開封にはその総数を200とも300ともいわれる公衆浴場が存在する。
その多くは開封の建設に携わった労働者のために、魏の大聖君こと呉鳳明が設置を命じたものだ。
現代でも体内に細菌やウイルスが侵入することにより、数多の感染症を引き起こすことは広く知られているが、実は古代中国においてもこれらは小鬼が体内で悪さをしていると認識されており、入浴などによって身体を清潔に保つことの重要性は、学のない貧困層にも周知の事実であった。
その為、過酷な土木作業に従事した者たちはこぞって呉鳳明を称賛して、これを利用した。
しかも、鳳明が用意したのは単なる湯浴みの場ではなかった。
当時から過剰に生産して消費が追いつかなかった麦や米から酒を醸成。これを無料で振る舞い、公衆浴場への持ち込みも認めたから大変だ。
公衆浴場はものの数日で労働者の社交場となり、娯楽施設へと変貌した。
かくして呉鳳明が生み出し、開封の労働者が育てた入浴という文化は、魏国の遷都が完了するに至って入植してきた民たちの知るところとなったが、ここでひとつの問題が発生した。
それが何かというと、この時期における公衆浴場は女性の利用を想定していなかったということだ。
これは開封建設期の利用者が男性のみであったことから、避けられない不満であったのだが……魏人が等しく崇敬する呉鳳明みずから設計した公衆浴場を利用できるのが父親や夫、男兄弟だけとなると、残された妻や娘の不満は容易に想像できよう。
男たちもいい気分で帰宅したら妻や娘、女兄弟の視線が冷たいとなったら、やがて原因に気づく。ほどなく目安箱には女性用の公衆浴場の設置を懇願するものであふれた。
無論、神農の化身とまで讃えられる呉鳳明がこの問題を見過ごすわけはなく、
基本入浴料は引き続き無料。ならびに、入浴後の酒や果汁も一杯目までは無料──呉鳳明がそのように定めた公衆浴場の人気は凄まじく、すぐに民間の商人たちが開封の朝廷に事業参入の打診をするようになった。
これを真摯に受け止めた呉鳳明は次々と新しい設計図を描き、王宮の技師たちが建設に手をつけるや商人たちはこぞって入札を行い、極めて高額で落札していった。
これら民間経営の浴場は無料で利用できるものではなかったものの、呉鳳明が浴槽を湯で満たす旧来の入浴施設だけではなく、現代の北欧やロシアなどで広く普及している蒸し風呂などを設計したこと。
そして実際の建設を担当した王宮の技師たちが贅を凝らしたことにより、大変な人気となった。
商人たちも各浴場で、商売敵を追い落とすために独自のサービスを模索した。
洗い場での垢擦りに始まり、入浴後のマッサージ、全身の皮膚や髪の手入れも行うようになり、これらは特に女性客に好まれるところになったが……もちろん男性客のみが利用できるけしからんサービスもすぐに導入された。
……こう書くと、この時代の魏国について熱心に学んでいる学生諸氏は疑問に思うかもしれない。
呉鳳明の比類無き善政により、貧富の格差がほぼ解消されたこの国に娼婦の成り手は存在するのかと。
この点に関しては著者も徹底的に当時の史料を漁ったが、そうして見えてきた実態は羨望を禁じ得ないものだった。
時期はちょうど、呉鳳明と綺丹公主が結ばれて、魏国中がこのロイヤル・ウェディングに熱狂している最中であった。
父母に「お前もいい男を見つけてこい」と自由な交際を許可された娘たちは、ある種の恋愛に対して非常に積極的だったというのだ。
そして村落では男女が分け隔てなく水浴びするなど、性的にもおおらかな時代であった。年頃の娘が裸を見られたついでに気になる男を挑発するなど、大変羨ましい時代でもあった。
だからであろう。儒家がのさばる他国では考えられないほど、開封の娘たちは所謂ひとつの裸の付き合いを当然ものと受け入れ、これを非難する風潮は急速に薄れていったのだ。
──
「ンフッ、流石です! 流石ですよォ、鳳明サン!! 流石の私もよもやここまでとは思いませんでしたよォ……!!」
