これで少しは小説に専念出来るかと思います。
今回のエデン条約篇ではオラトリオを含んだ大規模なものとなりますので、楽しみください。
「こんにちは、……こうしてお会いするのは初めて、ですね」
風が運ぶ紅茶の芳香が、鼻腔を優しくくすぐる。
そこは、戦火の匂いや砂塵の味がするアビドスとは対極にある場所だった。
トリニティ総合学園、ティーパーティー会場。
磨き上げられた白亜のテラスに鎮座するのは、巨大な円卓。その上には、まるで宝石のように繊細な菓子と、銀細工のティーセットが並んでいる。
過剰なほどの優雅さ。あるいは、完璧に計算された「平和」の演出。
その中心に、二人の少女が絵画のように佇んでいた。
一人は、春の木漏れ日のような淡い桃色の髪を持つ、あどけない少女――聖園ミカ。
もう一人は、冷徹な知性と高貴さをその身に纏った、紅茶色の髪の少女――桐藤ナギサ。
共通しているのは、背中に広がる純白の翼。天使のごときその翼は、ここが凡俗の及ばぬサンクチュアリであることを無言のうちに主張していた。
今回の茶会のホスト――ナギサが、静かな所作で頭を下げる。
その動き一つとっても、隙がない。彼女は俺に着席を促すと、手慣れた様子でティーポットを傾けた。
琥珀色の液体が、細い糸となってカップへと注がれていく。
「一先ず紅茶をどうぞ、客人をもてなすのはホストの務めですので」
湯気と共に立ち上る香りを、俺は慎重に確かめる。
……うん、素晴らしい香りだ。
脳裏をよぎったのは、星穹列車のラウンジで出される「あの」コーヒー。ひと口飲めば意識が宇宙の彼方へ飛び、胃袋がブラックホールと化す、姫子の特製コーヒーだ。
それに比べれば、目の前の液体はまさに天上の甘露。少なくとも、命の危険を感じるような刺激臭はない。毒見の必要はなさそうだ。
「ありがとう。いただくよ」
俺はカップを手に取り、礼を述べた。
通常なら、ここで優雅に一口啜り、社交辞令の一つでも交わすのが「大人」の流儀だろう。
だが、俺のポケットの中で、ある「逸品」が自己主張を始めていた。
この完璧すぎる空間。優雅すぎる時間。そこに一石を投じたくなる衝動――いや、これは純粋な「開拓者」としての善意だ。異文化交流の第一歩と言ってもいい。
「あっそうだ! 2人に贈り物があるんだ」
俺の声に、ナギサがキョトンと目を丸くする。
予想外の言葉だったのだろう。彼女はすぐにポーカーフェイスを取り繕い、礼儀正しく微笑んだ。
「わざわざありがとうございます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、俺はポケットから「それ」を取り出し、高らかにテーブルへと置いた。
ドン、という鈍い音と共に現れたのは、洗練されたティーセットにはあまりにも不釣り合いな、極彩色の缶。
「ソーダ豆汁だ! 2人も飲むか?」
仙舟の屋台で仕入れた、鼻を突き抜ける独特の青臭さと炭酸の刺激が売りの、あのソウルフード。
優雅なティーパーティーの空気が、一瞬にして凍りつく。
ナギサの完璧な笑顔が引きつり、視線が缶と俺の顔を往復した。
「え、えっと……」
言葉を失うホスト。
しかし、その静寂を打ち破ったのは、隣にいた「天使」の歓声だった。
「やったー! 先生気が効くじゃん!」
ミカが身を乗り出し、目を輝かせる。
彼女の瞳には、困惑など微塵もない。あるのは、退屈な茶会に投じられた異物への、純粋な好奇心だけだ。
「ミカさん!」
ナギサの鋭い諌める声が響く。
格式高い紅茶の香りと、想像するだけで口内が爆発しそうな豆汁の気配が混ざり合う。
俺は満足げに頷いた。
どうやら、この茶会は退屈しなくて済みそうだ。
一口、そっとカップを傾ける。
琥珀色の液体が舌の上を滑った瞬間、芳醇な香りと洗練された甘みが、脳髄を優しく撫でた。
単純にして、高貴。
あぁ、美味い。これは世辞でもなんでもない、魂からの感嘆だ。星穹列車のコーヒーで鍛えられた(あるいは破壊された)俺の味覚が、この紅茶を「至高」だと叫んでいる。
「では――改めまして、ティーパーティーのホスト、桐藤ナギサと申します」
俺の表情から紅茶への賛辞を読み取ったのだろう。ナギサは満足げに瞳を細め、完璧な所作で淑女の笑みを浮かべた。
これぞトリニティの頂点、優雅さの具現。
だが、その完璧な空間に、俺はすでに「爆弾」を投下していた。
「そしてこちらは、同じくティーパーティーのメンバー、聖園ミカさんです。ミカさん、先生に自己紹介を――」
ナギサの言葉が終わるか終わらないかの刹那。
優雅なティータイムを劈くような、悲鳴にも似た絶叫が響いた。
「ううぇ! な、何コレすごく不味いよ!!」
見れば、極彩色の缶を握りしめたミカが、この世の終わりを見たかのような顔で悶絶している。
ソーダ豆汁。仙舟の屋台が生んだ、清涼感と青臭さの悪魔合体。
その直撃を受けた彼女のリアクションは、俺の期待値を遥かに超えていた。
うんうん、それだ。その顔が見たかった。
心の奥底で拍手喝采を送っていると、涙目のミカとバチリと目が合った。
「あー! 先生、私の表情見て笑った!! 楽しんでたでしょ!!」
鋭い。野生の勘か。
俺は慌てて真顔を作り、肩をすくめてみせる。
「俺は、贈り物をあげただけ……飲むか飲まないか決めるのはお前たちだろ?」
詭弁である。だが、選択したのは彼女だ。これが運命の分かれ道というやつだ。
そう嘯いた瞬間――脳内に、直接響くような凛とした声が割り込んだような気がした。
『穹さん、いい加減に遊ぶのはやめていただけますか?』
――ッ!?
