天下の大宰相・呉鳳明伝 作:後世の歴史家
藺相如の私邸は清涼な空気に包まれていた。
高台の湧水を利用した滝と見事な造園。それが南洋から押し寄せる夏を凌げる立地にある空間の静謐を維持しているかのようだった。
「戦時中に申し訳ないが大規模な改修を施した。家人がどうしてもと言うのでな」
目を丸くする客人に座を勧めた藺相如が続ける言葉に迷う。その屈託は彼の言うように申し訳なさの表れだった。
「そうした動きは私の屋敷に限らぬ。邯鄲全体がそうだ。見聞きした開封の見事な都市計画に負けてなるものかと趙人が奮起したのだ。前線で不自由な暮らしをしていた将軍から見れば、何を浮ついたことを、と思うかもしれないが……」
「ヌハハ、何を言うかと思えば、儂らも水路を使った補給で贅沢な食事をしておったわ。それがおぬしら文官の功績でなくて何だ? あまりつまらぬ事を気にするでない」
それを豪快に笑い飛ばした客人の名は廉頗。
王騎の帰国に合わせて開封散策を打ち切った彼は、公務を片付けると真っ先にこの屋敷に駆けつけたのだ。
「今や趙魏は兄弟も同然の間柄よ。危機とあれば
「フフ。おかげで借りが増える一方だがな」
「借りなど儂がまとめて返してやるわい。……いや、儂だけではない。今や長平の恩義に報いようと軍に留まる者が大勢おる。藺相如は些事など気にせず大局だけ見ておればいいわ」
それは深い思いやりに裏打ちされた言葉であった。
己の命数は祖国ために使い切る──藺相如がその覚悟でいることを知るがゆえの激励であった。
「……その為にもしっかり食え。気付いておらんかもしれんが、かなり痩せたぞ。食うものを食わねば働くこともできんというのに」
「いや、その点は抜かりない。そろそろ肉は厳しくなったが、家人が内々に相談してな。鳳明が消化に優れた料理を考案してくれたのだ」
「ほほぉ……それは良い事を聞いたわ。ならば無用の心配か」
「そうだな。だが実は、私も将軍と同じ心配をしたのだ。なんせ二年ぶりの再会となる貴公はかなり丸くなられたからな。いかに開封が美食の街とはいえ、若い頃と似たような感覚で飲食過多に陥ってはいないか、と」
その指摘に廉頗は冷や汗を掻いた。
自覚はある。久しぶりに顔を合わせた腹心の玄峰からも「ブクブク肥りおって」と叱言を頂戴したし、以前の腰帯が千切れて新調しなおしたのはつい先日のことだ。
廉頗の顔面蒼白ぶりに、藺相如は小さく吹き出すのだった。
「まったく、久方振りに顔を合わせてすることが互いの身体の心配とは、如何にも私たちらしい」
「そうさな。互いに不可欠の人材と思えばこそだが、そろそろ後進に道を譲ることも考えんと、そのうち老害と言われそうだわい」
そして廉頗も照れくさそうに頭を掻き、家人が並べる茶に手をつけて間を入れた。
話題に困ったのではない。
政治と軍事の両輪である二人が話し合うべきことはあまりにも多い。迷うとしたら限られた時間で何から手をつけるべきかだ。
だが、今の情勢下で最初に手をつけるべきなのは、やはり……。
「しかし昭王の口から秦魏同一が出てくるとはな」
そう、それだと、廉頗は身を乗り出す。
「意外か?」
「意外だが、それ以上に奴の真意が見えぬ」
「真意か。儂は昭王がまたぞろ駄々を捏ねとるのではないかと思ったぞ。和氏の璧や黽池の会のように、寄越せ寄越せと駄々っ子のようにな」
「無論、それもある。だが奴も自覚くらいはあるだろう。今さら己の要求に耳を傾ける国はないと」
「ならば無視すればよろしかろう。それで白起を差し向けるなら受けて立つわい」
「頼もしいな。しかし今回はどうも本気で言ってるように思えてならぬ。対外強硬派の范雎を更迭して、諸外国の内情をよく知る穏健な蔡沢を起用したことからもな」
そこで藺相如も喉を休める。
