天下の大宰相・呉鳳明伝 作:後世の歴史家
信陵君が政務を終わらせる頃には陽も落ちていました。
日没のおそい夏場でこれか──なるほど、久しぶり行動を共にしてよく分かった。
やはり叔父貴は大変だな、と。
不遜な青年はむしろ感心しながら労ったのです。
「ここまで仕事に追われるとなると、叔父貴の下にもう一人ぐらい補佐役が欲しいところだな」
「いや、内務は李斯が、外務は蕭何が、軍務は張良が、それぞれ見てくれていながらこれだよ」
「やれやれ、あの三人がいてこれか……」
李斯と蕭何はともかく、張良は龍譚の副官として元帥府に席を持つ武官ですが、その点については触れませんでした。
文武の別は厳しく分けられなければなりませんが、張良は韓の要職を歴任した名家の血筋です。無知な軍人が政治に口出ししているのとは訳が違うと認めたのでしょう。霊鳳が口にしたのは別のことでした。
「そうなると悠々自適の鳳明が少しだけ恨めしくなるな。昼間は趣味の農業と菓子作り。夜は三人の美姫と戯れる、か……俺としてはもう少し仕事を振ったほうが奴のためだと思うが?」
「言うな。それであの子の才能を使い潰しては意味がないと、さんざん話し合って実務から遠ざけたのだ」
この二人が言うように実際の政務──特に書類仕事から遠ざけられた鳳明は、偶に大枠を指示する以外は趣味の農業と設計に生きているところがありましたが、信陵君はそれでいいと頷くのでした。
「李斯も感心していた。国法よりも上位に位置し、大王ですら尊重せねばならん憲法という概念はとても画期的なものだと。
議会もそうだ。国政を論じる上院はしばらく指名制になるが、民政の大半を委ねる下院の議員は、新たに選挙という民自身の投票によって選ばせると……。
これらの仕組みは、鳳明が国交の樹立を目論んでいる西方の
これにより識字率を上げ、教養をつけさせることで、民衆を政治に参加させる……鳳明が示した未来を実現するのに何の苦労を厭うというのか。私はまだまだ働くぞ、霊鳳」
「ああ、俺も付き合うぞ。……それに苦労してばかりでもないのだろう、叔父貴も」
「ふふ。やはりお前の狙いもそれか。……無論だ。実は酒造りを任せている者から味見を頼まれてな。ずっと楽しみにしていた酒があるのだ」
「ならばとっとと帰ってつまみを用意するぞ。そんな魏国の運命を左右する大任、叔父貴ばかりに押し付けてなるものかよ」
こうして開封市内にある信陵君の上屋敷に帰宅した二人でしたが、門を潜るなり家人に告げられた来客の名に身構えることになります。
「わかった、すぐに向かう。すまんが霊鳳も同席してくれ」
「無論だ。……しかし、ここでその名を聞くとはな。過去の亡霊が墓の下から出てきたか」
温厚な信陵君が眉間に皺を寄せ、霊鳳が苦々しく吐き捨てたのにも理由があります。
それほどまでに来客の名は警戒に値するものだったのです。
「お待たせして申し訳ない──」
こういう時には頼もしい甥を連れて、ただちに客間を訪れた信陵君はそこに予想した仇敵を見つけ、こう続けました。
「
「ケヒッ」
──魏冄。
昭王の擁立者にして、後見たる相国の地位にありながら、公私混同を疎まれて排斥された老人がこの開封に居ようとは──。
霊鳳は油断なく見据えながらも、少しだけこの叔父のことが心配になります。
「……別人の名義でこの開封に居を構えたことは存じておりましたが、本日はどのようなご用で?」
信陵君と魏冄の間には大いに遺恨があります。かつての覇権国家であった魏国が惨めに凋落したのは、この魏冄が在野の白起を見出し、差し向けてきたからです。
これにより魏国は滅亡寸前に追い込まれ、若い時分の信陵君は兄王の下でさんざん苦労させられてきたのです。
