天下の大宰相・呉鳳明伝   作:後世の歴史家

26 / 33
昭襄王の暗殺(1)

 

 

 

 中華を等しく震え上がらせる西戎──即ち秦は、何故あれほどの覇権を確立せしめたのか。

 

 趙の藺相如や斉の田建はこの理由を解き明かすために、秦の歴史や法制度などを徹底的に研究したといわれます。

 

 

 なるほど。難攻不落の関中盆地を本拠地とする秦には、外から入ってくるモノを選べるという地理的な優位がある。

 

 春秋五覇に名を連ねる穆公の死後、功臣177名の殉死により覇権国家から転落しながらも滅亡を免れたのは、外敵の侵入すら制限する上記の構造ゆえ……。

 

 そして冬の時代を生き延びた秦は、商鞅の変法(改革)により劇的に生まれ変わる。

 

 

 戸籍を設け、民衆を地縁的な隣保組織に押し込み、それまでの氏族社会を解体。

 

 これにより朝廷がすべてを差配するようになった秦は、徹底的な合理化を成し遂げて軍事国家へと変貌──相互監視と連帯責任に基づく什伍の制は兵の怯懦(きょうだ)を赦さず、王と朝廷の下、全員が同じ方向を向くことを強制された。

 

 

 ……そんな国で王騎将軍は事前の想定にない講和を推し進めたのです。

 

 その反発は趙の廉頗将軍が危惧し、本人に警告したとおり凄まじいものがありました。

 

 

 

「──なにが魏安君主催の合同慰霊祭に出席するだ! ただちに帰国して昭王に弁明しろと伝えろ!!」

 

「相国のおっしゃる通りだ! 王騎めのやりようは職権濫用の利敵行為ぞ!!」

 

「オオッ、もはや王騎の自発的な帰参など待つまでもない。白起を魏国に差し向け、王騎ともども魏安君を捕えるべきだッッ」

 

「うむ。長平に援軍を派遣したことからも魏安君の敵意は明らかよ。まずは問責の使者を派遣して誠意ある回答が得られなければ、この機会に魏国を滅ぼすことも検討すべきだ……!!」

 

「昭王よ! お聞きのように趙とは一時休戦でよろしいかと存じますが、王騎と魏安君にはただちに別の対処が必要です。どうかご裁可を!!」

 

 

 自身の膝元から苛烈な強硬論が沸き起こるのも至極当然。

 

 范雎らが不服従の姿勢を見せる王騎だけではなく、たび重なる敵対行動をとる魏国と呉鳳明らを問題視するのも当然でしたが、苦々しく沈黙したままの昭王は何の方針も示しませんでした。

 

 それもそのはず。彼のもとにはこの件を判断できるだけの情報が無かったからです。

 

 

「范雎よ。その件を判断する前に、だ……何か儂に報告すべきことがあるのではないか?」

 

「……いいえ。手元に上がってきた報告はすべてお伝えしておりますれば」

 

「白起から呉鳳明が鋼鉄の巨船を用いたと聞いたが、これはそなたの手元にはなかった情報か?」

 

「はい、申し訳ありません。もし兆候を掴んでおりましたら破壊工作を命じましたが、信陵君の情報統制が苛烈で」

 

「わかった、もう良いわ。……魏国に問責の使者を派遣することを許すが、懲罰軍の立ち上げは赦さぬ。良いな。必要な情報が出揃うまで軽挙妄動は慎めよ」

 

「『……ハハッ』」

 

 

 そう命じて群臣に退去を命じた昭王は孤独に苛まれました。

 

 

「──おかしい。何がおかしい。王騎が儂に背くわけがない。もし仮にそうなるとしたら、それはこの儂が王騎の期待に背いたときよ。

 だが、儂は忘れておらん。この中華に王道楽土を築く。その誓いを、その夢を、儂は、決して……」

 

 

 おかしいことは他にもある。呉鳳明だ。なぜ彼奴(あやつ)が戦争になど手を突っ込む?

 

 范雎から伝え聞いた呉鳳明の人物像は、周囲の大人に褒められたいが為に国を富ませる能天気な子供であった。

 

 ならばこそ放っておいても害はないと認め、収穫を後回しにしたというのに、よもや秘密裏に小さな城ほどもある鋼鉄の巨船を建造して、白起の策を妨害するとは……。

 

 

「……そんな余裕があるなら、呉鳳明はもっと別のことに使う。その見立てに誤りがあったということは、儂は范雎に謀られておったのか?

