天下の大宰相・呉鳳明伝 作:後世の歴史家
かつてこの地を訪れた者がいたら目を疑うことでしょう。
遠方より目にすれば、はるか未来に繁栄を極めるコンスタンティノープルのそれをも凌ぐ白亜の三重城壁。
間者達の大多数を初見で絶望せしめる不可侵の象徴。
そして城門を潜りて目にするは、現代まで再現の試みすらされなかった、現ローマ共和国をも凌ぐインフラ設備の整った近代都市。
三重城壁の試練に耐えた間者達もこれには絶句。
現代人ならば上下水道が完備されていると、これだけで済む報告が対応する言語が不在なために途方に暮れます。
そんな開封の建設に携わった人夫達も遷都の完了をもってお役御免となりますが、彼らの前途はとても明るいものでした。
「世話になったな。これは今月分の給金と鳳明様の心尽くしだ。長いことご苦労さん」
「有り難く……アイヤッ!!」
「なにこの重みアイヤッ!?」
「アババババババ」
「アイエエエッッ!?」
「ハハハ。やっぱり
「ああ、偶に訛りのすごい奴もいるがな」
開封市内の詰め所で人夫達が受け取った特別な慰労金は、手に職があるのならば商業地区に自分の店を持てるほどの金額です。
そしてその職自体も、ここの人夫達ならば困りません……。
「ところでお前らは予定通りこっちに店を持つのかよ」
「ああ。俺は大工をやるが、家具の注文販売もやるつもりだ」
「オレはどうすっかなァ……嫁さんがウンって言ってくれりゃこっちでも店を構えて、八百屋をやりてェんだがよ」
「いいんじゃね? こんだけデケェ街だ。日持ちしない青物は毎日仕入れてやれや。運搬に必要な人手くらい余裕で雇えるだろうがよ」
「そうだな。だが、今後のことを考える前によ」
「……おう、あの店だな?」
何処かで見たことがある三人組が向かうのは、いわゆる来店した客に料理を振る舞う外食屋です。
最大で軍民合わせて200万と言われる人夫達も、さすがに全員がこの開封に配属されたわけではありません。
魏国各地で行われた建材の製造や、運搬等に多くの人手を割かれたことを考えると、こちらにはせいぜい60万程度でしょうが……逆に言えばそれだけの数を食わせる店があるという事です。
そして彼らが向かうその店は、人夫達が炊き出しに頼っていた時代に安邑より出店した老舗中の老舗にして、最近はとみに華やかになった呉鳳明肝煎りの店……。
「あっ、王さんたちいらっしゃい」
溌剌とした笑顔で出迎えた看板娘は、なんと鳳明の実妹である玲麟──これには三人組もニッコリです。
「おうっ、今日も世話になるぜ。玲麟さんよ」
「最近はどうよ? しつこく絡んでくる野郎がいたら、お兄さんに相談して心配かける前に言ってくれや。二度と不埒な真似ができないようにとっちめてやるからな」
「あはは、またまたお上手なんだから。わたしなんて偶にお尻を触られる程度だから、そういうのは結さんに言ってあげてくださいよ」
「れ、玲ちゃんのお尻だと……」
……この玲麟。未だに11歳ながら、以前のような寸胴体型ではありません。
鳳明とよく似た美貌に浮かぶのは年齢相応の可愛らしい表情でありながら、体型は女性物の漢服にメリハリをつけて男たちの目を十分に楽しませる域に達しています。
相手が鳳明の妹と知っていてもうっかり手が出ることもあるでしょう。
今や玲麟はこの店の紛れもない看板娘でしたが、人夫達のアイドルである彼女がこの店にもたらしたものは大勢のお得意様だけではありませんでした。
「おーい玲ちゃん、追加の発泡酒と唐揚げを二つずつ頼むわ」
「こっちにも拉麺のもやしと餃子、炒飯を頼むわ」
「はい、承りました。少々お待ちくださいね」
注文を手早く書き留めながら三人組を席まで案内した玲麟は身を翻し、厨房に駆け込んで鍋を握りました。
「ごめんよ玲。お客さんの案内と給仕だけでも大変なのに、厨房まで手伝わせて」
「いいえ、困った時はお互い様です。おばさんだってわたしたちを助けてくれたでしょ?」
「おや、そうだったかねえ?」
……当時を知らない人間は驚くでしょうが、この国にも滅亡に瀕していた時期が存在しました。
呉慶の名があまり知られていなかった時代。かつての王都・安邑の住民の誰もが下を向いていた6年以上も昔に、この女性は夫の目を盗んで玲麟たちに食事を与えたことがあります。
それも一度ではなく結構な頻度で……。