アグライアの金糸。
背筋に冷たいものが走り、俺の体はビクリと大きく跳ねた。
物理的な距離など無意味と言わんばかりのテレパシー。まるで保護者に悪戯を見つかった子供のような気分になり、俺は冷や汗を流して居住まいを正す。
「ミカさん!」
同時に、ナギサの鋭い叱責が飛ぶ。
ミカは唇を尖らせ、不満げに缶を置いた。
「わ、わかったよ……」
ふてくされたように視線を逸らしたかと思えば、次の瞬間には、彼女の顔から陰りは消えていた。
切り替えが早い。あるいは、天性の明るさか。
「――やっほ、先生」
俺の座る椅子の真横から、不意に顔が覗き込んでくる。
聖園ミカ。
太陽のような、あるいは嵐のような、屈託のない笑顔。その距離の近さに、紅茶の香りとは違う、甘く華やかな匂いが鼻をかすめる。
「現在は私達二名がトリニティ生徒会――ティーパーティーで……ミカさん?」
「へー、これが噂の先生かぁ、あんまり私達と変わらない感じなんだね? すんすん」
ナギサの説明などお構いなしに、ミカは俺の周りを衛星のようにくるくると回り始めた。
あろうことか、鼻を鳴らして匂いまで嗅いでくる。
まるで、拾ってきた野良猫が安全かどうかを確かめるような仕草だ。
無防備で、奔放。
普通なら嗜めるところかもしれない。だが、俺は黙ってされるがままにしていた。
生徒が持つ本来の輝き、その「本質」を尊重する。それが、俺の――いや、この世界における「先生」としての方針だからだ。
(決して、面白がっているだけではない。)
「へー、なるほどー、ふーん……うん、私は結構良いと思う! ナギちゃん的にはどう?」
「……ミカさん。初対面の方に対して、あまり礼儀がなっていませんよ。愛が溢れるのは結構ですが、時と場所は選びましょうね」
ナギサがこめかみを押さえ、深いため息をつく。その呆れ声には、長年連れ添った苦労人の響きがあった。
言われてみれば、確かに距離が近すぎる。
「あー、うん、それはまぁ……確かに?」
さすがにバツが悪くなったのか、ミカは少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
その頬が、ほんのりと朱に染まる。
さっきまでの傍若無人さが嘘のように、急にしおらしくなるそのギャップ。
「先生、ごめんね? 何か先生を見ていると落ち着かなくてさ……まぁ取り敢えず、これからよろしくって事で!」
照れ隠しのように早口でまくし立てる彼女に対し、俺は不敵に笑って返した。
ここで謙遜するのは、銀河打者の名折れだ。
「――別に良いぞ。」
俺はカップを置き、自慢げに前髪を払った。
「だって俺、かなりの美男子なわけだし」
「………」
「へぇ、ふふっ……」
静寂を破ったのは、春風のようなミカの笑い声だった。対照的に、ナギサは長い睫毛を伏せ、手元のカップに視線を落とす。
その僅かな仕草から、彼女の思考の輪郭が読み取れた。
シャーレという中立地帯ではなく、自身のテリトリーであるこの『ティーパーティー』に俺を招いた理由。それは、圧倒的な格式とホームの利を活かし、交渉の主導権を握るためだったのだろう。
だが、俺という異物は、彼女が組み上げた「優雅な茶会」という盤面の上で、予測不能な駒として振る舞った。ナギサは今、自身の計算が杞憂――いや、徒労に終わったことを悟ったのだ。
「……トリニティ外部の方が、このティーパーティーに招待されたのは、私の記憶では先生が初めてです。普段はトリニティに所属する一般生徒達も簡単には招待されない席でして」
気を取り直したように、ナギサが静かに告げる。その言葉には、「ここは特別な場所であり、あなたは選ばれたのだ」という、無言の圧力が込められていた。
だが、銀河を渡り歩いてきた俺にとって、その程度の“特別”は重荷にならない。
「へぇ、それはまた、光栄だな」
俺はカップを揺らしながら、不敵に口角を上げた。
「ま、当然と言えば当然か。俺、結構すごいし……」
謙遜などしない。事実、俺はすごいのだ。
俺の軽口に、すかさず横から茶々が入る。
「あー、何それナギちゃんちょっといやらしい、恩着せがましい感じ~!」
「……んんっ! 失礼しました。そういう意図はなかったのですが――ミカさん?」
「え? あー……うん、大人しくしているね? 出来る限り、たぶん」
ミカが舌を出して縮こまる。
……一体どうしたというのだろうか、この空間は。
優雅な茶会の皮を被った、混沌の坩堝だ。
というか、早く話を進めてくれないだろうか。さっきから背骨に沿って走る寒気が止まらない。
俺の指と繋がる『アグライアの金糸』が、ジジジと不機嫌に震えているのだ。「真面目にやれ」という無言の叱責が、物理的な振動となって俺の背中を揺さぶっている。
「……では改めて」
どこか浮足立ったミカを笑顔(という名の威圧)で制しつつ、ナギサが居住まいを正した。
こほん、と小さく咳払い。
彼女は両手を膝の上で上品に組み、その知的な瞳で真っ直ぐに俺を射抜いた。俺も背筋を伸ばし、その視線を受け止める。ようやく本題だ。
「――こうして先生をご招待したのは、少々のお願い事がありまして」
「え、お茶を奢ってくれたわけじゃないの?」
「違います。とても大切な事です」
即答だった。つれないな。
だが、その真剣な空気をぶち壊すように、ピンク色の嵐が再び吹き荒れる。
「おぉ~……ナギちゃん、いきなりだね!? もうちょっとこう、アイスブレイクとか要らないの? 小粋な雑談とかは?」