そう思えば第一声が恨み言でなかっただけで、信陵君は公人として大いに自制したと言えますが、魏冄もまたなかなかに老獪でした。
「ケヒッ。俺が隠居先の陶からこちらに移っていることも把握していたか。信陵君はまだ若いが、間者の最も嫌がることを心得ているとの評判は正しかったようだな」
だが、やはりまだ若いと、魏冄は信陵君を挑発します。
「……何が足りないと仰いますか?」
「戸籍を厳しく管理して間者の詐称を赦さん。それだけでは間者の潜入を阻止することはできんと言っている。ただ一度の密命を受け取るために魏人となった、間者どもの潜伏はな」
そこで魏冄は二本の指を立てて信陵君に迫ります。
「2000だ。俺の代だけで、それだけの間者を開封と呼ばれる以前の大梁に潜ませた。この深刻さが理解できるか?」
はたして信陵君と霊鳳はたちどころに理解しました。
ある程度は覚悟していたが、よもやそれほどの間者が魏人として潜伏していようとは。
信陵君の焦りが顔色となって現れたところで、魏冄が嗤いました。
「だが安心しろ。俺も自分の仕事を范雎に引き継がせる気にはなれなかったのでな。奴等に間者働きを命じるものは居らぬ。……そう思ってこの件を放置していたのだが、そうとばかりも言っておれなくなったので、わざわざ老体を鞭打って知らせに来てやったというワケだ。得心がいったか?」
どうやら信陵君は納得がいったようです。客人の前に着席した信陵君は、霊鳳が偶に見る本気の空気を纏っています。
「ええ、貴公が敵でないことはよく分かりましたとも。何しろ魏冄殿しかその存在を知るはずのない間者が勝手に動かされたと、わざわざ教えに来てくれたわけですから」
その回答に、魏冄は不出来な教え子の成長を認めるような顔をしました。
霊鳳も叔父の隣に腰をおろし、真剣な面持ちで魏冄の言葉を待ちますが、老獪な元大宰相が口にしたのは別のことでした。
「たしか玲凛だったな。開封市内の飯屋や菓子屋とやたら懇意な鳳明の妹だ」
「……玲凛が何か?」
「あの小娘がこの屋敷に出入りしてる小僧を連れ歩いてるのを見たが、アレは何だ?」
「あの子は当家が保護した難民ですが、何か問題でも?」
「詳しく話せ。それにより俺の答えも変わる」
……どうやら長い夜になりそうだ。
そう判断した信陵君は客人に確認してから酒と料理を運び込ませました。
そうして信陵君は桓騎の名を伏せながら説明しました。
彼が野盗の下働きをさせられていた子供たちを連れて亡命してきたことを。
酒と料理を楽しみながら聞き終えた魏冄の顔もすっかり一変しています。
「成る程な。今の魏国に逃げ込めば必ず助かると判断するぐらいだ。機転も利く。頭も相当キレる。だがそうする為には、魏国の実情を正しく知る立場になければならぬ。ならばそれなりの家に生まれた小僧と見るべきだな」
「ええ、こちらでも確認しましたが、かなりの教養があります。そうでなければ私も士官の道を提示しようとは思いません」
「ケヒッ。それで身の上話に絆された大王や鳳明も好意的となると、ますますもって打って付けだな。おかげでよく分かった。これが相当にまずい事態だとな」
「それは一体どのような──」
「まあ待て。酔いぐらい醒まさせろ」
思わず身を乗り出す二人でしたが、魏冄も勿体つけるつもりはないのか、水を飲んで頭を振るとこう続けてきました。
「俺の結論はこうだ。まず小僧自身は間者ではない。いかに貴様らの懐に入り込むためだろうと、野盗どもの下働きをさせられるガキどもを探し出して唆すなど迂遠すぎるし、危険すぎて上役の許可がおりん。……ここまでは良いな?」
