響け!八幡~北宇治での青春ラブコメはまちがっているのか?~ 作:碧河 蒼空
黄前との個人練習が始まってからというもの、俺がパート練習で黄前と行動を共にする時間は目に見えて増えていた。
追加されたパートの難易度に苦戦を強いられているものの、彼女の精度は着実に上がっている。
とはいえ、関西大会進出を狙うにはまだ足りない。府大会まであと十日と迫る中、時間との戦いは熾烈を極めていた。
地元の駅で川島と鉢合わせた俺が学校に到着した頃には、黄前が既に自主練を始めていた。彼女も本番に間に合わせようと必死なのだろう。
黄前だけでなく、誰もが十日後の府大会に向けて必死になっていた。だから、俺達の目の前で、走って逃げる中川先輩を吉川先輩が叫びながら追いかけていたのは、きっと幻だ。うん、そうに違いない。
音楽室に集合し、部長挨拶が済むと各々がパート練習へ散る。今日は田中先輩が直々に稽古を付けるらしく、俺はお役御免となった。その代わり、トロンボーンのパートリーダーの要請により、塚本の所に派遣される事となった。黄前以外で今、最も苦戦しているのは間違いなく彼だろう。
塚本は中庭で個人練習をしているとの事だったので、俺は屋外へ向かった。
今日も既に茹だるような暑さが立ち込める中、少しでも体力を削られないようできるだけ日陰を歩くようにする。
中庭から玄関へ上がる階段にできた日陰で、塚本は一人、苦しそうにトロンボーンを吹いていた。
「よう」
塚本がマウスピースから口を離したタイミングを見計らって声を掛ける。
「比企谷?どうしたんだ、珍しい」
「今日はお前の練習を手伝えってよ。調子はどうだ?」
「••••••分からねぇ。一人で練習してて、自分ではちゃんと音が出たと思っても、他と合わせると俺だけズレてて••••••。比企谷は俺の音聞いてて、どう思った?」
俯きながら話す塚本の、トロンボーンを持つ手が僅かに震えている。
「今の演奏に関しては悪くねぇんじゃないか?」
「••••••本当か?」
「まだ詰められるとこはあるけどな。しばらく付き合ってやっから、この後、先輩と合わせてもらえ」
「分かった。頼む」
塚本が階段の中腹から中庭にトロンボーンのベルを向け、金管に息を巡らせた。
トロンボーンに関して俺は専門外なので、俺が技術的な助言を行うことは出来ない。出来るとすれば、こいつの音を聞いて、ズレを指摘するくらいだ。それでも、一人で吹いているよりはマシだろう。
楽器も声と同じで自分が聞いている音と他人が聞く音は聞こえ方が違う。楽器に触れている部分から音の振動が骨伝導で耳に伝わるからだ。故に、自分の演奏を録音して客観的に聞いたり、誰かに聞かせることはかなり重要になる。
ちなみに、エリートぼっちの俺は当然、録音派である。
俺が外からの耳となり、繰り返し音を微調整していくと、パート練習の時間が半分を過ぎた頃には塚本のピッチのズレは無くなっていた。
高校から転向したトロンボーンでこれだけの演奏が出来るのだから、今日に至るまでも相当な練習量をこなしてきたのだろう。
パート練習の時間の半分以上を俺と過ごした後、塚本はトロンボーンパートの教室へ戻っていった。
そして迎えた合奏練習。
今日、俺はICレコーダー・タイム計測役として、A編成に呼ばれていた。
本番に備え、誰かが聞いているというのを意識させて演奏をする目的もあるらしい。
滝先生の指揮が止まる度に次々と指導が飛ぶ。演奏、指導、演奏、指導。緊張の糸が切れる余地もなく、これをひたすら繰り返していた。
「トロンボーン塚本くん、今のを常に吹けるように」
そんな中、突然塚本の演奏を認める言葉が滝先生の口から落ちた。塚本は鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、すぐに返事が出来ないでいる。
今、吹いていたのは、彼がずっと先生から改善を求められており、先程も俺と練習をしていた箇所だった。
だが、喜びを感じる間もなく、滝先生は次に演奏する箇所を指示した。
窓が閉められた音楽室の熱気は、演奏を追う毎に増していく。その熱は楽器にも伝わり、もはや最初に行ったチューニングなど意味がないのではと思う程に。
だが、冷徹な采配は突然に訪れる。
「トランペットはキチンと音を区切って」
「「「はいっ」」」
「ホルンはもっとください」
「「「はいっ」」」
「それからユーフォ。――ここは田中さん一人でやってください」
低音パートの面々の息を呑む音がはっきりと聞こえた。
誰一人として言葉を発しない。あの田中先輩ですら、返事を即答する事が出来なかった。
「田中さん、聞こえましたか」
迷いなく淡々と、故に反論の余地がない、そんな滝先生の言葉。
「••••••はい」
促され、ようやく田中先輩が返事を返す。黄前には言葉を求められる権利すら与えられなかった。
「ではもう一度。今の指示に気を付けて」
何事もなかったかの様に、滝先生は次の演奏を指示した。
ユーフォを膝に置いた黄前が一人、そこだけ風景から切り取られたように取り残されている。うつ向く視線は譜面から外れ、行き場を失っていた。
黄前が事実を呑み込む間もなく、曲が進めば、黄前の心情など無関係に、彼女も再び演奏に戻らなければならない。なぜなら、黄前の都合などお構いなしに、コンクールは十日後にやってくるのだ。一分一秒たりとも無駄には出来ない。そういう意味では、滝先生の態度はどこまでも合理的だった。
黄前の抜けた後の演奏は不純物が取り除かれたようにクリアで調和がとれていたが、俺にはその音がやはり薄っぺらく感じた。