ミカが俺の椅子の周りをぐるぐると回りながら、身振り手振りで抗議を始めた。
「天気が良いですねとか、昨日は何を食べたのですか、とか、そういうのは挟まないの? ほら、ティーパーティーって基本的には社交界なんだし?」
「――ミカさん……?」
ナギサのこめかみに青筋が浮かぶのが見えた気がした。
同時に、脳内に直接響く声。
『穹さん?』
アグライアの声が、氷点下の温度で響いたような気がした。
待ってくれ、俺は別に悪くない。今の俺は借りてきた猫のように大人しい。暴れているのは、この予測不能な天使(ミカ)だ。
ナギサとミカ、二人の視線が火花を散らす。
片や、真剣な表情で政治的な案件を進めようとするホスト。片や、その場の空気を楽しむように、未だ椅子にも座らず俺の周囲を衛星軌道のように周回し続けるゲスト。
「そんな綺麗な目で睨んでも、これはティーパーティーとしての在り方の問題なんだからダメー! こういうのは、きちんとしないとっ!」
「ミカさん、そういった事はあなたがホストになった際に追求して下さい。今は一応私がホストですので、私の方法に従って下さいな」
「ぶーぶー」
「そのヤジはおやめなさい」
俺の背後から拳を突き出し、子供のように口を尖らせるミカ。
トリニティのお嬢様学校というイメージからは程遠い、あまりにも自由奔放な振る舞い。だが、その無邪気さの中にこそ、彼女の底知れない何かが潜んでいるようにも見える。
ナギサは深い溜息を零し、優雅な肩をがっくりと落とした。その姿からは、「頭が痛い」という心の声が聞こえてくるようだった。
「まぁ、お客様の前でこのような論争を広げるのもまた、望ましい姿ではない事は確かですね……なら、ミカさんの云う通り、少し話の方向を変えましょうか」
ナギサが優雅に話題の転換を提案する。その声色には、ささくれ立った空気を無理やりにでも修復しようという理性的な響きがあった。
俺としても助かる。これ以上、ピンク色の嵐(ミカ)に翻弄されるのは御免だ。
俺は脳裏に浮かんだ『指令』を反芻する。アグライアの金糸を通して伝えられた、最初のタスク。
『まず彼らの中で一番偉い方が誰なのかを把握してきてください』
シンプルな命令だ。組織のトップを見極める。交渉の基本であり、開拓の第一歩。
俺は咳払いを一つ挟み、単刀直入に切り込んだ。
「こ、このトリニティだとこのティーパーティーが生徒会の役割を担っているから、ナギサが一番えらいって事でいいのか?」
その問いに、ミカが「おっ」と声を上げて目を輝かせた。
「おぉ、先生の方から空気を読んでくれた! ほら、ナギちゃん見た!? これが大人の話術だよ! 自然な会話への誘導!」
……別に空気を読んだわけではないのだが、彼女の中では俺は「できる大人」認定されたらしい。
ナギサは静かに頷き、凛とした瞳を俺に向けた。
「……はい、仰る通り、私達がトリニティ総合学園の生徒会長『達』です」
彼女は一瞬だけ、視界の端で騒ぐミカからふっと意識を切断したように見えた。
まるで、目の前で俺の背中に張り付き、ヤジを飛ばす幼馴染など最初からこの世界には存在しなかったかのように。完璧な精神統一、あるいは現実逃避。
「生徒会長達、というのは耳慣れない言葉かもしれませんね。最初からご説明しますと、トリニティ生徒会長は代々複数人で担っているものなのです」
「あれ、ナギちゃん無視? 私の事無視しているの?」
ナギサの流暢な説明に、ノイズが混じる。
だが、ナギサの精神障壁は堅牢だ。彼女はティーカップの縁を指でなぞりながら、歴史の紐を解き続ける。
「昔、トリニティ総合学園が生まれる前、各分派の代表たちが紛争を解決する為にティーパーティーを開いた頃から、この歴史は始まりました」
「……ぐすん、ちょっと傷ついた」
背後で嘘泣きの気配がする。だが、ナギサは止まらない。
「パテル、フィリウス、サンクトゥス……それらの三つの学園の代表を筆頭にティーパーティーを開き、和解への流れが生み出されたのです」
「ナギちゃんが本当に無視した、嫌がらせだぁ、ひどくない? 私達一応十年来の幼馴染だよ? こんな事今までに……結構あったかもだけれど」
ミカの声がBGMのように絡みつく。十年来の幼馴染ゆえの距離感なのか、それとも単に煽りスキルが高いのか。
ナギサの眉間が、ピクリと微かに痙攣した気がした。
「……その後から、トリニティの生徒会はティーパーティーという通称で呼ばれるようになり、各派閥の代表から順番に『ホスト』を――」
「えーん、うわーん、ひえーん、しくしく、べそべそ、めそめそ」
あまりにも棒読みな号泣。幼児退行したような鳴き声が、ついにナギサの許容限界(キャパシティ)を突破した。
「――あぁ、もう五月蠅いですねェッ!?」
「ひぇっ」
バン、と。
優雅な茶会には似つかわしくない破裂音が炸裂した。
ナギサがテーブルを叩いたのだ。その衝撃で、高級そうな茶器がカチャリと悲鳴を上げ、ソーサーの上で踊る。飾り付けられたマカロンが数秒間、無重力空間に放り出されたかのように宙を舞った。
見れば、ナギサの額には美しい青筋が浮かんでいる。修羅の形相だ。
さっきまで俺をからかっていたミカは、雷に打たれた小動物のように身を縮こまらせ、俺の背中に隠れるようにして震えている。その表情は蒼白だ。
