まだ薄暗い未明の時間。
後の時代に『オトモの森』と呼ばれる修練場跡地に一人の青年が居た。
美しく結い上げられた黒髪は長く、太刀を構え虚空を睨みつける瞳は葡萄酒の色をしている。
ここは先日まで修練場だったが、建っていた巨大な打ち込み用の柱は、風穴が空いて向こう側が見えてしまったので既に撤去されて無くなっていた。
修練場跡地には、小さな獣の気配があった。
トテチテと地面を踏み締め、跳ね回る音と気配。そうして一層強く踏み込んだ後、高く跳び上がったかと思うと、青年に向かって小さな樽を次々に投げ付けた。
その姿は修練場跡地に元々住み着いていたアイルーのうちの一匹である。
「疾ッ!」
青年が吐き出すような気合と同時に太刀を閃かせると、青年に向かって飛んでくる小さな樽は空中で全て叩き斬られ地面に落ちる。
残心を取り太刀を鞘に納めると青年はそこで初めて詰めていた吐息を細く吐いた。
「露ちゃん、タルがもう無いなったニャー。」
「あぁ、悪いな松。助かったよ。」
青年の名前は神座露草。
カムラの里の老舗薬問屋、神座森林庭園の当代代理を勤める次男坊である。
「………それにしても露ちゃん、最近の鍛錬にしてはやり過ぎじゃないかニャ?身体壊しちゃったら元も子もないニャ。」
「……随分サボってたからな。怠けた身体を鍛え直すにはこのくらいで良いんだよ。修練、付き合ってくれてありがとな。」
一人と一匹が、日が昇り始めた頃に修練場跡地に散らばった小さな樽の残骸を拾い集めていると、修練場跡地入口の方から声をかけられた。
「おーい、露〜。」
随分と親しげに自分を呼ぶ、聞き覚えのある声に露草が顔を上げるとそこには予想通りの人物が居た。
「柊。」
「はぁい、柊お兄ちゃんだよ〜。元気にしていた?」
朗らかに笑う薄茶の髪のやや小柄な青年。幼馴染の実兄で露草にとっても兄貴分の青年だ。
露草が『松』と名前を付けたアイルーは柊の声が聞こえた瞬間に驚いて飛び上がり、地面に潜って姿を隠してしまっていた。
「久しぶりだね、露。また身長が伸びたんじゃないかな?」
「……身長はまぁ伸びたかも。……で、俺に何か用でもあった?兄貴に何か頼まれでもした?」
露草が聞き返せば柊は『鋭いなぁ』とでも言う風に少しだけ困ったように笑う。
「んー、……そりゃあ少し頼まれましたよ。『可愛い弟が何か無茶でもしてないか見てきて欲しい』ってね。」
それから、と声のトーンを落として柊は続ける。
「……かんわいい弟達が喧嘩をしたかも、なんて聞いちゃったらさ、お兄ちゃんとしては気になってしょうが無いのよ。」
勘の鋭い弟分に隠し事をしても無駄な事は分かりきっていた柊は素直に心情を吐露する。下手に搦め手から入っても、露草はただへそを曲げるだけだ。
心を素直にして接する分には、露草も素直にならざるを得ない。柊はそれを知っていた。
「…………喧嘩、と言うよりは俺が蒼を怒らせただけだよ。」
「修練場の柱に穴を開けたって聞いてね。お兄ちゃんびっくりよ。」
「はは、……まぁ、それぐらい腹立てたんだろうな。…蒼、……成人の儀用の装備は一緒に作るって昔の約束に拘ってたみたいだし。」
「それ、君らが十歳くらいの話よね。」
「十歳でも約束は約束だな。…………破った俺が悪い。」
だから、まぁ、と口籠りながら露草は言葉を紡いだ。
「……明日にはオサイズチでも狩猟して、蒼に謝る事にするよ。」
自分でやらなければならない事を露草は痛感しつつ、柊にそう述べた。柊はそれ以上何も言わずに『そう。わかったよ。』とほほ笑んで弟達の行方を見守る事を心に決めた。
修練場跡地に散らばった小さな樽の残骸を片付けて、露草はカムラの里の方へ戻っていった。
カムラの里の中心に聳え立つ、出来たばかりのたたら場にほど近い質素な店構えの中では、日が昇り始めたと同時に職人ハモンが仕事に取り掛かろうとしていた。そこへ修練場跡地から戻って来た露草が立ち寄った。その表情は明るくない。真剣な顔だった。
「ハモン爺さま。」
「……頼まれた物なら仕上がっている。ほら、持って行け。」
二、三言を交わす短いやりとりだった。
ハモンが仕上げた装備一式と、研ぎ終えた一振りの太刀を受け取り、露草は深く頭を下げてその場を後にした。
