Sin and Punishment:Furyfire 作:アイダカズキ
【スペイン、マドリード=バラハス空港、新ターミナル】
「……着いたな」
空港の新ターミナルと新サテライトターミナルを繋ぐ
いつもなら口にしないような間抜けな一言ではあるが、今は言わずにいられなかった。何しろ半日近く旅客機のシートから立ち上がれなかったのである。正直、尻が痛い。
予想通り、ブリギッテの反応は厳しかった。色の濃いサングラスの奥から、綺麗なラベンダー色の瞳でじろりと見据えられたのである。しかも心底呆れた、と言わんばかりの溜め息のおまけ付きだ。
「何を早くもやり切ったようなことを言っているの? 私たちの
「それは……そうなんだが」
ブリギッテはなおも数秒間、龍一がいたたまれなくなるほどじっと彼の顔を見つめていたが、結局何も言わずに視線を外した。いじめるのはこの辺にしておいてやるか、と言わんばかりの所作だ。
どうもいつになく歯切れが悪いな、という自覚がある。歯切れが悪いのは、つまり、龍一自身に疾しさがあるからだ。
空港は旅行客とビジネス客とで溢れかえっており、空調の効き具合とは無関係に人いきれで汗が吹き出てきた。龍一は辛子色の開襟シャツに白のズボン、ブリギッテは白のノースリーブシャツに紺のスラックスという避暑目的の旅行客スタイルだった。上着でも着ていたらもっとひどいことになっていたに違いない(旅客機に乗るのを考えなければ、上下をジャージで済ませたかったくらいだ)。
スペインへの入国審査は拍子抜けするほど上手く行った。いつも通りアレクセイの特殊メイクと〈白狼〉の用意した偽造身分はいつも通りの効力を発揮し、内心でどぎまぎしていた龍一に反して入国管理官は事務的にパスポートを返してきただけだった。
「……龍一。あなた
だしぬけにブリギッテから問われ、龍一はぎくりとした。
「いや、そんなことは……」
またも綺麗なラベンダー色の瞳が見つめてくる。
「……あるよ」
やっぱりね、と彼女はまたも溜め息を吐いたが、今回は自分をも宥めているように聞こえなくもなかった。
「いいこと? 気持ちはわからなくもないわ。でもあなたが動揺したら、ミルカやイナンナはもっと動揺するのよ。あなたの悩みは確かにあなた自身のものだけど、あなただけのものではないの。それがわかっているの?」
「もちろん……わかってはいるさ」
だがそう言った龍一自身、何をどこまでわかっているのかは怪しいものだった。
「ならいいわ」と彼女は言うと、もう話は終わりとばかりに一人で歩き出した。「早くムーバーに乗りましょう。私たちは
「……ごめん」
自分でも情けないほど掠れた呟きに、しかしブリギッテは即座に反応した。わざわざ大股で戻ってきて、頭二つ分はある身長差を物ともせずに龍一を見上げる。
「どうして謝るの?」
「どうしてって、そもそもこれは俺の
「待って」
唇に人差し指を当てられた。周囲の視線などおかまいなしにである。
「私がここに来たのは、そうすると私自身が決めたからよ。謝ったら、本当に怒りますからね」
サングラスの奥の綺麗なラベンダー色の瞳で睨まれるのは、今日で三度目だ。
「なんか最近の俺、怒られてばっかりだな……」
「それで傷つくくらいなら、もう少し腹を括ったら?」
一しきり心情を吐露したからか、ブリギッテの口調がだいぶ柔らかくなった。「それに、私もそのナツキという人に興味が出てきたもの」
「どういう意味?」
四度睨まれた。「言ったままの意味よ。さあ歩いて! 人探しなんだから暗くなる前に手をつけるのよ!」
「へいへい……」
本当に怒られてばっかりだ。
周囲を見回したら、集まってくる視線はむしろ好ましいものだった。見知らぬ人にまで笑顔でサムズアップされている。勘弁してくれ。
そしてピープルムーバーを降り、マドリードの市街が目に入ってくると、ブリギッテの仏頂面もそこまでだった。ただでさえ魅力的な瞳がサングラス越しにでもわかるほど輝き始め、綺麗に結った蜂蜜色の髪までもが光沢を増したようにさえ見えた。すれ違うスペインの男たちが夏服の上から伺える、彼女の形のいい二の腕や、すんなりとした胴や、すらりと伸びた足に無遠慮な視線を投げかけたが、彼女は気づかなければ気づくつもりもないようだった。