信陵君が無言で頷きます。
彼自身も桓騎の不審な動きは一切目撃していないし、防諜を任せている者たちからも報告がない。この点に関して疑問はありませんでした。
「だが俺は顔見知りの間者があの小僧に接触するのを見た。俺自身が別命あるまで待機を命じた男だ」
「待て、それは何年前の話だ? 貴様が咸陽から追われる前の話なら、鳳明が生まれる前の話だぞ。そんな昔の話を……それも間者の顔までいちいち覚えているのか?」
「俺は一度目にしたものはけして忘れぬ。忘れたくとも忘れらんのだ。もっとも奴自身はとうに歴史の表舞台から消え、惨めに老いぼれた俺の顔は想像もできなかったようだが」
密かに霊鳳を絶句させて、魏冄は揺るぎない自信を込めて断言するのでした。
「小僧はおそらく咸陽の政争に敗れた家の出だ。その身一つで逃亡した小僧の身の上を、最近この街に入り込んだ間者は承知していたのだ。
だから接触を命じた……。とうに捨て置かれ、まかり間違っても己に紐付く心配のない潜入工作員に、脅迫の文言だけ持たせてな」
その筋書き、その手管に、信陵君は悪寒を覚えました。
彼の屋敷は清涼な夜の空気を取り入れる構造になっていますが、悪寒の正体はもっと別のところにありました。
「それで鳳明に毒でも盛らせるつもりか。手の込んだことだな」
甥の漏らした推測に信陵君は
それだけならまだいい。桓騎の事情はわかったし、暗殺さえ阻止すれば穏便に済ませられる。しかし最悪の予想は霊鳳の想像を超えたところにありました。
「俺ならば近く行なわれるという会談の席で昭王の暗殺に使う。これなら失敗しようが魏国の重大な落ち度となり、再侵攻の口実にもなるからな」
「なっ……!?」
思わず立ち上がりかけた霊鳳の隣で、信陵君は苦々しく頷きました。
成功の可否は問題ではありません。魏国が保護した子供が昭王の命を狙ったというだけで、秦魏同一に向けた両国の努力は水泡に帰しかねないのです。
「それを防ぐのは簡単だぞ。今のうちにあの小僧を処分すればいい。……だがその顔を見るに、やはり貴様らはこの手の回答を好まんか」
「はい。そんな事をしたら鳳明に顔向けできなくなりますからな」
「だろうな。だがそうなると、解決するのはちと面倒だが……それでも聞くか?」
迷いなく頷く二人の姿に魏冄が浮かべたものは紛れもない苦笑でした。
お人好しどもめが──魏冄の口元は明確な嘲りに歪みましたが、その眼はまるで眩しいものを見るようでもありました。
「ならば蔡沢に伝えろ。咸陽の政争に巻き込まれ、手元に逃げ込んできた小僧に秦の間者が接触したとな。奴ならばそれだけで全容を理解するだろうさ。……貴様らと違って」
余計な一言を付け足す魏冄でしたが、この頃には信陵君のみる目も変わっています。
親愛ならざる甥に目配せして肩をすくめる信陵君でしたが、わざわざ口にした疑問はこれだけでした。
「しかし、魏冄殿のお力添えをいただけるとは思いませんでしたが、何か理由があるのですか?」
「……そんなに不思議か? 咸陽を離れて目減りする一方だった俺の私財は鳳明のおかげで何倍にもなった。秦魏同一が叶えば何十倍になるか判らぬ。俺が動く理由としては十分だと思うがな」
まさか
「ならばお互い様ということにしておこうぜ、叔父貴よ。こいつに臍を曲げられても厄介だ。叔父貴の言ってた新作で懐柔しよう」
「おっ、鳳明酒造の新作か? よしよし、そういうコトなら喜んで懐柔されてやろう」
「お口に合うか分かりませんが……しかし魏冄殿にも今回の首謀者には心当たりがありませんか? 貴公が范雎に委ねず捨ておいた間者を知る者は、かなり限られると思うのですが……?」
