響け!八幡~北宇治での青春ラブコメはまちがっているのか?~ 作:碧河 蒼空
北宇治高校の演奏が始まった。
課題曲四番、プロヴァンスの風。風がスペインからフランス南東部のプロヴァンスへと吹き抜け、再びスペインに帰ってくるというストーリーを持った曲だ。
情熱的でアグレッシブなスペイン風のフレーズやリズムが展開される。闘牛やフラメンコのような情熱的かつ哀愁を帯びた雰囲気が伝統的なフリジア旋法*1が聴き手の肌をピリピリと粟立たせる。
曲は転調し、南フランスの穏やかで伸びやかな歌い上げるような旋律に変化した。主役が木管楽器やトランペットからユーフォニアムやクラリネット、サックスに代わり、豊かで暖かい音色が深い情感を持ってメロディを支える。カンタービレはプロヴァンスの爽やかな青空とラベンダー畑が広がるような、美しく伸びやかな世界へと聴く者を誘う。まるで、そよ風に身を委ねて歌うかのような至福の時間がそこにはあった。
そして風は再びスペインへと帰る。スネアの鋭いロールを合図に、風はその牙を剥いた。
前半とは異なり、全ての楽器による分厚いサウンドで、闘牛場に再び足を踏み入れたようなギラギラとしたアグレッシブさが全面に押し出される。
曲の締めくくりに向かうコーダではテンポ感や音圧が更に増していく。すべてのエネルギーが一点に集約されるように、スペイン風の強烈なステップを踏むようなリズムで、圧倒的な音量とスピード感のまま劇的に曲が閉じられた。
よしっ、北宇治の持つパフォーマンスが遺憾なく発揮されたのではないだろうか。
舞台袖の最後尾で、俺は拳の中に汗が滲んでいたに気付き、握っていた手をほどいた。
滝先生は譜面をめくると再び両手を掲げ指揮を振るう。
冒頭、トランペットを先頭に据えた高らかなファンファーレから鳴り響いた。
自由曲、三日月の舞。
ファンファーレに続いてホルンや木管楽器による静かで神秘的な夜空を思わせるイントロから徐々に金管楽器が加わり、星々が輝き出す様子が壮大に演出される。
当初はあんなに苦戦していた塚本も、今や危なげ無く吹ききってみせた。
テンポが上がり、クラリネットやフルートなどの木管楽器による細かくスピーディーなフレーズが流れるように展開した。低音パートが刻む力強いビートに乗せ、楽曲が軽快に躍動する。
そして曲は物語最大のクライマックスを迎えた。
静まり返ったホールを切り裂くように一本のトランペットが鳴り響く。曲のテンポがぐっと落ち、しっとりとした情緒的なセクションへ。美しくも儚いメロディが最高音へと向かい一気に駆け上がった。
ソロを吹く高坂の横で静かにトランペットを膝に置く中世古先輩の表情を、舞台袖から見る事は叶わない。
俺は中世古先輩の言葉に思いを馳せる。
中世古先輩と高坂の再オーディション以降、中世古先輩はソロパートの練習をピタリとやめた。
憑き物が落ちたかの様に澄んだ彼女のトランペットの音色が渡り廊下の屋上から響いていた。
その音に誘われて、屋上の出入口までやって来ると、俺は引き戸の窓越しに見た吹部のマドンナの演奏する姿に目を奪われた。まるで神秘的な絵画から切り取られたかのような姿。吉川先輩が彼女の事を天使と評するのも理解できる。
トランペットから唇を離し、静かに呼吸を整えていた中世古先輩がこちらに気付き、手を振ってきた。
••••••このマジエンジェルスマイルに勘違いして玉砕していった男子達がどれだけいたことだろうか?
俺は戸を引き、中世古先輩の元へと歩み寄った。しっかりと公衆距離を保ち、中世古先輩のパーソナルスペースを侵さない俺、超紳士。決してヘタレな訳ではない。
「調子良さそうっすね」
「うん。やっと自分のするべき事に集中出来るようになったの」
きっと、中世古先輩はあの再オーディションで納得する事が出来たのだろう。
「中世古先輩はこの三年間に後悔は無いんですか?」
年功序列の元、ろくに練習をしない上級生にコンクールの椅子をかっさらわれた不条理な一年生。
先輩達の必死の尽力も虚しく、上級生による下級生の無視という苛めの末に、集団退部事件を防ぐことが叶わなかった絶望の二年生。
そして訪れた三年生。部の方針転換によって年功序列という梯子を外され、挙げ句の果てには全部員の前でのオーディションという公開処刑にあった。これはこれまで部に尽くしてきた中世古先輩への裏切りとも取れるだろう。
「無いよ」
中世古先輩は一片の迷いすら見せず即答した。
「あるわけない。私は全力で三年間をやりきった。あすかや晴香達みたいな仲間に囲まれて。去年、一年のみんなが辞めていった中、こんな私を慕って残ってくれた優子ちゃんみたいな後輩にも恵まれた。そして、一度は負けた私が最後まで高坂さんと本気で競い合えた。だから、後悔なんて無い。あとは今のメンバーで全国に行けたら、もう言うこと無いかな」
俺を回想から現実に引き戻すかのように、スネアドラムが曲を再びハイテンポへと引き上げた。
一五八小節目、一度は演奏する権利を剥奪された黄前がユーフォに息を吹き込む。
「それでは一五四小節目から。今回は黄前さんも入ってください」
何の前触れもなく突然、滝先生によって言い渡された。その意図は聞くまでもなく、黄前に与えられたラストチャンス。これを逃せば、黄前が京都府大会でここを吹く可能性が潰える事となる。
それを理解出来ない者がこの場にはおらず、全員の間に緊張が走った。
「••••••はい!」
息を飲むだけの時間をおいて、黄前は怖じ気づく様子もなく、はっきりと返事をした。
クラリネットとシロフォンが先陣を切ると、黄前の正念場が始まる。
目まぐるしい運指にダブルタンキング、音価の変化への対応。息の詰まるようなプレッシャーが支配する瞬間瞬間に、黄前のユーフォは正確に音を刻んだ。
「はい、そこまで」
滝先生が右手を握った。意図しての事か偶然か、滝先生が演奏を止めたタイミングは、かつて黄前に冷徹な宣告を言い渡した時と全く同じだった。
「黄前さんは次からもここの演奏に入ってください」
「っ••••••はい!」
「では次••••••」
黄前が喜びを露にする間も無く、練習は慌ただしく進んでいった。
肩が下がって漏れ出た俺の溜め息は、すぐに始まった演奏に搔き消された。
曲はフィナーレへ向かい駆け上がっていく。
これまで
1つのパートでも演奏が崩れたら、この巨大な音楽の構造物のすべてが空中分解してしまう、それほどまでに緻密に構成されたハーモニーが目の前で完璧に奏でられている。
最後はスピード感を維持したまま、全員で寸分の狂いもなく強烈なフォルテッシモの和音を響かせ、残響だけを残した。三日月は目映い朝陽の中に溶けて消える。
滝先生の合図で一同が立ち上がり、客席に一礼すると、ホール中から盛大な拍手がステージに浴びせられた。
興奮の冷めやらぬままステージ上で肩で息を吸う姿は、さながら三日月の下で一夜を舞い明かした踊り子といったところか。
Q.ステージと舞台袖の間には防音扉がなかったっけ?
A.この物語は基本的に八幡視点で描かれるため、防音扉には八幡より後ろにある設定で書きました。