これが本当に観光なら、龍一も楽しまないではないのだが。
スペイン行きが決まった瞬間のブリギッテの嬉しそうな顔といったらなかったな、と龍一は思い出す。そしてその直後の、単なる観光旅行ではないのを自分に言い聞かせるような複雑な表情。
何しろ彼女も17歳の少女である。スペインに行けると聞いて小躍りしない方が難しいだろう。俺も18ではあるんだが。
つまり、俺は本当にスペインに来ているわけだ。一生縁がないと思っていた灼熱の異国に。
龍一はまたも溜め息を吐きたくなるのをどうにか堪え、そしてどうしてこんなことになったのかとしみじみ思った。
【数日前──空中移動プラットフォーム〈カルネアデス〉作戦会議室】
──画面に映っているのは、麦藁帽子を被った少女だった。
やや斜め上からのアングルからして、監視カメラからの映像らしい。画面端のタイムスタンプさえなければ、思春期の少女の一瞬を切り取ったポートレートにさえ見えたかも知れない。
焼けた路面から立ち昇る陽炎が、画面を見る者にまで熱気を伝えてきていた。あまりの暑さに、街路樹も、ベランダの鉢植えさえ萎んで見える。
音もなくじりじりと焦げた空気の中、彼女の周囲だけが切り取られたように涼しげで、静謐だった。喪服を連想させる黒いワンピースの裾が、熱気に煽られて微かに揺れている。
不意に、少女が麦藁帽子の庇を上げて、こちらを見た。波打つ赤みがかった髪と、大きなアーモンド型の瞳が、見る者全ての目に焼きつくような印象を与えた。私はここにいる、と言わんばかりに。
映像はそこで静止し、室内が明るくなる。
まず感慨深げに呟いたのはシュウだった。「何つうか……目つきからして只者じゃねえな。いい面構えしてやがる」
が、それに口を尖らせたのはミルカだった。「シュウくん、女の子に向かって『ツラ』なんて言い方はないでしょ! せめて顔って言いなさいよ」
「褒めたんだけどな……」
次にアイネイアが重々しく頷く。「只者でない、は確かだな。将の顔だ」
イナンナまでもが感慨深げな面持ちで頷いている。「この方が龍一さんの、以前の
「綺麗な人ね」
ブリギッテが静かに口を開く──大きくも甲高くもないが、どこか底冷えのする声だった。ミルカもシュウも、何となく首をすくめたそうな顔をしている。
「で、まあ……要するに、このチャンネーが龍一の元カノなんだな?」
「だから元カノじゃないって言ってるだろ!」
「だったらどういう関係?」
ブリギッテに今度こそ正面から問われ、龍一は言葉に詰まった。一番手強い相手から一番問われたくない質問をされている感がある。
「どういう関係って……
「partnerには『配偶者』という意味もあるのよ。それとももしかして、意味も知らずに彼女をそう呼ばわっていたの? 言葉の使い方が軽くはない?」
自分でも苦しい言い訳は、ブリギッテの容赦ない詰めを誘発しただけだった。どう考えても龍一の分が悪い。
はん、とブリギッテは掌を見せてポーズを取った。「第一、あなたがこの人とどんな関係だろうと……いいえ、そもそも過去にどこのどなた様と付き合おうと、私が気にするとでも思っているの? 私はあなたの奥さんでもお母さんでもなければ、こ」
そこまで言って急に彼女は言葉を詰まらせた。どうしたのか、と室内の一堂が見守る中、「…………………………………………………………………………………………………………………………………………恋人でもないんだから」
「うわあ……またブリギッテさんがしっとりしてる……」
「どうにかしろよ、大将」
「俺のせいかよ!? ……いや、俺のせいだな」
「それは認めちゃうんですね……」
実際、彼女に「あなたのせいでしょう」と言われたら「そうです」と答えるしかないのが今の龍一の立場ではある。
しかし本当に──何でこんなことになったんだろう?
