響け!八幡~北宇治での青春ラブコメはまちがっているのか?~ 作:碧河 蒼空
『うわー、やっぱここ難しい! 全然息が続かないんだけど!』
個人練習に使わせてもらっている教室の中、折本かおりはユーフォニアムを膝に置き、大げさに体を背もたれに預けて息を切らせていた。
『そりゃ、そこはフレーズが長いからな。肺活量っていうより、息のコントロールの問題だ。あと、アンブシュアが途中で緩んでる』
『あ、それある! 途中で口の周りプルプルしてくるもん。比企谷、どうやってんの?』
『どうって••••••』
俺は腕に抱えていたユーフォニアムを構え直した。
『まずは腹式の支えだな。音を伸ばす時じゃなくて、音の“入り”から均一に息を入れる事を意識するんだ』
俺は息を吸い込み、先程折本が苦戦していた小節を吹き始めた。
二人きりの教室に、俺の奏でるユーフォニアムの響きが広がった。ただ音を並べるだけでなく、次に続くフレーズへの道筋を作るように、滑らかで柔らかなタンギングを心掛けた。
ワンフレーズを吹き終え、楽器を下ろした。
『••••••とまあ、こんな感じ。指使いより、まずは息の流れを止めない事』
『おおー! やっぱ比企谷上手いね! ほんと凄い!』
折本がパチパチと手を叩きながら、屈託のない笑顔を向けてきた。
純粋な称賛。ただそれだけの言葉と笑顔をくれる彼女に、俺はこの時、既に強く惹かれていた。
『••••••折本だってもう少し肩の力抜けば出るようになるよ』
『りょーかい! じゃあもう一回やってみる! 比企谷先生、厳しく指導ヨロ!』
『先生はやめてくれ』
折本はまた可憐に笑うとユーフォニアムを構え直し、息を吹き込んだ。
俺の出した音をなぞろうとする、不器用だが真っ直ぐな音色。先程よりも良くなったメロディを聴きながら、折本の姿に飽きもせず見惚れていた。
『今のどうっ?』
俺に感想を尋ねる折本は、期待に満ちた瞳を俺に向けていた。
『お、おう。さっきより良かったんじゃないか?』
『やった!』
どもる俺を気にも留めず、折本は右手を握って喜びを露わにした。
『比企谷、教えるのも上手いよね。先生とか向いてるんじゃないの?』
『••••••折本みたいな生徒だったら、それも悪くないかもな』
照れ隠しの雑談を切り上げて、俺達は練習に戻った。今度は折本をリードするように、俺もユーフォニアムの音色を重ねた。
こんな日常が、この時の俺は愚かにも、堪らなく愛おしく輝いていたんだ。
「がや••••••比企谷?」
記憶の海に飲み込まれていた俺を、黄前の呼ぶ声と腕を引っ張られる感覚が、現実へと浮上させた。
引っ張られていた先では、心配そうに俺の顔を覗き込む黄前の姿があった。
「••••••悪い。ボーッとしてた」
「あ、うん。良いんだけど、大丈夫?暑さでやられた?」
「ああ、問題ない」
問題なんてない。ちょっとばかし古傷に触れただけだ。
俺は二度と同じ轍は踏みはしない。期待も勘違いも、何も。
日陰は残り僅かとなっていた。足元は既に太陽に晒されている。そろそろ合奏練が始まる時間だ。
「そろそろ時間だ。合奏練に行くぞ」
「そうだね。ちょっと待ってて」
黄前は楽譜を閉じると、ユーフォを抱え直して立ち上がった。
残った譜面台と椅子は俺が纏める。
楽器の音がなくなった校舎裏を、蝉の鳴き声を聞きながら、日差しの降り注ぐコンクリートの上を歩いて校舎の中へと入った。
「でも比企谷って教えるの上手だよね」
階段の途中で、黄前が何気なく口にした言葉に、俺の心臓が不快に跳ねた。
「周りの事も良く見てるし、案外先生とか向いてるんじゃない?」
あの日の折本と、横を歩く黄前がオーバーラップする。
真夏の灼熱とは対極に、俺の感情が急激に冷えていくのを感じた。
「バカ言え••••••これは俺が片付けておくから、お前は音楽室へ行ってろよ」
「え?あー、うん。ありがとう••••••?」
隣に視線を向けること無く言い捨てると、俺は椅子を戻すために黄前と別れた。
先程まで低音パートが集まっていた教室の扉を開けると、そこにはもう人の姿はない。俺は椅子を下ろすと、無機質な動作で今度は音楽室へ譜面台を戻しに向かった。
廊下を進み、音楽室まで目と鼻の先という所で、吉川先輩と正面から鉢合わせした。
「••••••比企谷?」
俺の目の前で立ち止まった先輩は怪訝そうに俺と視線を合わせる。
「お疲れ様です。どうしたんです?もう合奏練始まりますよ?」
「教室に忘れ物をしたの」
「そうすか」
俺は小さく頭を下げて、吉川先輩の横を通り抜けようとするが、俺の進行は彼女によって腕を掴まれた事で阻まれた。
「待って••••••何があったの?」
「••••••何もないですよ」
「そう••••••なら、もっと顔の力抜いたらどう?そのまま音楽室に入るつもり?」
吉川先輩は俺の言葉など信じていないだろう。有無を言わさない口調で話す。
「••••••そんな酷い顔してます?」
「ええ。目付きの悪さが普段の五割増しになってるわ」
「それはまた、酷い顔すね」
「譜面台は私が戻しておくから、あんたはもなかに行く前に顔でも洗ってらっしゃい」
「••••••すみません」
俺は持っていた譜面台を置くと、踵を返して音楽室から離れていった。
「比企谷!何かあったら言いなさいよ。あんたを泣かす奴がいたら、とっちめてやるんだから!」
俺の背中に向けて吉川先輩の言葉が飛んでくる。冗談めかしていて、だけど真っ直ぐな。
「はは••••••それは心強いすね」
五割増しほど酷くなっているという俺の目を見せないように返事をして、俺は少し離れた水道へと向かって歩を進めた。