「い、いえ……これは、その……あくまで垢擦りですし、禁止する法律もなくて……」
「ヌハハ、若い娘がふくよかな肢体を儂らに擦り付けることを垢擦りと申すか! 流石はやり手の宰相よのう……そういうコトにしておけば法の網を掻い潜れるわけか!?」
「で、ですからこの件は、法の番人である李斯さまも頭を抱えていて……」
「ククク、何を抜かすか。そもそも、これほどまでの娘が集いに集った原因は貴様であろうが、鳳明よ。……いや、非難してるわけではないぞ? むしろお盛んで結構なことではないか! 思涵もめでたく貴様の子を孕んだようだし、魏国の未来は明るいな!!」
迂闊だった。迂闊だったと鳳明は頭を抱えてしまいました。
彼も、民間の浴場でこのようなサービスが行われていることは把握していましたし、民間人の自由恋愛──という建前になっている──をどこまで規制すべきか、担当大臣の李斯が対応に苦慮していることも知っていました。
そのため鳳明は原則浴場内での男女の営みを禁止するとともに、親友である王建王に依頼してマレーシアのゴムを輸入し、避妊具の研究と開発を急がせる傍ら、最悪の事態に備えて、以前から研究していた抗生物質の実用化に漕ぎつけるなど、けしてこの問題を放置していたわけではありませんでした。
しかしながらメシ屋を出た直後にバッタリ遭遇した王騎と廉頗によって、よもやよもやエッチな入浴施設に連れ込まれるとは想像していませんでした。
……むろん他国人である王騎たちがそうした事情に通じているわけはありません。
なので、これは本当にただの偶然。なんの悪気もないだけに、鳳明は自国の恥部に赤面するしかありませんでした。
「一応言っておきますけど、ここでシちゃダメですからね。そういうのはきちんと隣の逢引き宿を使ってもらわないと……」
「むろん心得ておるわ。だがそう言うのならば、貴様も当然利用するのであろうな……?」
鳳明最後の抵抗を容赦なく踏み躙る王建王の遠慮のなさは、さすが親友といったところでしょうか。
王騎と廉頗、騰と輪虎も楽しそうに笑うばかりで、真っ赤になって俯いた昌文君も助け舟を出せる状態ではありません。
……ならば鳳明はこのまま搾り取られてしまうのでしょうか?
いえいえ、どうかご安心を。
ここは呉鳳明のお膝元たる開封なのです。
常に鳳明の安全を気にかける開封市民が、敬愛する主君の危機を報せぬなど有り得ないことです。
「──お待ちなさいッッ」
バンッとひと息に蹴破られる蒸し風呂の扉。驚きのあまり一言もない男女がこれをやった犯人に目をくれますが、濛々と立ち込める湯気が薄らいだとき、そこに現れたのは──。
「『き、摎ォ!?』」
「まったく王騎様も、騰も、爺や、廉頗将軍もいけずなんだから。そんなにご奉仕してほしいんだったら、私が幾らでもしてあげるのに……」
拳をゴキゴキ鳴らす摎の表情はにこやかな笑顔でしたが、その眼光は非常に好戦的なものでした。
その為、一言の弁明もなく立ち上がった
「よろしい」
これにより摎将軍はその拳を振るうことはありませんでしたが、呆気に取られる鳳明と王建王のおしおきはこれからでした。
「うふふ。どうやらみなさん異論はないようね、玲麟」
「そうみたいですね、綺丹さま」
「き、綺丹?」
「それに玲麟だと……?」
「ええ、鳳明様。王建王もご機嫌麗しゅう」
「というわけで、兄様たちのお世話はわたしたちがするから、みんなは遠慮してもらっていいかな?」
むろん彼女たちにも異論はありません。何故なら気のいい娘たちは常日頃からの感謝がしたかっただけで、恐れ多くも綺丹公主から正妻の座を奪おうなど夢にも思わないのですから。
綺丹と玲麟も摎と同じように
「『よろしい』」
次々と頭をさげて退室する娘たちの前で、三人の女帝たちはようやくその眼を優しいものに変えました。
赦免の気配に、しきりに目配せを交わした男どもがホッと胸を撫でおろしますが、その姿を情けないとこき下ろすことは同じ男には不可能でしょう。
女性は怒らせるものではありません……。
