天下の大宰相・呉鳳明伝   作:蘇芳ありさ

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幕間『不思議の国の隆国』

 

 

 

 開封市内の港湾地区にある開封料理・鳳麟亭の外観はとても質素な作りでした。

 

 もとは開封の建設時に、これに携わる労働者を賄うために開いた店だから当然かもしれませんが、開けた店内の床は土間で、入店時の心理的抵抗もありません。

 

 まさにその点が気に入った王騎軍配下の録嗚未は、同僚の隆国・干央らとこぞって入店。字が読めないためお品書き(メニュー)に書いてあるものを適当に注文しましたが、味の方はやはり大したものでした。

 

 

「ガハハ! 量こそ少ねえが、言うだけあって(うめ)えじゃねえか!!」

 

 

 ちなみに録嗚未が大喜びで食しているものは、所謂ひとつのお子様ランチでした。

 

 熱々のミニラーメンと半チャーハン。そして餃子と焼売。エビフライと唐揚げ。プリンには旗まで差してある再現ぶりです。

 

 

 なお、干央は怪生物の死骸のようなオムライスを前に微動だにしません。

 

 そんな二人を等分に見やって、自分に漢字の読み書きを叩き込んでくれた両親に感謝した隆国は、初めて手にした割り箸の扱いに苦労しながらも拉麺を口に運ぶことができました。

 

 

「──うむ、旨い」

 

 

 見慣れない料理ばかりで密かに心配でしたが、録嗚未の言うようにさすがは食の都。シャキシャキのもやしと一緒に噛み締めた太麺にはトロリとスープが絡んでおり、食感、味わい、ともに大変満足のいくものでした。

 

 これで庶民向けというから恐れ入る。見れば他の客は複数の料理を注文しているようだし、この際だ。早くも食い終わりそうな録嗚未や、一品目から苦戦している干央のために、俺が人気の料理を店員に訊ねてやろう。隆国が上機嫌に店内を見回したその時でした。

 

 

「『──、……』」

 

 

 微かな騒めきと遠慮がちな視線が店の入り口に向けられていることに気付いて、隆国は眼を剥きました。何故ならそこには服装こそ質素な漢服であるものの、一度でも目にしたら二度と忘れないほど特徴的な少年の姿があったからです。

 

 

(なぜ魏安君がこの店に──?)

 

 

 咄嗟に顔逸らした隆国はかなり驚いてる様子ですが、頭の回転が早い彼のことです。

 

 すぐに周囲の反応を分析して、過去に鳳明がお忍びでこの店を利用していることをそれとなく察知──ここは気付かぬふりをしてやり過ごすのが正解か、と自分の食事に集中することを選択しました。

 

 

 ……そうした隆国の配慮はやはり正解だったようで、彼の近くを通るときに鳳明は小さく会釈をしました。視界の端でそれを確認した隆国は安堵と満足がない混ぜとなった息を漏らしましたが、問題はこれからです。

 

 

「さあ、建さんはこちらの席に……今回も遠路はるばるお疲れ様でした」

 

(ん? 遠路はるばる……?)

 

 

 ひとたび意識してしまったものは容易に頭の中から消えてなくなりません。隆国に聞き耳を立てるつもりはなかったのですが、どうしても鳳明の言葉が気になってしまいます。

 

 

(……誰だ? 遠路はるばると言うからには、相手は他国の人間であると考えるのが妥当だが、この国の太子である魏安君がお忍びで相手をしているのだ。該当するのはほんの数人のはず)

 

 

 いや、数人どころの話ではない。あの青白い不健康な貌には見覚えがある。何処だ。俺はあの男を何処で見かけた……?

 

 

「フフッ。この店も懐かしいな……思えば(オレ)が玲麟の尻に手を伸ばしたのが貴様との初顔合わせであったか。今日は久しぶりに飲み明かそうぞ鳳明よ」

 

「はい、田建さま」

 

(玲麟? 魏安君の妹御の尻に手を伸ばした……痴漢ではないか! それに田建? 田建とは……あっ! 斉の王建王か!?)

 

 

 道理で見覚えがあるはずだ。

 

 王建王はもう8年近くも前に咸陽に国賓として訪れている。

 

 そして数々の奇行で狂王として忌み嫌われ──不幸にも士族の一員としてそのときの宴に出席していた隆国は、内心、臍を噛むような思いでした。

 

 

(……大丈夫なのか? 外務を兼任する信陵君も伴わず、こんな狂王と相対して?)

