魏冄との非公式の会談からそれなりの月日が経過した。
蔡沢はこちらの期待以上に動いてくれた。
おかげで桓騎の素性も判明した。
咸陽を拠点とする商家の嫡男だそうだ。
そこで桓騎は自然と年下の子供に好かれたとのことだ。
とても正義感の強い子供だと聞いた。
父親は商人らしからぬ好漢として知られており、その影響を受けたらしい。
飢饉と聞けば私財を擲つことも厭わない、そんな男であった。
それが評判の小町と結ばれ、桓騎が生まれた。
可愛らしい妹と元気な弟にも恵まれた。
多くの家人に囲まれた平和な日々は容易に想像できる。
だが、それは一夜で暗転した。
桓騎の父親が不正を疑われて逮捕された。
冤罪である。
とある欲深い男が敵対派閥と懇意の父を陥れたのだ。
邪魔者を排除した男はさらに手を伸ばした。
男は私兵を差し向けて残された母子を連れ去った。
ここで多くの家人が殺められた。
見せしめである。
理解した誰もが口をつぐみ、見て見ぬふりをしたようだ。
そこで桓騎はどんな地獄を見たのだろうか。
想像するのは容易い。
発見された死体は酷いものだと聞いた。
だから想像などしたくない。
だが、思考を止めるわけにはいかない。
追求の手を止めるわけにはいかなかった。
犯人は正当な裁きを受けた。
故人の名誉は守られた。
しかしそれだけだ。
その件に他者の関与は認められなかった。
肆氏も取り調べを受けた。
この辺り、蔡沢に抜かりはない。
蔡沢は言った。
肆氏はおそらくこの件に関与していないと。
しかし魏冄の間者を動かした件とは無関係ではない。
本人は否定しているし証拠もない。
それでも時期が時期なので当面は拘束すると。
これで万事解決とはいかないが、少なくとも桓騎は安全になった。
蔡沢の配慮には感謝するしかないが、疑惑は残ったままだ。
桓騎の様子は変わらない。
最近は過度な遠慮がなくなったのか、自分をよく揶揄うようになった。
それを嬉しく思うも、やはり気が晴れない。
玲凛もどこか様子が変だと言っていた。
そうかもしれない。
あの娘の直感は侮れない。
やはり間者の接触は桓騎を苦しめている。
彼にもう大丈夫だと言えたらどれだけ楽か。
でも、それは無理だ。
桓騎に話せることは何もない。
だから別のことを考える。
他の仕事も山積みだからだ。
例えば、そう。
昭王との会談を何処で行うかについてだ。
これも難題だ。
昭王は開封での会談を希望しているが、これに秦の朝廷が強く反発した。
これでは小国の魏が大国の秦を招く形になる。
そもそも他人を招くという行為は、主君が家臣にやる事である。
誤解を招きかねない招待は受け入れられないと。
蔡沢は「敵情視察だ」と納得させるのに苦労しているようだ。
それならば白起に2万の兵を指揮させて昭王を護衛しろと、主戦派も強硬らしい。
気持ちは分かるが、さすがにこれは受け入れられない。
随員は2千程度が限界である。
なんせこの会談に関わるのは秦魏両国だけではないのだ。
現時点でも斉の王権王が会談に同席するのが確定済みである。
他国は調整中だが、おそらく趙からは平原君と平陽君が。
韓に至っては大王みずからご息女を連れての開封入りを希望しており。
燕や楚も、国家の威信に賭けて名誉ある同席は譲れないと。
……ああ、チクショウが。
どいつもこいつも勝手な事ばかり言いやがって。
もう知らん。好きにしやがれ。
そう言ってやれたらどんなに気が晴れるか。
…………思考が煮詰まると、やはり桓騎のことを思い出してしまう。
他者の思惑などどうでもいいが、あの子達を見捨てるわけにはいかない。
そんな事をしたら自分も同じだ。
何が桓騎を苛んでいるのか今でははっきりしている。
不信だ。誰も助けてくれなかったという人間不信が桓騎を苛む闇の正体だ。
そこまで判っていながら何もできない。
何もしてやれない。
だからこんなにも煮詰まっている。
何もできないもどかしさが苦しくて仕方ない。
やはり昭王の暗殺計画など魏冄の妄想ではないのか。
そう決めつけて、やるべき事から逃げ出すことだけは──。
「──だいぶお疲れですね、信陵君は」
ふと気が付くと、目の前に鳳明が立っていた。
特に気負うでもなく、どこまでも自然体の鳳明である。
この子なら桓騎の件も解決できるのだろうか……?