「今、私が説明をしているんですよ!? それなのにさっきからずっとッ!? 横からぶつぶつぶつとォッ! どうしても黙れないと云うのでしたら、その小さな口にロールケーキをぶち込みますよッ!?」
ナギサが鬼気迫る形相で指差したのは、衝撃で皿の縁から転がり落ちそうになっているロールケーキだった。
純白のクリームと、黄金色のスポンジ。
ふわりとしたその塊が、重力に従ってテーブルクロスへと落下しようとしている。
――もったいない。
俺の脳裏を占めたのは、その一念だった。
美しいものが汚れるのを、ただ見ているわけにはいかない。ゴミ箱を漁る時と同じ、あるいはそれ以上の集中力が発揮される。
俺は迷わずフォークを伸ばした。
ナギサとミカが硬直している隙を突き、空中で、あるいは皿の縁ギリギリでロールケーキを救出(キャッチ)。そのまま流れるような動作で自身の小皿へと確保し、一口大に切り分ける。
「………」
「………」
「………」
場に、奇妙な静寂が満ちた。
ナギサは肩で息をしながら怒り狂い、その瞳にはまだ鬼火が宿っている。
ミカは幼馴染の噴火に恐れ戦き、俺の背中で息を潜めている。
そして俺は――ふわふわのロールケーキを口いっぱいに頬張っていた。
数秒の時が過ぎた。
甘美なクリームの味が口の中に広がる頃、ようやく我に返ったナギサが、浮き上がっていた腰をそっと椅子に戻した。
コホン、と一つ咳払い。
冷めた紅茶で喉を湿らせると、彼女の顔には先ほどまでの能面のような完璧な笑みが張り付いていた。
「……あら、私ったら何という言葉遣いを。失礼しました先生、ミカさんも」
切り替えが早すぎる。これが政治を行う者の胆力か。
背後のミカが、ひきつった声で呟く。
「怖い怖い……」
俺は口元のクリームをナプキンで拭いながら、素直な感想を漏らした。
「うぉ、このロールケーキうまっ」
どんな状況であれ、美味いものは美味い。それが俺の真実だ。
■
「……さて、そろそろ本題に入りましょうか。私達が先生にお願いしたいのは、簡単な事です」
「簡単だけれど、重要な事だよ」
「えぇ、そうですね」
三人が席に着き、一度ブレイクタイムを設けて空気の入れ替えを行った後だった。甘味を摘まみながらナギサを見て呟くミカの言葉に、彼女は真剣な眼差しで頷いた。
張り詰めた空気が、再びテーブルの上を支配する。トリニティの頂点に立つ彼女たちが、外部の人間である俺に頭を下げるほどの要件。
世界を揺るがす危機か、あるいは学園の存亡に関わる陰謀か。
俺は居住まいを正し、覚悟を決めてその言葉を待った。
「――補習授業部の、顧問になって頂けませんか?」
「……補習授業部」
補習授業部。その響きから連想される光景はただ一つ。
教壇に立ち、チョークを指に挟み、居眠りする生徒の額めがけて高速投擲(スナイプ)する俺の姿だ。
Dr.レイシオ直伝のチョーク投げ――これぞ教育の真髄。物理的な衝撃と共に知識を刻み込む。
――ジジッ。
その瞬間、指に結ばれている『アグライアの金糸』が鋭く震えた。
明確な『否』の意思表示。どうやら、この世界でチョークを凶器として扱うのは教育的指導の範疇を超えるらしい。
となると、やはりこの仕事は俺の領分ではない。
適材適所という言葉がある。
こういうアカデミックで、歴史や知識を重んじる仕事は、オンパロスにいるあの『アナクサゴラス先生』に任せるべきだ。
あいつなら、大地獣への偏愛を語りながら、生徒たちを熱心に指導するだろう。俺が「アナイクス」と呼ぶたびに怒るあの真面目な先生こそが、教壇には相応しい。
俺はバットを振るう専門家であって、ペンを振るう専門家ではないのだ。
「助けてくれ、アナクサゴラス先生……」
心の中で友人の名を呼びながら、俺は現実逃避気味にロールケーキを口に運んだ。
「はい。名前から予想は出来ると思いますが、落第の危機に陥っている我が校の生徒達を救って頂きたいのです。部という形ではありますが、今回は顧問というよりも『担任の先生』と云った方が良いかもしれませんね」
ナギサの説明は続く。部活というよりは、放課後に行う補講の教師役。
顧問というよりは担任に近いということは、つまり、逃げ場がないということだ。
俺は咀嚼するふりをしながら、何度か曖昧に頷いてみせる。内心では全力で首を横に振っていたが。
「トリニティ総合学園は、昔からキヴォトスに於いて文武両道を掲げる歴史と伝統が息づく学園です。だというのにあろうことか、よりにもよってこの時期に、成績が振るわない方がなんと『五名』もいらっしゃいまして……」
「私達としてはちょっと困ったタイミングで、っていうかー……エデン条約で今はバタバタしていてね? あの子達の件も何とか解決しないといけないんだけれど、人手も時間も足りなくって」
そこまで言い淀んで、ミカは急に席を立ちあがった。
恥ずかしそうにしていた先ほどまでの態度が一変、彼女は虚空に向かって拳を突き上げ、瞳を星のように輝かせて力説し始めた。
「――その時にちょうど見つけたの! 新聞に載っていたシャーレの活躍っぷりを! ネコ探し、街の掃除、宅配便の配達まで、八面六臂の大活躍! このシャーレになら、きっと面倒事を任せられそうだなって!」
グサリ。
見えない槍が俺の胸を貫いた。
なんという火の玉ストレート。悪気がない分、質が悪い。
俺は輝く瞳で無邪気に告げたミカに対し、何とも云えない表情を浮かべた。
挙げられた功績のラインナップを見てほしい。ネコ探し、掃除、配達。
……それ、ただの「何でも屋」じゃないか?
