天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

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新農法の旗手・呉鳳明

 

 

 

 ……それは紙騒動がひと段落した秋口のことでした。

 

 父親の呉慶と祖父代わりの爺やを連れた鳳明が、敷地内の日当たりのいい場所に案内していますが、もちろん目的は日向ぼっこではありません。

 

 

「父様、これが僕の作った農園です。お邪魔でしたら収穫が終わり次第、元の更地に戻しますが?」

 

「いや、その必要はない」

 

 

 息子を安心させるように笑みらしきものを浮かべた呉慶将軍はこう続けました。

 

 

「私に断りなく屋敷に手を入れた、と恐縮する必要もない、この家はお前の家でもある。今後もお前のしたいようにして構わぬのだ」

 

 

 その言葉に赤面しながら、嬉しそうに頷く鳳明に見守る爺やの表情は優しい。

 

 そもそも呉慶がこの農園を見たがったのも、中庭に手を加えた鳳明を叱るためではなく、未だにギクシャクした関係の長男と打ち解ける時間が欲しかったからです。

 

 鳳明自身も苦手意識のある父親と過ごす時間を忌避する様子も見られぬとあらば、ますます遠慮は要らない──そう判断した爺やは満面の笑みを浮かべて両者の間を取り持ちます。

 

 

「紙の件もそうですが、鳳明様もご苦労なさったでしょう。爺やも若い時分に屯田兵として田畑を耕したことがありますが、ここまで見事な農園は一度も──」

 

 

 そう褒め称えて、さすがに気付きます。

 

 黄金の頭を垂れるそれらは、あまりにも整然とし過ぎているし……そもそもこんなにも大きな稲穂は見たことがない、と。

 

 絶句する爺やの反応から、やはりこの農園はただ事ではないと判断した呉慶は、不思議がる鳳明を怯えさせないために、努めて静かにこう口にするのでした。

 

 

「……すまぬが急用を思い出した。すぐ戻るゆえ、爺やは鳳明たちを頼む」

 

 

 

 

 

 父様が大勢の大人を連れてくるのもこれで二度目だなぁ、と娘の玲麟は思った。

 

 ずっと寂しかったから賑やかなのはいいことだけど、兄様が質問責めにされて困っているのはちょっといただけない。

 

 この家から出たことのない少女にとって、兄こそが学ぶべき規範であり、判断の基準。

 

 そう思った玲麟は一緒に遊んであげた弟に「お姉ちゃん行ってくるから、いい子で待ってるのよ」と告げてから猛然と駆け出したのでした。

 

 

「兄様をいじめないで! いい年して子供をいじめて恥ずかしくないの!?」

 

 

 その剣幕。そして、その正論に周囲の大人が狼狽し──蚊帳の外に置かれた武官の父親はこの光景に感動します。

 

 小さな体で両手をいっぱいに広げて、兄を守ろうとする娘の姿は、とても慈悲深い性分であった亡き妻を連想させるのに十分でした。

 

 女は、(つよ)い。男などより、ずっと──実の娘が容姿だけではなく、母親の気性まで受け継いでいることを嬉しく思う呉慶の前で、肩を怒らせた玲麟は気圧された大人たちに注意を与えます。

 

 

「みなさんが兄様のお話を聞きたいのはわかります。でもあんなに大勢で質問したら、兄様だってどれから答えればいいかわからなくなります。ですから今後はどなたが質問するか決めてから話しかけてくださいね」

 

 

 まさに非の打ち所がない正論に、王宮から押し寄せた文官たちだけではなく鳳明まで感心してしまいました。

 

 

「じゃ、兄様。困ったらいつでも呼んでくださいね。とっちめてやりますから」

 

「……ああ。その時は頼むよ、玲麟」

 

 

 そうして悠然と退場する少女の耳に拍手の音が届きます。

 

 直前まで叱られる側だった大人たちも、無関係の呉慶と爺やも、誰もが自然と少女の行動を称賛しました。

 

 何故そうなるのか分からずとも、生意気なことをしてしまったと思ったのでしょう。

 

 照れた様子で駆け出したのでした少女は二度と振り向かず、いい子に待っていた弟を連れて中庭から去っていきました。

 

 そんな妹の態度を可愛く思い、人知れず癒された鳳明が前回に続いて仕事熱心な大人たちと向き合います。

 

 

「ええと……僕の勘違いでなければ、皆さんが一番知りたいことはどうしてこんなに多くの穂を実らせたかだと思いますが」

 

「……うむ。君が何をしたのか聞かせてくれ」

 

 

 そう答えた宰相の蕭阿はどこか気まずげです。

 

 この場に統率に優れた信陵君がいれば、部下たちが幼い子供を質問責めにすることもなかったのにと、自身の不甲斐なさを反省しているのかもしれません。

 

 他の文官たちも宰相閣下の面目を潰してしまったとばかりに、鳳明の質問を辛抱強く待ちますが……彼が口にしたのは先の質問に関係があるとは思えない事柄でした。

 

