-1-
“寄宮かのは”は死んだ。
吊られた首、青白く冷たくなった肌、硬直しかけた四肢──あの時触れた感触は、どう取り繕っても「死体」そのものだった。
だが彼女はあの出来事が無かったように動いている、しかしながら今ここにいるのは彼女ではない“何か”だ。
彼女の記憶を持ち、声を持ち、姿を持つ。けれども笑みは異様に鮮やかで、言葉は人間離れした軽やかさを孕んでいた。
頭の中で、何度も問いが渦を巻く。
──これはまだ「寄宮かのは」と呼んでいい存在なのか?
──俺は、この異様なものをステージに立たせるのか?
しかし答えは、既に決まっていた。
スケジュールに組まれたライブ。
キャンセルはできない。小箱のイベントとはいえ、ファンは彼女を待っている。
観客が十数人しかいないとしても、彼女を応援してくれる数少ない人間だ。その期待を裏切れば事務所の信用は地に堕ちる。
それに──「寄宮かのはは死んだ」などと世間に知れ渡れば、すべてが終わる。
俺の仕事も、彼女の夢も、そしてこの不可解な現実の均衡すらも。
「……やるしかない」
乾いた声でそう呟き、自分に言い聞かせた。
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楽屋は古びた安っぽい空間だ。
剥がれかけた壁紙、ぐらつく折り畳み机、色褪せたポスター。蛍光灯の白い光が無機質に降り注ぎ、狭い空間をさらに冷たく見せている。
机の上には、立ち位置のメモや使い込まれた歌詞カードが散らばっていた。
私はその前に座る“かのは”を見下ろし、何度も指示を繰り返していた。
「もっと声を抑えて。……そうだ、そのくらい小さく。少しだけ震える感じを意識して」
“かのは”は視線を伏せ、両手を胸元で重ね、か細い声を漏らした。
「……こ、こんな感じ?」
驚いた。
仕草も声色も、記憶にある彼女そのものだった。昨日まで隣で歌っていた少女が、そこに蘇ったような錯覚すら覚える。
「……次は笑い方。恥ずかしそうに、でも嬉しそうにだ」
“かのは”は頬を赤らめたように俯き、肩をすくめて控えめに笑った。
思わず息を呑む。
「……完璧だ。信じられないくらいに」
「簡単だよ」
彼女は飄々と答える。
「だって知識も記憶も、全部あるんだもの。演じるなんて造作もない」
私は深く息を吐き、緊張を解いた。
これなら大丈夫だ。少なくとも次のライブは、問題なく乗り切れる──そう思った。
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会場の照明が落ち、観客がざわめく。
狭い小箱に十数人のファンが集まり、色とりどりのペンライトが揺れている。
その光景を見て、胸が締め付けられる。ここにいる全員が「寄宮かのは」の存在を信じ、待っている。
“かのは”はステージ中央に立ち、一瞬だけ怯えたように肩をすくめ、視線を床に落とした。
──いい、完璧だ。
曲が始まる。
彼女はおそるおそるといった風に足を踏み出し、小さな声で歌い出す。
観客はそのか弱さに息をひそめ、ペンライトを揺らしながら見守っていた。
……だが、二番に入る頃。
彼女の唇に笑みが浮かんだ。抑えていた声に力がこもり、ステップが大きく跳ねる。
肩を開き、全身を存分に使って踊り始める。
そして以前までなら行わなかった喜びの感情がこれでもかと乗ったサビ前の叫び。
「行くよーっ!」
小箱の空気が一気に爆発する。
ファンは笑顔で腕を振り、口々に叫んだ。
「かのは、変わったな!」
「でもいいぞ! 楽しそうだ!」
熱狂が渦巻く。観客たちは“変化”を前向きに受け止めていた。
──ただ一人を除いて。
最前列の中央。色あせた推しタオルを首に巻いた古参の男だけは、腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
彼の視線は鋭く、獲物を狙う狩人のように“かのは”を射抜いている。
冷たい疑念が、まっすぐ俺の胸に突き刺さる。
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終演後、楽屋。
“かのは”はタオルで汗を拭きながら、無邪気に水を飲んでいた。
私は扉を閉めるやいなや、怒りを抑えきれず声を荒げた。
「お前……途中から完全に別人だったぞ。ファンは気づく。特に古参の一人、あいつは絶対に疑ってる」
“かのは”はむっとした顔をして、タオルを机に投げ出した。
「だって……縮こまってるの、つまんないんだもん。身体を動かしたら楽しくなっちゃった。それの何が悪いの?」
「悪いに決まってる。“寄宮かのは”はそういう子じゃない。お前が本気で彼女として生きたいなら、完璧に演じろ。
今日のはただのお前自身だ。それじゃ駄目なんだ!」
その言葉に、彼女の瞳がすっと冷たく光った。
ゆっくりと立ち上がり、私に歩み寄る。
汗の混じった甘い香りに、鉄のような匂いが混ざり合って喉を焼く。