一瞬、恥も外聞もなく縋り付きたくなったが、それはできないとすんでのところで思いとどまる。
できれば鳳明は関わらせたくない。
より正確にはこの子に人類社会の抱える闇を見せたくないのだ。
この無垢な笑顔をヒトの悪意で曇らせたくない。
だから空元気を振り絞って笑顔を作ろうとするが、鳳明はこちらの事情など最初からお見通しだったようだ。
「どうか信陵君におかれまして安静になさってください。桓騎さまの件は僕が責任をもって引き受けますから」
「……待て。君はどこからその話を聞いた?」
「…………俺だ、叔父貴」
柱の影から余計な事をしでかした甥っ子が姿を現す。
話の流れから大方の予想はついたが、やはり霊鳳が巻き込んだのか。
まったく、私の苦労をなんだと思ってるのか……だが、今度ばかりは責められんな。
私は間違っていた。最初から鳳明を頼るべきだった。
本当の意味でこの子を信じているというなら、そうするべきであったのだ。
なぜなら彼が中華の危機を見過ごしたことは一度もない──。
「ふう、わかった。ちょうど煮詰まっていたところだ。喜んで頼らせてもらうが、君はこの件をどう処理するつもりだ?」
「はい信陵君。秘密というものは秘密にしているから弱みになります。ですからこの際です。すべて明るみに出してしまいましょう」
相変わらず鳳明の思考に追いつくのには時間が掛かる。
鳳明なら絶対に悪いようにはしない──その信頼が揺るがぬものであろうとも、まさか兄王のように何も理解せぬまま頷くわけにもいかない。
「すまんがもう少し噛み砕いて説明してくれ。何しろ多分に慎重が求められる事案なのでな」
「はい、わかりました。それでは問題を整理しますが、僕が思うにこの件の本質は間者たちの暗躍そのものではなく、それを止められないことにあります。ですからまずはそこに光を当てるべきだと考えています」
「……光か。憲兵を増員して間者どもの活動を抑制する気か?」
「いいえ、霊鳳さま。筆は剣より強し。僕はその実例をお見せするだけです」
そうして聞き出した鳳明の存念はあまりに先進的で、本人もうまく言語化できないのか抽象的な部分も目立ったが、なんとなく彼のやりたい事が見えてきた。
「蕭何。活版印刷と撮影機の試運転に問題はありませんでしたか?」
「はいはぁーい、鳳明様。どちらもバッチリ。奥方様の準備もオッケーらしいですよ」
そして脚立付きの撮影機を運搬する蕭何に続いて、着飾った綺丹公主らが笑顔で現れ、最後尾に問答無用で桓騎を連行する玲麟の侍女姿を見かけるに至って、自分はとうとう吹き出してしまった。
「クク、わかった。ようやく分かったよ。君が何をしようとしているのか。……だから遠慮はいらない。存分にやってくれ。ただし、実際に掲載する文言は私が考える。それでいいか?」
「はい、信陵君」
──こうして信陵君は久方ぶりとなる心からの笑顔を浮かべました。
霊鳳はこの一行が何をする気か理解できないようでしたし、第三夫人に内定している摎も似合わない格好をしていると思っているのか、だいぶ照れた様子でしたが、先頭を歩く鳳明の足は止まりませんでした。
そうして信陵君の上屋敷を訪れた鳳明はみずから膝を突き、子供たちと目線を合わせて順番に声を掛けました。
綺丹らが手作りのお菓子を手渡し、ここでの暮らしに不自由はないか、自分たちに何かしてほしい事はないかと……。
「……神さまだ」
「うん、女神さまもいる」
「みんな優しくしてくれる」
「もう本当に大丈夫なんだね」
どこまでも親身に寄り添う鳳明らと触れ合い、ようやく最後の確信を得たのでしょうか。なかには安心のあまり泣き出す子供もいました。
子供たちの保護者であった偲央という少女もその一人です。
「ダッセェな……なに泣いてやがんだよ、偲央」
「うるさいよ。アンタだって泣いてるじゃないか、桓騎」
そうした姿は蕭何に残らず撮影されて、この中華で初めて発行された新聞の紙面を飾ったのでした。
初版の発行部数は、実に100万──それだけの数が開封に出入りする商人たちに託されて、中華各地を出回ったのです。
その衝撃は半端なものではありませんでした。
「おお、鳳明様。綺丹様も、なんと尊いお姿じゃ……」
「ホントだねえ。あたしゃこの国に生まれて良かったよ」
「……チクショウめ。さっきから眼汗が止まらねえや」
「本当にね。外見は心の表れだって言うけど、なんて美しい方々なのかしら」
仮に掲載されていたのが文字だけなら、彼らもここまで感情移入しなかったでしょう。