 

「その質問に答える前に皆さんの意見を伺いますが……子は親に似るものなのでしょうか」

 

 

 その問いに意気込む大人たちはとても居心地の悪い思いをしました。

 

 一人、また一人と、非礼にならぬよう留意しながら呉慶将軍の御尊顔を確認した大人たちが返答を蕭阿に任せるよりも早く、当事者が断言しました。

 

 

「……うむ。鳳明よ、お前は母によく似ている」

 

「やはりそうでしたか。……これで自信をもって答えられます。ありがとうございました、父様」

 

 

 呉慶将軍の返答に、鳳明は救われたような笑顔になり、爺やはうんうんと熱く頷いています。

 

 そんな中、少なくとも父親には似ていないという、残酷極まりない答えを口にせず済んでホッとする蕭阿を見上げた鳳明が、皆の願ってやまない回答を口にします。

 

 

「それで僕の育てた作物が多くの実りをもたらした件ですが、特別なことは何もしていません。昨年の収穫期に近くの農村に出向いたときに、多くの種子に恵まれた稲や米を買い取って、それを使わせてもらっただけです。親に似て多くの穂を実らせると思って」

 

「『あっ!?』」

 

 

 その発想はなかったとばかりに蕭阿たちは驚きます。

 

 

 もちろん鳳明は嘘を言っていません。

 

 彼に現代農業の知識があることは事実ですが、遺伝子操作などの品種改良の設備もない古代中国の時代です。

 

 彼がその第一歩としてしたことは、より多くの実りをもたらす種子の選別──人為選択の初歩も初歩でした。

 

 

 ……こう言っては何ですが、古代農業の過酷さは相当なものです。

 

 一つの麦から一つの穂しか得られぬなど当たり前。二粒の種が得られたら御の字。三つ以上は縁起物。

 

 それでどうやって食べていくんだと頭を抱えるぐらいなら、人海戦術でとにかく働けと。

 

 そんな時代に近代農業の入口を披露したのですから、文官たちが衝撃を受けるのも当然でしょう。

 

 彼らを振り返った蕭阿も目の色からして違います。

 

 

「直ちにすべての農村に触れを出せ! 今年の作物は勝手に収穫せず、王都から担当者が到着するのを待てと!!」

 

「すべての農村でありますか、蕭阿様」

 

「すべてだ!! あと申し訳ないが、こちらの作物もすべて買い取らせていただいて構わないかな!?」

 

「……は、はい。妹の好きな芋を幾つか残していただければ」

 

「有り難い!! それと呉慶将軍……しばらくご子息をお借りしたいが、よろしいか?」

 

 老いを感じさせない采配を揮う蕭阿だったが、さすがにそう尋ねるときには遠慮を滲ませました。

 

 武家の嫡男を文官の道に引き摺り込もうとしている──興奮のあまり、そう受け取られても仕方のない発言をしたことに気付いた蕭阿は後悔しましたが、魏国の屋台骨である呉慶将軍は動揺しませんでした。

 

 

「……構いません。ヒトはそれぞれ選び取った道を進むべきですから」

 

 

 微塵も動じずに断言した呉慶に、蕭阿は頭を低くしました。

 

 自然と、頭が下がったのです。

 

 

「鳳明」

 

「はい、父様」

 

「どうやら宰相閣下は、お前に尋ねたいことが多々あるようだ。お前はそれに付き合ってもいいし、嫌なら断っても構わん。お前がどうしたいかお前自身で決めなさい」

 

「それなら、父様……僕は蕭阿様に協力して、魏国全土を豊かにしとうございます。今よりもずっと豊かに。お腹を空かせた子供を見かけなくなるほど」

 

「そうか……。武運を祈る」

 

 

 そう言って呉慶は鳳明の手を握りました。

 

 息子を子供扱いして頭を撫でるのではなく、一人の男として認めての激励するかのような握手に、祖父代わりの爺やは感涙に咽びました。

 

 むろん蕭阿にもその意味はわかりました。

 

 鳳明は優しい子です。無理して自分の後継者として育てるより、宰相に預けて文官の道を歩ませる方が適切だ。

 

 呉慶の寂しそうな微笑は、そうした内心を映し出しているように見えてなりませんでした。

 

 

「呉慶将軍……。儂は魏国の宰相として固く約束する。鳳明殿自身はもちろん、貴公も、貴公の家も、決して無下には扱わせぬと」

 

 

 最後に息子の肩に手を置いた父親が、誠実な老人とも固く握手を交わし、舞台は王宮へ移行します。

 

 

 

 

 

「森はあんなに多くの木々や植物を実らせているのに、どうして畑のように枯れないんだろうと疑問に思った僕は、森には痩せた土地を回復させる仕組みがあると思って、毎日のように通い続けました。そうして得た答えが堆肥と腐葉土なんです」

 

 