結局そのことが理由でこの女性は娘ともども捨てられてしまいましたが、今度は鳳明によって救われて呉家の女中に。
そこで鳳明のヘンテコ料理を学んだ彼女は、建設途上の開封の現状を知り、呉家の援助を受けて出店。食いっぱぐれた人夫達をまとめて引き受けました。
そうして評判が評判を呼び、彼女の苦労は最上の形で報われたのでした。
「忙しいところを済まねェが、こっちの席に特上拉麺の大盛りを三つ。あと餃子の大皿と発泡酒も頼むわ」
「はぁーい、少々お待ちを」
「わるいね玲。こっちも出来たから前のお客さんの給仕もお願い」
「そっちは私がやるわ。玲ちゃんはそのまま麺を頼むわね」
「はい、結さん」
人の縁は不思議なものですが、おそらくその事をもっとも実感しているのはこの母娘でしょう。
……なお遷都の完了をもって各地の名店もこの開封に出店。
対外的にはまったくの無名でありながら、生意気にも繁盛しているこの店を潰してやろうと、彼らは大人気なくも示し合わせて包囲してきましたが、まるで勝負にならず土下座して教えを乞いにきたそうです。
もちろん彼女たちは快諾して、これまで鳳明の周囲に留まっていた様々な料理が開封に広まっていきました。
開封が食の都と呼ばれる下地は着々と整っていったのです……。
その日、韓の王都・新鄭では、魏国より派遣された使節団を歓迎するため、動員できるかぎりの
各所に多数の監視兵も配備され、些細な非礼もあってはならないとばかりの熱狂を演出する理由は、それだけ韓が苦しい立場にあるからです。
……たしかに韓は魏の援助もあって、王齕の大軍を自力で撃退しています。
ですがその勝利は韓の年間食糧総生産をも上回る、莫大極まる食糧支援があったからです。
これにより韓王政府は一時的に農耕を停止して、この古代にあるまじき総力戦を選択できましたが、その代償はとても大きいものでした。
まず、この借りをどう返すか。そして、来年以降の農耕をどうするか。さらに、それまでどうやって食い繋ぐか。
魏にさらなる食糧援助を求めなければ、このまま立ち枯れることになる──そのような試算もすでに出揃っています。
借りた物も返していないのに、さらに貸してくれと頼まなければならないのです。
卑屈と言われようと韓王政府に所属する全員が、魏の使節団を愛想笑いと揉み手で出迎えたもの当然かもしれません。
「どもども。初めましてー。使節団の代表を務めます蕭何と申します。見ての通り若輩者ですが、よろしくお願いしまぁーす」
だからこそ全員が怒りを覚えました。
なんだ、この軽薄な小僧は。
使節団の代表は前宰相の蕭阿殿ではなかったのか。
おのれ。どれだけ下に見られても仕方ない立場ではあるが、さすがにこれはないだろう。
と、そのような怒りです。
しかし事前に交わした親書には、使節団の代表は蕭何が務めるとちゃんと書いてありますから、これは勝手に読み間違えて蕭阿が来るものと勘違いした韓王政府の落ち度です。
「ありゃりゃ。やっぱり皆さん、祖父が来るものだと勘違いしちゃてましたね」
「い、いえ、決してそのような……」
そしてもう一つ。この蕭何は断じてただの軽薄な小僧ではありません。
「とりあえずですね。ボクは皆さんの敵じゃありません。もしかしたらボクらが来たのは、食糧援助の見返りについて話をつけにきたと、誤解してらっしゃるかもしれませんが……」
「……違うと仰いますか?」
韓王政府の代表である張宰相が、そこでゴクリと喉を鳴らして尋ねるも、蕭何の返答はいっそ天晴れなほどでした。
「はいっ! アレは本来、そちらの韓非さんがこちらの遷都に協力してくれた見返りに無償で行われたものですから」
「『むっ、無償ォ!?』」
「あとですね、そちらが落ち着くまで引き続き援助を継続しますが、そちらも無償で」
「『…………ッ!!』」
「いやもう、韓非さんにはお世話になりっぱなしだったから、当然なんですけど……それと実はもう一つ、お願いがありまして」
「……伺います」
他の者達とは異なり、ここまで狼狽を飲み込んできた張宰相でしたが、それもここらが限界でした……。
「ええとですね、実はこちらで魏国の新農法を韓非さんに伝授してるんで、今のうちにそちらの畑の状態を確認しておきたいって、鳳明様が仰るんですよ」
「えっ!?」
伝授している?
何を?
こちらを丸ごと養えるほど画期的な魏国の新農法を?
