――勇者は魔王に最後の一撃を与え、魔王の魔力は、まるで風に飛ばされるように、完全に消え去った。
仲間たちは歓喜に沸き、将来を語る者や、家族のもとへ戻ると話す者、抱き合う者で戦場は一瞬、安堵に満ちた。
「みんな! 念のためもう一度確認しておこう」
「大丈夫だろ。だってさっきローゼインが確認したんだろ?」
「念のためだよ」
仲間の一人の魔術師が魔王の亡骸へと近づいた。その刹那――魔王の体の裂け目から、黒い塊が這い出した。蠢き、床へ落ちるそれは無数の刃をまとっていた。
「なんだ……? あれ……」
誰かが声を漏らす。ただ、それだけだった。
その刃が魔術師に襲いかかる。
音すら置き去りにするあまりの速さに誰一人として反応することができなかった。黒い塊は魔術師の体を貫き、内臓を抉り出す。
それは刃を棘のように、魔術師の脚へ、手へ、頭へと伸ばした。魔術師はその場で生き絶え、黒い塊は魔術師の体を飲み込んだ。
黒い塊は膨れ上がり、複製するように全く同じモノを生み出した。その数は飲み込んだ者たちに比例して増えていく。
最初の黒い塊が瞬時にもう一人へ飛びかかり、刃が肉を裂いた。甲高い悲鳴が魔王城に響き渡る。
「痛い゛痛い゛痛い……やめてくだ……ぁ……」
また、その者も黒い塊に飲み込まれ、その刃の矛先は個から多へと向かう。
勇者一行は必死に逃げ惑うが、どす黒く飲み込み、複製し、無尽蔵に増えるそれに対し、成すすべなく倒れていく。
全身が押し潰され、貫かれ、ただの肉塊へと化し、多くの仲間の反応がなくなる。床は真紅に染まり、叫びと斬り合う金属音が入り混じる。
黒い塊は勇者を残して一つに集まり、巨大な個を形成した。
勇者は絶望へと深く落ちていく。巨大な黒い塊に対し、全身全霊をかけて剣を振る。刃は通る。だが、それは斬られた場所から再生していく。
途方もない時間が過ぎた。剣は刃こぼれし、今にも砕けそうなほどに消耗している。
――どれほど剣を振ったのだろう。やがて心身が限界を迎え、地へと伏す。
息は荒く、視界が滲む。仲間の声も、足元の感触も、徐々に遠のいた。
その黒い塊は無慈悲にも勇者の四肢にのしかかり圧力を加え、押し潰す。
「ああ゛ああああ゛!!」
「あ……あ……」
あまりの激痛に悶えるがやがて全身の感覚が薄れていく。
「………………」
頭を動かすが立っている者は誰一人その場にいなかった。先程まで一緒に戦っていた仲間の肉片が視界に映る。
それに触れようとしても四肢のない身体ではどうすることもできず、勇者の意識は途切れていく。
「ああ……すまない……ジン……エンリ……愛して……いる」
それが勇者の最後の言葉だった。心拍は止まり、意識は完全な暗闇に落ちていった。
それと同時に魔王の身体へと黒い塊は戻り、魔王の肉体は完全に再生される。
魔王は勇者の死体を見下ろし、頭を踏みつけながら話す。
「君たちは準備不足だったんだ。まあ、わかるはずもないさ」
「君たちにとって見たことのないものだろうからね。いやはや……人間は滑稽でつまらない種族だ。僕たちに勝てると思っていたのかな。浅はか……実に浅はかだよ」
魔王は勇者一行に倒された魔物を自らの血を与え、復活させた。
勇者だったものは魔物たちに踏みつけられ、やがて原型がわからなくなるほどに潰された。
「諸君……人間という下等な生物を深い絶望へと堕とそうではないか」
満面の笑みを浮かべ、魔王はそう口にする。その言葉を聞いた瞬間、大量の魔物がガルデリア王国へと向かった。
――王都へと向かう魔物たちを抑えるものは誰もいない。そして誰一人、その襲来を察知することはできなかった。
◇◇◇◇◇
魔戦暦587年11月――ガルデリア侵攻
