──魏安拾陸年、蒲月之弍拾捌。
昨日は痛飲して、後回しにした日誌を書き損ねてしまった。なんたる醜態。これでは使節団の長として示しがつかない。よって、本日は早めに日誌を認める次第だ。
さて、この地に上陸して半月ほど経過したが、我らと接触した現地の住民が疫病を発症する兆しは見られない。
それとは逆に我らも健康そのもので、この点は実に喜ばしかった。どうやら懸念された人痘の蔓延は未然に防げたようだ。
人痘は類似の痘病に感染した牛の膿を接種することで予防できる。すでに祖国で実証された常識ではあるが、鳳明様の慧眼には今さらながらに驚かされる。
あの御方は如何にして、人体の免疫を高める仕組みを……いや、言うまいよ。
鳳明様は紛うことなき神君であらせられる。私のような凡夫の尺度で詮索してはならない。
事実、牛痘の膿によって人痘は広く駆逐された。
アレを鼻腔に入れた際は気味悪く思ったものだが、その効用を知った今となっては些細な問題よ。無論、この使節団に同行する羅馬人たちにもブチ込んでくれたわ。
この点、彼らが非常に協力的あったことは実に喜ばしい次第だ。
最初は我らと同様に泣きそうな顔をしていたものの、さすがに文明人を自認するだけあって理を説いたら一発であった。皆、最後まで涙目であったが。
なかでも劉夫人の惨状は痛ましかったが、これも危険極まりない人痘を根絶するため。重ねてご理解願いたい。
……さて、防疫の件は今後も留意するが、肝心の
我らは通訳こそ介したものの、
まったく、あの御仁にも驚かされてばかりである。夫人の件もそうだが、人種や国籍を問わず誰とでも打ち解ける劉大人おらずして、この使節団は──。
「おや、団長。宴の前に日誌とは、相変わらず筆まめですな」
村邑の広場に簡素な椅子と机を持ち込み、日誌を認めいた鄭和が顔を上げ笑みを作ります。
「これは英明殿。今宵も酒を飲むことになりそうですからな。昨夜のような醜態を繰り返すわけにはいかんと、今のうちに認めておるのですよ」
「ふふふ。毎日毎日、日誌の題材には困りませんからな。書記官任せにはしておれませんか」
「ええ。おかげさまで私の日誌はほとんど劉大人の観察日記ですよ」
「やはりそうですか。あの御仁には驚かされてばかりですからね」
例えばこの宴もそうだ、と鄭和が視線を転じます。
劉大人は言った。異邦の民と仲良くなりたいならまずは胃袋を掴めと。
なるほど、それは正しい。その大部分を鳳明様が考案した開封料理はこの地の人々をたちまち魅了した。今では評判を聞きつけた近隣の村邑からも人が殺到している。
……しかしこちらの食糧も無限ではない。
開封より出立して二年。羅馬や埃及で補給した青物も底を尽き、他の食材も寂しくなってきた頃合いだ。
劉大人におかれては、何卒、手心のほどを──思わず渋い顔になりかける鄭和ですが、そんな彼もこの宴を止めるつもりはないようです。
「さて、私たちも向かいますか。今となっては貴重な鳳明酒の消費を劉大人にばかり委ねることはありますまい」
「そうだな。日誌の残りも後日で良かろう。今はあの御仁をやり込めるのが肝要か」
何故なら劉大人が連日のように主催するこの宴は、使節団の台所事情に頭を悩ませる鄭和の想像以上に、現地の住民との交流を円滑なものとしてくれたからです。
言葉が解らずとも、美味い酒と料理を楽しみながらなら通じ合える。
ましてや開封の美酒美食ならば尚更であり、そこを情熱だけで異国の令嬢を口説き落とした劉大人が取り仕切るとあらば、効果のほどは言うまでもない。
「ふふ、さすがは劉大人と言うべきかな。近頃は片言の漢語で話しかけてくる者も増えてきた。
「それだとオクタヴィアはひどく食い意地が張ってることにならないか? 聞かれたらまた睨まれるぞ。無論、涙目でな」
「それは怖い。英明殿もここだけの話に留めてくれると助かる」
陽気な宴席は今後も続き、やがて望外の結果を出すことになります。
使節団が南アメリカに上陸してちょうど一月が過ぎたころです。
近隣の村まで出向いたインカの青年が慌てた様子で戻り、急いで駆け寄った劉大人に身振り手振りを交えて訴えたのです。
「見ツケタ! 見ツケタヨ。劉サンタチノ欲シガッテル実ヲ知ッテル人、見ツケタ」
