痛い、と思うほど手の甲を噛んで得たのは安心感だった。今度は指を噛む。痛い、と思うほど心は凪いでいく。今度は反対の手の甲を、今度は反対の指を。じんわりと痛みの残る手指には幾重にも歯形が重なっていた。
「おまえさん、何をしているんだ」
ついに噛み跡を残し始めた女の腕を無骨な手が取り上げた。見上げた先ではじっと視線を向ける男がいた。白髪まじりの立派な口髭と顎髭を蓄え、鋭い眼光に強い意志をたたえた男だ。しかし、その瞳は悲しげな色を浮かべて見つめていた。
「こんなに歯型だらけにして、そんなに腹が減ったのかい」
「違う」
「じゃあなんだって……」
白い腕を赤く染める噛み跡を無骨な手が柔らかく撫でる。幼子にするような、痛みを和らげたいと願う父親の手のようであった。
「思い出していた」
言葉はそれきりだった。女は口をつぐみ、視線は男の向こう側を見ているのかどこか遠くにあった。
「そうかい。良いことも悪いことも生きてるからだ」
男の言葉は柔らかく響く。撫でる手はずっと柔らかく、遠い記憶の中に残っているような優しさがあった。
「わたしは、生きている」
「そうだ、おまえさんは生きている」
「わたしは、どうして……」
ポツリと涙が落ちた。それから堰を切ったようにポロポロと溢れ出す涙を拭うことをしない姿はまるで人形のようだと男は思い、背筋に冷たいものが駆け上がった。人の感情を引き換えに刀として研がれ続けた女の中にも渦巻く感情がある。猛り狂うほどの激情だってあるだろう。だが、彼女にはそれは許されなかった。
「生きるためだ。生きるために、おまえさんは斬ったんだ」
得物を持てばどんな苦境でも切り開いてきた女の細い肩を抱き寄せて腕の中に収める。戦いのない世であれば一人の娘として幸せに生きる道もあったであろう。子をなし、孫を抱いて命を繋いで死んでいく人生だってあったろう。それを知ることが出来なかった生き方を運命だとか時代だとかで片付けるのはまっぴらごめんだった。
「勝さん……?」
「俺が新しい時代を作る。誰も斬らずに生きていくのが当たり前の時代だ」
「誰も斬らない……?」
「おまえさんの苦しみを代わってやることはできない。だが受け止めてやる。泣け、叫べ。どんな罵倒だって受け止めてやる」
だから人として生きていけ。そんな勝の思いはわずかでも伝わったのか。あるいは、細い体躯に抑え込むには膨れ上がりすぎたのか。女の手が勝にすがりつき、顔を埋めると声を上げた。悲鳴のように消えぬ痛みが滲む声を上げて女は泣いた。腕の中で肩を震わせる女の肉体に人の感情が満たされていく感触を確かめるように勝は力強く抱きしめた。
ひとしきり声を上げて泣いたあと、梵は穏やかな寝息を立てていた。泣き腫らして真っ赤な目元であるが安堵の表情が浮かぶ。傍らで座り込んでいる勝の手を握ったまま眠りにつく様はまるで幼子のようであった。横たえた身体に布団をかける男がいた。
「すまないな、福沢」
「いいえ、落ち着いたようで何よりです」
「急ぎの用件だったか?」
「そちらは日を改めます」
そう言って、福沢も腰を下ろした。いつも通り勝を訪ねたら女の泣き声が聞こえ、慌てて駆けつけた先では勝の腕の中で泣きじゃくる梵の姿がある。のっぴきならぬ雰囲気ではあったが、勝の必死な様子を見て察したものがあったのか静かに物陰で待っていたのだ。
「近頃様子がおかしくてな」
「どのように?」
「人の話が聞こえなくなったり、外を出歩かなくなった。さっきは自分の手を噛んでたな」
「それは〝ストレス〟ですね」
「スト……?」
「精神的に強い緊張状態が続いているんでしょう。何か心当たりは?」
「そんなものはありすぎる」
「たとえば?」
「梵に片割れを斬らせた」
福沢が押し黙った気配を感じ取って勝は言葉を続けた。
「会談の夜に警護を頼んだ。片割れが現れるだろうと思ってな。無事に会談を終えた後、二人が横たわっていた。死んだんじゃないかと焦ったが、片割れの亡骸に添い寝をして話しかけていたんだ」
「それは……」
「おかしくなったのはそれからだ」
梵を見つめる勝の横顔に浮かぶのは後悔の色だ。かける言葉を探すが何も思いつかぬまま時が過ぎる。
「眠りが深くなる薬を持ってきましょう。脳の疲労を取るには睡眠が必要ですが、おそらく今の彼女は満足に眠れていないはずです。深く眠ることで脳を休めれば回復を期待できます」
「すまないな」
「ただ、いくつか注意がありまして……」
そう言って切り出した福沢の言葉に驚きを見せた勝であったが了承の意を示したのである。