「さて、と」
そのことを痛感した男たちは許可があるまでけして席に戻ろうとしませんでしたが、そこで新たな問題が発生します。
蒸し風呂の扉を玲麟が閉めるや、摎が己の着衣に手を付けたのが原因でした。
「待て摎! 貴様なにをする気だ!?」
思わず腰を浮かせてがなり立てる昌文君でしたが、その反応に眼を瞬かせた摎はこう宣いました。
「何って服を脱いで裸になるのよ。そうしなきゃみんなのお世話ができないじゃない」
「そうだよ、おじさん。あの娘たちにもそう約束しちゃったからね。わたしたちも裸にならなきゃ始まらないでしょ」
躊躇いもなく上着をはだける摎と、漢服の帯を解く玲麟は本気なようで、昌文君と綺丹公主は耳まで真っ赤になりました。
「あ、阿呆か貴様は!? そんな理由で未婚の娘が男に肌を見せるなど……」
「未婚じゃないよ。内緒だけど既婚者だもん、わたしは」
「最近の娘は進んでるわね……まあ、そんなワケだから、爺やも安心してご奉仕されなさいな」
「いやならん! 断じてならんぞ!! よいか、男女三歳にして席を同じうせずと言ってだな……」
「もー、おじさんうるさい。そんなにわたしたちの裸なんて見たくないって言うんだったら……はい、これならもう文句はないでしょ?」
生真面目な昌文君は最後まで抵抗しましたが、玲麟の手拭いで目隠しをされるとガックリと肩を落としました。
その惨状に残りの男どもは自発的に目隠しをしましたが、そのなかの何人かは半笑いでした。
ともあれ、これでようやく状況が整いました。
摎と玲麟は大胆に、綺丹公主は躊躇いがちに生まれたままの姿になったあと、持参した湯浴みを着用。
高貴な女性が裸と信じて疑わない男たちを茶目っ気混じりに世話したものです。
「はい、お爺さん、これ受け取ってね」
「お? これは酒か?」
「そうだよ。兄様が言うには入浴中の飲酒は健康に悪いみたいだから、ちょっとだけね」
「クゥー!! なんともできた娘ではないか……!!」
「はい、こっちの男の子は林檎の果汁ね」
「あの、僕はこう見えても成人してるんですが……」
「輪虎だけに林檎の果汁か! ヌハハ、これはシャレが利いとるわ!!」
「そこ、さっきからやかましいですよお爺ちゃん」
「王騎様もどうぞこちらを。騰も少しだけ……ちなみに爺やは無しよ」
「なにゆえっ!?」
「玲麟の話を聞いてなかったの? 爺やも歳なんだから、こちらの
「ぐぬぬ……」
「うふふ。鳳明様と田建様も柑橘類の果汁をどうぞ」
「おい、
「当然です。見るからに不健康な田建様に飲酒を許したばかりにお倒れになっては、私は思涵様に申し訳が立ちません」
「ぬぅ……おのれ、的確に我の弱みを突きおってからに……」
「ここは落ち着きましょう王建王。ここで綺丹に逆らっても、より手強い玲麟と摎さまが出てくるだけですよ」
そんな男どもの反応を大いに楽しんだ彼女たちが行ったご奉仕は、入浴中の飲み物の差し入れだけではありません
専用の麻布を使った垢擦り。そして掛け湯。これにより適度に冷却した男たちは心地よい発汗をいつまでも楽しむことができました。
そうして心身ともに寛いだ男たちは、若干の例外を除いて生まれつき心臓に毛が生えていたり、戦場育ちで肝が太かったりするわけですから、当初の恐縮も何処へやら、しだいに軽口を叩くようになります。
「フフッ……しかし王騎よ。まさか貴様らとこんな時間を過ごすことになるとはのぅ。ついこの前まで想像もしなかったぞ……」
「おやおや、私の片想いですかァ? 私はいつか
「言うな、王騎。お互い立場があろう。儂らの失脚を狙う馬鹿どもに、密通の嫌疑をばら撒くわけにもいくまいよ」
「フンッ。廉頗と王騎ほどの男でも小人どもの妬みを買うとは、両国の程度が知れるな。
敵味方など立場の違いでしかない。敵だから憎まねばならんと低能どもはしきりに捲し立てるが、そんな害虫の駆逐も王の仕事……なあ鳳明よ。少なくとも我たちの宮廷にそのような不届者は一人もおらんと言ってやるがいいさ」
「アナタ誰ですかァ?」
