朝の光が、淡い緑のカーテン越しにやわらかく部屋に差し込んでいた。
ノアは、勉強机の上でちょこんと腰を下ろし、外の景色をじっと見つめていた。
「……すごい……あれ、なに?」
彼の視線の先には、青空をゆっくり横切っていく白い飛行機。
ごぉぉぉ……と、小さく音も聞こえてくる。
その下では、自転車に乗ったおじさん、買い物袋を下げたおばさんが行き交っている。
「いろんな人が……いっぱい……」
ノアは、ガラス越しに額をぺたりとつけると、今度は庭を歩く一匹の猫に目を留めた。
「わぁ……かわいい……!」
猫が木の下で伸びをすると、そのままふにゃ〜っと座り込む。
すると今度は、通りの向こうからトコトコと歩いてくる小型犬が、しっぽをふって近所のおじさんにじゃれついた。
「へえ〜……いろんなのが動いてるんだね」
ノアは、まるで世界のすべてが宝石みたいに見えるような顔をして、目を輝かせていた。
——そのとき、玄関のほうから声が響いた。
「おーーーい、のび太ーーー!!」
「やっほー!」
「おはよう、のび太さん!」
ドタバタとにぎやかな足音とともに、玄関のチャイムも鳴る。
「わっ、みんな来たみたいだよ!」
のび太はバタバタと部屋を飛び出していく。
「きっとジャイアンたちだね。ぼくも行ってみるよ」
ドラえもんもあとを追った。
バタバタバタ……と階段を下りていく音が響き、部屋の中は一瞬だけ静かになった。
——数分後。
「じゃ、2階あがるかー!」
「ノアくんにも会ってみたかったしね!」
「うん、びっくりさせないようにしなきゃ……」
3人が階段を上る声と共に、のび太とドラえもんもいっしょに部屋へ戻ってきた。
「ただいまー、ノア〜! みんな来てくれたよ!」
ガタッと扉を開けて、のび太たちが部屋に入る。
だが——
「……あれ?」
「え? ……いない?」
布団は畳まれたまま、窓も少し開いている。でも、ノアの姿はどこにもなかった。
「ノア……?」
のび太がきょろきょろと辺りを見回す。
そのとき、しずかが窓のそばに駆け寄った。
「……あっ!」
彼女の目が、大きく見開かれる。
「ノアくん、外にいるっ!! あっちの通りを走って……!」
「ええっ!? ま、まさか……勝手に出てっちゃったの!?」
のび太が青ざめて声を上げる。
「これはマズいんじゃねーか!?」
「えぇ〜? 本気で追いかけるのぉ?」
ジャイアンが一番に飛び出し、スネ夫もしぶしぶ後を追う。
「お〜い待ってってば〜〜!」
のび太も慌てて廊下を駆け抜ける。
「ドラえもん、道具! なんか道具出して!」
「うわっ、うん、ちょっと待ってぇ!」
5人は家を飛び出し、ノアの姿を求めて町へと走っていった。
「えーい、『たずね人ステッキ』、ノアの場所を教えて!」
ドラえもんがステッキを立てると、パタンと倒れて、細い路地の方向を指し示した。
「ほら、こっちこっち!」
「ほんとに当てになるの? それ、的中率70パーセントだったよね?」
「きみ、70パーセントがどれだけ高いか分かってないな? テストなら優秀な方だよ?」
のび太が半信半疑で、今度は自分でステッキを立ててみる。倒れた先は——反対方向。
「ほら見て! やっぱりさっきのはウソ方向だったんじゃ……」
「いやいや、ちょっと風が吹いただけだよ、風!」
ドラえもんがしれっと言い訳する中、ステッキの先から数十メートル先に、ふわふわと動く小さな影が。
「あっ! ノアだ!」
のび太の声に、ドラえもんも身を乗り出す。
ノアはスズメを追いかけて、公園の方へぴょんぴょんと走っている。
クリーム色のシャツと水色のパンツが、風にはためいてちらちらと揺れていた。まるで風に誘われて踊っているようだった。
「ちょっと待って、車道の方行ってない!?」
のび太の声が裏返る。
ノアはまるで散歩でもしているかのように、ふらりと縁石の前で立ち止まると——
ぴょん、と軽く足を出して、縁石をまたいだ。
その先は、交通量の多い車道。
「ノアーっ、あぶないっ!!」
のび太が叫んだ、その刹那——
キィィィィィィィィ……ッ!
「ダメよ、坊やっ!!」
通りすがりのおばちゃんが、ほとんど反射的にノアの肩を後ろに引いた。
直後、ノアの目の前を
ブゥン!!