「ねえ、どうしてそんなに“元の寄宮かのは”にこだわるの?」
吐息が頬を撫でる距離。
「あんな臆病で内気な人間あなたには釣り合わない。あなたには……私だけで十分でしょ?」
そんな私の好きだった彼女を貶めるような不躾な言葉に反論しようとした瞬間、唇が押し付けられた。
舌が強引に絡みつき、口腔を蹂躙する。甘さと同時に黒い生臭さが喉の奥に広がり、思考が真っ白に塗り潰されていく。
私の頭が彼女色に染まりそうになる寸前、唇を離した“かのは”は妖艶に笑った。
「気付かれたって、対応手段はいくらでもある。だから……プロデューサーは今の私だけ見てればいい」
タオルを肩にかけ直し、何事もなかったように楽屋を出ていく。
残された私は足の震えを止められず、口内に残る黒い味を吐き出すこともできなかった。
-2-
夜の静寂が部屋を包んでいた。
築年数の経ったアパートの一室。天井に取り付けられたLEDの明かりは壁紙の黄ばみを浮かび上がらせている。プロデューサーである私は、机に突っ伏すようにしてスマートフォンを手にしていた。
短い震え。画面に表示された通知。
そこに並ぶ文字列を見た瞬間、胸の奥にざわつきが広がった。
差出人の名前は「寄宮かのは」。
だが、そこに存在しているのは──もう彼女本人ではない。
タップすると、画面いっぱいに新しいメッセージが開かれた。
【かのは】「今日はありがとう! すっごく楽しかった!」
まぶしいほど明るい言葉。
無意識に眉をひそめる。たしかに全体的な反応を見れば今日のライブは成功だと言えるだろう。十数人しかいない観客席でも、彼女は確かに輝いていた。盛り上がり、笑顔があふれた。
それは間違いない。……だが。
この「楽しさ」を真正面から言葉にして送ってくる彼女に、強烈な違和感を覚える。
以前の寄宮かのはなら、こういうメッセージは絶対に送らなかった。
「今日は上手くできたかな……」
「失敗してなかった?」
そんな不安げな文面ばかりだった。楽しさを口にするのは、いつも恐る恐る。私の反応を伺うように、慎重に。
それなのに、今の彼女は。
【P】「お疲れ。……でも少し元気すぎたな。もう少し控えめでもいい」
【かのは】「えー? でも私、ああやって歌って踊るのが一番楽しいんだよ!」
【かのは】「プロデューサーも、見てて楽しかったでしょ?」
画面の向こうから、笑い声が響いてくるようだ。
私はしばし言葉を失った。
まるで別人。いや、別人そのものなのだ。記憶も仕草も模倣しているはずなのに、その芯の部分にあるのは「寄宮かのは」ではない。
喉がひりつく。
それでも言葉を打ち込む。
【P】「……とにかく、今は休め。おやすみ」
【かのは】「はーい。おやすみなさい! 夢で会おうね!」
送信マークが消え、通知も途絶えた。部屋に再び静寂が戻る。
私はスマホを見つめたまま、しばし動けなかった。
──夢で会おうね。
そんな言葉、彼女は使わなかった。“生前の寄宮かのは”は。
気がつけば、指先は過去のトーク履歴を遡っていた。
スクロールするたび、懐かしい文字が目に飛び込んでくる。
【かのは】「明日のリハ、緊張するなぁ……」
【P】「大丈夫だ、俺がついてる」
【かのは】「……ありがとう」
画面に映る一文一文が胸を締めつける。
震える文字。短い返信。
不安を押し殺して、それでも一歩を踏み出そうとしていた彼女の姿が、そこにあった。
あの日々はもう戻らない。
今、私の手の中にある「寄宮かのは」は、寄宮かのはではない。
喉の奥が熱くなり、慌ててアプリを閉じた。
呼吸を整えようと深く息を吸う。
……切り替えなければ。現実は待ってはくれない。
私はSNSを開いた。検索欄に「#寄宮かのは」と打ち込み、最新の投稿を追う。
画面に流れるのは賛辞の数々だ。
「今日のかのはちゃん、すごく楽しそうで可愛かった!」
「動きがキレッキレでびっくり! 前より自信に満ちてた!」
「なんだか大人っぽくなった感じ!」
次々とスクロールされる肯定的な言葉。
胸の奥にわずかな安堵が広がりかける。
……だが、そこで指が止まった。
「今回のライブも良かった。でも……雰囲気がかなり変わっていて驚いた。何か大きな変化があったのだろうか?」
その一文を読んだ瞬間、背筋が凍る。
投稿者のアイコンを見て、さらに血の気が引いた。
あの古参ファン──。
デビュー当初からずっと彼女を追い続け、最前列で見守り続けてきた人物。今日のライブでも、その視線は異様に鋭く感じられた。
ただの勘違いならいい。だが、あの男はきっと気づき始めている。
指先が震え、スマホを落としそうになる。
胸の奥がぎりぎりと締めつけられる。
「……バレる……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
秘密が暴かれればすべてが終わる。寄宮かのはの死も、今の“かのは”の正体も──。
暗い部屋の中、スマホの画面だけが淡い光を放ち続けていた。その光が、まるで私の罪を暴こうとしているかのように思えた。