しかも畑の状態を確認しておきたい?
何のために?
あっ、来年の種蒔きのためにか……!!
「というワケで、あんまり荒れてるようなら事前にこっちで手を入れておきたいんですよ。何しろ今の内から土の状態を整えておかないと、帰国してから韓非さんが苦労することになりますからね……許可をいただけますか?」
「も、勿論です……」
……あり得るのだろうか?
この弱肉強食の戦乱の世に、ここまで他国を思いやり、援助の手を惜しまぬ為政者が……彼の英才・呉鳳明とはそれほどの……。
「『ふぐぅ!!』」
その理解が脳を駆け巡ったとき、韓王政府は全員が拝跪の礼を尽くしたました。
玉座におわす韓王安はその限りではなかったものの、彼もまた両目に熱いもの讃えて震えずにはいられませんでした。
──この会合により、帰国した韓非は隅にもおかせぬ扱いを受け。
翌年の秋に魏国から伝授された農法が比類なき成功を収めると、韓王政府はこの功績に報いるために韓非を宰相に選出します。
生来の吃音を理由に実権から遠ざけられていた韓の公子が、いよいよ自国の舵取りを担うようになったわけですが───もちろん鳳明にそんな狙いはありませんでしたが、蕭何にはありました。
後に世界史を紐解いても、こんな男は一人しかいないと言われるほどの押し売りの天才。
鳳明の後を継ぐ天下の大宰相の名が史に初めて刻まれた瞬間がこれでした。
── 一方その頃。
他国がその動向に気を揉むようになった呉鳳明はというと、宰相に就任してからずっと暇を持て余していました。
隣国をケアする仕事は蕭何にとられてしまいましたし、先を見越して運河を整備する仕事も部下に取られてしまったからです。
軍事は総司令官の父に丸投げしてしまいましたし、他国の使者と謁見する仕事も、新たに相談役というよく分からない地位に就いた蕭阿と安釐王が関わらせてくれません。
そして外交はというと──。
「そろそろ斉と趙に話をつけにいきたいのですが」
「駄目だ」
鳳明の懇願に信陵君の態度は
「……霊鳳様に十分な護衛を付けてもらってもですか?」
「ああ、駄目だ」
再三に渡って却下する信陵君も大変です。
おそらく鳳明は飛び込み営業の感覚でいるのでしょうが、そのやり方は国家間の外交では通用しません。
まあ、大梁周辺を測量した時のように、勝手に飛び出さないだけ彼も成長したのでしょうが……。
「三国共同で黄河の水運を整備する話はすでに伝えてあるが、こういうのは手順が大事なんだ」
「と、申しますと……?」
「ああ、まずはこちらから何かしらの要望を伝えるだろう? すると外交儀礼上、最低でも何かしらの返答があるからこれを繰り返して……今回の場合は水運事業について話し合う場所と人員を決めていくわけだ。よって、今の段階で君が話を通しにいっても、向こうに話し合う用意が出来ていないのだから追い返されるのが関の山だし、それは外交上の失点になるのだ」
「……なるほど」
確かに社内の意見をまとめようと、相手の会社にきちんと話を通しておかなければプロジェクトは進まない。
今はまだ双方の担当者が打ち合わせをしている段階だとすると、催促と受け取られかねない突然の来訪が相手方の心象を悪くするのは理解できる……。
「どちらにしろ焦らずとも良い。私の見たところ趙の反応は悪くないし、斉もな……あの王建王がこんな儲け話を見逃すはずないさ」
「わかりました。僕はしばらく他のことをして時間を潰しています。……それと急かすような真似をして申し訳ありませんでした」
「ああ、そう言ってくれて助かる」
外交儀礼上の常識を新たに習得した鳳明は素直に反省して、信陵君に謝罪してから辞去しました。
「………」
しかし己の過ちを認めたのは良いことですが、今の鳳明には本当にやることがありません。
趣味の農業は午前中に終わってしまいましたし、妹が料理や菓子作りをあちこちに広めた結果、厨房で菓子をつくろうにも宮女たちが許してくれません。
新しいお菓子なら製法を学ぶために許してくれそうですが、手持ちの材料ではそれも適わず。
鳳明は本当に手持ち無沙汰で仕方なく──そしてその状況をこの少女が見逃すはずがありませんでした。
「あら、鳳明様。お仕事はもう宜しいのですか?」
「これは綺丹公子。ご機嫌麗しゅう」
お声を拝借した鳳明はその場に拝跪して礼を尽くしましたが、綺丹公主はまるで取り合われません。
「あらあら。もしかして鳳明様は、私に起こしてもらいたいがために、毎回こうして膝を突かれるのかしら?」
