WEB再録本「繋縛」(全年齢部分)   作:ユウキ テル

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その六 大久保利通の場合 「それを知らぬは彼女ばかり」より

「なぜそのようなことを私に?」

 その男からは至極不機嫌な声が返ってきた。

 梵はいつも通り京屋敷に顔を出していた。邪魔をしない約束なら執務を行う横で話をしてもいい、と言われているので本人には背を向けたまま話をしていただけである。梵にしてみればいつも通り何も変わらない。なのにこの男は不機嫌さを隠そうともしないのだ。

「大久保さん怒ってる?」

「怒らないと思ったなら即刻考えを改めた方がいい」

「大久保さんになら相談できると思ったんだよ」

 縁側から半身だけ振り返ってまっすぐな眼差しを向けた梵は、同じように見返す大久保の眉間に潜む感情を見逃さなかった。

「ごめんなさい」

「私を頼りにしてもらえるのはありがたく思う。だが、君の悩みは軽々しく口にしていいものではない」

「じゃあどうすればいい? 違う誰かに聞けばいいのか?」

「それが駄目だと言っているんだ!」

 普段の大久保なら見せないような強い語気で言葉が返ってきた。梵の顔がじわりと歪み、頼った手を振り払われた絶望の色を滲ませた瞳が揺れる。涙を零したのかもしれない、そう思った時には梵は俯いていた。パッと立ち上がると無言のまま京屋敷を後にしたのであった。

 

 

 それはすぐに噂話として広がることになった。三日に一度は京屋敷に顔を出していた梵の姿がパタリと途切れたのだ。一ヶ月近く寄り付く気配がないのは大久保が原因である、と誰かが口にするとはなしに共通認識となっていた。だが、梵はただの浪人である。彼女の自由を拘束する権利など誰にもない。わかっていても、縁側に腰掛けて庭を見ながら独り言のように大久保に話しかける梵の姿は変わることがないと誰もが思っていたのだ。

「やあ」

 まるで三日ぶりに来たかのような調子で梵が京屋敷に姿を見せた。時は二ヶ月近く経過していた。

「おはん今までないをしちょったんじゃ!」

「ちょっと横浜まで。すぐに戻るつもりだったんだが、面倒な事になってしまって」

「心配したじゃろ。連絡ぐれよこさんか」

「面目ない」

 想像以上の驚きで迎えられて困惑している梵は屋敷の奥から近づく乱暴な足音を聞いた。足音の主が玄関までやってくると皆が一斉に身を引く。

「大久保さん、久しぶり。元気にしてた?」

「今までどこをほっつき歩いちょった!」

 久々に聞いた大久保の薩摩弁に気押された梵が押し返そうと両手を上げる。着物の袖が捲れて顕になった腕には白い包帯が巻かれていた。大久保の形相が変わるのを目の当たりにして梵は血の気が引く。

「大したことはないのに皆が大袈裟にしたんだよ。本当にかすり傷で……」

「養生が必要な怪我でも負ったのか。それで戻れなかったのだろ?」

「本当に大したことないんだ」

「皆君を心配していた。嘘はつかないでくれ」

 真剣な表情の大久保に根負けした梵は困ったように笑う。

「ようやく移動出来る体力が戻ったのでこちらに帰ってきた。しばらく長屋で養生するから顔だけ見せに……」

「承知した。部屋はこちらで用意する。精のつくものを食べてしっかり養生することだ」

「大丈夫だって」

「どんなに腕が立とうが君は女なんだ。手負いの時ぐらい男を頼らないか」

 大久保の言葉に頷く者、準備を始める者と一気に慌ただしくなった京屋敷の奥へと連れて行かれる梵の肩は大久保にしっかりと抱かれていたのだった。

 京屋敷の一室を準備された梵は翌日から高熱を出して寝込む羽目になった。姿を見せた日には悟らせなかったのだが、背中にも完治していない刀傷があったのである。本来ならまだ養生が必要な状態をおして戻ってきたらしく、傷の治りも遅くなるだろうと医者は見立てた。

 当初は隣の部屋で執務を行なっていた大久保だったが、熱にうなされる声が気になり様子を見に行くので全く手につかない。周囲の勧めで同じ部屋で梵の様子を確認しながら執務を行うようになっていた。