 国外の間者が掻き集めた情報を取り仕切り、征伐の順序を儂に助言しておるのは彼奴よ。ならば魏冄のように、己の利の絡む戦いを捩じ込んできたか?

 いや、鳳明を過剰に危険視して、儂に征伐を勧めてくるなら警戒するが、むしろ逆なのだ。

 なんだ? 儂の目が鳳明に向きすぎるとまずい理由でもあるのか……?」

 

 

 正しい情報がなければ正しい判断は下せません。

 

 疑心暗鬼になりかけた昭王は早々に後宮へ引っ込み、ここ数年の文官らの奮闘により紙面に整理された情報を洗い直しますが、答えはやはり見つかりません。

 

 急に見えなくなった中華の舵取り。王騎の離反と范雎への疑念に揺れる昭王は焦燥に駆られます。

 

 

「……このままでは間に合わん。世情から切り離された宮内しか知らぬ専制国家を滅ぼし、名君がおらずとも善政を敷く……王と民とが共に生きる法治国家の統一王朝が、儂の代で完成せぬ。

 儂が死ねば、すべて元の木阿弥。無意味な戦乱が永劫に続いてしまう。何か……何か手はないのか……?」

 

 

 昭王に己の血を受け継ぐ子は数居れど、そのなかに父祖と同じ道を歩まんとする者は現れませんでした。

 

 同志は王騎ら秦六将の他には、ほんの数人程度──なれども、そのなかにこの人物が含まれていたことは昭王にとって幸運でした。

 

 

「ヒョヒョヒョ。苦労なさっておられるようですな、昭王よ」

 

 

 不意に物陰から現れて、気さくに声を掛けてきた老人の名は蔡沢。昭王が心より信任して、自己の代理人として諸国を巡回させた専任の外交官が間に合ったのです。

 

 答えの出ない思索に疲れた昭王の顔が親しげな笑みに染まります。

 

 

「蔡沢か。いつ帰国した──というか、どうやってこの離殿まで侵入してきた?」

 

「ヒョヒョッ。それはもう、隠し通路を駆使して、ですな。いや、おかげで苦労しましたぞ」

 

「クフッ、見つかるなよ。ここも男子禁制の後宮に含まれるからな。宦官どもに見咎められたら庇いきれんわ」

 

「いやはや、心配ご無用じゃよ。信陵君の手も借りましたが、范雎めの監視網に比べれば宦官など案山子のようなもの……ここで下手を打つようでは、まんまと出し抜いた彼奴に申し訳ないというものですじゃ」

 

 

 その言葉に昭王がピクリと反応します。それだけで昭王はすべてを理解したのです。

 

 

「……そうか、范雎め。そういう事か」

 

「やはり儂のあげた報告は彼奴に握りつぶされておりましたか」

 

「うむ、蔡沢よ。そなたが危険を冒してでも儂の元へ駆けつけたということは、やはり?」

 

「はい、昭王よ。この儂が見るに、斉の王建王と魏の呉鳳明は民に寄り添い、まことに善い政をしております。范雎めの妨害もあってお伝えするのに時間が掛かりましたが、その分だけ余計に見極めた今こそ自信をもって報告できます。

 あの二人こそ昭王の夢を託せる後継者です。貴男(あなた)の歩みは彼らの為にこそ有益でした、と……」

 

 

 もはや昭王は孤独に震える老人ではありませんでした。疑念と焦燥に駆られる独裁者ではいられませんでした。

 

 クッと喉を詰まらせた昭王の落ち窪んだ眼窩から熱いものが溢れてきます……。

 

 

「……会いたいな。会いたいぞ、今すぐ。鳳明と田建を呼び寄せるのは可能か、蔡沢」

 

「今までが今までですから、不可能でしょうな」

 

「相変わらずはっきり言いおって……もう少しなんと言うか、こう、手心というか……」

 

「無理なものは無理じゃ。和氏の璧や黽池の会の顛末を聞き及んで、それでもなお昭王と会わんとする物好きはおらんよ」

 

「ううむ、やはりそうか……ならば儂から会いに行くというのは?」

 

「ならば足元を固めてからにせんか! 言っておくが今まで右だけを向かせていたものを真ん中に戻すのは容易ではないぞ!?」

 