「い、いえ、そのような気は……」
……鳳明もこの点ばかりは学びませんね。今回も自然と腕を取られて自制心を試されてしまいます。
綺丹公主がお召しになられる衣装は絹を使った素晴らしいものですが、それだけに布地が薄く、鳳明は健気な膨らみから伝わってくる温もりに赤面する一歩手前なのです。
「二、三、五、七……」
「あら、新しいおまじないですか?」
混乱のあまり思わず素数を数えだす鳳明に微笑み、彼をどこかに
クイッと引かれた鳳明の右手が最上級の布地越しに、触れてはならないところに触れてします。
場所は股関節の中心よりやや下の、鼠蹊部と呼ばれる少女の窪みに──。
「────────」
……接触は一瞬でした。しかしその一瞬で十分でした。
本日の綺丹公主は下着をお召しになられておられない──そう看破した鳳明の額に浮かんだものは、きっと脂汗と呼ばれるものです。
脈アリ、どころの反応ではありません。
綺丹公主もこれまでの鳳明の反応から、彼に女性として意識されていることは承知しています。
ですが、この煮え切らない少年はここからが手強いのです。
鳳明にとって綺丹公主という少女は、言ってしまえば社長の娘……しかも13歳と、鳳明の感覚ではまだ中学生になったばかりの女の子なのです。
もちろん彼も聖人君子ではありませんし、前世では男子校から女生徒0の学部とご縁こそありませんでしたが、彼の感性は普通です。
可愛い女の子に笑顔を向けられれば嬉しくなりますし、こうして戯れ合うとドキドキしてしまいますが。
手を出したら社会的に死ぬ──そう思えば綺丹公主という据え膳を前に二の足を踏むのもわかります。
そして綺丹公主も、鳳明がおそらくは“未婚の娘を辱めてはならない”という生来の高潔さゆえに、自身を遠ざけようとしていることを漠然と感じ取っておられます。
だから彼女は焦っています。それでは困るのです。
国内に両者の婚姻の妨げになるものはありません。しかし国外はどうか。
例えば秦の昭王が自国の姫を嫁がせようとしたとき、この国にはまだ、それを跳ね除ける力がありません。
そしてそうなったとき、綺丹公主は秦を刺激することを恐れ、側室として侍ることすらままならなくなるのです。
よって、多少の強引さは最初から織り込み済みです。
「──すごい汗ですわ鳳明様。これはいけません。ただちに私の部屋でお休みください」
「いや大丈夫だよ。そんな、君の部屋に行かなくても、その辺で汗だけ拭かせてもらえば」
「いけません! 鳳明様はこの国の至宝……もっとご自愛くださいませ」
どんなに強引でも部屋に連れ込んでしまえばこっちのものだ。あちらにはすでに世話役の侍女達が待機している。到着次第ともに入浴して、褥をともにする準備は整っている。
むろん父王も承諾済み。というかこの件に関しては自分より積極的で、なんと夜這いを提案してくるぐらいだ。いつもは毒にも薬にもならないが今回だけは頼もしい。
もちろん周囲の近侍たちもその旨は承知している。無分別に鳳明の味方をしかねない文官達も、王族の居住区であるこちらまでは入り込めない。
よって鳳明は孤立無援。さすがの彼もここからの挽回はない。
だから。だから。あとは私の部屋に──そんな綺丹公主の完璧な計画は、しかし無情にも打ち砕かれます。
「ここに居たのか鳳明」
全滅の直前に100万の援軍を得たかのような鳳明とは裏腹に、綺丹公主は膝から崩れ落ちそうになりました。
「霊鳳様ッッ」
「おや、丹も一緒だったか。これは悪いことをしてしまったな」
「構いません! ご用件はなんでしょうか?」
「ああ、それなんだが、呉慶が──おっと、総司令が龍譚の適性を見るために例の立体地図を使いたいそうだが、アレは俺たちの一存では動かせないからな。許可をもらえるか?」
「はいっ、今すぐ話を通しておきます」
そう言って駆け出そうとする鳳明をこの場に留める術はありませんでした。
誰もこの場に現れないはずが、王族出身の霊鳳に話を通しておかなかったことが裏目に出るとは。
伯父の信陵君ならば空気を読んでくれただろうに、この男ときたら、この男ときたら……。
「ん? 俺の顔に何か付いているのか、丹」
「知りませんッッ」
……こうして綺丹公主はご自室にお帰りあそばされました。
今のところ戦績は23戦0勝23敗。
いつかこの少女の健気な想いが通じることを願わずにはいられません……。