俺は銀河を股にかけた星穹列車のナナシビトであり、数多の星で災厄を打ち払ってきた銀河打者だぞ? アビドスでビナーと殴り合った武勇伝はどこへ行った?
暇人扱いされるのは、正直かなり癪に障る。
「……面倒事なんて云ってはいけませんよ、ミカさん」
ナギサが窘めるが、ミカの勢いは止まらない。
「うっ! ま、まぁでも、ある意味では本当だし……それにほら、先生なんでしょ? 困っている生徒は助けなきゃ! ね? ねっ?」
ミカがテーブル越しに身を乗り出し、潤んだ瞳で同意を求めてくる。その無邪気な圧力は、物理的な質量を持って俺の良心に突き刺さった。
……まぁ、それに関しては否定できない。
困っている者がいる限り、それが生徒だろうと誰だろうと見過ごせない。それは「先生」という肩書き以前に、星穹列車のナナシビトとして、数多の世界を開拓してきた俺の“性”だ。
言われるまでもない。俺はきっと、断れない。
「今はみんなBDで学習する時代だし、学校の職員とか、教授ならまだしも、『先生』って概念は珍しいんだよねぇ~。先の道を生きると書いて『先生』――つまり、導いてくれる役割って事だよね? 尊敬の対象、或いは生きる指針としてみんなに手を差し伸べ、導く……ほら、補習授業部の顧問としてぴったりじゃない!?」
ミカの熱弁は続く。彼女の中で「先生」という概念は、聖人の如く美化されているようだ。
尊敬の対象。生きる指針。
その言葉の響きに、俺は少しだけ背筋を伸ばし、満更でもない表情を作る。
「噂では、尊敬という言葉が合うかどうかについては、意見が割れている様ですが――」
しかし、ナギサの冷ややかな一言が、その優越感を鋭利に切り裂いた。
「え? あー……そうだったね。報告書によって全然違うというか、まぁこれは先生の名誉の為に何も云わないでおくね?」
ミカが急に歯切れを悪くし、気まずそうに視線を宙に泳がせる。
その反応を見た俺の脳裏に、警報が鳴り響いた。
……待て。俺の評判、どうなっている?
「おかしいなぁ、俺がどこで問題を起こしたんだ?」
俺は平静を装い、首を傾げてみせる。心当たりなどない。あるわけがない。俺は常に紳士的で、高潔な開拓者だったはずだ。
「そこは――まぁ、他校の方から流れている噂などもありますので」
「情報元はゲヘナか?」
真っ先に思い浮かんだのは、あの角が生えた眼鏡の風紀委員、チナツだ。彼女は以前、俺のことを「バカ」と報告したような雰囲気があった。それに、横乳全開で風紀を乱していたアコ。あの女なら、俺のことをあることないこと吹聴していてもおかしくない。
俺が内心で犯人捜しをしていると、ナギサが静かに首を横に振った。
「いえ、ミレニアムやその他学園からも」
「………」
嘘だろ?
カチャン、と乾いた音を立てて、俺の手からフォークが滑り落ちた。
ミレニアム? ユウカか? あそこまで計算高い彼女が、不確かな噂を流すはずがない。では、なぜだ? どこにも身に覚えがない。
「実を言いますとですね。先生が生徒の足を舐めただの、わんわんプレイをご所望した、ゴミ箱を漁る、ゴミを集める、銀行強盗を率先してやると言った噂が流れていまして――」
「っ!」
――図星だった。
あまりにも正確無比な情報の羅列に、俺の心臓が早鐘を打つ。
足を舐めたのは必要に迫られて(?)だし、わんわんプレイは高度な心理戦(?)の一環、ゴミ箱は崇高な趣味であり、銀行強盗は……まあ、人助けだ。
だが、文字に起こされると破壊力が凄まじい。
おそらく、シャーレに関する情報は重要だと判断され、どのような些細な奇行でも収集しろと指示が出ていたのだろう。トリニティの情報網、恐るべし。
しかし、俺は銀河を股にかけた銀河打者だ。
その様な醜態を知られていると理解して尚、態度は泰然としていなければならない。いや、そうすべきだと俺の本能が叫んでいる。
俺は背筋を正し、ティーテーブルの上で指先を合わせ、聖人のような微笑みを浮かべた。
内心では、冷や汗が滝のように流れている。
――アグライア、どうすればいい!? 助けてくれ!
