天下の大宰相・呉鳳明伝   作:蘇芳ありさ

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昭襄王の暗殺(2)

 

 

 

 王城や宮殿には図面に記さぬ謎の余白がある。表向きは存在しないとされるが、王と限られた側近だけが有事の際にしばし活用する隠し通路──。

 

 

「こっちじゃ。こっちじゃ王騎。そっちはご婦人としっぽりやるための部屋じゃから、残念ながら今は不在じゃよ」

 

「ンフフ、まるで昭王の密通を匂わせるような口ぶりはおやめなさいな。主語も明らかにしてませんし、どうせご貴方自身が活用してるのでしょうよ」

 

「ハッ。とんだ助平爺ですな」

 

 

 秘密裡に帰国した王騎は先導する蔡沢を皮肉いっぱいに揶揄(からか)いながらも、はやる心を鎮めるよう左胸を押さえ、深く息を吸い込む。

 

 

 ……この先に昭王がいる。

 

 以前と変わらず自分を信任して、この国の行く末を論じる密議に招いてくれた昭王が。

 

 そう思うと、王騎はこれまでのすべてに感謝する気持ちでいっぱいになります……。

 

 

「やれやれ。儂はやはりおぬしが苦手じゃ。まったく、儂のような老耄を子供のように揶揄うなど……おお、これじゃこれじゃ。よし、開けるぞ」

 

 

 はたして、王騎の期待は最大限に報われました。

 

 存在を秘された空間ゆえに清掃が行き届いていないのか、多少は埃っぽくはありましたが、開封でよく見かける 蘭橙(ランタン)の灯火に照らされた小部屋には、紛れもない昭王その人が親しげな笑みを浮かべて──。

 

 

「おおっ、待ちかねたぞ王騎。騰と昌文君もよく来てくれた」

 

「……申し訳ありません。蔡沢様がもう少し有能でしたら、ここまで昭王をお待たせすることもなかったんですがねェ」

 

 

 万感の想いで平伏した王騎はそれでも彼らしく憎まれ口を叩き、昭王と副官の顔をほころばせます。

 

 

「のぅ、昭王よ。やはりコヤツは不敬罪か何かを適用して、この機を逃さずきっちり懲らしめておいた方がいいのと違うか?」

 

「クフッ、それなら現場を混乱させた罪で魏国との折衝を命じるか? 開封に二年ほど赴任すれば、さすがの王騎も咸陽のメシが恋しくなって反省するだろうて」

 

「アホか! あの街のメシと張りあえるつもりでおるのか!? そんなのご褒美以外の何物でもないわい!!」

 

「ほほぅ? 各国の美食を飽食して、いささか食傷気味とまで漏らしたそなたまで絶賛するとは……これは儂も開封に行くのが楽しみになってきたわ」

 

「ンフフ、そうおっしゃると思いまして、身辺を騒がせたお詫びがてら開封の土産をこちらに」

 

「おっ? これは初めて見るものだが、何と言うのじゃ?」

 

「これは大変な珍味で、現地では酒の肴として愛されている烏賊(イカ)の燻製ですよォ」

 

「……そこまで言うのだ。当然、一緒に()るヤツも持参しているのであろうな?」

 

「勿論ですよ。最上級の清酒は当然として、新作の玉蜀黍(とうろこし)を主原料とした蒸留酒(バーボン)に、砂糖黍(さとうきび)のラム酒……他にも、他にも……」

 

「おおっ!? 赦す、儂は赦したぞ蔡沢!! これより王騎の罪を論じるのは禁止じゃ。よいな、蔡沢──」

 

「やれやれ、やはりこうなりよったか。……騰に昌文君よ。飲みすぎるなと言って聞くような昭王でもない。お主らも席について、せめて昭王の持分を減らしてくれ」

 

「ハッ、蔡沢さま」

 

「……御意」

 

 

 こうして非公式の謁見はなかば宴会の様相を呈しましたが、生真面目な昌文君も異論を差し挟もうとしませんでした。

 

 若き日の昭王はしばし前線を視察して、戦友たちと酒を飲み交わすことを喜びとしました。

 

 そうした日々を昭王や王騎たちだけではなく、彼もまた懐かしく思ったのかもしれません。

 

 

「うむ、旨いな。これは実に旨いぞ。秦は魏国が主催する水運事業に参加していないため、かなりの割高となる陸路で運搬されたものになるが……それでも開封の酒が飛ぶように売れているというのも納得よ」

 

「ンフ、酒とつまみだけではなく、日々の食事と茶菓子も最高でしたね……。他にも鳳明サンが幾つか持たせてくれたものがありますから、昭王も是非ともご賞味くださいな」

 

