響け!八幡~北宇治での青春ラブコメはまちがっているのか?~ 作:碧河 蒼空
川島と加藤の提案により、黄前と俺を含めた四人で駅前まで甘味を食べに出てきたのだが、俺は現在、学校に向け通学路をUターンしている。
••••••まさか学校に財布を忘れるとは。
レジで会計の際にカバンに手を入れて、そこにあるはずの財布が無かった時の心臓に冷や水を被ったかのような感覚。
その場は川島に借金をして事なきを得たが、財布を忘れたまま帰宅というのは精神衛生上よろしくない。俺は甘味を食した後、学校へ戻る事を決めたのだった。
「久美子ちゃん、大丈夫でしょうか?」
横を歩く川島が憂い顔でポツリと零した。
俺は一人で学校へ戻るつもりだったのだが、何故か川島が付いてくると言い出したのだ。曰く、旅は道連れ世は情け、だそうだ。
「今日の練習を聞く限りじゃ、他の演奏にまで影響が出ることは無いんじゃないか?ま、精神的には相当堪えてるだろうけどな」
歩きながら黄前の事を考える。
今日の寄り道は、川島と加藤が黄前を心配しての気遣いだった。案の定、黄前は終始どことなく元気がなく、無理して普段通りに振る舞おうとしていた事が丸分かりだった。
俺から見て分かるくらいだ。川島と加藤にもバレているだろう。
「比企谷君は、久美子ちゃんをああするしか無かったと思いますか?」
「どうだろうな。見切りを付けるには早いと思うが、確実に全体の完成度を上げようって滝先生の考えも分からなくはない」
黄前の技術が追い付いて、さあ本番という訳にはいかない。そこから全体のハーモニーを作り上げなければならないからだ。言わば、ちゃんと譜面通りに演奏できるなんてのはスタート地点だ。
とはいえ、黄前も演奏に加わった方が曲としての完成度が上がるのは間違いない。
何にせよ、滝先生が黄前を外すと決めた以上、それを覆す事は誰にも出来ない。
「そう••••••ですよね」
川島は人の感情に敏感だ。そして、他人の傷を自分事として受け止めてしまう。今回も黄前の傷心に、川島は心を痛めていた。
とはいえ、川島も中学時代は強豪校で吹奏楽をしていた人間だ。全ての努力が平等に実を結ぶわけではないという現実を分かっているのだろう。黄前の処遇について不平不満を述べたりはしなかった。
学校に着き、職員室の扉を叩く。
「川島さんに比企谷君?まだ帰られていなかったのですか?」
滝先生は耳からイヤホンを外し、驚いたように職員室の扉を開いた俺達を見つめた。
「すいません。財布を忘れて取りに来ました」
俺は滝先生に事情を説明する。
俺の行動を逆算すると、部活終わりに持ち歩いていた貴重品をカバンに戻していたのが音楽準備室なので、財布もきっとそこにあるだろう。
俺達は滝先生同伴の元、音楽準備室へと向かった。
「あの••••••滝先生は先程までずっと今日の演奏を聞いてたのですか?」
道中、川島は滝先生に声を掛ける。
「はい。みなさんコンクールに向けて頑張っていますので、私もみなさんの努力に報わなくてはいけませんから。みなさんが全国へ行くために最善の行動を私もするつもりです」
滝先生は善人なのだろう。厳しい指導や冷徹な決断も、軸は常に生徒達にあった。
「••••••今日、154小節目から黄前を外したのも全国へ行くための最善の選択って訳ですか?」
「••••••っ、比企谷君!?」
俺が滝先生に尋ねると、川島は俺を咎めるように口を挟んだ。
「そう信じていますが、正直、難しい問題ですね」
俺の不躾な質問に、滝先生は気分を害した様子もなく答える。
「黄前さんにも入ってもらった方が音の厚みとしては強くなります。それに、最近の彼女の上達は目まぐるしい程でした。しかし、コンクールに間に合うかどうかはまだ絶妙なラインです。それに、黄前さんにはあそこだけでなく、他の練習もしてもらわないといけませんから」
「間違いないですね」
本当に、ぐうの音も出ない正論だった。付け入る隙など一切無い。
この人は全国大会出場という目標に向け、部活が終わってからも、生徒達の音と真摯に向き合い続けていた。誰がこの先生の決定に異を唱えられるのだろうか?