心の中で悲鳴を上げると、脳内に呆れ混じりの、しかし頼もしい声が響いた気がする。
『………仕方ありませんね。穹さんの奇行は今に始まった話ではありませんから。いいですか? 私がこれからお伝えするように言を発して下さい』
――アグライアママァ!!一生ついていこう!そう心に決めた。
俺は金糸からの指示を一言一句違えぬよう、脳内で反芻し、重々しく口を開いた。
「――敵対する組織とシャーレ、その友好を阻む為、敢えて悪評を流す。倫理的な是非は兎も角、有効な手だ」
声色を低く、知的に。まるで政局を見通す古強者のように。
「……確かに。条約前とは云え、あのゲヘナであれば或いは――そのような手段も講じてきてもおかしくはありません」
ナギサの瞳に、納得の色が浮かぶ。
かかった。
「情報工作員個人に充てた噂じゃないだろう。当たれば儲けもの、その程度の噂だ」
「えっ……えっ? じゃあ何、あの報告書の内容って嘘なの……?」
ミカが目を白黒させている。純粋な彼女には、大人の裏読みは刺激が強かったかもしれない。
俺はここぞとばかりに畳みかける。
「少なくとも、鵜呑みにするべきではないだろう――お前たちから見て、俺は人の足を舐ねぶる様な人間に見えるか?」
俺はそう言って、静かに紅茶を片手に微笑んだ。
手は、カップがソーサーに当たって音を立てないよう、必死に震えを抑え込んでいる。
浮かべる笑顔は優雅に、纏う雰囲気は穏やかで理知的。
このような高潔な人物が、白昼堂々、わんわんプレイに興じ、生徒の足を舐める? ――あり得ない。馬鹿馬鹿しい与太話だ。
実際に会い、言葉を交わした今、そう断言できるように、俺は全霊をかけて「まともな大人」を演じた。
頼む、騙されてくれ! 俺の社会的地位のために!
「……いいえ、全く」
ナギサが静かに首を振った。その瞳には、俺への疑念ではなく、悪評を流した(とされる)勢力への軽蔑が宿っていた。
「なら、自分の目を信じるんだ。人を見る目というのは、そうやって養われる」
告げ、紅茶を一口嗜む。
完璧だ。そのどこまでも大人然とした姿勢に、ナギサは感嘆の息を漏らした。彼女の中で、俺の「先生」としての株がストップ高まで跳ね上がった瞬間だ。
ミカもまた、キラキラとした尊敬の眼差しを俺に向けている。
よし! これは勝った!!
ありがとうアグライア、ありがとう俺の演技力。
「――成程、流石先生というべきですか。教育の仕方も見事なもので」
「当然だろ、これでも一応先生だからな!」
「おぉ、これが大人……!」
称賛の声に耳を傾けながら、俺は寛容に頷き、そっと目を閉じる。
――別に「やっていない」と否定した訳でもないし、「そういう風に見える?」と聞いただけなので、嘘は言っていない。
大人は嘘つきなどではないのだ。ただ少し、言葉の綾を駆使するだけなのだ。
俺はそう自分に言い聞かせ、聖母のような微笑みを深めた。
(……今度は、誰も見ていない時にやろう。そうしよう)
「――まぁ兎に角! そういう事で、今はちょっと忙しい事もあってさ、是非先生にこの子達を引き受けて欲しいの!」
ミカが身を乗り出し、懇願するように両手を合わせた。その瞳は切実で、有無を言わせない圧がある。
それに続くように、ナギサが静かに言葉を継いだ。
「もう少々説明しますと、この『補習授業部』は常設されているものではなく、事態に応じて創設し、救済が必要な生徒達を加入させるものです。少々特殊な形ではありますが、急ぎという事もあり、シャーレの超法規的な権限をお借りしつつ……といった形で、ですね」
彼女は一呼吸置き、真っ直ぐに俺を見据える。
「――色々とややこしいですが、本質はあくまで『成績の振るわない生徒達を救済する事』にあります。だからこそ、こういった形での創設が許された訳ですが……如何でしょう、先生? 助けが必要な生徒達に、手を差し伸べて頂けませんか?」
二人の瞳が、逃げ場を塞ぐように俺を捉える。
だが、俺の中で答えは最初から決まっていた。
そもそも、ここに来る前に受信したモモトークの件名が『【重要】補習授業部の顧問就任のご依頼について』だったのだ。中身を読むまでもなく、断る選択肢など用意されていないクエストであることは察しがついている。
それに、「救済が必要」と言われて背を向けるようでは、ナナシビトの名折れだ。
「良いぞ」
俺が即答すると、ミカの表情がぱぁっと明るくなった。
「やった! ありがとー先生っ!」
「……ふふっ、きっと断らないでしょうとは思っていましたが」
ナギサは安堵の笑みを浮かべ、ティーテーブルの隅に置かれていたファイルを手に取る。黄金の装飾が施された、トリニティ総合学園の校章。その重みのあるファイルを、彼女は恭しく俺の前へと差し出した。
「受けて頂き、ありがとうございます――では、こちらを」
「……これは?」
「補習授業部に入部する事となる、対象の生徒達。その名簿と生徒情報です」
俺がファイルに手を伸ばすと、横からミカが口を挟んだ。
「要するに、トリニティの厄介――」
「その表現は愛が足りませんよ、ミカさん。こう云いましょうか、トリニティに於ける『愛が必要な生徒達』と」
「……まぁ、呼び方は何でも良いけれどね~」
「厄介者」を「愛が必要」と言い換える。これぞトリニティ流の政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)か、あるいは単なる皮肉か。
呑気に宣うミカを横目に、俺は静かにファイルを受け取り、ページを捲った。
紙の手触りとインクの匂い。そこに記されていたのは、五名の生徒のデータ。
一番前のページ。その名前に視線が吸い寄せられる。
『阿慈谷ヒフミ』
――知っている。
アビドスの砂漠で、共に銀行を襲撃し(語弊がある)、伝説の覆面水着団のリーダー「ファウスト」として名を馳せた、あの少女だ。
俺は二度、三度とその名前と顔写真を見比べる。間違いない。あの善良な彼女が、なぜ補習授業部になど……?いや、待つんだ。彼女はどこか巻き込まれ体質なところがあった。何かの因果が彼女を補習授業部へと招き込んだのだろう。そうだ!ここはいっそ補習授業部の案件の全てをヒフミに任せるとしよう。うん、そうしよう!