龍一と画面の中の彼女──瀬川夏姫が一時期上手く行っていたのは、お互いがお互いの関係をはっきりと定義しなかったからではある。恋人と呼ぶにはドライすぎるが、単なる仕事仲間としては親密すぎる関係。自分たちを結びつけていた共通項は犯罪だったのだが、それだけで割り切るにはお互いを知りすぎていたのも確かだ。
しかしそれが、こんな形で
「こんな
「やむを得まい。いかなる勇者であろうと、弱みの一つや二つはあるものだ」とアイネイア。
「ある意味レアな光景だよな」とシュウ。
「君たち。いい加減にしないと、そろそろこの肘置きのクッションぶつけるからな?」
龍一がクッションを投げるふりをすると、ミルカとシュウは慌ててアイネイアの背後に隠れた。お子様たちめ。
「そろそろ話を本筋に戻そうか? 龍一と彼女の間に何があろうと、ここはそれを糾弾する場じゃない」
一番最後に口を開いたのはアレクセイだった。公開処刑じみてきた光景にうんざりしたか──あるいは単に、こいつらに任せっぱなしだと話がいつまで経っても進まないと踏んだのかも知れない。
しかしよく考えれば、彼はかつて、龍一と夏姫、それに高塔百合子の殺害を依頼された暗殺者だった。ここにいる者たちの中では彼と彼女の関係を最もよく知る一人でもある。だからこその気遣いなのかも知れないが──その気遣いがかえっていたたまれない。
「皆、思い出してほしい。僕たちが今、考えるべきは──なぜこの映像が、あの〈へファイストス〉の機密データバンク内に保存されていたのか、というその一点だ」
その言葉に、室内の空気が一気に引き締まった。〈王国〉の兵器商船にして新兵器開発研究所〈へファイストス〉での死闘から、まだ日は浅い。誰もが思い出にするには
生々しすぎる記憶だ。
「〈白狼〉。この映像自体が何らかの偽造という可能性はないのか?」
『あくまで今のところだが、何らかの改竄やトリックの類は発見できていない』アレクセイの問いに、スピーカーから〈白狼〉の電子合成音が答える。『考えられるとしたら酷似した別人だが、映像の中の彼女と、龍一から聞かされた瀬川夏姫本人の身体的特徴は99.9%まで一致した。替え玉の可能性は極めて低いだろう』
「ほぼ本人、と考えた方がよさそうね」
それにしても、と龍一は思う。あの時〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスは「夏姫がどこにいるかは知らない」と言いはしたが、蓋を開けてみればしっかりと手がかりは掴んでいたわけだ。もちろんヨハネスが知っていたからといって、敵対している龍一に教える義理はないわけだが、してやられたという思いは否めない。狸じじいめ。
「でも……その夏姫さんという人は、ヨハネスと決別したんでしょう?」ミルカが躊躇いがちに口を開く。「ヨハネスと戦っている私たちのこと、知らないのかな?」
「知らないということはないと思う。彼女が単身、ヨハネスと戦う覚悟を決めているのならなおさら」
「我らの活動、いや、活躍もかなりのものであるからな」アイネイアが重々しく頷く。「北米で戦い、新香港で戦い、〈へファイストス〉を戦いの末に沈めた。数多の英雄譚にすら劣らぬ戦いぶりよ」
「あまり自慢することでもない気がするが……」
夏姫が一向に〈カルネアデス〉や龍一たちにコンタクトを取ってこない理由──実のところ、彼には心当たりがある。ただし、愉快な考えではない。
「たぶん、あいつは……俺を信用していないんだ」
龍一の口調に、場の空気がやや重くなる。──思い当たる理由はいくつもある。世界中を逃げ回るのに必死で、ヨハネスに囚われている夏姫の身柄を考えもしなかった龍一への失望。今までの自分や百合子、〈月の裏側〉の必死の戦いが結局は〈王国〉の強化にしか繋がらなかった失望。そして自分たちのもたらした世界が、夥しい死と暴力を生み出してしまった絶望……。
それに、今の龍一たちは単なる突出した個人戦力の集合体に過ぎない。一人一人の戦闘能力は相当なものだが(最年少のミルカでさえ、すんでのところで新香港を燃やし尽くすところだったのだ)〈王国〉のマンパワーに比べれば取るに足らないものでしかない。それと合流することは、〈月の裏側〉の失敗を繰り返すだけでしかない──龍一が到達した結論に、彼女もまたそう判断したのではないのか。
『彼女が現れた地点は複数ある。まず一つ目が、マドリードの繁華街。つまり今見てもらったここだ。次が……』
画面が切り替わる。大学生らしき大勢の若い男女と、白壁に囲まれたキャンパス。どこかの大学らしい。
『これも特定は簡単だった。バルセロナのカタルーニャ工科大学』
さらに画面が切り替わる。『そして最後がスペイン最大の遊園地、ポルト・アベントゥーラ・ワールドだ』