「でかしたぞ万作ッ!! それで? それで加加阿を知ってるってのはどいつだッ!?」
「ソノ人、年寄リ。体ガ弱クテ案内デキナイ。ダカラ場所ヲ教エテクレタ。ワタシ、代ワリニ案内デキル」
「『おおっ!!』」
劉大人に『万作』と呼ばれたインカの若者が自信をもって請け負うと、使節団の老若男女は飛び上がらんばかりに喜びました。
「デモソコ、チョット危険。アノ山ヲ越エタ先ノ川ハ、危険ナ生キ物タクサン居ル。劉サンタチ、大丈夫?」
「だってよ、団長さん。山越えと狩りの準備をしねえとな」
「うむ。私も同行したいが、他に仕事がある。……代わりに精鋭を付ける。劉大人、頼めるか?」
「おうよ、願ってもねえ……」
「ワタシノ村ノ人モ、協力シタイ言ッテル。ソレト、ソノ場所ハ泥ダラケ。ソノ点モ気ヲツケテ」
こうして現地に向かう先遣隊は劉大人が率いることになり、急いで遠征の準備を進めることになりました。
彼らが向かうのは、現代でも最後の秘境と恐れられる南米の密林地帯。
名実ともに世界最大の大河であるアマゾン川流域は、しかしこの頃はより危険な姿をしていたのです。
「……これが万作の言ってた河かい? 海の間違いじゃねえんだよな?」
数日掛けて到着した劉大人が唸ります。
地元の黄河に、先日のナイル──世界有数の大河を見慣れた劉大人らをもってしても、アマゾン川の流域は水面下に根を張るマングローブの森もあって、何処から陸地なのかも判別できませんでした。
もともとこの大河は、先遣隊の陣取る東の高地から西岸の太平洋に流れる川でしたが、アンデス山脈の隆起により出口を喪失。湖になった歴史があります。
湖は降り注ぐ雨によって水位を増し、やがて東側の高地をその重みで削って川に戻りましたが、数億年に及ぶ侵食がなかったことになりません。
「なんという軟弱な地盤だ。この先はいつ崩れてもおかしくないぞ」
「しかも土砂崩ならぬ泥崩れだ。劉夫妻は我らより前に出ないように頼む」
「うへえ……こりゃあ目的地まで何日掛かるか判ったもんじゃねえな」
「ウン。ダカラ向コウノ山ヲ迂回スル。一見遠回リニ見エルケド、ソッチノ方ガ近道」
……そう。万作の指差す山もかつては湖面の淵だったのです。
南米の天候すら支配するに至った莫大な水量は、東の高地が決壊しても未だに排出しきれず。古代インカの密林は独自の生態系を構築して、勇気ある先遣隊の人々を待ち受けていたのです。
「しかし暑いな。少し水浴びをしたいんだが、いいか?」
「駄目デス。川辺ハトテモ危険。アレヲ見テクダサイ」
熱帯雨林特有の蒸し暑さに辟易したオクタヴィアが申し出るも、有無を言わせぬ口調で制止した万作は静かにそれを指し示しました。
「あれは虎か……?」
「イイエ。アレハジャガーノ戦士・藤村大河デス。見テイテクダサイ」
虎とよく似たその生き物は水を飲んでいるようでしたが、不意に盛り上がった水面から飛び出してきたワニに前肢を噛まれて悲鳴をあげました。
そして、なんとかワニの顎門から前肢を引っこ抜いたその獣は尻尾を丸めて退散しようとしましたが……なんと泥濘に足を取られたところを獰猛なピラニアに襲われて……。
「……惨いな、ありゃあ」
大胆不敵な劉大人が絶句するのも無理はありません。
全身をピラニアに集られたジャガーは必死の抵抗も虚しく、赤く染まった水面に没して二度と浮かび上がってきませんでした。
「分カリマシタカ? 川ニハケシテ近寄ラナイ。イイデスネ?」
勿論、オクタヴィアに否はありません。彼女は全身の冷や汗を飛ばして何度も何度も頷くのでした。
「とりあえず長居したいところじゃねえのはよく分かったが、こっちに居りゃあ安全なんだろ?」
「ハイ、ダイタイハ……」
「なら飲料水も足りてるし、あの川には近寄らないようにしようよ……って、あれ? 見て見て、劉大人。蟻がまるで絨毯みたいだよ。すごい沢山いる」
「へえ? エサでも探してんのかね……ほれほれ、鳳明様の焼き菓子手でも食べるか?」
「イケナイ! ソレハトッテモ危険ナ蟻ノ群レデス!! 集ラレタラ先ホドノジャガーヨリ酷イコトニナリマスヨ……!!」
「そ、そういうコトは先に言ってくれー!!」
大慌てでビスケット放り投げた劉大人でしたが、数匹の蟻に指先を噛まれて子供のように泣き叫びました。