炎が喉を焼いた。
「助けて。お父さん……お母さん……」
熱と痛みで視界が滲む。瓦礫の下で足が動かない――少年は指先で土を掻き、声を振り絞った。
空は灰に覆われ、遠くで魔物の咆哮が繰り返し響く。勇者が消えたその十日後、王国は燃えていた。
「運べ! 重症を負っているものから早く」
「なんなんだよ……なんでこんなことに! 勇者様はどこへ行ったんだ!」
「お母さんを助けてぇぇ!」
必死に助けを呼ぶ声は魔物の咆哮にかき消された。
魔物に妊婦は腹にいる赤子ごと上半身を食いちぎられ、男や女は四肢を引き裂かれ、子供は踏み潰されていった。
家屋が次々と倒れ、炎が屋根を丸ごと呑み込む。人々の悲鳴と瓦礫の軋む音が空気を震わせ、街は混沌の淵にあった。
王都の中心に掲げられていたガルデリア王国を象徴する『深紅の剣』と『濃紺の杖』が刺繍された旗は焼き焦げ、灰となって朽ちていた。
オークやゴブリン、名も知れぬ魔物の影が肉を裂き、熱風が肌を焼く。少年の皮膚もただれていた。幼い体は今にも消えそうで、それでも必死に爪を立てて前へ進もうとしている。
「痛い……痛いよ……」
「お母さん、お父さんどこに行ったの……?」
少年は這いつくばりながら自分の両親を探し、絶望に押し潰されながら小さく呟く。
周りには見知った親子や子供の死体、数時間前まで人間として形を成していた肉の塊が転がっている。街を照らすのは、松明や灯りではなく絶えず燃え盛る炎だけ。
少年がどれだけ進もうと生きている人間はいない。地獄だ。
「誰か居ないの……?」
「誰か……助けて……」
建物の瓦礫が少年に向かって落ち、少年は足を押し潰され、脚の感覚を失った。
「ああ……」
(もうだめ……だ……)
少年の意識は途切れ、暗闇へと深く落ちていく。
◇◇◇◇◇
夜が明け、侵攻は一時的に鎮まった。焼け焦げた大地に救援の足音がようやく届く。
足音の正体はガルデリア王国の誇る第三騎士団の団員たちだ。
その制服は象牙の白を基調に銀糸の刺繍を施した立襟、肩章には階級の房飾りが垂れる。胸当ては白塗りの軽装プレートで団章が刻まれ、羽織られていたマントは裏地が藍色に染まっている。
――それはまさしく規律と実用が同居した服だ。
騎士団の隊列が瓦礫の間を進むと、生存者を発見し次々と搬送を始めた。
「酷い状況だな……」
団員たちは言葉を失い、焦げた街並みを見つめる。空気は灰と血の匂いが混じり、重苦しい沈黙が流れた。
「全団員に告ぐ! 重症な者から運べ!」
指揮が飛び、隊は手際よく動く。瓦礫をかき分け、負傷者を担架へと載せていった。
騎士団の一隊が瓦礫の中を進み、そこに横たわる一人の少年を見つけた。
その少年の足は潰れ、少年自体もひどく衰弱していた。
「君、大丈夫か! ……医療班この子を頼む」
少年の体は冷え、今にも死にそうだ。
「団長!辺りを確認して参りました」
「他に生存者はいたか」
「それが……生存者は、この子以外には見当たりませんでした」
「ご苦労」
(まさか第三勇者が魔王討伐に向かい、失敗してから、十日で魔王軍が攻めてくるとは……)
「君たち、私は本部に被害状況を報告しに行く。ここを任せるよ」
団長は短く頷き、数人を残して指揮所へと戻っていった。
◇◇◇◇◇
数刻後――王都の一角にある指揮所。木製の机には報告書が無造作に積まれている。
外の喧騒が遠ざかる中、扉がノックされ、重い空気の中で報告が差し出された。
コンコンコン……
「失礼致します。被害状況の報告に参りました」
「入りたまえ」
「は!」
「これが現在のガルデリア王国の被害状況をまとめた報告書になります」
「うむ……」
ペラペラ……