数日後、約束した薬を持って福沢が勝のもとを訪れた。手渡されたのは袋いっぱいの薬で、これでもひと月分しかないと言われて再び驚いたのである。
福沢に説明されたのは主に二つだ。一つは、薬は毎夜寝る前に一包飲ませること。効果が現れるのに時間を要するので三週間は必ず飲ませて欲しい。もう一つは、眠りを深くさせるために少々強い薬なので飲ませた後は梵が眠るまでそばを離れないこと。朦朧として足元がおぼつかなくなるかもしれないので注意して欲しい。
恐る恐る薬を飲ませる勝の前で梵は意識を失うかのように眠りに落ちた。最初の夜は心配で一睡もできないような状態だったことは誰にも言っていない。薬の影響か昼間はぼうっとしていることが多く、横になっている時間も増えた。それでも福沢を信じて服用を続け、十日を過ぎた頃には眠気に抗ってそばに付き添う勝と話をする時間も増えてくる。話をしながらも勝の手を握り、安心したように寝落ちる様は親に甘える幼子そのものだった。
親に甘えられた子供だったのだろうか。何度も抱いた疑問は何度も飲み込んだ。懐かしそうに話すのは全て片割れのことで、親兄弟の話がないのがその証左だろうと。子供の頃からの思い出を話し続けた梵だったが、ある日、言葉を濁すようになった。二人とも十代になっているような頃の思い出話だった。
「無理に話さなくていい」
「ねえ勝さん、教えて欲しいことがあるんだ」
「なんだ? なんでも言ってみろ」
布団を捲って上半身を出した梵は、握っていた勝の手を自分の胸元に当てていた。突然のことに拒否をしても良いものかと迷っているうちに手のひらには柔らかな乳房の感触が押し当てられている。
「わたしのこれは醜いのか?」
「何を言ってるんだ」
「醜いと言われたんだ。だから隠して人目にさらしすな、と」
言われたとは片割れからだと察する。刀として研がれたとはいえ、年頃の娘相手に酷い言葉だと思った。人目に触れさせたくないほどであれば他にいくらでも言いようがあるというものだ。
「触って欲しいんだ」
「おまえさん、何を言って……」
「勝さんも要らぬものだと思うか? ならば仕方ない」
「ずるい言い方をする」
「ずるい?」
「そこまで言われて断れるやつがいるか」
それまでの迷いはスッパリと切り捨てる。触るだけだ、と自分に言い聞かせてから一度深呼吸をして、襟元に手を滑り込ませた。療養している間はさらしを巻かなくなったので胸の大きさについては概ね把握している。敏感であろう部分には触れないように手を置いた。
「勝さんの手、あったかいね」
眠りに誘われようとする梵の体温の方が高いのではないかと思ったが、温かいと言う。
「これで満足か?」
「うん」
勝がなるべく早く乳房から手を離してやろうとする前に、梵の手が着物越しにぎゅうっと抱きしめてきた。宝物を大事に胸元に収めた子供のような仕草である。それが、梵の乳房に置かれた勝の手でなければなんと微笑ましい光景かと思うのだ。
「心臓まで伝わるみたいだ」
そんなことがあるわけ、と言いかけた言葉を飲み込む。他人の体温を地肌で感じる幸せさが滲み出る笑顔を取り上げることは出来なかったのである。
しばらくして、梵は眠りについた。それまでずっと胸に抱えられていた手をやっと抜いて勝は大きな吐息を吐き出す。よほど腹に溜めたものがあったのか、長い時間をかけて奥底に溜まったものまで吐き出してからガックリとうなだれてポツリと呟いた。
勘弁してくれ、と。
その日は、福沢が訪ねてきていた。いくつかの書類を確認し、議論を交わす。いつも通りのことだ。しかし、勝の視線はやたらと窓の外に向けられる。そしてどこか落ち着かない様子に見えた。
「何か気になることでもあるんですか?」
福沢に問われて、手を止めた勝の表情には驚きが浮かんでいた。言われるまで自覚がなかったような反応である。この人の心をここまで乱すほどの存在は一つしか思い浮かばなかった。今日は一度も顔を合わせていない彼女だ。
「雨が降りそうだなと思ってな。梵を使いに出したんだが、早い時間だったから傘を持たせていない」
「もう使いを頼めるほど元気になりましたか?」
「おかげさまでな。一緒に外出出来る日も増えたし、調子が良さそうだったから使いを頼んだんだよ。だが……」
その先の言葉よりも早く玄関での気配を察知した勝が立ち上がっていた。騒動でも起きているのか、不安げな女の声が聞こえる。慌てて向かった先では町人に連れてこられていた梵が取り囲まれていた。