そのいささか情けない姿に妻のオクタヴィアは苦笑しましたが、それもこの蟻の正体を教えられるまででした。
「おいおい、たかが蟻に噛まれたくらいで……」
「イエ、ソノ蟻ハ大キナ獣ガ骨ニナルマデ喰ライマス。ソレト、毒針モアル」
「ッ、拙いぞ劉大人! すでに蟻の群れが革靴を──」
「逃げるぞ! 劉大人を引っ張って、可及的速やかにこの場から離れるのだ……!!」
これなる殺人蟻の正体こそはグンタイアリ──この脅威を目撃したエバンティスは貴重な手記を残すことになりました。
題名は『西端魔境黙示録』。
迂闊にも噛まれた劉大人の右手を腫れ上がらせた殺人蟻の記録は、西暦以降に入植した人々の教訓になったそうです。
「……やれやれ、ひでえ目に遭ったぜ」
「ホントですよ。僕まで服の下を這い上がった蟻に噛まれて……」
「マジかよ……オクタヴィアは大丈夫だったか?」
「…………ごめん。言いたくない」
劉大人と愉快な仲間たちは災難でしたが、同行した医師の手当てを受けた彼は最後までめげず。
蟻禍のあとも色々ありましたが、その数時間後に──。
「……これがそうなのか?」
「ああ、間違いねえ。この木に生えてる実が加加阿……鳳明様がこの俺に入手を託した最果ての珍味だ」
周囲は、見渡すばかりの加加阿の群生地。樹幹より垂れ下がる彩鮮やかな実は想像よりはるかに巨大で、これを初めて目にする人々を驚かせました。
これがその存在を予見された鳳明様が欲しいと仰せになられた加加阿。
人々の暮らしをより豊かにする新たなる大地の実り──その理解に、先遣隊の全員が歓喜の感情を爆発させました。
「やったぞ!! これを全部持ち帰れるか──?」
「いや、それは我らだけでは不可能だが、嘆くには及ばぬ」
「正確な場所が知れ、道中の危険も知れた。すぐに帰還して人員を派遣すれば……」
「ハハハ、やったぜ! これで大手を振って帰還できるってもんだ!!」
その根源にあるのは大任を果たせた安堵でもなければ、帰国後の報奨を思ってのことでもありません。
劉大人ら先遣隊の魏人たちの想いは、これでようやく鳳明様にひとつお返しできると、それだけだったのです。
それはオクタヴィアやエバンティス、万作たちインカの人々も同じで、善き人々の助けになれたと、その一心で歓喜に打ち震えたのでした。
折しも、雲ひとつない熱帯の空から雨が降り出しました。
この熱帯特有のスコールとは異なり、ほどよく涼しい空気を運んできたその雨は、まるで天が先遣隊の人々を祝福しているようでした。
……そしておそらく警告でもあったのでしょう。
「どわっ!? 急に激しくなりやがった!!」
「相変わらず酷い天気だな。もう少し感傷に浸らせてくれてもいいだろうに……」
赤道付近にあるこの地域の気候はひどく変わりやすく、それは陸だけではなく近海も同様である。
そんな実例を何度も見てきたのに、彼らはそれを活かせなかった……。
「やりましたな。これで
「うむ、加加阿だけではない。他の産物にも恵まれたし、万作殿たちも開封行きを希望している。鳳明様にこの遠征の功労者を紹介できるのは喜ばしいかぎりよ」
劉大人やオクタヴィアのような若手だけではなく、使節団の重鎮である鄭和たちまでもが浮き足立ち、プトレマイオス一世の忠告を忘れてしまったのです。
時期悪く、古代インカの民に見送られた帆船が出航したのも夏季の終わり。
進路も東ではなく、最短航路の北北東──ここまで危険を犯せば遭遇するのも必然でしょう。
豪胆なファラオが恐るべき竜の棲処と形容したカリブ海の東からから、実に中心気圧845hpaという、超大型のハリケーンと────。
それは木々を容易くへし折る暴風であり、迫り来る山脈の如き波浪でした。
帆を畳んだのにも拘わらず最後の支柱が薙ぎ倒され、船体が小舟のように揺れる。
「マストが……!!」
固く抱きしめた妻の叫びすらまともに聞き取れない。
大自然の猛威は矮小な人類の慢心を許さず、無慈悲に懲罰するかのように思えた。
これが、恐るべき竜か……なるほど、こんなの虚仮威しもいいとこだぜ。
「ハッ、支柱を持っていったからどうだってんだッ!! 俺たち魏人を嘗めんなよッ!? ハッキリ言ってテメエなんぞより白起のが遙かにおっかねえってもんだぜ……!!」