「わかっておる。……まずは范雎だな」

 

「うむ、彼奴には儂から引導をわたす。しかるのちに次の相国を選定せい。これまでの武力による領土拡大路線一辺倒ではなく、他国と交易する利を十分に理解しとる、そんな人物をな」

 

「それなら心当たりがある。今の中華の実情を誰よりも理解し、魏斉両国と手を結ぶ利を誰よりも雄弁に説明できる男だ」

 

「……嫌な予感がするが、誰じゃそいつは」

 

「ふふ、蔡沢という男だが、そなたはどう思う?」

 

「言うと思ったわい。……儂ものぅ、そろそろ長旅はしんどいから隠居でもして、開封に引っ込もうと思っておったのじゃが?」

 

「クフフ、逃さんぞ。范雎の後任がそなたならば諸外国も安心するし、宮廷の者どもも風向きの変化をそれとなく察して口を噤もう。是が非でもやってもらうぞ」

 

「仕方ないのぉ……その代わり、事が落ち着いたら後任を推薦させてくれ。それで引き受けるわい」

 

「ほう? そんな男に心当たりがあるのか」

 

「うむ。今は開封を拠点とする商人だが、かなりのやり手よ。魏安君の推進する政策にも明るく、政のなんたるかをよく理解する男じゃ」

 

「なるほど、それならば安心して任せられるか」

 

「まあ相当な野心家ゆえ盲信は危険じゃがな。しばらくは相国として用いるのではなく、丞相に据え置くのが無難じゃが……ともあれ、范雎のことは引き受けた。彼奴にも魏冄を追い落とした負い目があるから、割とすんなり行くじゃろ」

 

「クフフ、頼もしいな。ではな蔡沢。期待しておるぞ」

 

 

 かくして昭王と蔡沢の秘密裏の会合は終了して、事態はさっそく動き出します。

 

 

「のぅ、范雎よ。おぬしは魏冄を追い落として秦の相国となったが、おぬし自身が誰かに足元を掬われないとは限るまい。おぬしも身に覚えがあろう。あまり長く権力の座にあるのは危ういぞ。そろそろ潮時と弁えたほうがおぬし自身のためじゃて」

 

「────」

 

 

 このとき范雎は一切の抗弁を行いませんでした。

 

 自身にとって不都合となる人物が目の前にいる事実は、天を仰ぎ見る范雎に己の命運を悟らせるのに十分でした。

 

 後日、みずから後任の相国に蔡沢を推薦した范雎は、昭王にこれまでの働きを感謝されるとともに多額の慰労金を下賜され、円満に引退したかに見えましたが……。

 

 

「……このままで済ませるわけにはいかぬ。昭王は道を誤らんとしている。儂はこの国の相国として最後の務めを果たさねばならん」

 

 

 しかし、自領の屋敷に引っ込んだ范雎は、まだ何も諦めていませんでした。

 

 

「朱髯よ。抜かりなく通達しておろうな?」

 

「ハッ。古巣の朱凶は無論、号馬、堅仙、赫力、そして蚩尤らに、それぞれ支度金壱萬と、成功報酬拾萬の条件で依頼を」

 

「……そうか。ならば条件を引き上げる。魏安君の首級に追加で弍拾萬。信陵君と呉慶の首級は追加で拾萬だ」

 

「大盤振る舞いでありますな」

 

「それだけの価値がある。安易な迎合は問題の先送りにしかならぬ。昭王の夢は、この儂の命に換えても、必ず──」

 

 

 そこで熱弁を奮いかけた范雎は、ふと気がついた。

 

 閉め切った屋敷の奥だというのに、なぜか風を感じる。それに、周囲も妙に静かだ。

 

 厳重な防諜体制下の密議だというのに、儂は何故、こんな不安に……?