「旦那さま。梵さんが使いの途中で足を挫いてしまったと……」
「大したことないって。ちょっと足を踏み外しただけで……」
「見せてみろ」
座り込んだ梵の着物を捲る。簡単な手当をされた足首以外にも擦り傷や打ち身の跡が残っていた。ちょっと転んだような怪我ではない。手当てを福沢たちに任せると、屋敷まで連れてきた町人に向けて手厚く礼を告げた。
町人からは梵が怪我をした時の状況を聞くことが出来た。往来で突然走り出した梵は誰かを追いかけているようであり、石段脇の段差にも気付かなかったようでそのまま足を踏み外して転落したそうだ。誰かを追っているようだったが、追われている者は誰もいなかった、と。
「あいつを見つけたんだ」
と、梵は勝の隣でポツリと口にした。
福沢に手当を受けた梵は足首に手首に腕にと包帯を巻かれた痛々しい姿だった。足首の方は数日は安静にして無理をさせないこと、と言って雨が降り出す前に福沢は帰った。部屋の中から眺める庭からは湿り気を帯びた空気が流れ込んでくる。じきに降り出すだろう、と障子を閉めに立ち上がった勝は再び梵の隣に座った。
「最近あいつの姿を見ていなかっただろ。慌てて追いかけたんだが見失ってしまった」
あいつとは誰を指すのか。思い当たるただ一人は会談の夜に梵が自分の手で斬っている。あいつが今生にいないことは亡骸を丁重に葬った勝がよく知っていた。
「あいつはどこに行ったんだろうな」
「おまえさんにはまだ、あいつの姿が見えるのか」
そっと梵の手を取って大きな両手で包み込む。得物を持てば敵をなぎ倒す女の細い手は、失った温もりを探し求めるように勝の肌にも触れた。拍動を確かめるため勝の胸に手を置いた時には鼓動の速さに笑われたが、その理由に思い至るような性格ではない。再び自分の胸を触れと言われないために頭を撫でたり、頬を撫でたり、毎夜苦心しながら無事に眠ることを確かめたのは回復を願ってのことだ。だが、梵には未だ失った片割れの姿が見えている。その事実を突きつけられたことが、こんなにも苦しいと勝は想像もしていなかった。
「目の前にいれば俺のことを見ているもんだとばかり思っていた」
細い指先にそっと唇を寄せる。そのまま優しく甲まで唇を這わせると軽く歯を立てた。驚いて震わせた肩をもう片方の手で抱き寄せて、手の甲には何度も甘噛みを繰り返す。それから指にも歯を立て、柔らかな腕にも甘く噛み跡を残した。腕の中で女の細い肢体はこわばったまま動かない。
「何をするんだ」
「おまえさんも自分で噛んでただろ」
「違う、こんなんじゃない」
「何が違う」
「勝さんのは、身体がゾワゾワとする」
「身体ってのはどこだ」
「奥。腹の奥に何かあるみたいで……」
腕の中でこぼれたか細い声に勝の動きが止まった。不意に落ちた沈黙を埋めるように障子の向こう側から雨音が聞こえる。
「腹の奥、ってのはここか?」
優しく問いかけながら滑り込ませた手で梵の下腹部を撫でた。梵に抵抗する気配はない。
「うん。勝さんの手はいつもあったかい」
「そうか」
「気持ち良い」
「本当に何もわかってないな」
屋根瓦に打ち付ける激しい雨音に勝の乱れた呼吸が混じる。
「手だけは出すまいと思っていたが、わからせるには仕方ねえ」
そのまま言葉ごと呼吸を強引に奪われていた。腹を撫でていた手は下半身へと伸び、太腿の外側を撫であげたかと思うと膝頭から内股へと移動する。ぐいっと手のひらで内股を押して出来た隙間に自分の膝頭を押し込むとそのまま覆い被さるように梵を押し倒していた。事のなりゆきが理解出来ない梵にまたがる形になった勝の手が襟を掴んで強引に広げる。顕になった二つの白い乳房を前に思わず喉が鳴った。
「浪人にしておくには勿体無い良い女だ」
そう言って伸ばされた手が乳房を包み込んだ。指先を受け止める柔らかな感触に揉む手に力が入る。
「つけ込むような真似はしたくないが、記憶の中のやつと張り合うには他に手段が思いつかねえ」
「痛っ」
「今、おまえさんを触っているのは誰の手かわかるか?」
「勝さん、痛いっ」
「痛くない方がいいか?」
何を聞くんだろうか、とでも言いたげな目を向けた梵がしばらくして頷いた。乳房を揉みしだかれる痛みが時折眉根に浮かぶ。やがて乳房から手を離した勝は横たわる梵に身を寄せると低く囁いた。
「俺もだ。女は悲鳴よりも喘ぎ声の方がいい」
再び、唇を塞がれる。先刻よりも穏やかで、情の深い口づけの向こう側では相変わらず雨音が続いていた。