「……斉の田建だと名乗ったのを忘れたのか、貴様」
「いえいえ、もちろんお名前は承知していますよ。……しかし妙ですね。私の知るアナタは会話を成立させることも困難な狂王だったはず。だというのにいきなり賢しげなこと言い出すものですから、以前の印象と合致せず……ああ、なるほどォ? ンフ、そういうことでしたか、ンフフフフ」
「……何が言いたいのだ貴様は」
「おやおや、訊かれたからには答えないわけにワケにはいきませんが……何しろここには目も眩むばかりの美少女が揃ってますからねェ? アナタなりに格好付けて気を惹くのに必死だったと思うと可愛らしいじゃありませんか。貴方もそう思うでしょう騰ォオオ?」
「ハッ。勃起ものですな」
「くっ、ぬぐぐ……好き勝手ほざきおって……」
これも年季、あるいは役者が違うということなのでしょうか。こんな無様にあしらわれたままでは王の沽券に関わるとばかりに、なおも食い下がる気配を見せた王建王でしたが……。
「ひとついいですか、田建さま」
「……なんだ、鳳明」
「あのですね。王騎将軍とか廉頗将軍みたいに、この人には絶対に敵わないなって人に絡まれたら、とりあえず何を言われてもニコニコしてるのが一番ですよ。そうしたら周りの人もなんて寛容なお方だって勝手に勘違いしてくれますから」
「………それは己の経験から得た教訓か」
「はい、だいたいそんな感じです」
今度こそたまらず吹き出す王建王は、どうやら恥の上塗りだけは回避したようです。
「いや、失礼したな。王騎に廉頗よ。両国を下に見る発言を撤回して正式に謝罪しよう」
「ヌハハ、構わん構わん。儂らの朝廷に蛆が湧くのは紛れもない事実よ。それもあまりの多さに害虫退治の専門家である藺相如が辟易するほどなァ」
「ンフフ、ありましたね。あれほどの大軍を与えて守るばかりの廉頗将軍は臆病者だとかいう、聞くに堪えない誹謗中傷が。
半分はこちらの朝廷が言わせたんでしょうけど、もう半分はどこから出てきたんですかねェ?」
王建王も謝罪して、和やかな会話は何事もなく続いていくと思われた次の瞬間。
「フン、知れた事。上党郡という新領土獲得のために多額の投資を行なってる者どもに決まっておるわ」
……また空気が変わった。思わず手を止めた摎は苦虫を噛み潰したような廉頗の貌に驚きました。
「魏斉はどうか知らんが、儂らが50万を超えるような大軍を何年も維持するのは無理だ。
ゆえに
藺相如のおる趙の宮廷すらそうなのだ。ならば武力による領土拡大派しかおらん咸陽の者どもは、はたして此度の決着をどう思っておろうか……」
その指摘に鳳明の垢擦りをしていた摎は不安気に王騎を見やり、少年の二の腕に爪を立ててしまいました。
いけない──幸い皮膚は突き破らなかったものの、痛かっただろうと鳳明に振り返ると、ニコリと優しく
「王騎、悪いことは言わん。このまま魏国に亡命しろ。もはやあの国に貴様の居場所はない。無理に帰国したところで貴様を待ち受けるのは、毒殺か獄死、もしくは処刑……儂は、貴様ほどの男がそんなくだらん死に方をするなど……とても耐えられんわ……」
そこで王騎は分厚い唇を開きかけて、結局、何も言わないまま口を閉ざしました。
彼も、わかっているのです。
あのときに、独断で戦線を離脱しようとしたときに胡傷が見せた激しい憎悪は、きっと彼だけのものではなく、同じ志のもとに邁進してきた秦人の誰もが抱くモノだと。
事態はもはや、昭王との個人的な信頼だけではどうにもならないと……。
「いえ、どうかご安心ください、廉頗将軍」
そんな痛ましい空気の中にあって、鳳明の穏やかな声が静かに反響しました。
「……やめろ鳳明。お前がそこまですることはない」
同じ視点を持つ王建王がただちに諌めますが、静かに「やめません」と返した鳳明はなおも続けました。
「私も、今すぐ王騎将軍が帰国することは危険だと思います。ですから王騎将軍が大手を振って帰国できるように力を尽くします」
