Sin and Punishment:Furyfire   作:アイダカズキ

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プロローグ 地獄のように黒い炎

 ──暗闇の中に、暗闇より黒い炎が燃えている。

 

 目を開けると闇しかなかった。おかしいな、なんで何も見えないんだ──首を回そうとして彼は初めて、自分の身体が横倒しになっていることに気づいた。

 全身が不愉快な汗に塗れている。空気はむっとするほど蒸し暑く、草いきれで窒息しそうになる。まるでミキサーの中に放り込まれたように全身が痛い。それでも身体を起こそうとして、また違和感を覚えた。視線を下ろしてみて後悔した──彼の右足は、太腿の半ばあたりから跡形もなく消失していた。

 傷口が収縮しているのか出血量はさほどでもなかったが、自分の身体のあるべきものがなくなっている、と考えただけで吐きそうになった。

 いっそまた意識をなくしたくなったが、そうはしたくなかった。気絶している場合ではない……なぜかその思いが彼を動かした。

 起き上がることができず、彼は両手と残された左足だけで草地の上を這い進んだ。進むにつれて彼の重みで茎が折れ、青臭い夏草の臭いが充満するが、鼻を摘むことさえできない。刃のように鋭い草のせいで、彼の顔と両腕はたちまち傷だらけになった。

 芋虫のように遅々として進まない動きだった。平素なら数分も要さずに鼻歌混じりで越えられそうな丘陵が、今ではどんな高山よりも高く険しく見えた。

 が、それでも彼は進み続けた。最悪の情景を想像しながら。

 どれほど時間が経ったのか──草地の上を這い続け、ようやく丘陵の向こうに顔を出した彼は、彼の予想していた──そして見たくなかった、最悪の情景を目の当たりにすることになった。

 マドリードが燃えていた。三百万市民を有する、スペイン首都にして最大の都市が。

 王宮。王立劇場。プラド美術館。国立考古学博物館。そして見渡す限りの、全ての建物。高層ビルも、ささやかな個人邸宅も、時の流れに取り残されたようなアパートも、一切の区別なく。

 今まで絵葉書やニュースの中でしか見ないと思っていた──そして実際に見た時は、ニヒルを気取る彼ですら驚嘆の溜め息を漏らさざるを得なかった街並み。その全てを包み込んで天にまで届く炎が、意地の悪い勝鬨を上げて燃え盛っていた。

 ()()()()()()()()()が。暗闇よりもなお黒い、輝く暗黒が。

 もちろん自然界の炎ではない。炎に見えるのは極小機械群(ナノマシン)の集合体── 群体(スウォーム)だ。

 黒い炎を貫き、一機のヘリコプターが上空へ逃れようとした。軍のものではない。おそらくは生存者を乗せて決死の脱出を図った民間のヘリか。だが、黒い炎は生き物のように蠢き、瞬く間にヘリを舐め上げた。まるで強酸でも浴びたかのようにヘリの機体が一瞬で消失し、人も金属も全てがばらばらになり落下していった。

 呻き声を聞いた──それが彼自身の喉から発せられたものと気づくまで時間がかかった。

 これほど膨大な、都市一つを覆い尽くせるほどのスウォームを自在に制御できる者を、彼は一人しか知らない。

「……来てしまったのね。相良龍一」

 場違いなほど静かな声は間近で響いた。

 目の前に()()が立っていた。地獄のように黒い炎を背景にして。

 その栗色の髪にも、彼女の性格そのもののような簡素な黒い吊りスカートにも、火の粉がまとわりついて燻っていたが、彼女は気づきもしなければ気づくつもりもなさそうだった。

「あのまま横になっていればよかったのに。それとも、慈悲の一撃(クードグラス)が欲しくてここまで来たの?」

 彼女の静かな口調には、狂気も、激昂も、欠片ほども感じられなかった。

「どうして」

 彼──龍一は叫んだ。叫ばずにいられなかった。「どうしてこんなことをした! あれは、あの街は、君の住む街だろう! 君が愛していると言った、守ると言った街だろう! カルメン!」

 誰かの言葉が脳裏をよぎる──彼女はこの都市(マドリード)そのものなんですよ。険のない、穏やかで、奥にどことなく暗さを秘めた美しさ。優雅だけどどこかスノッブで、チャーミングだけど何だか癪に触る。僕も含めて多くの人が彼女に一目惚れするけれど、結局はただ憧れるか、遠巻きにして羨むことしかできない。そう思いませんか?

「『どうして』という言葉がどうして出てくるの? それともまさか〈悪竜〉であるあなたがわからないとでも言うの? わからないふりをしているだけでなくて?」

 彼女の片頬を、一雫の涙が滑り落ちた。それを見て龍一は、今度こそ本当に絶句した。

 それが彼の儚い最後の希望を粉々に打ち砕いた。狂気でもなければ操られているわけでもない。正気のままに大量殺戮を行う者を、どのように止めればいいというのだろう?

「結局、誰もが自惚れていたのね。軍も、警察も、あなたも、そして私も。〈竜〉は制御できると──でもそれは、麻薬中毒患者の『自分だけは麻薬と上手く付き合える』という根拠のない思い込みと大差ない。()()()()()()()()。何も不思議なことはないでしょう。違う?」

 彼女は笑いながら泣いていた。泣きながら笑っていた。

「誰もが最後には〈竜〉に敗れるの。私も、そしてあなたも。誰一人例外なく」




新シリーズ開始です。
今回もまた、皆さんの度肝を抜く展開を用意しております。お楽しみに!
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