「意外に普通の場所だな……?」
「龍一さん、たぶん夏姫さんは、単に観光でここに来たんじゃないと思うんです」
頷くしかない。「俺もそう思う。彼女は何かの意図があってここに現れたんだ」
『確かに彼女が今どこにいるか、は重要ではある。だが私たちには、また別に考えるべき事案もあるのだ、龍一』
〈白狼〉の電子合成音でさえどこか気遣うような調子なのがおかしいし、辛い。
『〈へファイストス〉のデータバンクから可能な限りサルベージした文書の中に、繰り返し使われている〈
〈……以上、〈バビロン〉の出没は複数箇所で確認されており、その目的が〈茨の冠〉の妨害にあることは明確と思われる。支部としては最大限の警戒を要すると同時に〈王国〉首脳部への増援を含む対策をご検討いただきたく……〉
「この〈バビロン〉というのは、夏姫さんのコードネームですか?」
「おそらく。〈
性差別的ね、とブリギッテが顔をしかめる。
「プレスビュテル・ヨハネスの二つ名といい〈四騎士〉といい、〈犯罪者たちの王〉は自分では敬虔なキリスト教徒のつもりのようね」
「だろうな」
何しろ俺との戦いを、善と悪の
「それにしても首脳部への要請を嘆願するための文書なんて、〈王国〉も犯罪結社にしては官僚的だな」
『犯罪結社だからだろう。世界的なシンジケートを作り上げた結果、究極の官僚制度にならざるを得なかったと考えた方が自然だ。国家が巨大なマフィアであるのと同様だ』
「〈白狼〉。この〈茨の冠〉とかいうプロジェクトを、過去に目にしたことはあるか? あるいはこれも、俺たちのような不穏分子を誘い出すための欺瞞情報である可能性は?」
『過去に見たことも、聞いたこともない。欺瞞情報の可能性は否定できない──だがそれ以上に私が気にかかるのは〈王国〉やその下部組織のどの情報網の中でもこの〈茨の冠〉なる計画名を見つけることができなかった点だ。つまり、これは〈王国〉の極々一部……それこそヨハネスを含めても数名しかその存在を知らないような、超極秘の計画ということになる。あるいは私の知らない未知の通信システムが存在していて、その中でのみやり取りされている計画なのか。いずれにしても、看過できない事態だ』
「それ以外の収穫としては〈白狼〉と共に、〈竜〉の権能を応用した兵器の開発計画を解析することができた。僕らが見つけたのはその一部だけだったけど、凄まじかったよ」やや沈んだ口調でアレクセイ。「擬似的な〈鱗〉を封入して射出する弾丸。〈柱〉と同等の強度を目指して鍛造した、近接戦用の刀剣。〈礫〉と同様、目標の内部に転移して爆発する砲弾やミサイル……どれ一つ取っても、従来の軍事技術とは比較にならない衝撃を
「〈竜〉の権能を応用した、〈竜〉を殺すための兵器……」
否応なしに室内の空気が重くなる。そのような技術が表裏問わず兵器市場に溢れさせるということは〈犯罪者たちの王〉の最終目的──龍一の完全なる抹殺は最終段階に入りつつあると見ていいだろう。
敵の最終計画が完成に近づきつつある段階で、龍一たちはその手がかりを探すところから始めなければならないわけだ。
『これ以上のことは、街頭監視カメラを介した遠隔捜査ではわからない。現地へ飛んで直接調べるしかない。また、この三か所はいずれも場所が離れ過ぎているから、あちこち移動するのは非効率的だ』
「手分けして探る必要があるということね」
『瀬川夏姫の探索と、〈茨の冠〉計画の調査。彼の地に赴くなら、その二つが目的となるだろう。どこに敵が潜んでいるかも不明な、勝手を知らない異国の地だ。これまでとはまるで異なる困難があるだろう』
全員が沈黙した後に〈白狼〉は言葉を続けた。
『それでも行くかい?』
全員が参加を希望したからといって、スペインに皆でどかどかと乗り込むわけにはいかない。〈へファイストス〉とはわけが違うのだ。結局、数人一グループで陸路と空路に分かれて向かうことになった。
第1班──マドリード市街。龍一、ブリギッテ。
第2班──バルセロナ、カタルーニャ工科大学。アレクセイ、イナンナ。
第3班── ポルト・アベントゥーラ・ワールド。ミルカ、シュウ、そしてアイネイア。
「……ミルカ。本当はブリギッテと一緒に行動したいんじゃなかったのか?」
「うーん、ちょっと残念な気持ちもしますけどね。でもシュウくんも王子様も一緒だし……それに、龍一さんはブリギッテさんと
「ありがとう、ミルカ。でも今は、君のその優しさがかえって辛いよ……」
今回は偵察と情報収集が主な目的となる。当然、武器の類は一切持っていけない。ブリギッテの弓もアレクセイの柳刀も自宅待機である(アイネイアに長剣を諦めさせるのが一番骨が折れた──結局、渋々と認めさせたのは龍一やアレクセイの説得ではなくミルカの懇願だった)。