鳳明が「あくまで代用品」と謙遜した蒲公英の珈琲はスッキリとし味わいで、煮詰まりかけた頭脳の働きも加速させる。
「……まず前提として、中華の戦乱はまだ終わっておらぬ。かつて百を数えた群雄は互いに喰らい合い、七匹の獣が生き残ったが、これで手打ちとする合意は中華の何処にも無い」
廉頗が頷く。
我らとて亡国の嘆きを喰らった獣の一匹よ。昭王のやりようを非難するなど心得違いも甚だしい。
開封滞在時に呉慶の身の上を知った廉頗はとみに思う。一切の恨み言を口にすることなく軍を率いる者の義務に徹した呉慶に、廉頗は頭がさがる思いだった。
「だが、そこに鳳明が現れた。あの子は水運を使って各国の関係を密にした。それにより人々は地元の産物に高値がつくことを知った。他国にも便利な道具や珍味があることを知った。こうして経済の交流は進み、戦争は富を損なうばかりと忌避する風潮ができた。
宮廷の者たちも領土の獲得より商人の往来と信用を気にするようになった。今や趙魏はもとより、鳳明の水運同盟に参加するすべての国々は互いに出兵することなど考えられなくなった。私は昭王もこの意義に気付き、新たな絵面を描こうとしているのではないかと思っている。
己の代で中華統一を成し遂げることに固執するのではなく、もっと先を見据え……秦魏同一をその礎とするのではないか、とな……」
廉頗は藺相如の推測をよく吟味してからこう言った。
「ようはあの性悪が鳳明を騙くらかして魏国を盗もうとしてると?」
「当面はその理解でかまわぬ。私たちも他人事ではないからよく注視しよう。せめてあの子がこんな筈ではなかったと後悔することのないように、な」
「望むところよ。昭王のやり方が行き過ぎるようならこの儂がとっちめてやるわ」
二人が同時に浮かべた笑顔は中華の行く末を案じる老人のものではあり得ない。
斉の王建王が政治と軍事の巨人と称した二人は、どこまでも己に課した義務に忠実であった。
「しかし、秦魏同一のぉ……?」
魏安君の無憂殿で始まった茶会は桓騎に付き添った玲凛が退出して、和やかな雑談から国策を論じる場へと移行しつつありました。
「ようするに昭王はこの儂と友人になりたいと言っておるのか? これまでの敵対関係を改めて、これからは仲良くやっていこうと……?」
「まあ、概ねは……」
まるで危機感のない解釈に、同じ王族である霊鳳は居た堪れなくなります。
「叔父貴も大変だな」
まるで他人事のように呟いた青年は、どうやら信陵君と同じ苦労をする気はないらしく、昼間から紅茶に
「……気軽に言ってくれる」
信陵君も本音では余計な苦労は避けたいところでした。
しかしこの兄を納得させないことには秦魏同一は進まない。本人は日に日に自覚が薄らいでいるが、一応、こんなのでもこの国の大王なのだ。
「今回の秦魏同一は将来的な合併を視野に入れたものです。まずは秦の持ち出しで黄河上流を整備して、彼の国も水運同盟に参加します」
「ふむ?」
「そして互いに協議して、共通の法制度を確立。関係を密にして、段階的に両国の格差を廃絶します」
「ふむふむ」
「……そして頃合いを見計らって共通の新王朝を立ち上げるのです」
「うむうむ」
「…………すでに昭王は鳳明が新王朝を取り仕切ることに合意しています。あとは半減する朝廷の席次をどのように分配するかですが」
「ふぅむ? ようするに何が言いたいのだ……?」
やはりダメか──ガックリと肩を落とす信陵君の姿に、霊鳳は嫌々ながらに合いの手を差し入れるのでした。
「叔父貴よ。その条件だと新王朝に両王家の居場所はないということか?」
その指摘に安釐王の顔面が見事なほど蒼白になります。信陵君は兄王が狂乱する前に慌てて釈明するのでした。
「いや、そんな事にはならん! 鳳明には綺丹が嫁いでるし、新たに昭王の娘も娶る予定だ!!