思い詰めた様な露草の葡萄酒色の瞳に、ハモンはひっそりと『……無茶だけはするなよ。』と歩き去る露草の背中に溢した。
カムラの里の大通りから大きく外れた道を行った先の、少し静かな場所に建っている老舗薬問屋、神座森林庭園にはハンターズギルドから訪れている調査員が二人滞在している。
セラヴィとリデル、二人の目的はカムラの里周辺の調査、及びにカムラの里とハンターズギルドを繋ぐ集会所建設の要請だった。
集会所建設の要請自体はすんなりとカムラの里から許可が降りたが、今では別の問題が浮上していた。
それが、カムラの里に通じる大社跡を縄張りにしている迅竜――六ツ時の大御神、むつのかみの存在であった。
「……と、まぁ調査するにしても、狩猟するにしてもちょっと手が足りないわけだな。」
「人手不足だからといって無理を通せば痛い目にあうからな。仕方あるまい。」
セラヴィとリデルは滞在している自室で向かい合ってこれからの事を相談している最中だった。
そこへ、しっかりとしたノックが二人に来客を告げた。
「……はい。どうぞ?」
一瞬の沈黙の後、セラヴィはリデルと目配せをすると、部屋の入り口に向かってそう声をかける。
この部屋に来るのは世話役の露草か、旅籠に勤めている女中達しかいない筈だった。
「失礼するよ、ギルドの調査員殿。お初にお目にかかる。この里生まれのハンター、神有が長男、柊です。」
開かれた扉の先には氷牙竜の装備を纏った薄茶の髪のハンターが居た。
「里の相談役ゴコク殿の言い付けにより、助勢に参りました。…………早い話がまぁ、その、俺に手伝える事ってある?」
柊と名乗るハンターの和やかさに警戒を解かされたセラヴィは梟の羽色の斑髪をボリボリと掻いた。
「セラヴィだ、よろしく。こっちはリデル。今の所は絶賛人手不足でさ、頼みたい事いっぱいあるんだけどいいか?」
セラヴィは自分のハンターノートを手に取ると調査記録のページを開いた。
それを見て柊も自分のハンターノートを手にして部屋の中に上がり込む。
「オッケーオッケー。俺に手伝える事であれば何でも言って〜。」
柊の気安さに安堵したセラヴィはつい口が緩んで軽口が溢れた。
「良かった。この里のハンターって蒼衣以外はフゲン殿やゴコク殿しか居ないと思っていたから、少し頼みにくくてな。」
「うちの里、周辺モンスターの数に対してハンターの数が少ないからね。いつもならふらっと立ち寄った旅のハンターとかもいたりするんだけど、不確定要素が多過ぎる事に違いは無いし。」
「ルーキーの手を借りるのも悩ましい事だった。蒼衣は良いランサーだけど、実戦経験はまだ足りてないだろうし。」
セラヴィはつらつらと考えていた事を吐き出すと、柊が『蒼衣』の名前に反応した。
「あっ、そうだった。調査員殿がうちの弟の成人の儀を手伝ってくれたんだっけ。その節は、弟が大変にお世話になりました。ありがとう存じます。」
深々とセラヴィに向かって頭を下げる柊に、リデルとセラヴィの声が揃った。
「弟…………?」
「ん?」
リデルに至っては目を丸くして瞬かせている。
「……蒼衣くんが?」
「うん、そう。俺の弟。でっかくてかっこいいでしょ?」
自慢げにふんぞり返る柊にセラヴィはついに指を差した。
「……アンタの方が弟じゃなくて…?」
「あっ、止めてその視線。お兄ちゃんちょっと傷付いちゃうから。」
セラヴィ達の困惑の眼差しから身を隠すように縮めた後、柊は気を取り直して自分のハンターノートを開いた。
「……まぁ、茶番はこれくらいにして。打ち合わせでもしよっか。」
すっかりと柊のペースに巻き込まれた感のあるセラヴィとリデルは若干脱力をしながらハンターノートと今までの調査記録を広げた。
「よろしく頼む、柊。」
「こちらこそ、よろしくね。」
セラヴィが差し出した手は快く受け入れられ、柊と握手を交わす。
――むつのかみの狩猟。これから始まる重要クエストにセラヴィは心の中で息を詰め、気合を入れ直した。
第十話です。よろしくお願いします。
作者の繁忙期により書き溜めが無くなりましたので、ストックが出来るまで次週から休載いたします。