轟音すら掻き消す嵐の中にあって、不思議と劉大人の憎まれ口はよく聞こえました。
絶望の最中にあった魏人たちも自然と微笑みます。
「うむ、確かにな」
「だがその白起ですら容易に手を出せないのが今の魏国であり、あの御方よ」
「ああ。ならばたかだか龍如きにこの船を沈められるわけにはいかん」
「よし、今の我らにできることをしよう」
使節団に同行する異国人は白起の名を知りませんでしたが、彼らが笑っているうちは大丈夫だと折れかけた心を奮い立たせます。
「テイワ殿! もはや船上にとどまる理由はござらん!!」
「うむっ、総員船内に退避せよ! 鳳明様の加護を信じるのだ!!」
「いくぜオクタヴィア! 水浴びはもう十分だろう──?」
「うん! 劉邦もすっかり喜んじゃって……!!」
「あー」
……ちょうどその時、不思議な事が起こりました。
不意に暴風が弱まり、分厚い雲海の彼方に光が差し込んだのです。
それは現代人ならば台風の目に差し掛かったと思ったでしょう。
しかし彼らはそこに奇跡を見出したのです。
「こりゃあ──」
劉大人はその光が白い翼を持つ四柱の巨神に見えました。
そのうちの一柱に呉鳳明の面影を見出しのです。
これは他の魏人も同様でしたが、エウメネスらペルシャの人々は、そこにバビロニアの魔人を見出しました。
「奇跡じゃ。ホウメイ様とユピテル様が奇跡を遣わしたのじゃ……」
「羽根ノアル蛇……アレガソウナノカ……」
ローマ人は最高神ユピテルを。
インカ人は創造神ケツァルコアトルを。
それぞれ光の中に見出して、感動に震えたのです。
──まったく、この
──ハハハ、固いコトは言いっこなしデェース。
──苦難を乗り越え成長する。これもまたローマよ。
──無事で良かった。でも今後は慎重にお願いしますね?
夢も希望もなく言ってしまえば、これは集団幻覚に属するものなのでしょう。
心身に多大な負荷を掛けられた彼らが存在しない記憶に囚われたのも、無理なからぬ出来事であったと理解できます。
しかしながら事実と真実は異なります。
彼らにとっての真実とは、大いなる何者かの恩寵をもってこの危機を脱したと、これだけだったのです。
それから一月ほど経過して、舞台は北米大陸東部──海に近い森の中で暮らす先住民がとある関心事を熱心に語り合ってきました。
「族長たちも揃ったのに、ウチの男どもは何処に消えたのさ」
「また大きなカヌーを見てくるって言ったよ」
「またかい? そりゃあ、気になるのはわかるけどね……」
「あ、帰ってきた」
「お帰りなさいお父さん、おみやげは?」
「おお、沢山あるぞ。少し持ってくれ」
「わぁ……すごい。食べられる木もあるよ」
「……アンタ。それ、あの人たちからちょろまかしたんじゃないだろうね?」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。ちょっと話したら土産に持たせてくれたんだよ」
「話したって、言葉が通じるのかい!?」
「全員じゃないがな、少しだけ俺たちの言葉が通じるヤツが居たんだ。なんでも、地続きの南方から来たとか……」
「だとしたらお手柄じゃないの。族長たちもあの人たちの事を気にしてるんだからさ」
「それでプルムク、あの人たちはなんて言ってたの?」
「それなんだが、なんていうかサッパリでよ。マストに使えそうな背の高い木って言われても何がなんだか……」
「……それじゃあなんの役にも立たなかったのに、お土産だけしっかりねだってきたのかい?」
「いや違うぞ! 長老に訊いてくるって伝えたし、酒だって向こうが勝手に持たせてきた物であって、けして強請ったつもりは──」
「ばっ、もう何も言うなプルムク……!!」
「あ、だからみんなこんなにコソコソ……」
「うん。隠れて飲むつもりだったんだよ、きっと」
「はあ……とにかく、これだけお世話になっておいて、なんのお返しもできませんは通らないよ。今から長老たちに伝えて具体的なお返しを話し合うから、それまで飲むのは禁止。わかったね」
「…………はい、お母さん」
善意の連鎖は途切れず、使節団の命運はまだ尽きていないようでした。