が何故こんな所に……さては私を探して迷子にでもなったのでしょうか。困ったものですね」

 

「『……李牧様?』」

 

「……彼らは、新たに交易の中継点となった雁門の長官である私に用があった。しかし二人とも承知しているように、朝廷に呼び付けられた私はそのままこちらに赴任したため会うことができなかった。そのため彼らは私を探して迷子になり、長平の戦闘を傍観してましたが……秦軍の悪辣なやり口に義憤を抱き、長年の敵対関係を解消した私たちに味方してくれたと、そういうコトにしておいてください……」

 

 

 シレッと顔を背けたまま述べられる言い訳に、傅抵とカイネは渾身の顔芸を披露するしかありませんでした。

 

 

 あり得ない。いかに戦う理由がなくなったからって、外国の軍隊を無断で引き入れていいはずがない。

 

 もし朝廷に疑われれば、李牧の処刑は必至──。

 

 

「……とりあえず俺は知らん。誰に聞かれても匈奴の連中なんて知らんと答えるが、カイネは李牧様の首根っこを掴んでいつでも亡命できるようにしておけよ」

 

「あ、ああ……今なら鳳明様もいるから、雁門を引っ掻き回した責任を取らせてやるが、近場の魏に亡命するなら名前も変えたほうが良さそうだな……」

 

 

 だいぶ自分の流儀に染まってきた傅抵とカイネの内緒話を耳にして、能面のような無表情を維持する李牧は密かに巻き込んだ責任を感じるのでした……。

 

 

 

 

 

「クハハ、ようやく出番か。父上もだいぶ気を揉んでおったし、ここらで(オレ)が状況を改善してやろう」

 

 

 伝統的な匈族の騎兵の指揮するこの若者の名は頭曼。匈族の君主・恫遼単于の末子(一番下の息子)にあたる人物です。

 

 年齢は18歳と若輩ながら勇敢で視野も広く、北の地ですでに始まっている他部族との戦いでも勇名を馳せています。

 

 

「者ども、承知しておるだろうが無理をすることはないぞ。これより弓矛を交える白起という男は決して無理せず、引き際を誤らない男として有名らしい。ならば我等の役目は横槍となろう。適度に後背を脅かし、奴を退かせれば十分である。……むしろ下手に奴を討ち取ったら大変だぞ? またいつぞやのように、持ち帰るのに何往復もするほどの献上物を押し付けられるわ」

 

 

 その言葉に笑い声が唱和する様を満足げに見やって、頭曼は檄を飛ばしました。

 

 

「ではいつも通りに行くぞ! 中華最強の白起とやらに天下最強の匈族の騎兵を見せつけてやろうではないか!!」

 

「『応ッ!!』」

 

 

 森の中から次々と疾駆する騎兵の総数たるや、およそ8千──その威容はただちに白起軍の眼に止まることとなります。

 

 

「殿! 北東の森より所属不明の騎兵およそ1万が、こちらを目指して突き進んできます!!」

 

「殿……あの旗は匈奴のものです」

 

「匈奴だと!? 馬鹿な、なぜ奴等がこの長平に……」

 

 

 部下の叫びに一瞥をくれた白起将軍は思案しました。

 

 匈奴の騎兵が此処にいる理由や、戦いを挑んできた理由などは考えても仕方ない。論ずるべきは、いかに奴等を排除するか、これだけよ──。

 

 

「徐庵はいるか」

 

「ハッ、こちらに……あの敵の足止めですな?」

 

「うむ、任せるぞ」

 

「ハハッ」

 

 

 馬首を(めぐ)らし、白起軍本体より騎兵2千、歩兵8千が分離して匈族の騎兵を迎撃する。

 

 これに対して、匈族の指揮官・頭曼は迂回を選ばず、全軍に弓を番えさせました。

 

 

「面白い。胡服騎射の大元となった匈奴の馬上射をこの眼で見れるとはな。……だがそんな短弓で我が軍の護りを貫けるかな?」

 