「シュウくんシュウくん! 遊園地にはプールもあるんだって! 私、水着持って行っていいかな!?」
「早くも物見遊山じゃねえか!」
よいではないか、とアイネイアが鷹揚に頷く。「年頃の娘がプールに興味を示すのは詮無きことよ……かく言う余も、今から心が浮き立ってたまらぬ」
「物見遊山を増やすなよ!? ……待てよ。もしかして俺様、こいつら2人の面倒、一人で見るのかよ!?」
なぜか妙に慈悲深い表情でブリギッテがシュウの肩をぽんと叩く。「健闘を祈るわ」
「笑顔で崖から突き落とすな!」
出発前から前途多難だな、と龍一は思った。
【そして現在】
──開始して早々に、龍一たちの調査は壁に突き当たった。
最大の理由は暑さである。
「すっかり忘れていたわ……スペインは灼熱の国だったことを……!」
ハンカチで額を押さえながらブリギッテが呻く。しかも拭いている側から新たな汗が止まらない様子だ。
「日本の湿気た夏とはまた違う暑さだな。ストレートに暑い……!」
額の汗を手で拭きながら龍一もそれに同意する。雲一つない青空から降り注ぐのは、見つめていると目が痛くなってくるような白熱した陽光だ。サングラスがなかったら、もっとひどいことになっていたに違いない。数キロと歩かないうちに、2人は汗まみれになっていた。
「そういや
「早めに到着して正解だったわね。シエスタの時間になったら、ほとんどの商店は閉まってしまうはずよ」
もう昼前だというのに、足元の石畳からは早くも熱気が迸っている。ピレネー越えたらもうアフリカ、というひどい言葉があったはずだが、納得するしかない暑さだ。
「ここがあの映像の位置……のはずだが」
プリントアウトした写真を取り出して確認する。間違いない、この街辻だ。
「あそこのカメラから捉えた映像のようね」
ブリギッテの指摘の通り、街灯の頂点に防犯用の監視カメラが設置されていた。古びた商店街の街並みとはやや不釣り合いな、最近設置されたような最新型のカメラだ。
「問題はここからどこに行ったかだが……ブリギッテ?」
咄嗟に返事がなかった。振り向いた視線の先では──彼女が酩酊したようにふらついていた。
「どうした!?」
「ごめんなさい……私、もう駄目かも……」
慌てて側に寄ると、異様に呼吸が荒い。顔の色は火照りを通り越して、血の気が引いている。これはまずいと直感した。
自分の迂闊さを悔やむしかない。〈竜〉の身体能力は外傷に関するものであって、暑さ寒さまで無効化できるわけでもないのだ。
そもそもブリギッテは寒冷なヨーロッパの出身である。こんな灼熱としか表現しようのない土地の暑さを味わうのは生まれて初めてだろう。亜熱帯の国に生まれた龍一も別に平気なわけではなかったが。
滅多なことでは弱音を吐かない彼女の気丈さも、かえって仇になったのかも知れない。
「待ってろ、すぐ休憩できる場所を探すから……!」
シエスタの時間でなくて本当に幸いだった。見回した先に〈Cafe〉の看板を見つける。
「ここは喫茶店だったのか……?」
雑居ビルの間の隙間のような店舗だ。そのままでは喫茶店と気づかなかったに違いない。
何にせよ砂漠でオアシスを見つけた心境だ。龍一はブリギッテを抱えるようにして、ドアを開けた。
「すみません。連れが気分を悪くしたので、休ませてほしいのですが……」
そう言いながら店内に入った龍一を出迎えたのは、薄闇と静寂だった。
照明はなく、明かり取りの天窓から入る光が唯一の光源だった。新品のように真新しいコーヒーミルと、豆の並ぶ棚。カウンターと、数人入れば満員になりそうな座席。
いつもの癖で、英語だから通じなかったのか──もう一度呼びかけようとした寸前に、
「どうかしましたか?」
夜のように静かな声だった。
少しの足音も立てず、店の奥から若い女性が歩み出てきた。白いブラウスとその上から着けた黒の吊りスカートが、均整の取れた細身によく似合っていた。女性としては背の高い方だ。ブリギッテと比べても大差ないかも知れない。
「あー、えっと……」
旅行者向けハンドブックではこんな時何と言うんだったかな、と記憶を総動員している龍一に、
「全部聞こえていたわ。お連れの人が気分を悪くしたんでしょう? 動転している外国のお客様に、この国の言葉を喋れなんて言わないわ」
イントネーションはやや硬いが、綺麗な英語だった。ありがたい話ではある──何せ龍一のスペイン語は、聞く方の好意と興味にほとんど頼っているのだ。
龍一は何となく、彼女に見とれた──動きやすいよう緩く束ねた栗色の髪に、深緑色の瞳。ヨーロッパの血が混じっているのか、肌の色は随分と白く薄い。派手さや華やかさとは無縁な、小作りで整った顔立ちだったが、それとは別に何か印象に残る娘だった。
