――すすき揺らして跳ね駆ける
愛し番と 君がいた原――
生命においてこの世の春は、今この時だと豊かな体躯を持つ迅竜は理解していた。
己と対を張る程、豊かで麗しい雌だった。
尻尾は太く長くて、緑に輝く黒い体毛はたっぷり風になびき、美しい瞳は空に浮かぶ月のようで。
己は一目でこの雌に本能を奪われたのだ。
幾日もかけて白い雌の鹿を貢ぎ、すすき野原を駆けあい速さを競い、時にはお互いの命に肉薄する程戯れ合って、やっとの思いで嘴を擦り付け合うのを赦された。
嗚呼、この世の春。
身体を覆い尽くし、柔らかな耳介を甘く食み、嘴を擦り付け合う。お互いの長い尾を上に下に絡め合って至福の時を味わった。――――
身を隠した木々の梢から垂れた水滴が鼻先を叩き、迅竜むつのかみは目を覚ました。
未明の空は曇天、湿気が立ちこめる風は先程まで雨が降っていたであろうことを示している。
なんだ、夢か。と欠伸をしつつ、微睡んでいた間に降った雨雫をぶるりと身震い一つでふるい落とす。
愛しい番が己の前から居なくなってどれ程の時が過ぎただろうか。迅竜はソレを数えるのを既に止めてしまっていた。
どれ程数えたとしても意味は無いのだ。
可愛い番の生命はあの大嵐で失われたのだから。
空はまだ薄暗く、眠気もまだ身体に残っていた。
若干の喉の渇きを覚えていたが、木々の梢から滴り落ちる雨雫が肉球を濡らしたのでソレを舐めて凌いだ。
そうだ。己の番は失われた。
大嵐に巻き上げられた岩や木々に身体を強かに叩かれ絶命し、亡骸は大嵐のおこぼれを狙ってきた二頭の鬼火の獣に食い散らかされた。
――己の番を喰い散らかすとは、余程命が要らないと見た。――
雌の方の鬼火の獣は仕留めたが、雄の方は人里の方へ逃げて行った。己の預かり知らぬ事だが、雄の方は人里にて角を叩き折られて撃退されたらしい。
ただひとえに、己の力不足だった。
番を守る為なら、大嵐に巻き上げられた大岩を断ち切れば良かった。
飛竜の胴体ほども太さがある大木を斬り裂けば良かったのだ。
それが適わなかったから、己の番は失われたのだ。
番の亡骸は鬼火の雌に持ち去られ、食い散らかされ、一部位も見つけられなかった。
けれども、生命が尽きれば、他の生き物に食われたりして命に変わるのは弱肉強食の理であるのは漠然と理解している。
恨みはない。ただ己が弱かっただけの事。
そうして番を失ってから月日が流れた、ある日の事。
大社跡近くに住み着き集落になった人里から人間が一人、すすき野原に降りてきた。
『君がここの主だね!!行くよ!気炎万丈だっ!!』
迅竜素材で作られた両の剣を携えた、小さな娘だった。設えたばかりであろう両手の剣を勇ましく構え、その刃が陽の光を鈍く反射している。
迅竜はすぐに理解した。娘の持つ双剣が番の刃翼を使って作られたものだと言うことを。
―――― は? ――
迅竜は大層困惑した。
己の番は居なくなった。その筈だ。身体も食い散らかされて僅かに残った肉片も小さな生き物達の腹に収まり、多少残った骨の欠片も風に攫われ砂になった。
けれども娘が持つ両の剣から、かつて番であった雌の迅竜の匂いや気配が色濃く立ち昇っていた。
―――― え? ――――
迅竜は戸惑い動きを止めて、両の眼を数回ぱちくりと瞬かせた。
その隙を逃さず、小さな娘は気合を込めて赤い闘気を纏うと、両の剣を逆手に持ち勢い良く踏み込んだ。
『ぜぇぇぇいっ!!』
二本足にしてはそこそこに素早い斬り込みは、だが、迅竜にしてみれば幼獣程度には遅く、身体をすい、と避けるだけで良かった。
『素早いねっ!!負けないぞー!』
それでも娘は必死に迅竜に食い下がり、次の刃を入れようと斬り返す。
…………まぁ、遅いのだが。
娘と迅竜の追いかけっこは日が暮れるまで続いた。
『はぁっ、はぁっ、………くぅう!一時撤退!君!!逃さないからね!また明日ねー!!』
娘はそう叫んで何やら光る糸を操りその場を離脱した。