「気分はどうだ」

「悪くない」

「そうか。今日は天気が良いから少し開けるぞ」

 うん、と頷いた梵の頬を心地良い風が撫でた。風に混じる甘い香りは何の花だろうかと考える。

「昨日の話だが、長州の者が訪ねて来た。長屋にいるはずの君の所在を探していると言っていたから、こちらで面倒を見ていることを伝えておいたぞ」

「桂さんが?」

「あちらにも黙って来たようだな。皆君を縛り付けたいわけじゃないんだ。せめて無用な心配はさせてくれるな」

「ごめんなさい」

「早く元気になって安心させてやれ。君が黙って消えてしまうのは心配で堪らんからな」

「大久保さんも心配した……?」

「当たり前だろ。あんな顔をさせた後に消えたらなおさらだ」

「あんな顔……? あぁ、あの時の」

 大久保の言葉にしばし思案した梵であったが、思い至る記憶に辿り着いたようであった。

「あの時は悪かった。年甲斐もなく取り乱していたことを悟られたくなくてきつくなってしまった」

「大久保さんでも取り乱すんだ」

「取り乱すさ。取り繕うのが上手いだけで」

「大久保さんは大人だなぁ」

 ニコニコと楽しそうに話をする梵は調子が良さそうである。その様子にグッと唇を一文字に結ぶと開けていた障子を閉める。梵の傍に歩み寄り腰を下ろした。

「そんなことはない。今だって君の回復が遅くなればそれだけ私の側に居ると考えている」

 自嘲を滲ませた笑みで大久保は指先を伸ばし、梵の髪をそっとすくう。

「あれから悩みは誰かに相談したのか?」

「してない。大久保さんに怒られちゃったから」

「そうか。君の怪我が治った時にはきちんと答えよう。だから早く元気になってくれ」

 大久保は柔らかな髪の感触を楽しんでいた指先で梵の唇に触れ、そのまま自分の唇へと当てた。

「少し喋りすぎたな。怪我に触るといけないからもう行く」

 そう言って立ち上がった大久保は部屋を出て行く。そのまま足早に京屋敷を出ようとする大久保は、先に外での用件を済ませてくる、と言っただけであった。

 

 

 一ヶ月ののち、梵は全快した。稽古にも参加出来るようになり、鈍った身体の感覚を取り戻すように次から次に打ち負かしていく。その様子に安心しつつも、弱って頼る梵を惜しむ声が一部から上がっていたことも大久保の耳には入っていた。

 そして、彼らには重要なイベントが待っていた。快気祝いである。店を借り切って行われた祝いも酒が進めばいつもと変わらぬ宴会である。主賓であるはずの梵がしばらく席を抜けても声がかからないないほどだ。

「こんなところでどうした」

 徳利片手に姿を見せたのは大久保だった。二階の座敷を抜け出して縁側に腰掛けていた梵の横に座ると徳利を差し出す。

「熱気に当てられてしまった」

「確かに、どこまでが君の祝いかわからないからな」

 受け取った徳利に口をつける様を眺めていた大久保だったがポツリとこぼした。

「君が男ならばと何度思ったことか」

「わたしが女であることは不満か?」

「君が共に戦うだけの同志であれば、酒を呑み交わし、命をかけねばならぬ時でも後悔はせずに済んだと思う。それが悔しくて仕方がない」

 大久保の言葉を理解出来ぬ梵は手を止めてまっすぐに見つめていた。

「今夜は長屋まで送ろう。ゆっくり話す時間もあるだろう」

 それから程なく大久保は梵を連れて店を出たのだった。宴会の席に付き合えば朝がやって来てしまうからである。残された中には二人を肴にする者も少なくなかった。

「あん娘は戦以外は能無しじゃっでな」

「そげん言い方はなかじゃろ。少し経験が足らんだけじゃ」

「真昼間から大きな声で大久保どんを誘うちょったじゃらせんか。はらけて当然じゃ」

「能無しじゃなかれば馬鹿じゃろうな」

「どっちでん構わん。大久保どんを好いちょりゃ敵にはならんでな。おいはあん娘とは敵になろごたなかんだ」

 要するに、大久保に懐く梵を温かく見守る裏には隠し刀である彼女を敵には回したくない思惑が潜んでいるのである。

 二人で歩く夜道には足音だけが響いていた。虫の鳴き声と風が揺らす木々の音を遠くに聞きながら長屋に辿り着くと大久保は上がり込んだ。何も置かれていない床の間に飾り棚、飲み食いするための道具は最低限あるようだったが人が住む気配がひどく薄い場所である。

「何もないところだがゆっくりしてくれ」

「気遣いは要らん」

 明日の朝、この部屋に住んでいたはずの梵という女は忽然と消えていた。そうなっても不思議でないような感覚を覚えるこの部屋が大久保は嫌いで京屋敷に招くのだ。ここで一人暮らす彼女は何をして過ごすのか、誰と過ごすのか、気にしても仕方がないと思うほど嫌な考えばかりが浮かんだ。