何より印象的なのは、その全身に纏う
「……私の顔を穴が開くほど見つめている暇があったら、そちらの
「あ、ああ……ごめん!」
弾かれたように龍一は反応し、椅子を引いて前後不覚のブリギッテをどうにか座らせた。そうしている間に娘は奥へ引っ込み、重そうに氷水を満たしたバケツを両手で持ってきた。
「このところの暑さには、地元の人間まで参るくらいですもの。涼しい土地からやってきた人がやられるのも無理ないわ」
彼女はそう言いながら、ブリギッテの靴と靴下を手際よく脱がせてしまい、両足をバケツ入りの氷水に漬けさせた。
「これを彼女に貼ってやって。手を握って勇気づけるよりは効き目があるわ」
手渡された冷却シートをブリギッテの額や二の腕に貼っている間、今度は娘が赤い液体を満たしたガラス製のボウルを抱えて出てきた。
「それはもしかして
「もしかしなくてもガスパチョよ。……一度に飲もうとしないで。ゆっくりでいいのよ」
娘はスプーンでしばらくガスパチョをブリギッテの唇に流し込み続けた。しばらくして蒼白だったブリギッテの顔に、徐々に血の気が戻ってきた。呼吸もずいぶんと穏やかになってきている。
「ありがとう……セニョリータ。恥ずかしいところを見せたわね」
「カルメンよ。なぜか外国の人に受けが良い名前なのだけど」
本名ともそうとも判断の付かない名乗り方だ、と思っている龍一に、カルメンと名乗った娘は振り向いた。「あなたも何か飲む? 今はあなたの方が倒れそうな顔をしているもの」
言われて初めて、龍一は自分の喉がからからに渇いているのに気づいた。
「それはありがたいけど、君が勝手に作っていいのか? 店長さんに怒られないか?」
ああ、と彼女は龍一が何を誤解しているのか理解したように頷いた。「怒られるも何も、私が店長よ。私一人しかいないから、店長兼ウェイトレスだけど」
「君が!?」
「若すぎてそうは見えないだろうけど」その反応には慣れっこだ、という調子の声。「あまり大声では言えないけど、税金対策も兼ねて遠縁の人から譲り受けたようなものよ。あまり客は来ないだろうけど最低でも掃除してくれればいい、って」
そういう事情があったのか。立地条件も店の雰囲気も悪くないし、もっと流行りそうなものだが。
「それじゃ……アイスコーヒーを」
「かしこまりました。少し待っていて」
娘が奥へ引っ込むのと引き換えのように、ブリギッテが状態を起こした。
「まだ寝ていないと駄目だよ。君は熱中症寸前だったんだぞ」
「……ごめんなさい。あんな啖呵の後で、こんなところを見せるなんて」
彼女なりに思うところはあったらしい。
「謝らないでくれ。俺も配慮が足りなかった」
「スペイン生まれだからと言って、暑さが平気なわけではないわ」
盆を手にしたカルメンが、やはり体重を感じさせない足取りで進み出てきた。「実際、お年寄りの中には文字通り夏を越せない人もいるもの。……ご注文のアイスコーヒー。あなたにはこちらのレモネードの方がいいわね、セニョリータ」
「ありがとう、いただくわ」弱々しく笑ってブリギッテは水滴の浮いたコップを受け取る。「本当に何とお礼を言ったらいいのか」
カルメンは肩をすくめた。何となくだが、あまりスペイン人らしからぬ仕草だ。「あまり重く受け止めないで。東洋の諺にもあるでしょう? 猟師に追われた鳥がどうとかいう……」
「『窮鳥懐に入らば猟師もこれを撃たず』のことか?」
「そう、それ。何にせよ、この土地の暑さをあまり甘く見ない方がいいわ。同じ避暑地でもハワイあたりと一緒くたに考えてやって来た人たちは、例外なくひどい目に遭っているから」
ブリギッテが苦笑した。「身に染みたわ。二度と甘く見ない」
「そうだ、ちょっと君に見てもらいたいものがあるんだが」龍一はふと思いついて写真を撮り出した。「こういう女の子を見たことはないかい?」
正直期待半分ではあったが、カルメンが示した反応は予想外だった。
「この人なら、何日か前に見たわ」
「本当に!?」
龍一どころか、ブリギッテまで身を乗り出す。
「ええ。こんな印象的な人なら見間違えるはずもないわ。……と言っても、言葉を交わしたわけではないの。店を掃除している時に、表の通りからじっとこちらを見ていた。こちらから声をかけようか、迷っているうちに彼女は消えたわ。まるで夢のように」
「そうか……」
カルメンの言葉に嘘は感じられなかった。むしろ龍一が気になったのは、瀬川夏姫が──十中八九、本人に間違いないだろう──がここを訪れた理由である。夏姫は何が目的で、わざわざ現れたのだろう? それも〈王国〉の監視網に引っかかる危険を犯してまで?