という爆音とともに車がすれすれで通過。
クラクションが耳をつんざいた。
のび太とドラえもんは、数十メートル先で固まっていた。
思わず足がすくみ、声も出ない。
「は〜〜〜……心臓止まるかと思った……」
ドラえもんが汗をぬぐいながら、目を丸くする。
ほっとしたのも束の間、ノアはまたチョウチョを見つけたらしく、公園の奥の茂みにふらふら入っていってしまう。
「ま、待ってノアーっ!」
のび太たちが駆け出すが、横から曲がってきたトラックに遮られ、一瞬視界を失う。
「ノアー! 返事して〜っ!」
「ノアくん、どこに行っちゃったの……?」
しずかは、息を弾ませながら人混みの中を見回していた。日曜の商店街は、家族連れや買い物客でごった返している。
そのときだった。向こうのショーウィンドウの前、ガラスにぺたりと顔を近づけている小さな後ろ姿。
「……いた!」
ノアは宝石店の前でじーっと立ち尽くしていた。ガラスの向こうには、キラキラと光を反射するネックレスやイヤリングが並んでいる。
「これ、なんだろ……」
ノアは呟くように言いながら、ガラス越しに指をちょんちょんとつついた。
すると、横を通りすぎた子どもが、うれしそうにアイスキャンディーを舐めていた。ノアは目をぱちくりとさせ、そちらへふらりと歩き出す。
「まって……ノアくん……!」
しずかが手を伸ばしかけた瞬間——
ノアはそのまま子どもを追うように、混雑する通りの中へ。
ベビーカーを押すお母さん、ショッピングカートを引くおじさん、荷物をかかえた人たち……何度も人とぶつかりそうになりながら、ひらひらとかわして進んでいく。
「あっ、危ないっ!」
ノアの足先を、カートの車輪がギリギリでよけていった。しずかの心臓がきゅっと縮む。
ノアはそれにも気づかず、角の八百屋の前で立ち止まった、アイスの子どもを見つめている。
しずかが駆け寄る。
「ノアくんっ!!」
声を張り上げた——その瞬間。
店先の呼び込みの声や、商店街のざわめきにかき消されて、ノアはまったく気づかず、するりと曲がり角の裏路地へと消えていった。
「……ううっ、もう少しだったのに……!」
しずかはその場にしゃがみこみそうになりながら、懸命に息を整えた。
「見ろよスネ夫、あれノアじゃねーか!?」
ジャイアンが指差した先、川沿いの歩道の先——
そこに、ひとりの少年がしゃがみこんでいた。
「ほんとだ……なにしてんだ、あいつ……」
スネ夫が双眼鏡を構える。
ノアは、川辺のベンチに寝そべっていた猫を見つけていた。
「ねこ……!」
そろりそろりと、猫に近づく。猫はちらりとノアを見たあと、ひょいとベンチから飛び降り、スタスタと斜面のほうへ歩き出した。
「まって……」
ノアはそのまま、猫のしっぽを追って川岸の斜面を降りはじめた。
足元の草は朝露でしめっていて、ずるり。
「うわあっ……!」
すべった、と思いきや——ノアはおしりから滑りおり、そのまま芝の坂道をスライダーのように滑走。
「きゃはははっ!」
草の上をすべっていくノアの声が、川沿いに響いた。
「おいおいおい、川に落ちるってば!!」
スネ夫が双眼鏡の奥で絶叫する。
ノアは、そのまま笑いながら斜面を加速する。
草のすべり台は予想以上に傾斜があり、スピードはどんどん上がっていく。
「止まんない!? うそ、うそ、止まってよ〜〜〜!!」
スネ夫が頭をかかえる。
もうすぐそこに、水面がちらちらと光る川。
ノアの手が、泥の地面に触れたその瞬間——
ズルッ!
小さな体が、さらにぬかるみにすべりこむ——!
……と、ぎりぎりのところで、ノアは前のめりに手をつき、ようやく止まった。
「うわっ……なにこれ……」
ノアはびしょびしょの土に手を突っ込み、ぽかんと目を丸くしていた。
「ちょっと待ってろ! 今助けに——」
ジャイアンが地響きを立てて走り出した、その瞬間。
ノアは立ち上がると、ぬかるみの感触を靴で確かめるようにぐにゅぐにゅ踏んで、
また猫を追って川沿いの小道を歩き去っていった。
「あっ! おい待てってば!」
ジャイアンの声もどこ吹く風。ノアはふらふら、違う世界にいるみたいに進んでいく。
スネ夫は双眼鏡を下ろして、ため息。
「……まるで忍者かよ、アイツ……」
「しましまの棒……」
ノアは細い指で、黄色と黒のしましま模様のバーをそっとなぞった。
その向こうでは、クレーンがのしのしと動いている。大きなトラック、積み上がった鉄骨、そしてどこかで鳴る警告音。
ノアの目は、まるでおもしろそうな遊び場を見つけた子どものように、きらきらと輝いていた。
「なんだろ……中、たのしそう」
まるで遊び場を見つけた子犬のように、ノアはふらりとバーの下をくぐり抜けた。
足元に小石が転がり、砂ぼこりが舞う。目の前には、広々とした工事現場が広がっている。
クレーンが大きな鉄骨をゆっくりと吊り上げているのを見て、ノアはふらふらとその下へと近づいていく。
「なんか……飛んでる……?」
無垢な瞳が、空高く吊られた鉄骨を見上げた、その瞬間——
クレーンのワイヤがピンッと鳴った。
風にあおられて、つり下がった鉄骨がぐらぐらと揺れる。
一瞬、動きが止まったかと思うと——
バキィィン!!