魏安君夫妻らが、自国に亡命した子供たちを慰問したという事実だけならば、人々はその日の感動を記憶に焼き付けて終わりだったかもしれません。
しかしながら実際の紙面には写真が掲載されています。
現実の風景を切り取って貼り付けたとしか思えない写真を目にした人々は、初めて目にする鳳明らの姿に感動しながらも、痛ましい子供たちの姿に無心ではいられませんでした。
写真の中の子供たちは誰もが憂いのない笑顔を浮かべています。しかしながら子供たちは誰もが消えない傷痕を残しているのです。
無惨に顔を焼かれ、手足を切り落とされた子供たちの姿がそこにあったのです。あまりに惨たらしい仕打ちに涙せずにはいられなかったであろう、目元を腫らした綺丹らの姿を目にすることになったのです。
……世論はただちに沸騰しました。
「本当に赦せねえよな。あんないたいけな子供を痛ぶるなんてよ」
「それもあるが、俺たちもなんとかしてやりてえよな」
「よしっ! それなら信陵君のお屋敷に行ってみようぜ!!」
「やめときな。アンタらの人相じゃ子供たちを怯えさせるだけだよ」
「そうだよ。鳳明様にご迷惑をお掛けしたタダじゃおかないからね」
このような光景が魏国内にとどまらず、斉、趙、韓と、黄河流域の国々で広く見られ。
日を追うごとに加熱する興奮は、いよいよ秦国内に波及し──。
「なんじゃこれはァ!!?」
砂上の楼閣で、竭氏が泡を吹いて絶叫しました。
彼の手にした新聞には鳳明らの慈善活動しか記されていません。竭氏の関与はおろか、子供たちが秦から逃げ込んできたことすら匂わせていません。この記事によって誰かの立場が悪化するという事はないのです。
「こっ、こんな事が許されるとでも言うのか……!!」
それでも竭氏は力のかぎり叫びました。権謀術数のうごめく咸陽の宮廷で生き抜いた彼には、この新聞という紙切れの持つ力が理解できたからです。
もしこの咸陽で新聞の発行が許可されたら、自身の悪行を告発する記事を政敵に作られ、窮地に陥ることもあり得るではないか……!!
竭氏の危惧は正しい。この場合、彼はどこまで正しかったのです。
咸陽の朝廷でもこの新聞は早々に出回りましたが、床を転げ回って喜んでいるのは昭王だけで、他の者は今にも卒倒しそうな顔をしています。
「なにを今にもくたばりそうな顔をしておるのじゃ? この記事を見れば魏安君が昭王を暗殺する人柄ではないと知れたであろうに、何が不満じゃ。ンンッ?」
「あっ、いえ……実に結構なことで……ハイ……」
後ろ暗いことに手を染めている高官ほど何も言えませんでした。
各国の間者も呉鳳明が考案した新聞の力を正しく理解し、底知れぬ恐怖に駆られました。
これまでにも権力者の不正が勇気ある人々によって告発される事はありましたが、多くの事例においてそれらの声は途中で掻き消され、大きなうねりとなる事はありませんでした。
しかし難攻不落の開封を本拠地とする魏国が、呉鳳明の名のもとに大々的に新聞を発行するとなると話は変わってきます。
今回、秦の貧官汚吏がなんの抗議もできなかったように、鳳明が世に提示した新聞は権力者の不正を告発する場として最適だと気付いたのです。
今まで己の命を天秤にかけて、告発を諦めていた者たちはこぞって開封に押し寄せ、信陵君に新聞社の設立を嘆願して彼を困らせました。
各国の商人も飛ぶように売れた(魏国は無償で提供しましたが)新聞という新商品に驚き、次なる発行を渇望しました。
これを受け、呉鳳明は定期的な発行を確約──次回は昭王との歴史的な会談を記事にして届けると布告しました。
個人がSNSで情報を発信できる時代を
その衝撃はいつまでも鳴り止まず、後世の歴史家である司馬遷は、鳳明を『暴君と暗君の天敵』と絶賛しました。
力ある者が力なき者を踏みにじり、すべてを闇に葬れる時代は終わったのです。
「春申君、計画は……」
「破棄する。間者たちにもそう伝えろ」
こうして昭王の暗殺計画は未然阻止され、幾つかの痕跡だけを残して終結しました。
そして桓騎は──。
「ねえ、今度こそ本当の本当に大丈夫なの? 嫌だよ? あんなに言ったのに、結局、ひとりで抱え込んでたし……」
「だから悪かったって……たくっ、オッサンどももニヤニヤしてねえで、こいつを何とかしてくれって」
世話好きの玲麟に新しい弟のように扱われて、困惑する日々を送っていましたが……その眼は優しく、口元の笑みが消えることは無かったそうです。
今回のリザルト
桓騎の好感度60→95
昭王の好感度100→120(限界突破)
武神の好感度380→400(完凸)