「そいつは有り難い! 実は私的に購入した茶葉と日持ちする菓子はあるのだが、陸路となると生菓子はどうしてもな」

 

「ええ。そちらは携帯用の氷室に保管してますが、開封から咸陽まで三日……早めにお出ししておきますか」

 

「クフフ、酒のつまみに菓子か? それもいいが、ところで摎はどうした。開封に待たせておるのか?」

 

「摎は長平の戦傷が悪化して亡くなったことにしました。そうしたほうがあの娘の為になると思いましてね」

 

 

 その言葉に昭王が目を瞬かせる。

 

 王騎の言葉が足りないと思ったのか、昭王が誤解する前に報告を継ぎ足したのは昌文君でした。

 

 

「──摎は()の咸陽に連れ戻すのは危険と判断しまして、王騎らとよく協議した上で、身柄を魏安君に預けて参りました」

 

 

 それは咸陽の政情をよく理解していないと出てこない言葉でした。

 

 新たな腹心と目を合わせた昭王は、「さすがよ」と鋭い犬歯を剥き出しにして昌文君を称賛しました。

 

 

「やはりそなたは政治家向きだな。どうせ武将としては頭打ちなのだ。ここらで文官に転身して蔡沢の後釜を狙ってみんか?」

 

「ヒョヒョヒョ、未来の大宰相・昌文君か。儂も見れるものならぜひ見てみたいのぉ」

 

 

 昭王と蔡沢がどこまで本気で言っているのか不明ですが、全体的な評価としては絶賛されたのです。

 

 昌文君は無理にでもそう思い、納得しました。彼の頭上からガビーンという音がしたのは、たぶん気のせいです。

 

 

「さて、儂も飲みすぎるなと言われたのもあるし、昌文君が水を向けてくれたのもあるから、そろそろ政治向きの話をする。そなたらはそのまま手を休めず聞いてくれ。──では頼むぞ、蔡沢よ」

 

「結局おぬしも飲むんかい!」

 

「これで最後じゃ。見逃してくれ」

 

 

 蔡沢は透き通るようなガラス製の杯に、ラム酒をなみなみと注ぐ昭王の未練たらしさにため息をこぼしましたが、やはり本気で止めるつもりはないらしく、自身も舌の上で蕩ける 乾酪(チーズ)を摘みながら王騎らに説明しました。

 

 

「おぬしらも既に存じておるように、秦はこれまでの政策に多少の修正を施し、まずは魏国との連携を目指す」

 

「ンフフ、多少の次は連携ですか。蔡沢様はいつから言葉を偽るように?」

 

「やかましいわ! そういうコトにしておかんと国内の理解を得られんのじゃ」

 

「……なるほど。対外的には外交努力による連携を呼びかけ、国内の主戦派には外交圧力による併呑を目指すと説明するが、中身は丸ごと同じというわけですな」

 

「おっ? 騰もなかなか筋が良いな。……如何にも。我らはこれより秦魏合一を目指すが、そこに至るまでの道筋は容易ではない。故に無用の反発を避ける為にも、ここでの話は他言無用で頼むぞ」

 

 

 ──秦魏合一。

 

 その言葉から読み取れる政治的センスは、歴戦の武将らを高揚させてあり余りました。

 

 

「幸いにも蔡沢が連絡を密にとってる信陵君らの反応も悪くない。もともと呉鳳明の登用以降、魏国は儒家よりも法家を重用して、よく似た制度を運用しておる。よって今すぐとはいかんが、将来的な合併は十分に可能であると判断した」

 

「ヒョヒョヒョ。そうして秦と魏がひとつの国となり、斉とも連携すれば、事実上、中華の統一は成し遂げたも同然じゃ。

 魏に大きな借りのある韓はおそらく率先してこの連携に加わるだろし、藺相如亡き後の趙や、僻地に押し込められた燕と楚がこれに抗おうとしても、彼我の国力には圧倒的な開きがある」

 

「それでも挑むというなら、その時はそなたらの出番だ。これより先は中華の安寧を守護する防人としてよろしく頼むぞ、王騎よ」

 

「──必ずやご期待に応えてみせますとも、昭王」

 

 

 やはり、信じて正解だった。

 

 王騎は会ったこともないのに昭王を信じてくれた鳳明に()い報告ができると、その特徴的な口元に笑みを浮かべるのでした。

 

 