いや、逆かも知れない。夏姫は自分がここにいると龍一に伝えるため、わざと隠遁をやめて姿を現したのではないのか? 彼女の性格と頭の回転の早さからして、そちらの方がありそうだ。
「……」
名前こそ呼びはしなかったが、ブリギッテがわずかに龍一の腕に触れた。先ほどまで熱中症寸前でダウンしていた人間とは思えない引き締まった表情。戦闘態勢だ。
龍一も感じ取っていた──この喫茶店を取り囲む、敵意ある気配を。
〈王国〉の襲撃者たちなら、言うまでもなく面倒なことになる。龍一はもちろん、たまたま居合わせた市井の人々にも彼らは容赦しない。この店に直接、自動車爆弾なりロケット砲なりが叩き込まれてもおかしくないのだ。
「ありがとう、カルメン。俺たちはもう行かないと」
当然の反応だが、彼女は目を丸くした。「もう行くの? 行くなとは言わないけど、お連れさんをもう少し休ませてあげてもいいのに。昼食ぐらいはご馳走してあげるわ」
ブリギッテがきっぱりと首を振る。「嬉しいけど、そうも言っていられない事情ができたの。いろいろとありがとう、セニョリータ」
「妙な頼みだけど、玄関からでなく裏口から出させてもらえないか」
納得していなさそうではあったが、カルメンは頷く。「それくらいなら、お安い御用だけど」
店を出る間際、龍一は多めの金を渡そうとしたが、彼女は注文されたアイスコーヒーとレモネードの代金以外、頑として受け取らなかった。
「こんな小さな店だけど、私の職場ではあるの。代金以上のお金は頂けない」
全くその通りだ、と龍一は金を引っ込めるしかなかった。
「お気をつけて。あなたたちの
「何か……印象的な人ではあったわね」路地裏を駆けながら、首を傾げてブリギッテが言う。他に表現が思いつかないような言い方だった。
確かに、と頷くしかない。あのカルメンという娘には何か奇妙なものを感じる──彼女自身からは一切の悪意を感じなかっただけ余計に。
だがそれよりも先んじて考えなければならないものがあった。前方で足音が入り乱れ、複数の男たちが立ち塞がったのである。
サンバイザーを兼ねた
「表の包囲は単なる囮か」
「でしょうね。連携プレイで狙った路地に追い込むなんて大したものだわ」
少なくとも路地裏に生息するチンピラや追い剥ぎにはできない芸当だ。
だがそれ以上に龍一が訝しんだのは、男たちが身にまとう緊張感である。懐に手を入れたまま、手出しもせず龍一たちを睨み据えている──隙を見せた途端に襲ってくる〈王国〉の刺客にしては、ずいぶんとお行儀がよすぎないか?