両王家の血筋は固く守られ、官僚の人員整理も最小限に留める……そうだな、鳳明?」
「はい、信陵君。新たな国号を採用しても、大王様の暮らしは今までどおりです。どうかご安心を」
「う、うむ。これからもよろしく頼むぞ、我が親愛なる義息よ」
そこに割烹着を脱いだ呉鳳明も加わって安釐王を安心させ、秦魏同一の議論は加速していきます。
「……しかしそうなると、秦魏同一の意義とはなんじゃ? 儂は秦が良き隣人になるなら拒まぬが、聞いた限りだと夫婦のように新居を構えようとしているように思える。何もかもこれまで通りなら、無理して一緒になることもないのではないか?」
「それは後の世のことを考えてと伺っております、大王様」
安釐王の意外と核心をとらえた疑問に答えたのは相談役の蕭阿でした。
「大王様のおっしゃるように今はよろしい。宮廷には信陵君も魏安君もおりますれば、なんの憂いもありません。秦とも融和路線に切り替えた昭王の居るうちに盟を結び、不可侵条約を締結すれば当面は安全です。しかし、関係者がことごとく鬼籍に入った後の世はどうか……」
この全幅の信頼を寄せる腹心に自身を不安がらせる意図などない──それでも安釐王は底知れぬ恐怖を覚えました。
「繁栄の絶頂を極める開封の宮殿に生まれ落ちた新たな世代は、はたして我らの……大王様の苦難に満ちた半生に学んでくれるでしょうか? 魏安君の偉業と信陵君の配慮に敬意を払ってくれるでしょうか? 生まれた時から家臣に傅かれ、それを当然のものとして省みる機会を与えられなかった者が、はたして奪われる者の痛みに気付いてくれるでしょうか……?」
蕭阿の切実な訴えに、安釐王は弟の甥に当たる青年を見ました。
なるほど、何もかも蕭阿の言うとおりだ。たまたま王家に生まれたというだけで贅沢三昧。成人して軍務に就いてからも職務に不誠実。もしこんな男が開封の玉座を受け継いだらとんでもない事になる──安釐王の愕然とした顔はそう言っているように思えてなりませんでした。
「…………」
それが分かったので、ダメな王族の見本に仕立て上げられた霊鳳は何も言いませんでした。本当は大いに物申したくありましたが、残念ながら思い当たる節が多すぎたので恥の上塗りを避けたのです。
「……私も大王様の不安はわかりますわ」
そこに鳳明の第二夫人である思涵が遠慮がちに口を挟みました。
「平和は力ある方の自制が崩れたときに容易く破られるもの……私も復興を進める民に寄り添うなかでその事を知りました」
「……思涵様」
綺丹公主が震える妊婦の手を励ますように握りしめます。
その配慮に勇気付けられたように微笑した思涵が思いを紡ぎます。
「斉の民は復讐を望みました。やられたからやり返すと、安全な王宮に匿われた私のような娘に、燕兵の子を孕まされた女の気持ちはわからないと……憎しみが憎しみを呼び、復讐の連鎖は国土奪還に燃える軍の反撃をより苛烈なものに変えていきました。
戦争は本当に悲惨なもの……しかしそのきっかけは本当に些細なものなのです。兄も鳳明様にお会いするまで道に迷っていたと、私に打ち明けられました……」
「……うむ、そなたの気持ちは大いに分かるぞ、思涵殿。
儂らも例外ではない。この儂とて鳳明に会えぬままあの安邑に留まっていたら、どんな狂気に駆られたことか……。
それを思えば、戦争を防ぐ枠組みの重要さに気付かされる。それが秦魏同一の本当の狙いなのだな?」
「はい、大王様。私は力を持った者の自制を明文化した新国家を作りとうございます」
この時、無憂殿の天窓から差し込んだ光は、まるで鳳明の構想を祝福する天意のように思われました。
「すでに憲法の草案は完成しました。平和と協調を尊ぶこの国の精神を刻み、軍事力の行使を専守防衛に留めたこの憲法は、必ずや大王様の御心に適うものと自負しております」
「他にも国家権力を立法、行政、司法の三権に分立して、議会の創立も進めています。最終的に大王がすべてを背負う時代は間もなく終わり、民の痛みを知らない独裁者の出現を終わらせるのです。秦魏合一も、それを担保する基盤でしかありません」