「詳細に関しましては追ってご連絡致します。他に気になる点は御座いませんか?」
ナギサの問いかけに、俺は思考を巡らせる。
仕事の内容は理解した。対象者も把握した。
だが、この場には一つだけ、埋まらない空白がある。
「そうだな……」
俺は二人に視線を配り、それから――この円卓に用意された、誰も座っていない『四つ目の席』に目を向けた。
ティーパーティー。三つの派閥の代表が集う茶会。
ナギサ、ミカ。そしてもう一人。
あの不思議な夢の中で出会った、予言めいた言葉を口にする狐耳の少女――百合園セイア。
彼女は自分を「ホスト」だと名乗っていた。ならば、この場にいないのは不自然だ。俺を避けているのか? それとも――。
「ティーパーティーは確か、三人で一つなんだよな? なら――もう一人は何処に? セイアってやつなんだけど……」
その名を口にした瞬間。
場の空気が、凍りついた。
「………」
「あー……」
まるで禁句に触れてしまったかのような、重苦しい沈黙。
紅茶の香りすら消し飛ぶようなその変貌に、俺は自分の問いが地雷原のど真ん中を踏み抜いたことを悟った。
ミカはどこか悲しそうに目を伏せ、視線をテーブルクロスに落とす。
ナギサの瞳からは先ほどまでの理知的な光が消え、思い詰めたような、濁った色が広がっていく。
そこに在ったのは、ただの不在ではない。
もっと深刻で、決定的な――『喪失』の気配だった。
「セイアちゃんは今、トリニティにいないの。入院中で……」
ミカの声が、一オクターブ低く沈んだ。
先ほどまでの天真爛漫な響きは影を潜め、そこには触れられたくない傷を庇うような、繊細な色が滲んでいた。
「本来であれば、今のホストはセイアさんだったのですが……そういった事情で不在の為、私がホストを務めているところです」
「元々ティーパーティーのホストは、順番でやるものだからね」
ナギサが静かに補足する。その表情は能面のように整っていたが、カップを持つ指先が僅かに白く強張っているのを、俺は見逃さなかった。
――入院中。
その言葉が、俺の脳裏で警鐘を鳴らす。
そうなのか?
ならば、なぜ最初に「誰が一番偉いのか」と問うた時、その事情を明かさなかった? 「今は私が代行している」と言えば済む話だ。それを伏せていたのは単なる失念か、それとも――触れられたくない“真実”がそこにあるからか。
――ジジッ。
背筋に走る『アグライアの金糸』が、不穏に震えた。
明確な警告。直感が告げている。この一件は、単なる病欠などではない。もっとドロドロとした、政治的な、あるいは運命的な何かが絡んでいる。
夢で会ったあのセイアは、肉体を失った精神体だったのか? それとも、予知夢のような何かだったのか?
思考が加速する。疑念が黒い霧のように広がりかける。
だが――俺はそれを、意識的に振り払った。
彼女たちが何かを隠しているのは明白だ。だが、それが即ち「悪」であるとは限らない。守るための嘘、隠すための沈黙。そういうものがあることを、俺は旅の中で嫌というほど見てきた。
それに何より、俺は今「先生」だ。
先生という生き物は、基本設定として「生徒を信じる」ようにできている(はずだ)。
ならば、今はその仮面を被り、彼女たちの言葉を額面通りに受け取ってみせよう。
「そうか……早く良くなると良いな」
俺は小さく息を吐き出し、労りの言葉を紡いだ。
その声色に疑念は混ぜない。純粋な心配だけを乗せる。
――今の反応で、知りたい事は凡そ知れた。
夢で見たセイアと、現実にいないセイア。この“未来の差異”は、物語を解く重要な鍵になるはずだ。
「そう言って頂けて嬉しいです。では先生、他に聞きたいことはありますか?」
ナギサの表情が、ふっと和らぐ。俺が追求を止めたことに安堵したのだろう。
「もう聞きたいことはない」
俺は首を横に振った。これ以上は野暮というものだ。
「……では、準備が整い次第、先生にはトリニティ総合学園に派遣と云う形で来て頂く事に出来ればと――先生のご協力に感謝します」
「またお茶会しようね、先生! また会えるかどうかは分からないけれどっ」
重苦しい話題が終わり、場の空気が弛緩する。
ミカが名残惜しそうに身を乗り出し、ナギサもまた、肩の荷を下ろしたように微笑んだ。
「そうですね……特に今は忙しい時期ですし、ティーパーティーの生徒会長がこうしてまた直ぐに集まれるとも限りませんから」
「ふふっ、やっぱり忙しいんだ? ま、でも先生のお陰でナギちゃんの顔も見られたし、良かった良かった!」
「えぇ、私もですよ、ミカさん」
互いに視線を交わし、柔らかく微笑み合う二人。
そこにあるのは、政治的な対立や派閥の壁を超えた、幼馴染としての純粋な信頼と親愛。
夕陽に照らされたその光景は、一枚の絵画のように美しく、尊く、そして――。
俺の脳内で、何かがスパークした。
美少女と美少女。
幼馴染。
互いを想い合う視線。
……これは、もしや。
「……2人は百合だったりするのか?」
感動的な空気を完膚なきまでにぶち壊す、最低の問いかけが口をついて出た。
その瞬間、世界から音が消えた。
優雅に紅茶を啜ろうとしていたナギサの手が、空中でピタリと停止する。白磁のカップが微かに震え、ソーサーの上でカチャカチャと小さな悲鳴を上げた。
ミカはきょとんと目を丸くし、数秒の硬直の後、その意味を咀嚼しようと首を傾げている。