 

 それを見て、徐庵という白起軍の将は勘違いをしてしまいました。

 

 

「ハハハ、そら見ろ。そんな粗末な弓では獣を仕留めることはできても、盾を貫くにはまるで足らんぞ」

 

 

 なるほど、単純な威力はともかく、射程と連射速度には見るべきものがある。

 

 あれが匈奴の複合弓か。

 

 しかし歴代の中華諸国を悩ませたという伝聞ほどでは──。

 

 

「むっ……?」

 

 

 そんな余裕すら抱く徐庵の前で、匈族の騎兵は馬上射を続けながら分裂。

 

 さらに二度目の分裂を経て、彼らは四つの隊に分かれました。

 

 

「目眩しのつもりか! そんな陽動、我が軍には通じぬぞ!!」

 

 

 しかし徐庵が苛立ちの声上げた反対側で、その戦術は迅速に猛威を発揮しました。

 

 

「……ッ、公孫堯の歩兵隊が敵の集中射を受けています!!」

 

「なにっ!?」

 

「あっ!? 敵騎兵隊のひとつが、今まさに公孫堯の歩兵隊に突撃を……!!」

 

「チッ、隣の周洪隊に援護させよ」

 

「だ、ダメです! そちらも敵の射撃が激しく!!」

 

「て、敵の騎兵隊のひとつが、こ、こちらに回り込んで──ああっ!? 今度は敵の突撃を防ごうとした鱗烝の騎兵隊が、敵の騎兵隊の集中射を……」

 

「なっ……なんだこの無秩序な戦法は……」

 

 

 無秩序──たしかにそう見えるかもしれませんが、実は違うのです。

 

 匈族の戦士は全員が練達の騎兵であり、弓術も達者ですが、その本領は集団戦にあります。

 

 

 序盤の全軍制射は牽制も兼ねていましたが、その目的は愚鈍な敵の割り出し。

 

 これにより敵の弱点を見出した匈族の軍は、突撃役と牽制役を同時に兼ねる部隊を複数編成し、互いに援護しながら獲物を仕留めにいったのです。

 

 

 ひとつの隊が愚鈍な敵に攻め入るときは、必ず複数の隊が弓で援護して。

 

 そちらに目が逸れたと見るや、別の隊が突撃して、他隊の支援を受け速やかに離脱する。

 

 

「どれだ? どれが敵の突撃役で、どれが敵の牽制役なんだ……?」

 

 

 だから徐庵の問いに答えるならば、すべての騎兵が突撃役であり、牽制役でもあり、指揮官でもあります。

 

 生まれてすぐに馬と弓に慣れ親しみ、家族単位、氏族単位、部族単位の狩猟を重ねる中で、伝統的な匈族の戦術を自然と学んできた彼らはむしろ逆に問いたかったかもしれません。

 

 お前たちは何故、頭目の指示通りにしか動かないのだ、と──。

 

 

 傍目にも匈族の騎兵が一方的に翻弄して、次々と戦果を重ねているようにしか見えない戦場を見下ろす者たちも、今は味方でありながら恐々とさせられました。

 

 

「上から見るとよく分かるが……相変わらずエグい戦い方してやがんな、アイツら」

 

「……そうだな。これでは李牧様が無用の戦闘を避けるのも当然だ」

 

 

 ……徐庵隊の苦戦を見かねたのでしょうか。

 

 白起本隊から、さらに2万ほどの軍が分離して援護に向かいます。

 

 これで浮き橋の出口を防衛する魏趙の連合軍3万弱に対して、白起軍は5万と、その戦力差は確実に縮まりましたが……。

 

 

「ここからですよ。白起軍の本当の恐ろしさは」

 

 

 厳しい表情を崩さない李牧の横顔には、いまだに緊張によるものと思われる汗が滲んでいました。

 

 

 

 

 

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