「相良龍一、それにブリギッテ・キャラダインだな?」
緊迫した空気の中、リーダー格とおぼしき男が押し殺した声を発する。これも奇妙だった。刺客なら狙いを定めた時点で、声もかけずに襲ってくるだろう。
「人違いです。彼はキム・ハッスで、私はアンドレア・クレメンタイン。どちらもマドリード大学への留学生です。あなたたちはこの国の治安機関ですか? でしたらなおさら、こんなふうに取り囲まれる筋合いなんてありません。ビザもパスポートも携帯しています。お見せしましょうか?」
ブリギッテの迫真の抗議(に見せかけた演技)だったが、残念ながら男たちが心を動かされた様子は欠片もなかった。
「……どうだ?」
リーダーの声に、傍らの男が応える。どうやらスペックスに投影されるデータを参照しているらしい。「99.8%の確率で本人一致。間違いありません」
舌打ちしたい気分だった。〈白狼〉の身分偽装は完璧に近いが、龍一たちの極めて詳細な個人情報を手渡された上で照合されれば、その機能は大いに低下する。こいつらが誰であれ、〈王国〉なり日・英両政府なりからデータが流れていれば偽装も意味はないということだ。
「言い訳は後で聞く。……確保しろ!」
リーダーの号令に合わせ、男たちが一斉に得物を取り出す。決して本意ではないが、龍一は覚悟を決める。
何かの射出音が聞こえた、と思う前に龍一は身を沈めていた。頭上数センチ上を何かの射出体が掠めて飛び去る。
(
人体に突き刺さり高圧電流を流して制圧する、非致死性兵器《ノンリーサルウェポン》の中ではありふれたタイプの銃器だ。だが龍一が困惑したのはそれではない。〈犯罪者たちの王〉──自分の命と引き換えにしてでも龍一を葬り去りたい男の刺客が、
「ちっ……!」
初弾を外したと見て舌打ちしながら次弾を装填しようとした電撃銃の男の顔面に、唸りを上げてブリギッテのハンドバックが命中した。ある意味、龍一よりも容赦がない。
電撃銃の男は悲鳴も上げず昏倒したが、今度は左右から別の男たちが襲いかかる。振り上げた警棒に走る青白い
電撃警棒は油断のならない武器ではあるが、欠点もある。高圧電流を流す端子に触れさえしなければ、それは単なる警棒に過ぎないことだ。
そして武器持ちの相手に対して、龍一なら百通りの対処法を心得ている。
警棒を振り下ろす腕を片手で受け止め、踏み込みざまに反対側の肘で相手の肝臓部を一撃。反動を利用して別の男の鳩尾に直蹴りを見舞う。左右から襲いかかった男たちが、ほぼ同時に呼吸すらままならない苦痛で倒れてのたうち回る。
龍一の困惑はますます深くなった。男たちの動きは無駄なく連携の取れた、それなり以上の訓練を受けたものだった。が、それだけだ。通常の兵士や警官の域を出てはいない。身体拡張や、薬物強化を受けているわけでもない、いずれも無改造の生身だ。得物にしても、例えばペルーで龍一やアレクセイと相対した〈
これではむしろ、殺さないように気を遣わなければならない。殴打用のブラックジャックを振り下ろしてきた男に喉輪を食らわせ、呼吸困難に陥った男を掴んで振り回す。男のジャケットの背に、麻酔用ダーツが突き刺さった。一瞬で弛緩した身体を麻酔銃を持つ男にぶち当て、壁に頭を叩きつけて気絶させる。ついでに地面でのたうち回っていた男たちの頭を蹴上げ、苦痛から解放してやった。
ブリギッテはと見ると、襲ってきた男の首を肩越しにハンドバッグの紐で締め上げているところだった。心配する必要もなかったようだ。
活劇は数分もせずに終わった。後には気絶した男たちと……そして、困惑しきった表情の龍一とブリギッテが残された。
「電撃銃に、麻酔弾……〈王国〉の刺客にしちゃ、ずいぶん
「こちらは電撃警棒だわ。何というか……人道的ね。それとも私たちへの扱いを、殺害から生け捕りに変更したのかしら?」
「考えにくいな。第一『さっぱり殺せないから生け捕りにしよう』なんて、どう考えても順番がおかしいだろう」
「それもそうね……」
そもそもヨハネスにとって、相良龍一と〈悪竜〉の抹殺は己の全存在を賭けた、神からの
プロなら即座に身元の割れるようなものは持ち歩くまい──あまり期待はしていなかったが、ほぼ習慣のように2人は手分けして男たちの身体検査を始める。
「……待って。これは身分証みたい。探してみるものね」
一瞬遅れて、ブリギッテの息を呑む気配が伝わってきた。
「龍一、これ、どういうことかしら……」
龍一も咄嗟に言葉を返せなかった。彼女が手にした身分証、それには確かに目の前で気絶している男の顔写真が貼り付けてある。片隅には偽造を防ぐためのICチップ。正規の身分証ではあるようだが、驚くべきはそこではない。
入国の前に、この国の軍・治安機関、そして犯罪結社の情報はある程度〈白狼〉からレクチャーを受けている。まさかこうも早く役に立つとは思わなかったが。
王冠の下、交差する剣と斧──間違いない、スペイン
まだプロローグ…「殺人事件の現場に刑事がやってきた」段階ですが、既に物語は動き始めています。続き、なるべく早く書きます…