「ともあれ先にも言ったが、そこに至るまでの道筋は困難を極めるだろう。これまでの常勝の日々を懐かしく思う主戦派があっさりと融和路線に鞍替えするとは思えぬ。そういう意味でも摎を鳳明に預けたのは英断であった」

 

 

 昭王の指摘に王騎らはこぞって頷きました。

 

 彼らが摎の同行を許さなかったのには深刻な理由があります。

 

 

 摎は非公式ながら昭王の血を引いています。

 

 よって、これまでも彼女の正体が露見したら後継者争いに巻き込まれる可能性がありましたが、今はより深刻で──場合によっては融和路線に転じた昭王を主戦派が暗殺して、その首をすげ替えることもあり得るのです。

 

 己の生命よりも大事な娘を父親の血に塗れさせるなどあってはならない。王騎らはそんな覚悟で全幅の信頼を寄せる呉鳳明に摎を託したのでした。

 

 

「とりあえず、咸陽の朝廷は儂と蔡沢に任せろ。王騎らは開封に急ぎ帰還し、呉鳳明の身辺を警戒しろ。儂らが調べたところ、早くも刺客らしき者どもに動きがあった。……秦魏合一が成ったところで、担い手たる鳳明に死なれたのでは悔やんでも悔やみきれん」

 

「刺客の標的が昭王である可能性は? 私なら貴男の身辺警護も十分に務まると思うんですがねェ……?」

 

 

 そこで情理を尽くし、呉鳳明の傍にあるよう依頼する昭王に、王騎は少しだけ拗ねたフリをしてみせました。

 

 すると話の流れを察したのか、隣室に控えていた何者かが立ち上がり、こちらに向かう気配を窺わせて──。

 

 

「おやおや。私と昭王の密会を邪魔する不届者はどなたですかァ?」

 

「……(わし)だ、王騎」

 

 

 いや、何者かではない。王騎はその気配をよく知っている。

 

 初めからその存在を看過し、黙認してきた気配の主は、やはりあの人物でした。

 

 

「貴様の邪魔をする気もない。この身は昭王を守護するのみだ」

 

 

 能面の様な無表情と、最低限の挨拶すら省略する合理化の巨人──白起の見慣れぬ礼服姿に王騎はお茶目な唇をますます意地悪く歪めます。

 

 

「ンフフ、貴男がこちら側(・・・・)だとは思いませんでしたよ、白起サン。廉頗将軍に完敗してから日が浅いこともあって、てっきり貴男は助太刀した私を逆恨みしてるものだとばかり……それとその礼服、これっぽっちも似合ってらっしゃいませんよォオオ」

 

「やかましいわ」

 

 

 多分に挑発を兼ねた王騎流の挨拶をものともせず、白起は不動の姿勢で昭王の傍に控えました。

 

 

「……いいのか、白起」

 

 

 言葉少なに問う昌文君に、白起は小さく頷いてみせます。

 

 

「もとよりこの身は骨の髄まで昭王のものだ。おそらく秦魏合一が成れば、よほどの事がなければ臣が戦場に戻る事はあるまいが、構わん。臣個人の矜持よりも我らの夢が優先されるのは当然だからな」

 

「ンフフ。思っていたよりも気持ちいい男でしたね、貴男も。今度詫びがてら私を抱かせてあげましょうか?」

 

「いらん。それよりも(オレ)への土産はないのか? 貴様との約束通り、趙との講和を進めてやったのだぞ……?」

 

「クフフ、それならばそなたも席に着け。味は保証するが、量が量なのでな。持て余していたところだ」

 

「……御意」

 

「やれやれ。王騎だけではなく白起まで同席するとはのぉ。こんな密議があったと知れたら、どんな悪辣な策謀を張り巡らせたのかと、諸外国が誤解しよるわい」

 

「まあ、これまでがこれまでだからなぁ……中華千年の礎について論じたなど誰も信じんわ」

 

「ンフフ、いいじゃないですか。他の者が何と言おうと、きっと鳳明サンだけは信じてくださいますから。それで十分ですよ」

 

「おっ? よし、次は鳳明について聞かせろ。そなたらの話では摎を娶って義理の息子になりそうだが、どんな男なのだ?」

 

「とりあえず素直ないい子ですよォ。あの娘が思いを遂げたその日の朝に、私のところへ婚姻の許可を願い出るくらいにはねェエエエ」

 

「クフッ、それは可愛らしいが、他にはどうだ? 長平の盤面をひっくり返した巨船や、胡傷と王齕が揃って苦戦した新型の甲冑は? 他にも、他にも──」

 

 

 子供のようにはしゃぐ昭王の姿に、王騎たちだけではなく白起の口元もほころび、身内だけの宴席はますます盛り上がりました。

 