 

 

 むろん隆国も王建王の妹が鳳明に嫁いでいることは知っています。しかし、彼が知っているのはそこまで……実は狂王と呼ばれた王建王の正体は慈愛にあふれた賢王だとか、そんな報告は蔡沢の帰国前に出陣した隆国の耳には届いていません。

 

 よって、以前の強烈な先入観のもとに、いざとなったらこの身を挺してでも魏安君をお護りせねばならないと覚悟する隆国でしたが、王族同士の会話はなかなかに知的好奇心をそそられました。

 

 

「──と、こちらはそんな感じで、王騎将軍を通して秦国との関係改善を模索することになりそうです」

 

「そうか。よく白起の策に気づけたな。もし貴様が出遅れたら、最悪、廉頗の討ち死にもあり得たぞ」

 

 

 いや、まったくだ。味方ながら白起将軍の悪辣の策は、いま思い出しても背筋に震えが走る。

 

 そしてもし魏安君の救援が間に合わねば、俺たちも永遠に拭い去れない汚名を背負うところだったわ。

 

 ……そこまで考えて、隆国は自己の内側にある鳳明への好意の根幹にあるものに気づきました。

 

 

(ああ、そうか……俺は殿の名誉を守ってくれた彼に、感謝していたのか……)

 

 

 そう思うとなんとなく気恥ずかしい。これは折を見て、魏安君にきちんと謝意を伝えねばならんな……隆国が口元を緩ませたその時でした。

 

 

「それで、そちらはどうでしたか? たしか燕の劇辛将軍が10万の大軍とともに南下して、斉との国境を脅かしているという話でしたが……」

 

「ああ、その件なら話がついたぞ。まったく強突張りの劇辛めが。さんざん勿体ぶった挙句、東営に築いたばかりの港湾都市を譲渡するのならば軍を退いてもよい、などとほざきおったわ」

 

(なるほど……それは強突張りと言われても仕方ないな)

 

 

 無論、軍事行動の停止と引き換えに城を明け渡すという事例は多々ある。例えば天下の名将たる白起や、自身の主君である王騎に攻め込まれたのならば、それは為政者として賢明な判断だ。

 

 だが、はっきり言って燕の劇辛如きがみずから吹っ掛けるなどお笑い種だ。それも魏国とともに隆盛を極める今の斉を相手に……さぞかし恥をかいたのだろうと、隆国は意地悪く笑ったものでした。

 

 

「それでどうなさいました?」

 

「もちろんくれてやったわ。ただし譲渡契約書に燕の国璽をしっかり押させてな」

 

「えっ!?」

 

 

 予想の遥か斜め上をいく展開に隆国は叫んでしまいました。叫ばずにはいられませんでした。

 

 

(し、しまったぁああああああ!!)

 

 

 王族同士の会話を盗み聞きした挙句、そのことを相手に知られてしまった。隆国は己に集まる店内中の視線に死を覚悟するのでした。

 

 

「なんだよ、デケエ声を……って、鳳明じゃねえか。お前もこの店を使っててたのかよ」

 

「はい。録嗚未さまも楽しまれていらっしゃいますか?」

 

「おうよ。言うだけあって大したもんだ。……ところで量がちと足りないんだが、他には何を頼んだらいい?」

 

「それでしたら発泡酒(ビール)とつまみを試してはいかがでしょうか? つまみも肉料理がふんだんにあるので、きっとご満足いただけると思いますが」

 

「ほぉーう、この店にはそういうのもあるか……よしよし、世話ンなったな。早速頼んでみるぜ」

 

 

 さらには、空気の読めない録嗚未が突貫するに至り、隆国は頭を抱えてうずくまるしかありませんでした。

 

 どうかこのまま、このまま、俺の存在を忘れてくれ……隆国は切に祈りますが、現実は無情です。視界の端で王建王がチョイチョイと手招きするのが見えてしまいました。

 

 

「…………」

 

 

 観念した隆国は立ち上がり、そして静かに同席しました。彼は自身の生殺与奪を他人に握られることがどういうことか、理解できたような気になりました。

 

 

「貴様、名は」

 

「……隆国と申します」

 

「そうか、それでは隆国よ。貴様は東営の港湾都市を燕に譲渡した我ことがそんなに不思議か? 正気の沙汰ではないと、そう申すか?」

 

「その、いえ……決して不満があるわけでは……」

 

 

 恐縮する隆国にダル絡みする王建王でしたが、もちろん本気ではありません。その証拠に鳳明が申し訳なさそうに笑いながらも助け舟を出しました。

 

 

「隆国さま。建さんは最初からそのつもりだったんですよ……何故だと思います?」

 

 

 情報の精査ならば隆国の得意分野です。劇辛の図々しい申し出を最初から想定して、新たな港湾都市を建設していたというなら、これはむしろ……?