「……あるにはある。俺が間者どもの仲介を任せた男だが、奴は実直でな。この手の策謀を思いつくとは思えんが……」
そこで
「あるいは代替わりしたか、それともろくでもない主人に仕えることになったのか……奴は俺の一門ではなかったから咸陽に残すことになったが、今となっては多少の責任を感じるな」
「……お名前を伺っても?」
「
信陵君がその名に辿りついた数日後の咸陽では、一人の男が慌ただしく動き回っていました。
歴代王族の子孫らが興した秦公室の重鎮。
この咸陽に揺るぎない権勢を誇る
「ただいま戻りました、竭様」
「……肆氏か。例の件はどうなった?」
「はい、接触を見届けたとの報告が」
「そうか。胡狼の餌にしたはずの小僧が生き延びて信陵君に匿われるとは、世のなか何が幸いするかわからんな」
「……ハッ」
主人の見立てに異論こそ挟みませんでしたが、肆氏にはどうやら懸念があるらしく、彼は恐縮しながらもこう続けました。
「しかし魏冄の残した間者を使う必要はあったのでしょうか? 奴がいま開封にいるとの報告もありますし、気取られる危険も……」
「……奴がこの儂に辿りつき、密告する恐れがあると申すか」
「恐れながら。……奴は異常なほど記憶に優れてました。とうに捨ておいた間者の顔を覚えていても不思議ではありません」
「そうか。貴様が言うのだ。魏冄はこれを口実として、嬉々として信陵君という新たな金づるに接近するであろうな。……奴はそういう男だ。だからこそ読みやすい」
だが竭氏はむしろ狙いどおりだと言わんばかりに、その顔を邪悪に歪めました。
「なんだ、意外か? 儂が昭王暗殺のような大事をあのような小僧に任せるとでも?」
「あ、いえ……しかしそうなると、桓騎の役割はただの目眩しと……?」
「そうだ。桓騎の家族などもはや残っておらん。奴の一族郎党を皆殺しにしたのも儂ではない。儂はその件に関わっておらず、何の証拠も残しておらんし、魏冄に仕えたのも貴様の父だ。貴様自身も知らぬ存ぜずで通せば、たどる糸は何の成果も得られず途切れる。その間に手筈を整えるのも儂らではない。この件がどう転んでも損をしない第三者だ。儂らは得られる果実の分配だけを気にしておけばいい」
それは謀略を手がける家に生まれた肆氏をして寒気を覚える計画でした。
他人任せという言葉だけでは片付けられない、他者の運命を転がすことに何の疑問も抱かない……。
「秦魏同一には大きな益がある。それは儂も認めるが、やはり手緩い。どうせ昭王もあと何年も生きられんのだ。儂らの手で完遂してやるのもある種の忠義よ」
「では、実行の手筈は私から離れると?」
「うむ、貴様はしばらく疑われないように大人しくしておれ。その間に奴がすべての泥を被る」
「……ならば、私はその人物の名を知らぬ方がよろしいでしょうな」
「そうだな。そうしておけ。儂も貴様を処分したくはないからな」
それは他者を恐怖で支配する者の言葉でした。
肆氏は竭氏に返しきれないほどの恩があります。魏冄失脚後の咸陽で、父の連座を食い止めてくれたのはこの竭氏なのです。
たとえそこに打算しかなくても、肆氏は仇で返そうと思うような人物ではありませんでした……。
そして舞台は咸陽のはるか南東──白起に押し込まれた中華の僻地で、とある人物が密書の中身を改めていました。
「春申君、王がお呼びです」
「……すぐ行く」
混乱する楚の宮廷にあって、新たな王を擁立したばかりの春申君が受け取った密書の中身は不明なままです。この時期の彼が外部の何者かと連絡を取り合っていた証拠は見つかっていません。
それでも後世の歴史家は昭王の暗殺に関わっていると、春申君を舌鋒鋭く批判するのが常でした。