「大久保さん、どうしかしたのか?」

「何でもない。何から話そうかと考えていた」

「無理に答えなくてもいいのに」

「そうもいかぬ。答えると約束をしたのだ」

 囲炉裏の前で大久保の斜向かいに座る梵の視線を感じるがそれを受け止めることは出来なかった。じっと囲炉裏に視線を落としたままの大久保だったが、覚悟を決めて口を開く。

「君が私にした相談は、十分に男を誘う文句になる。大半の者は同衾の誘いと受け取るだろう」

「そんなつもりは一切ない」

「わかっている。わかっていながら一瞬期待をした。だから、私はそれを君に知られたくなくて怒った」

「わたしのことをそんな風に見たのか?」

「見た。あれから君のことを、女として見ている」

 息を呑む気配がした。当然のことだ、と覚悟を決めて大久保は視線を上げる。まっすぐと向けられる梵の視線と絡みあう。

「君の持つ『武器』とはそういう意味だろう。わざわざ送ると口実を作ってここまで来たのも下心があるからだ。あわよくば一晩を君と、と思っている」

「随分とはっきり言う。大久保さんらしい」

「ここまで来て隠すつもりはない。もちろん無体を強いるつもりもない。即刻帰れと言うならそうしよう」

「そしてずるい人だ」

 今度は梵が視線をそらす番だった。

「わたしに全部委ねるなんて」

「私は君を大事にしたい。刀など取り上げて戦場に出ることも禁じてしまいたいぐらいだ。だが、その権利は私にはない。君に委ねるしかないんだ」

「もし、今帰れと言っても遊びに行けば話を聞いてくれるのか?」

「もちろんだ。君を大事にすることは変わらない」

 大久保の言葉に嘘はないだろう。だが、これまでのような関係を続けることは難しいと思った。

「わたしは、あなたを男として見ることがわからない。大久保さんは大久保さんだ。女として見られる意味もわからない。わたしでは頼りにならぬと言うことか」

「違う、そうではない」

「では女だとわざわざ言う意味はなんだ。あなたの言った『武器』の意味だってわからない。これで何と戦えると言うんだ!」

 興奮気味に言葉を放つ梵は指先を自らの乳房に深く食い込ませようとする。白い肌に爪の痕が赤く残った。

「やめないか。自分を傷つけるな!」

 慌てて梵の手を掴んだ大久保は自分を見上げる瞳が大きく揺れていると気付く。涙をこぼしそうなほどに揺れる瞳を見つめ、彼女には何ひとつ伝わっていなかったことを悟った。

「私が焦りすぎたようだ。不安にさせて悪かった」

 ギュッと力を込めて梵の細い肢体を抱きしめる。隠し刀として育てられようとも、武器を持てば敵う者なしだろうとも、女の体躯は細くて柔らかい。当たり前のことを腕の中で確かめて大久保は確信した。

 

 –––言葉で理解を得るのは無理なのだ

 

 しばらくの間、梵は大久保の腕の中で抱きしめられたままであった。

「大久保さん、痛い」

 小さくあがる抗議の声に大久保は腕を緩めた。梵は困ったように笑っている。いつもの彼女のように見えた。

「少し目を閉じてくれるか?」

 大久保の申し出に当初は怪訝そうに首を傾げた梵であるが、すぐに頷いて瞼を閉じた。これから何が起こるのか疑いなど持たぬ、目の前の男が牙を剥くなど考えもしない無防備な唇を一方的に奪う。突然のことに驚いて身をこわばらせる梵を気遣うそぶりもなく深く唇を重ねた。身を捩って逃げ出そうとする肢体は両腕で押さえ込む。長く甘い口づけを交わした先に待つのは雄の衝動だろう。それでも言葉で伝わらないのであれば、身体で伝えるしかない。

「何をする」

「少し懐かれたぐらいで絆された私の負けだ」

「何に負けたと……」

「今宵は身体を私に預けてくれ。すべて教える」

 大久保の言葉に小さく頷く梵には何も理解出来ていないだろう。それを問い詰めても仕方がないし、そんなことはもうどうでも良いのである。

 

 

 あの宴、ではなく快気祝いの夜に梵と連れ立って消えた大久保は翌朝になって帰ってきた。何があったかとは当然口にしないが、皆がそういうことだと理解した。

 しかしである。それから梵の姿はパッタリと途切れた。心配そうに口にする者もいたが大久保はさして興味も無さそうに返すだけだ。

 彼女は浪人だからな、と。

 もとより仕事には厳しかった大久保はより厳しくなり、梵の存在がどれほど大きかったのかを身をもって知った者も多い。

「これから出てくる」

 そう言って大久保が外出すると京屋敷ではようやく重しから解放される。大久保の姿は市中の雑踏に消え、しばらくするとある長屋の前にあった。何度来てもここは好きになれない。この戸を開けても彼女はいないかもしれないし、誰かがいた痕跡すら消え失せているかもしれないのだ。

「彼女は浪人だからな」

 誰よりも自分自身に言い聞かせているようだった。

 もしかしたら明日の戦場では敵としてまみえるかもしれない。思想のもとに戦う対象として認識するのだ。そこで斬るべきものが互いへの情であることを理解している関係につける名など必要ない。

 この先にあるものだけが真であると、今日も大久保はその戸を開けるのである。

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