鋼鉄のワイヤーが突然はじけ飛び、鉄骨が宙を切って落下し始めた——!
「わぁっ!」
ノアは反射的にしゃがみこんだが、その上空、鉄の束がまるで雨のように迫ってくる。
その時、赤い影がすっと滑り込む。
「オレの出番ってわけだな……!」
真紅のフード付きマントをまとった人物が、突風のように舞い降りた。
手にした一枚の薄布を、ふわりと宙にかざすと——
「スッ……!」
布が風を裂くようにしなり、空から落ちてきた鉄骨を次々とはね返していく。
触れた鉄が、まるで風に押されたように軌道を逸らされ、地面に転がった。
その動きは、まるで風と踊るような不思議な舞だった。
しかし——
「……あっ」
最後の一本が、ノアのすぐ頭上めがけて真っ直ぐに迫っていた。
その瞬間、別の赤い影が飛び込んだ!
「ボールはアミーゴ(友達)!!」
弾丸のように飛んだサッカーボールが、ゴォン!と音を立てて鉄骨を打ち抜くように逸らす。
鉄の塊は地面にめり込み、火花を散らした。
ノアはその場にへたり込んだ。ひざが震えて立てない。土煙の中で、ただぼうぜんと空を見上げる。
やがて、マントの二人がノアのもとに歩み寄る。
ひとりは腰に手を当てて、やれやれと首を振った。
「まったく、こんなところで遊んでちゃ危ないぜ!」
もうひとりは、にこりと微笑んでノアの前にボールを差し出す。
「キミ、だいじょうぶ?」
「……う、うん」
ノアは恐る恐るそのボールを受け取った。少し温かい気がした。
抱きしめると、胸の奥にふっと灯りがともるような感覚が広がった。
「ありがとう……」
ノアが小さく呟くと、赤いマントの二人は顔を見合わせ、片方がウィンクを送った。
「また会おうね!」
それだけを残して、二人は鉄柵の外へと消えていった。
風にひらめく真紅のマント。名も告げず、姿も見せず——
けれどその背中は、どこか懐かしい『誰か』を思わせるものだった。
ノアはサッカーボールを胸に抱いたまま、小さく呟いた。
「……なんか、すごかった……」
彼の肩はまだ震えていたが、ボールを抱きしめたまま、ほんの少しだけ呼吸が静まっていくのがわかった。
ノアがまだ肩を震わせたまま、サッカーボールをぎゅっと胸に抱いていたその時だった。
「ノアーっ!!」
遠くから、砂ぼこりを上げて走ってくる声が聞こえた。
のび太、ドラえもん、しずか、スネ夫、ジャイアン——みんなの声だ!
ノアは顔を上げ、ボールを抱きしめたまま、ふらりと工事現場の外へと歩き出す。
柵をくぐり抜けたその先で、みんなが一斉に駆け寄ってきた。
「無事だったんだね……!」
のび太が息を詰まらせたまま、ノアに手を伸ばす。
ノアは少し間をおいて、ふっと笑った。そして胸のサッカーボールを見せるように差し出した。
「やさしい人たちが、たすけてくれたんだよ」
その声は、まだ少し震えていたけれど、瞳の奥にはちゃんとした光が宿っていた。
けれど——
「ノアーーーーッ!!!」
突然、雷のような怒声が飛んだ。見ると、ドラえもんが顔を真っ赤にして立っていた。鼻息は荒く、目はつり上がり、まるで鬼のような形相。
「なに考えてるんだ!! こんな危ない場所に勝手に入って! しかも一人で! みんながどれだけ心配したと思ってるんだよ!!」
ノアはビクリと肩を震わせ、まるで落雷のような怒りに押しつぶされそうになる。そして、反射的にのび太の後ろに隠れた。
「……ご、ごめんなさい……」
小さな声が、のび太の背中越しにこぼれる。
「ちょ、ちょっとドラえもん、こわすぎだよ! ノア、ほんとに反省してるんだからさ……」
のび太はあわてて手を広げ、ドラえもんの前に立ちふさがった。
「そ、そうよ。ノアくん、ほんとに怖かったんだから……」
しずかも心配そうに言葉を添える。
ドラえもんは、ぎゅっと歯を食いしばりながら、ノアの顔をちらりと見た。
そして、大きく息を吸って——
「……もう、絶対、ひとりで行動しちゃダメだからね」
と、今度は小さな声で言い直した。
ノアはそっとのび太の袖をつかみながら、かすかにうなずいた。
そして、誰もいないはずの空の彼方を、もう一度だけ、サッカーボールを抱えたまま見上げた。