 森の大地は木々や植物に養分を吸われて衰退するが、そうして育まれた森の幸にありつくべく住み着いた動物のフンや死骸が地に還るため、森は自らの成長で枯死しないという食物連鎖の仕組みを説明する鳳明に、居並ぶ文官一同は熱心に頷きメモを取ります。

 

 鳳明の話を子供の戯言と決めつけ、ヤジを飛ばす不届き者は一人もいません。

 

 この場を用意した宰相の蕭阿や、人員を選抜した信陵君がそうした人物を事前に排除したのは事実です。

 

 しかしそれ以上に鳳明の話が面白く、理に適っていたというのも見逃せません、

 

 

「なるほど……。だから堆肥や腐葉土で土壌を整えるのが有効なのか」

 

「うむ、為になるな」

 

「それに鳳明殿が考案した農具も試してみたが、どれも画期的だ。これは来年の収穫がすごいことになるぞ」

 

「ああ、暫く寝る暇も……あれ? 俺が最後に寝たのは何時だった……?」

 

「しっかりしろ、睡眠は仕事中に取るのだ。こうやって、片目と一緒に脳の半分を休ませてな」

 

 

 日本では江戸時代に確立した農法や、耕運機の登場まで広く使われていた農具──それら画期的な知識に触れた魏国の文官たちは、躍起になってモノにしようと奮闘します。

 

 

 ……結果はすぐに出ました。

 

 最初は王都から派遣された文官にあれこれ指示されて嫌気の差した農民たちも、初めて扱う農具の数々によって作業効率が格段に向上したと実感するや、とても協力的になりました。

 

 鳳明自身は無理のない範囲で登城するように言われたので、現地には赴けませんでしたが……ほぼ毎日のように顔合わせする蕭阿や信陵君から手応えを聞かされて、底知れぬ興奮から教導に熱を上げます。

 

 そして冬になり、春が来て、夏の暑さが和らいだ頃──これまでに見たことがないほど穂を垂れる麦畑や米田を見て、農民たちの全身に震えが走ります。

 

 

「……こりゃすげえや」

 

「んだ。鳳明様は本物の天才だから、信じて従えっつった役人の言葉は本当だったんだな」

 

「──鳳明様万歳!! 呉慶将軍万歳!!」

 

 

 いつまでも歓喜を爆発させる農民たちの姿は、王都安邑の周辺に限りません。

 

 これと同じ光景が魏国全土の農村部で見られ、あまりの騒々しさにすわ敵襲かと軍が出動する事例も頻繁しました。

 

 そして、それから一月あまり──今度は国内すべての城邑を含めた都市部で、文官たちがその成果に狂乱します。

 

 

「なんじゃこの量はァ!? 前例のない豊作になるとは予想しとったが、こっちの倉はもう一杯だぞ!!」

 

「騒ぐな! これを見越して倉を増築したのだ!! こちらの倉が一杯でも、向こうの倉が……なにィ!? そっちも一杯か……」

 

「……原因は何だ? 鳳明殿の助言もあって、収穫済みの麦や米を貯蔵する倉は三倍に増やしたのであろう?」

 

「それがな、ちと言い難いんだが……鳳明式の農具で格段に作業効率の上がった農民たちが暇を持て余してな。今年は予定にない野菜や果物まで大量に寄越してきたのだよ」

 

「あ、阿呆かッ!? そんな理由で我らは、鳳明紙以来の死の行進を演じとるというのか!!」

 

 

 その光景はまさに阿鼻叫喚──動揺する部下たちに適切な指示を与えるべき宰相の蕭阿も夜空を見上げるというものです。

 

 このままでは、彼らが書庫の整理に追われた昨年の二の舞を演じるのは必然と思われましたが、今回は幸運なことに信陵君が善後策を出してくれました。

 

 

「……うん、こうなっては仕方ない。今年は税率を下げ、農民たちの取り分を増やそう。もちろん軍にも押し付け……失敬、十分な量を供給して……他国はどうだ? 不作なら格安で輸出してやれ。それで何とかしよう」

 

 

 物事を悲観的に捉えず、前向きな信陵君が裁定を下してくれたおかげで、魏国の各都市は押し寄せる牛車に怯えることはなくなりましたが……そんな彼をもってしてもその場では目が泳ぎ、口にした言葉もどこか他人事であったと言われます。

 

 

 

 

 

「兄様、これは何ですか?」

 

「これはね、南の暖かい地方で取れた薩摩……南部芋だよ。この国に移住した楚人がお礼にと持ち込んだものだ。火を通すと甘くなるから食べてごらん」

 

「ホントだ! 甘いしホクホクしてて美味しい……龍譚もお食べ」

 

「はい、ねねさま……わァ、ホントにおいしい……」

 

 

 自身の農政改革が各地で混乱を引き起こしているとは露も思わず。

 

 幼い弟妹と存分に戯れる鳳明は幸せそうでした……。

 

 

 

 

 

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