「主要都市の約三分の二が壊滅状態にあるのか……」
報告を読む音は冷たく、短かった。読み上げると同時に、部屋の中の空気が重くなる。
「勇者様が魔王討伐に向かい、行方不明になってから十日……」
「ライオス団長。早すぎると思わないかね?」
「どういうことでしょうか?」
「君たち第三騎士団は、アルカ帝国首都リガンドまで物資の交換をしに遠征へ向かわせた。その移動時間は日にして、二十日かかる」
「それが一体何に関係しているのでしょう?」
「地図上で見ると、魔王城はこの国から帝国よりも遠い。だから十日というのは早すぎる」
「君たちは飛行魔術による移動でこれほどの時間を要する。だが、少なくとも魔王城からであれば、最短でも一ヶ月はかかるはずだ」
「であれば、どのような移動手段を使ったのでしょうか……」
「いや、どの移動手段でも十日より短くはならない」
「例外はあるがな」
「転移魔法陣……」
ライオスが呟いた。
その一言で室内の空気が凍った。転移魔法陣――本来は神話じみた禁術であり、会議の場で軽々しく口にされる性質のものではない。だが、ここでは現実として議題にのぼっている。
「ああ……第三勇者に持たせた各迷宮の転移魔法陣の場所を記した地図、あれがあれば十日以下で移動できる」
「ですが、転移魔法陣は禁断の技術であり、この国家を揺るがすほど大きなもの…知り得るものも私を含め、数名程度です」
「たとえ勇者様から奪ったとしてもあれには魔術がかかっていたはずです」
「その通り」
「あの地図にはマークされている人物が亡くなった場合や所有権がそれ以外の者に渡れば、自動的に消滅する強力な魔術をかけている」
「おそらくだが、なんらかの手段でそれを解除したか、あるいは復元したのだろう」
「そもそも、この国の周囲にある転移魔法陣は特殊だ」
「この国の魔術協会や騎士団の幹部以上に伝わる固有魔術を起動しなければ開かない」
「君が言ったその数名の中に、魔王軍へと通じるものがいると考えるべきだな」
「それでは、こちらで国の復興とともに私の部隊で調査しておきます」
「ああ、頼む。私も個人で調査するとしよう」
短く、しかし重い決意が交わされた。その言葉の裏側で、王都の下に横たわる焦げた街並みと、まだ眠るかのように倒れた者たちの姿が、誰の目にも浮かんでいた。
「あと一つお前に頼みたいことがある」
「どのようなことでしょうか」
「魔王との戦いが起点となった魔戦暦が使われて以来、歴史上でこれほど大きな被害を我が国は受けたことがなかった。今後、このようなことが起こらないように騎士団の戦力増強をライオスに頼みたいんだが……」
「もちろん宜しいですよ」
「そうか……では頼んだ」
ライオスは即決し、指揮所を後にした。
指揮所の扉が閉まり、冷たい空気が一瞬だけ残る。外では救援の足音が再び忙しく動き出していた。
◇◇◇◇◇
(熱い痛い助けて……)
「はあはあ……」
「夢?」
うなされていたようだ。悪夢を見たのか酷く汗をかいている。足は押し潰されていたはずだが、いつの間にか治っていた。
ここはどこだろうか。少年はベッドの縁に手をつき、辺りを見回す。
棚には治癒魔術の書が無造作に積まれている。推察するにどうやらここは医療施設らしい。
部屋の外からこちらに近づく足音が聞こえる。
ガラガラ……
「あら、元気になったみたいね」
「誰……?」
白い帽子を被った女性のようだ。女性は帽子を外し、手に抱え持つ。その姿は白髪のショートボブに純白の瞳で凛々しい顔立ちをしている。年齢は20代半ばに見える。
「治癒魔術師よ。君、二週間ほど寝続けていたのよ」
彼女の声は柔らかいが確かな抑揚があって、病室の空気が少し和らぐ。