安釐王の理解は必ずしも深いところまでは及びませんでした。
しかし彼もこれだけは理解できました。
もう苦しまずとも良いと。王がすべてを背負って苦しむ事はもう無いのだと……。
「そうか……。ならば、もはや憂いはない。あの昭王がどこまで同じ想いか知らんが、そなたらならきっと上手くやるだろう」
「ありがとうございます。つきましては昭王との会合に大王様にもご出席いただきたいのですが……」
鳳明がさり気なく要請するや、途端に渋い顔をする安釐王は、きっと申し出たのが異母弟なら嫌だ嫌だと駄々を捏ねたことでしょう。
おそらくは同じ想像をした蕭阿と霊鳳に目配せして、やれやれと肩をすくめた信陵君は、兄王を説得する言葉を頭の中から拾い集めるのでした……。
茶会からの帰り道、桓騎は先を歩く玲麟の顔をまともに見れませんでした。
泣くだけ泣いた。挙句にその醜態をほぼ同年代の女に見られた。しかし何故か屈辱とは思えず、桓騎は不意に振り返った玲麟に奇妙な胸のときめきを覚えました。
「……なんだよ」
「うーん、まだ目が赤いね。信陵君のお屋敷はもうすぐだけど、子供たちに見られて心配されない?」
「ハッ、余計な心配してんな、
「ふふ。そんな憎まれ口を叩けるなら大丈夫だね。はい、これ兄様のお土産ね。ちゃんと人数分あるから、独り占めしないで分け合うんだよ」
「ったく……お前は俺をなんだと思ってやがる」
かるく息を吐いた桓騎は思う。これは知らない女だと。
男の前でも態度を変えない、実に珍妙な女。一度でも男に泣かされたらこうはならない。
ならば今さら男に汚されても何とも思わない阿婆擦れかというと、そうは思えない。
……美しい娘だ。幼いようで大人びていて、性差を超越した佇まいは実に堂々としている。
男に媚びず、空を飛ぶ鳥のように自由でありながら、しっかりと地に足をつけ、毅然と背筋を伸ばす──過去を上から下まで見回しても、初めて目にする高潔な──。
「え? ちょっと……」
しまった、と桓騎はほぞを噛む。
自分でも何故こうしたのかわからない。間違っても情欲に駆られたわけではない。
しかし気付いたときには玲麟を抱きしめていた……。
間違いなく頬を張られる。そして兄に報告される。そんな桓騎の予想は大いに外れ、玲凛のしなやかな両手は骨ばった少年の背中に回されるのでした。
「……慰めてほしいの?」
「……いらん。ただの気の迷いだ」
そう言って引き剥がすのに渾身の力を要したことに何よりも驚いた。
途中で玲凛が抵抗したのか、それとも全力を振り絞らなければ己の手が動かなかったのか、それすらも桓騎にはわからなかった。
「世話んなったな。今のは忘れてくれや」
「……うん。でもまだ苦しかったら言ってね? 一人で抱え込んじゃダメだよ?」
「ああ、もうそんな気にゃなれねえよ。兄貴と信陵君のオッサンによろしくな」
「うん、またね」
「ああ、また」
こうして桓騎の後ろ姿を見送った玲麟は兄の元に戻ったが、彼女はこの判断をのちに後悔します。
世話焼きの少女と別れた少年は不思議な高揚のただ中にありました。
「……ちと惜しかったな」
自身の境遇に同情的な玲麟を深みに嵌らせることは今でも容易に思えましたが、桓騎は何故かそうする気になれませんでした。
……一人ぐらいあんな女が居てもいい。そんな感慨に耽る桓騎は気付くのが遅れました。
いつの間にやら、昼間から泥酔した大工らしき男とぶつかりそうになったのです。
危ういところで道を譲る桓騎でしたが、すれ違いざまの耳元で酔っ払いの口元が動きます。
「桓騎。お前の事はよく知ってる」
「──なに?」
「お前の弟妹は生きている。待遇を決めるのはお前だ」
愕然とした桓騎は動けず、その手に抱えた菓子の包みが歪む──。
「追って指示を出す。それまで何食わぬ顔で今の暮らしを維持しろ。それがお前のためだ」
過去が桓騎に追いついた瞬間でした。