 

 

「……懐柔策、でしょうか? 歴史的な敵国である燕に恩を売り、以降の関係改善の叩き台とするために、あえてそうなさったと……?」

 

「ククッ、なかなかに聡いな。だが、むろんそれだけではない。恩も売る。関係も改善する。ただし我が国の経済的植民地としてなァ」

 

「け、経済的植民地と申されますか?」

 

「うむ。これまで燕は黄河の辺りに領土を持っていなかった。それゆえ我らが共同で運営する水運同盟に加入できなかった……ここまではいいな?」

 

 

 隆国は建さんの言葉にコクコクと頷きました。

 

 この辺りは有名な話です。魏国が主体となって整備した水運を用いる商人たちによって、斉趙韓の三国も大いに潤ったというのは。

 

 ならばその繁栄ぶりを目の当たりにした燕国がこれに加わることを欲したのも、東営の港湾都市とやらを接収したというのもわかるが……しかし斉国みずからこれを仕組む利がどこにあるのか、これがわからない。

 

 

「なに、簡単な話だ……各国の商人がそれぞれの特産品を売り込むことにより、その国の富は買った分だけ減少する。しかし各国の港には、商人が方々に足運ばずとも魅力的な商品が揃っておる。これにより収支は釣り合うどころか、それまで見向きもされなかった最果ての特産品も飛ぶように売れるとなると、帳尻はどうなる?」

 

「それは……例えば現地の住民しか食していなかった珍味や、豊富なだけで使い道のない木材にまで値が付くというのならば、商取引の規模が増大して、その恩恵に与る人間が増えるということ……つまり、格段に豊かになったと実感する人間が飛躍的に増大する!」

 

「正解だ。やはり聡いな隆国よ。部下に欲しいくらいだ」

 

 

 思わず顔をほころばせる隆国でしたが、彼は建さんの賞賛が嬉しかったわけではありません。

 

 隆国は今まで魏国が何故これほどまでに豊かなのか、理由がわかりませんでした。しかし商人の動きが活発になることにより、これまで死蔵されていた国内の富が発掘されるというのなら、この開封の繁栄ぶりも頷ける──!!

 

 

「さて、そこで問題だ。燕は東営の港を手に入れて各国の商人を呼び寄せる。むろん船賃は我らの船舶と同額だ。そうでなければ集まらんからな」

 

 隆国が頷く。法外な税を徴収されるとわかって近寄る商人はおるまい。ここまでは当然だと。

 

「そうして各国の商人が集まり、魅力的な商品を見せびらかす。燕国は官民挙げてこれを買い漁るが、それだけでは手持ちの金が尽きる。商人にも国内の商品を買ってほしいが……買わなかったらどうなる?」

 

 そして理解する。悪辣という言葉では追いつかないほど、底意地の悪い斉国の遠大な罠を。

 

「一応、燕も海に面していますから、食塩や海産で利益を上げることも……」

 

「ククク。我たちがそれらの品質を上げるためにどれだけ投資していると思ってる? 食塩の生成はもちろん、魚の血抜き、冷凍保存……少なくとも向こう10年は商売敵にもならんよ」

 

「燕を追い詰めるのが目的ではありませんから、ほどほどにお願いしますね建さん」

 

「わかっておるわ。生かさず、殺さず……東営の建設費はおろか、燕の富たる富を未来永劫啜ってくれるわ」

 

「……………………」

 

 

 悪鬼だ。悪鬼がいる。額にビッシリと汗をかいた隆国は、王建王に敵と見なされなかったことに感謝するしかありませんでした。

 

 

 しかし、彼の言う悪鬼はここにもう一人──。

 

 

「と、こちらはこんな状況だが、楚の汗明はどうなった? たしか、秦に復讐戦を挑むと見せかけて韓に向かったそうだが……」

 

「そちらは蕭何と韓非さまが上手くやったそうです。こちらの紫伯将軍と、韓の洛亜完将軍に加えて、秦の蒙驁将軍と麃公将軍……あとは什虎城周辺の四将も味方につけて、総勢50万の大軍で追い払ったと」

 

「ハハハ、容赦なく完膚なきまでに叩き潰したの間違いであろう! まったく相変わらずの政治の化け物め……貴様と蕭何だけはこの我も敵に回したくないわ」

 

「……まったくですな」

 

 

 そう相槌を打つ頃には隆国の顔は真っ青になっていました。

 

 彼も、このあどけない中性的な顔立ちの少年が善良なだけの人物でないことは理解していました。

 

 

(しかし、よもやここまでとは……!!)

 

 

 隆国は決意しました。武力に驕り、この国に攻め入ることだけはあってはならない。帰国したら主君である王騎将軍と足並みを揃え、魏安君と王建王と敵対する愚を説こうと──。

 

 

 そう意気込み、ふと視線を向けた先で、干央が感涙にむせびながら怪生物の死骸を食しており。

 

 録嗚未もすっかり酔っ払って、店員の勧めるままに酒とつまみを注文していました。

 

 

「…………俺も飲むか」

 

 

 飲もう。酒だけがこの悪夢から救済してくれると信じて、隆国は悪鬼どもが角突き合わせる卓からゆっくりと離れるのでした……。

 

 

 

 

 

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