 そして奇しくも同じ日に、異なる場所で──。

 

 

 

 

「いや、そうか。そなたも苦労したのだな……。わかる、わかるぞ……だがもはや何の心配も要らぬ! 儂らはそなたの味方じゃ。これからはこの儂を父と思うて頼ってくれ、桓騎よ……!!」

 

「……有り難く」

 

 

 安釐王の涙ながらの励ましに、桓騎はそう応えるのがやっとでした。

 

 

 きっかけは何だったか……多分、信陵君のオッサンにこれまでの経緯を訊かれたガキどもが、ついうっかりゲロったんだろうな、と桓騎はウンザリします。

 

 それで過去の野盗働きを裁かれるならまだ理解できましたが、魏王室の身内しかいない茶会に連れ込まれて、髭面のオッサンに泣きつかれるとなるともはや完全に意味不明です。

 

 

 ……安釐王だけではありません。

 

 ここまで自分を連れてきた信陵君も兄王の背後でウンウンと頷いていますし、他にも武官の適性を調べる際に紹介された霊鳳や、ここ数年で体格が元通りになった蕭阿や、呉鳳明の奥方だというご婦人まで揃って笑顔で同席しているのですから、桓騎が居心地の悪さを覚えるのも当然やもしれません。

 

 

「桓騎さま。父の言葉に真実しかないことは、この私も保証します。お節介に思うかもしれませんが、この国の民が幸福であらせられるよう努めることは、私たち魏王室の義務なのです。どうか桓騎さまも、ご自身の幸福をお考えください」

 

 

 父よりは毅然と桓騎を激励する綺丹公主も無知ゆえの振る舞いではない。彼女も桓騎たちの痛みを想像して必死に励ましてくる。

 

 桓騎もこの父娘が安邑の小城で、いつ秦兵が雪崩れ込んでくるか怯えて暮らしていた過去があるのは想像がつく。

 

 ……だから憎めない。やはりこの国の連中は徹頭徹尾お人好し揃いだ。

 

 桓騎は善に悪を返す気になれず、しかして善の返し方もわからず、ただ困惑することしきりでした。

 

 

「皆様。桓騎さまたちの身の振り方は後ほど話し合うとして、今は席におつきください。皆様お待ちかねの 蛋糕(ケーキ)が焼き上がりました。是非ともご賞味ください」

 

 

 そして桓騎をさらに悩ませるのがこの鳳明です。

 

 今やこの国の太子であり宰相でありながらも、みずから割烹着に身を包んで厨房に立つ意味不明な姿に、もはや桓騎は苦笑すらできません。

 

 鳳明の言葉とこちらに漂ってくる芳ばしい香りに、ようやくやんごとない方々が着席して桓騎がホッと息を吐いたそのときに、厨房から出てきた侍女が奇妙な焼き菓子を卓上に並べていきます。

 

 

「おや、この色合いは珍しいな。それにこの香りはどこかで……」

 

「……これは栗ですね。おそらく、すり潰した栗を練ったものでは?」

 

 

 なぜか隣の席に居座った安釐王の疑問に答えると、それなりの家格の娘と思しき侍女は嬉しそうに補足してみせる。

 

 

「お兄さん、詳しいんだね。ご名答だよ。これは兄様の考案した 栗花落(モンブラン)っていう、栗を使った 蛋糕(ケーキ)なの」

 

 

 呉鳳明を兄と呼んでいるということは、この娘が何度か耳にした奴の妹か──。

 

 桓騎は何が命取りとなるか分からない現状で、迂闊に口を滑らせたことを後悔しますが、その手は何故だか止まりませんでした。

 

 

「そうか、懐かしいな……俺もよく栗を食った。人目を避けて逃げ込んだ森で、命を繋ぐのに必死で」

 

 

 茶会の流儀も知らず、勝手に手をつけて……桓騎の両目から、これまで堪えていたものがあふれ出しました。

 

 

「……知らなかったよ。栗もきちんと調理すればこんなに美味いんだな」

 

 

 されども、それを咎める者はおらず。

 

 玲凛は優しく手巾(ハンカチ)を差し出して、こう続けるのでした。

 

 

「お腹いっぱい食べるといいよ。子供たちの分も兄様が焼いてくれたから、お家に持ち帰って、ね……」

 

 

 自分まで子供のようにあやしてくる玲麟になぜか腹も立たず、桓騎は己の痛みに寄り添う人々に見守られて、徐々に少年の心を取り戻していくのでした……。

 

 

 

 

 

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