 

 

「朱髯? これ朱髯、答えぬか──」

 

 

 そこで范雎が目を剥き、信じられないものを目にする。

 

 朱髯の首に横一文字の赤い線が走り、何度か瞬きした頭部が音もなく脱落する。

 

 

「なっ……!?」

 

 

 鮮血は一滴も噴き出さなかった。朱髯の首を両断したモノがあまりに(はや)すぎて、残された肉体が己の死を見過ごしたかのような光景だ。

 

 刺客どもとの折衝を任せた部下が目の前で死んだ。そう認識するや──。

 

 

「者ども賊だ! 何者かが儂の屋敷に忍び込んでおるぞ!!」

 

 

 即座にそう叫んだ范雎は、やはりさすが(・・・)であった。

 

 おそらくは朱髯を手に掛けた下手人も、大秦国范相国の覚悟を目にしたに違いない。

 

 だが、この今生の際においては何もかもが遅すぎた。

 

 

「誰かある! 誰か、誰もおらんというのか……!!」

 

「……そうだ。もはや貴様しか残っておらぬ」

 

「何者だ! この儂に用があるというなら姿を見せよ!!」

 

 

 その誰何(すいか)に、目の前の闇が不気味にうごめく。

 

 

「……ッ」

 

 

 なぜ気付かなかったと、范雎は奥歯を軋ませる。

 

 如何にこの闇に溶け込むような外套を纏っていようと、これだけの巨躯。さらには髑髏の面と、白磁の甲冑──そして何より、これほど馬鹿でかい大剣が振るわれたのを今まで見過ごしていようとは。

 

 

「何者だ? 名を名乗れ。貴様の要件はその後に聞く」

 

 

 答えぬか──そう思った矢先に返答があった。

 

 

「我は彼方より墜とされし災厄の化身。龍の撒き散らす臓腑(はらわた)に埋もれし荒野をさすらう者。真理と摂理の求道者。天の新たな采配により現出せしめた王道楽土の守護者也」

 

 

 ……いや、これは返答ではない。宣告だ。

 

 

「貴様が手配した刺客はすべて始末した。だが、貴様は殺さぬ。奴が望まぬのもあるが、貴様の手引きはこの中華に害悪をもたらすものばかりではなかった。故にこの場は見逃す」

 

「……………」

 

 

 髑髏の剣士がそう告げたとき、范雎は何も言わなかった。息ができなかったからだ。

 

 

「もっとも、貴様が再び王道楽土を侵さんとしたとき、我は再び現れよう。拾った命を惜しいと思うならば、この武神の警告を重く受け止めることだ……」

 

 

 ──後世の歴史家である司馬遷は、史記の『范雎蔡沢列伝』のなかで、范雎についてこのように述べています。

 

『范雎の宰相としての功績は、前任者の魏冄にも、後任者の蔡沢にも遠く及ばないが、彼がこの時代で果たした役割は、結果として比類なきものとなった。

 何故なら范雎は呉鳳明登用前後の魏国にとっては最良の敵だったからだ。

 仮に魏冄が秦の相国に留まっていたら、盟友の白起とともに滅亡寸前まで追い詰めた魏国を見逃すはずがない。范雎が魏冄を追い落として他国に目を向けてくれたからこそ、呉鳳明は数々の政策が実を結ぶまでの最も危険な数年間を生き延びる事ができた。これほど今の中華にとって有り難いことはないからだ』

 

 

 また、NNNの大河ドラマ『鳳よ、麟よ、龍よ』の脚本を手掛けた歴史小説家の南冲尋定氏も、范雎という敵役を皮肉たっぷりにこう称賛しました。

 

 

『まあ色々と言われていますが、范雎の功罪のうち罪の部分は意外と少ないんですよ。彼が鳳明の伝聞を握りつぶしたのも、何しろ相手が昭王ですからね。下手に興味を惹かせたらすぐ会いに行って、意気投合する未来が容易に想像できたんですよ。そうなったら秦の中華統一事業にどんな影響があったかわかりませんからね。あまり責めるのも可哀想かなって。

 それに范雎が他に目を向けてくれたおかげで、僕も地上波で喘ぎ声と物音だけですが濃厚な濡れ場を描けましたからね。鳳明だけじゃなく僕にとっても恩人ですよ、恩人』

 

 

 本人の手記が見つからないことから、彼が自身の行跡をどう思っていたのかは不明ですが、蔡沢の孫にあたる人物の記録によると、潔く身を退いた范雎は開封に移って長く生き、権勢とは無縁の一市民として世を去ったとあります。

 

 范雎の遺体を発見した家族は、その首筋に赤い線があることに気がついてしばらく不安に思ったそうですが、すぐに忘れたとのこと。

 

 呉鳳明の暗殺を試みる政敵の前に現れる髑髏の剣士も諸説ありますが、後世に数多ある演義にのみ登場する創作上のキャラクターであるというのが通説です……。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。