「全身を確認するけどいいかしら」
「うん」
「足は動く、身体中見ても問題はないわ。だいぶひどい傷だったけど、完全に治ったみたいね。急だけど君、お母さんやお父さんの名前分かる?」
彼女は記録用の小さな帳面を開き、ペン先を立たせる。
「なんで聞くの?」
「なんで聞くのって…そうだなぁ…君1人でしょ。お父さんお母さんが探してると思うから。心配かけるのも良くないからね。身元確認は最重要です!言い忘れてたけど、君の名前も教えてね」
ニッコリと安心させるために笑顔を向けている。少しだけ、少年の心には安心感が芽生えた。
「ぼくは……ジンって言って、お母さんがエンリで、お父さんがローゼイン……」
少年はぎこちないが、父と母の名前を彼女に伝えた。彼女は何か引っ掛かるのか考え込んでいる。
「もしかして……」
彼女の眉がわずかに動く。
「家の名前も一応教えてくれる?」
「エルデンスなんとかだったと思う。わかんない……」
彼女は少年の返答を聞いた瞬間、かなり驚いた表情をしていた。少年はまだ、その表情に込められている意味を読み取ることはできない。
「第三勇者エルデンス・ローゼインの息子…母の方は上級魔術師か。気の毒に……」
ブツブツと独り言を言っていて、何を言っていたのか聞き取れない。
「お母さんお父さんがどうかしたの?」
少年は問い返すが、彼女は首を振る。
「いや、なんでもないのよ」
(勇者様は行方不明だとしても、亡くなってる可能性が高い。お母さんの方は生きてはいるけど…予断を許さないほどの傷…確かまだ8歳だったはず……まだ伝えるわけにはいかないわね)
治癒魔術師は思考を巡らせる。
「なんでもないからね。安心していて、一応今日は寝ときなさい。ご飯持ってくるからね」
「わかった……」
何かあったのだろう。子供でも、それだけのことは理解できた。魔術師の女性は駆け足で部屋を出て行った。
◇◇◇◇◇
第三騎士団本部の執務室では、魔術師フェイズが団長のライオスに報告していた。どうやら、先ほどの少年に関係があるようだ。
「そうか。勇者様の子が……一応何があったのかは伝えてないんだな?」
ライオスは冷静に報告を聞いているが、襟には汗が滲んでいた。
「ええ。ライオス団長、あの子はどう対処するのがよろしいでしょうか?」
「フェイズ、君に任せるよ」
「いやいやちょっと指示くださいよ」
「勇者の血筋の子に対して、普通の扱いをするわけにもいかないでしょう」
執務室の空気は冷たく、窓の外に見える街並みは焦土の名残を残していた。どの言葉にも重みがある。
「君から聞いた話であれば、彼は自分が何者かわからないんだろ?変に扱いを他の子と変えれば勘繰るだろう」
「子供は時に私たちよりも一つ一つの行動や言動に対して鋭い。気をつけて接するのが大切だろう」
ライオスが静かに答える。
「それに加えて、民は国に魔物が攻めてきたことを国の所為にしていたのはいい。だが、その矛先が勇者へと向いてきている」
ガルデリア侵攻により、国民の心は不安定となった。国民は自身の精神を保つため、誰かを批判することで心の安定化を図っていた。
「勇者に子がいたこと自体、民は知らないんだ。その状態で1人の子だけ扱いを変えれば、どこかから情報が漏れ出る」
「そして、矛先が勇者の子へと向かうわけですか」
「ああ、今現在この国は非常に不安定だからな。周りと同じ扱いをする。それを第一にしてくれ」
ライオスの声は低く、重い。
「わかりました」
会議の外、少年は病室の小窓から外を見ていた。
瓦礫の山と折れた旗が風に揺れる様が目に入り、胸の奥が締めつけられる。――自分の居場所はどこか、答えの見えない不安が胸を満たした。