「ゆ……?」
ナギサの口から、知性のかけらもない掠れた音が漏れた。
無理もない。高貴なるティーパーティーの席上で、まさかそんな直球の下世話な単語が飛び出すとは夢にも思わなかっただろう。だが、俺の銀河的直感が告げている。この尊い関係性には名前が必要だと。
『……穹さん。貴方は本当に、口を開くたびに評価をエーグルように乱高下させますね』
脳内に響くアグライアの声は、もはや怒りを超越して零下絶対度の冷たさを帯びていた。
同時に、指に走る金糸がギリリと締め上げられる。物理的な痛覚はないはずなのに、魂が「ごめんなさい」と悲鳴を上げた。
「……コホン!」
盛大な咳払いが、凍りついた時間を強制的に解凍する。
ナギサはカップを置き、深呼吸を一つ。その瞳には「聞かなかったことにする」という強固な意志と、若干の疲労の色が浮かんでいた。
「……先生。そのご質問の意図は測りかねますが、私達はあくまで幼馴染であり、共にトリニティを導く同志です。それ以上でも以下でもありません」
「あはは! 先生ってば変なこと言うね~! 」
毅然と否定するナギサと、無邪気に笑い飛ばすミカ。
その反応の差すらも味わい深い。だが、これ以上この話題を掘り下げるのは、俺の生命維持(主に金糸的な意味で)に関わるだろう。
俺は素知らぬ顔で残りの紅茶を飲み干すと、空になったカップをソーサーに戻した。
カチン、と澄んだ音が終わりを告げる。
ふざけるのはここまでだ。
俺のポケットには、5人の生徒の名簿が入っている。
彼女たちを「救済」する。そのミッションは、きっとこの紅茶のように甘くはない。だが、苦味のあとにはきっと、芳醇な香りが残るはずだ。
俺は椅子から立ち上がり、二人の少女を見据えた。
その瞳に宿る、わずかな不安と、大きな期待を受け止めるように。
「……それじゃあ、俺は一度補習授業部の生徒に話を聞いて来る」
俺が告げると、ナギサも優雅に立ち上がり、完璧なカーテシーで応えた。
「えぇ、これからよろしくお願いいたしますね、先生。私もティーパーティーのホストとして、先生をエスコートいたしますので」
「私も暇な時は手伝うから、いつでも呼んでね~!」
ミカがひらひらと手を振る。
その笑顔は、最初に会った時よりもずっと近く、温かいものに見えた。
冷たく、重い静寂。
それが、私の世界のすべてだったはずだった。
「ロストエントロピー症候群」——。
存在の輪郭が少しずつ、砂時計の砂がこぼれ落ちるように崩れていく不治の病。
あの医療カプセルの中の、鼻を突く消毒液の匂いと、肺の奥まで凍りつかせるような機械的な冷却空気。いつもなら、呼吸をするたびに胸の奥が軋み、自分の輪郭が霧に溶けていくような、あの耐えがたい「喪失感」に支配されているはずだった。
けれど、今は違う。
(あれ……? なんだろう……全然、苦しくない)
肺に流れ込む空気は驚くほど澄んでいて、細胞のひとつひとつが、失っていた熱を取り戻していくのがわかる。指先を動かしてみる。重い粘土をこねるようだったあの感覚は消え、意志に従って、滑らかに、確かに動く。
(動ける……!)
内側から溢れ出す確信に突き動かされ、私は重厚なカプセルの蓋を押し上げた。
プシュッ、と、現実と虚構を隔てていた圧力が抜ける音が響く。
足が床に触れる。冷たいはずの感触さえ、今は愛おしい。
私は、光の差し込む方へと一歩を踏み出した。
医療カプセルから這い出ると、そこには見慣れた、けれどどこか決定的に「異質な」光景が広がっていた。
空間そのものが凍りついている。
空気は薄く、淡い青を帯びた「氷」のヴェールを纏ったかのように、すべての輪郭が鋭く、それでいてどこか儚い。
「…………」
すぐ傍らに、刃の背中があった。彼は彫像のように動かず、ただ一点を見つめて立っている。けれど、私が床に足をついた微かな振動に反応したのか、彼は視線だけを、鋭く、僅かに後ろへと流した。氷の結晶が弾けるような、冷徹な気配。
「あら刃ちゃん? どうかしたの?」
カフカの声が響く。その声さえも、凍てついた大気に反射して、硝子細工のように硬質な響きを伴っていた。彼女もまた、記憶の淵に佇む残像のように静止しているが、その瞳には確かに、こちらを射抜くような知性が宿っている。
「……あっ、おはよう。やっと起きた……」
銀狼の視線が、手元の透過パネルから私へと移る。彼女の周囲だけが、ノイズ混じりの電子の光を散らしていた。
皆、立っている。
まるで、時が止まった永遠の瞬間の中に、無理やり命を繋ぎ止めているかのように。彼らは氷のような質感を湛えながらも、私の目覚めに合わせて、ゆっくりと、その呪縛を解くように動き出した。
「みんな……?」
震える声で、その名を呼ぶ。
それは"記憶"なのか、それとも、この凍てついた世界だけが許してくれた、束の間の奇跡なのか。
ロストエントロピーの恐怖から解放された私の身体は、期待と、それ以上の言いようのない不安に震えていた。
Mr.ミミ作のコーナーの今後
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新キャラの方がいい
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ストーリーに関係するキャラがいい