音楽準備室に着くと、滝先生が鍵を開け、出入り口で待っていると俺達に告げた。
部活後に荷物を片付けていた辺りを探すと、財布はすぐに見付かった。
目的を果たした俺が、直ぐにこの場から去ろうと踵を返したら、足元で何かを蹴ったような感触があった。俺は薄暗い床に目を凝らし、これを拾い上げる。
「••••••これ、久美子ちゃんのスマホです」
川島が俺の手元を見て、直ぐにその正体を特定した。
「比企谷君、財布は見付かりましたか?」
出入り口から滝先生が呼び掛ける。
「財布は見付かったんですが••••••」
俺は滝先生に黄前の携帯が落ちていた事を話した。
「あの、私が久美子ちゃんにスマホを届けましょうか?」
「川島さんのお気持ちはとても嬉しいのですが、校内での落とし物になりますので、私に預からせてください。それは個人情報の塊ですし、黄前さんに引き渡す間に意図せぬトラブルが起こったとしても、学校としては責任を取れませんから」
危機管理としてはごもっともだが、現代の高校生からスマホを取り上げるというのは酸素を奪うに等しい死活問題だろう。
「それでは、久美子ちゃんに連絡をしても良いでしょうか?」
川島はスマホを取り出して先生に尋ねた。我が校では原則、学校での携帯の使用は禁止されている。
今回は特別に、滝先生の監視下という条件で許可が下りた。
「あ、でも私、久美子ちゃんの連絡先は携帯以外知りません••••••」
よくよく考えてみれば、それも当然か。
「それなら何とかなると思うぞ」
俺は今日、交換したばかりの塚本の連絡先を探す。
塚本と黄前は幼馴染みとの話なので、彼から黄前に伝えてもらい、黄前から学校に電話してもらうよう手配するのだ。
先生にそれで大丈夫だと許可をもらったので、塚本に通話を発信する。
『もしもし、どうした?』
スマホを通して塚本の声が俺の耳に届いた。
「ああ。黄前が学校に携帯を忘れてるみたいだから、黄前に知らせてくれないか?」
『それなら、久美子が直ぐそこにいるから、ちょっと待ってくれ』
電話の奥では塚本が走っているようで、風を切るような音が聞こえる。
『••••••もしもし』
しばらくすると、スマホから聞こえる音が黄前の声に変わった。その声は、駅で別れた時とは違う酷い鼻声だった。
黄前のスマホが学校にあること、俺達が届けることが出来ないことを伝える。
『わざわざありがとう。一度、帰ってから直ぐ取りに行くって先生に伝えて』
「分かった」
『あと、比企谷には色々手伝ってもらったのに、無駄にしちゃってごめん』
「••••••気にすんな。お前の練習見てなくても別の仕事があっただろうしな」
時折、鼻を啜りながら、必死に何かを堪えようと息を詰まらせ話す黄前の水分をたっぷり含んだ重たい声。それ以上聞かないように、俺は通話を切った。
「黄前と話せました。一旦帰ったら直ぐに取りに来るそうです」
「分かりました。では、行きましょうか」
このまま先生に見送られ、学校を出れば俺の今日の業務は終わる。あとは家に帰って飯を食い寝るだけ。これ以上、首を突っ込む理由などどこにもない。
••••••どこにもないはずなのに、気がつくと俺は先に歩きだした滝先生を呼び止めていた。
「滝先生••••••やっぱり、154小節目からは黄前がいないと厚みが足りないんじゃないですか?」
横から川島の息を飲む音が聞こえた。
こんな事、部外者の俺が言うことじゃ無いのは重々承知だ。だから、これはただの言い掛かりだ。
「そうですね。比企谷君の言う通りです。ですが、先程お伝えした通り、全体の事を考えると、いつまでも黄前さんを待つ訳にはいきません」
「それは俺も同意です。ですが、うちの吹部なら五日あればそれくらい滝先生の望むレベルでクリアできますよ」
本当の所を言うと、うちの吹部がどれくらいの期間でクリアできるかなんて知る由もない。今重要なのは、ハッタリでも何でも猶予を設けることだ。
「音の厚みが足りないことは先生も同意してくれましたよね?なら、もう少し待つ価値があるんじゃないですか?全国へ行くための最善を」
滝先生は顎に手を当てて考える仕草を見せる。
「比企谷君は黄前さんが更に急成長すると。どうしてそう言えるのですか?」
「俺にはユーフォの指導経験がありますから。ユーフォに限れば滝先生にも負けないと自負してますよ」
嘘は言っていない。折本との練習だって立派な指導経験だ。
怖じ気づくな。飽くまで不遜な態度は崩すな。
滝先生は善人である。感情的になって俺を真っ向から否定してくる事はないはずだ。
滝先生と俺の視線が交差する。その瞳からひしひしと圧力が伝わり、思わず目を逸らしそうになるのを、俺は必死に堪えていた。
「••••••分かりました。ただし、比企谷君の言った五日前がリミットです。あと、黄前さんの演奏が必要だと言えるレベルに達するまでは、合奏練習は田中さん一人で吹いてもらいます。これでどうでしょう?」
「十分です」
俺が言うのもなんだが、むしろよくここまで譲歩してくれたものだと思う。
「比企谷君の勘違いを一つ訂正させていただくと、私は黄前さんが“できる”と言った言葉を忘れた訳ではありません」
「••••••は?」
「関西大会には間に合わせていただくつもりでしたが、予定が早まりそうで何よりです」
俺は全身から力が抜け、一気に崩れそうになるのを感じた。
つまり、俺が今でしゃばる必要は無かったって事になる。とんだ道化ではないか。
「期待していますよ、比企谷君」
そう言って、滝先生は玄関へ向かって歩きだした。
Q 先生なら生徒の自宅の電話番号くらい分かるのでは?
A 演出上の都合です。