「……具体的にはどうやってだ? 合従軍でも組織し、王騎に手を出したら攻め滅ぼすと脅迫でもするつもりか?」
それなら是非とも参加させろと言わんばかりに
「それは最後の手です。その前に話し合います。場合によっては私自身が咸陽に乗り込んで、必ず」
「鳳明!!」
とうとう王建王は立ち上がってしまいましたが、こうなると鳳明は頑固です。止まりません。
「王騎将軍もどうかご安心を。昭王は必ず理解してくださいます。僕もその為に力を尽くします」
「鳳明サン。貴男は──」
目隠しの手拭いを伝って、王騎の膝に熱いものが滴り落ちます。
鳳明の無垢な信頼──その正体に気づいた王騎は
……たしかに、王騎は船上の会談において昭王の真実を鳳明に聞かせました。
本当は平和を願う王なのだと。
永劫とも思える戦乱の犠牲になる民を救済するために、その身を削ってまで闘い続ける勇気ある王なのだと。
だから、鳳明は信じたのです。
征服者の立場でありながら和平に尽力した王騎が愛してやまない昭王を。
王騎が語った昭王を、呉鳳明は信じて疑わず──。
「鳳明様ッッ」
そう悟ったとき、摎は恥も外聞もなく鳳明に抱きつきました。
はしたないことをしているとはこれっぽっちも思わず、むしろこんなコトではこの気持ちを伝えきれないとばかりの熱烈さで。
「……物好きめ。もう止めん。貴様の好きにしろ。我も協力してやる」
「ありがとうございます、王建王。……つきましては廉頗将軍の仲介で趙国にも協力願いたいのですが」
「ヌハッ、それこそ儂の本懐というものよ。任せるがいい。藺相如だけではなく、平原君と平陽君の小僧っ子の尻も
ここで長々と経緯を語っても意味がありませんから結果だけ書きます。
「ヒョヒョヒョ。それで儂の出番となったわけじゃな、魏安君よ」
「はい、蔡沢様。これまでは咸陽の宮廷も連戦連勝のため聞く耳を持たなかったでしょうが、上党郡全土の征服に失敗した今ならこちらの意見も通るでしょう」
「うむ。おそらく范雎を失脚させるだけでは不十分であろうが、儂も昭王が耄碌したとは思っておらん。この蔡沢、必ずや咸陽の宮廷工作を成し遂げてみせるぞ」
その日のうちに王建王の伝手を使って旧知の蔡沢と接触した鳳明は、王騎の安全な帰国を実現するために全力を尽くしました。
船と手配。軍資金の贈与。秘密裏の入国。見事に気取られることなく秦の王都・咸陽に潜入した蔡沢は、ほどなく──。
「のぅ、范雎よ。おぬしは魏冄を追い落として秦の相国(宰相のこと)となったが、おぬし自身が誰かに足元を掬われないとは限るまい。おぬしも身に覚えがあろう。あまり長く権力の座にあるのは危ういぞ。そろそろ潮時と弁えたほうがおぬし自身のためじゃて」
「────」
まるで何者かの内諾を得ているかのような蔡沢の引退勧告に、范雎は天を仰ぎ見て自己の命運を悟るのでした。
こうして新たな宰相に任ぜられた蔡沢は精力的に働き、一月も経つ頃には国内の反対派を、ほぼ一掃して朝廷を掌握。
王騎は罪人ではなく、これまで通り六代将軍のひとりとして帰国できる運びとなりました。
そしてその一報が届けられ、盛大な祝宴が催された夜のこと──。
「う、ん…………摎さま?」
「……うん。ごめんなさいね、鳳明さま。こんなはしたない真似をして……でも綺丹公主の許可は頂いたわ。もちろん、王騎様のも……」
「し、しかし……」
「お願い。私もこの一月あまり、ずっと鳳明さまに喜んでもらうにはどうしたらいいか、って……考えてたん、だけど……他に、お礼が、思いつかなかった、の……」
「摎、さま」
「だから、お願い……もう少しだけ、寝たふりをして……それと、私のことを、嫌いにならないで……」
「……はい、摎さ、ま」
外から差し込む街明かりを遮る窓掛けは厚く、闇に閉ざされた室内の様子は誰にもわからない。
漏れ出す吐息は熱く、切なく。
時折り粘つく液体を掻き混ぜるような音を交えて。
ギシギシと寝台の軋む音だけが不規則に聞こえてくる、そんな静かな夜の出来事でした。
ちなみに摎将軍の騎乗スキルは遺憾無く発揮されたようです。