迅竜はたまたま腹が減って、すすき野原の小さな獣でも狩ろうして降りて来てたのだ。
そこを娘に邪魔され、夕暮れまで付き合わされたので迅竜は腹が減ったままだったが、よく分からない充足感が胸に満ちていた。
まるで昔に、惚れ込んだ番と速さを競い駆けっこをした時のような。
迅竜はそこまで想起して、二本足の娘は足が短かったなと思うなどをした。
次の日も娘はすすき野原に降りてきた。
『今日こそは君を狩るからね!行くぞぉ!!』
そして、その次の日も。
『まだまだ!!気炎万丈!!』
よくもまぁ飽きもせず、追い付けもしない己を追いかけて来るものだ、と迅竜は二本足の娘の根性だけは認めていた。
愛しい番の両の剣を携えて、己を追いかけて来る小さな娘。迅竜にとっては、無意識の内に感じていた長い孤独を癒やすささやかな楽しみになっていた。
今日も来るだろうか、あの娘は。
愛しい番の匂いがする小さな剣を両手に構えて。
それが破られたのはある日の事だった。
毒を持つ一本角の龍だった。人里では『神仙』と呼ばれる古い龍が、空っぽだった大社跡に降り立った。
すすき野原を毒で染め上げ、立ち昇る瘴気を翼で羽ばたき拡げ、辺り一面の生命は絶え酷い有様となった。
赤い夕陽が生き物達の死骸を染め上げ、美しくも地獄の様な光景が広がっていた。
それでも古い龍は毒を吐き続ける事を止めなかった。まるでそれが呼吸の如く当たり前の行動だという様に、古い龍は毒を吐き、翼を羽ばたかせ、すすき野原を毒煙で染め上げた。
大社跡全域を一通り毒で満たすと、古い龍は満足したかのように一際強く羽ばたき飛び去って行った。
何故古い龍がこのような行動をしたかは、考えるだけ無駄だった。古い龍とは『そういうものだ』と生命ある者なら本能で悟っている。
だがしかし、と迅竜は毒から逃れた高い岩場の上で立ち上がった。
こんな場所に人間の娘が降りて来たならば、ひとたまりもある筈が無い。
愛しい番の匂いがする小さな娘。
例え儚い夢だとしても、迅竜が駆けるには充分な理由になった。
その日、大社跡に黒い風が吹き荒れた。
日がすっかり落ちた暮れ六から、一晩中吹き荒び続けた黒い風はやがて日が昇り始める明け六つになってようやく収まった。
辺り一面は死屍累々で、そのどれもが血を吐いて息絶えていた。
事態を重く見た人里の長フゲンが大社跡を調査し、六つ時の掟が出来るのは後の話である。
大社跡全域を一晩中走り回り、毒の煙を吹き飛ばした迅竜は息を切らし何周目かのすすき野原に到着し、精根尽き果てて足を引きずった。
ここまで走れば古い龍の毒と言えど薄まるに違いない。愛しい番の匂いがするあの娘が降りて来てもきっと大丈夫だろう。汚染された川も、沼も、じきに生き物が戻る筈だ。
毒に侵され獲物が獲れず、水も飲めず一晩中走り尽くした身体は悲鳴を上げて、迅竜はすすき野原から外れた崖下の隅で倒れ込み身体を丸めた。
身体は恐ろしく痛んでいるが、迅竜は毒を蹴散らす夜の走りで今までで一番の最高速度が出ただろうと心の中で満足そうな吐息を吐いた。
実際の吐息は熱くか細く、今にも止まりそうだったが、兎に角迅竜の心は満たされていた。
愛しい番が今の己を見たらどう思うだろうか。
今夜の走りでまた、己に惚れ直してくれるだろうか。
ふと、迅竜の耳に砂利を噛む足音が聞こえてきた。規則正しく交互に繰り返されるそれは二本足の音だった。小さな娘だろうか。
狩ると言いながら愛しい番の匂いがする両の剣を振り回していた小さな娘。
もしかしたら嫁は小さくなっても己に会いに来てくれたのだろうか。
精根尽き果てた迅竜はもう尻尾の先すらピクリとも動かせずに迫り来る足音を待った。
嫁が二本足になってまで、迎えに来てくれたのだろうか。
迅竜は『そうだと良いな』と思いながら眠りに落ちて、『きっとそうだ』と思い込むことにした。
第九話です。よろしくお願いします。