おまえは消えてしまいたいと思ったことがあるか?
店の喧騒にかき消されそうな言葉を耳にして男は杯を口元に運ぶ手を止めた。
「……ないね、そんなこと。これまでも、これからも」
「そうだろうなぁ」
女はそう言って笑みを浮かべ、酒のつまみと呼ぶには立派な包子を口に放り込んだ。欲張って一口で食べようとするのでいっぱいに頬張る事になり咀嚼し終えるまでしばしの時を要した。その間、男はじっと視線を向けたままである。
「なんだ、死にたくなったのか」
「そうではない。それに、わたしが死ねば龍馬は悲しむだろ」
「俺はあんたの死を悲しむようには見えないか」
「すまん、そんなつもりで言ったわけでは。高杉も悲しんでくれるのか」
女の言葉は半分も聞かずに杯の酒を煽り手酌で次を注いだ。
今宵、横浜の中華街にある馴染みの店に誘ったのは高杉の方であった。それもわざわざ江戸から馬を駆って横浜まで来ていた。当然、日帰りなどではない。中華街に駐在している奇兵隊に用意させた部屋に二人で滞在して早数日。当初は高杉に促されて摂っていた食事にも自ら手を伸ばすようになり、まともな会話をしたのがあの言葉であった。
こいつがようやく自我を口にし始めた。
と、腹の底に安堵を留め置いて様子を探るまなざしを変えることはしない。先日の英国公使館焼き討ち以来、女は人形のように自我を失いそこにいるだけになっていた。あの時、燃え落ちる公使館の前で対峙したある男が女を変えたのだ。隠し刀として対になる片割れが見せた敵意が何か大事なものを奪ったことは間違いない。今の隠し刀には何が見えているのか。高杉にはそれさえ掴めていなかった。
「消えてしまいたいってのはなんなんだ?」
摘んだ包子を上品に口に含んだ高杉が問いかける。隠し刀は意外そうな表情を浮かべると薄く笑った。
「言葉通りだ。誰の記憶からもわたしが居た事実全てを消して、存在していなかった事にしたい」
「なんでそんなことを望む」
「誰も悲しませたくない」
ならば生きろ。
無理矢理飲み込んだ言葉の代わりに舌打ちを吐き出す。喧騒の中でもやけに大きく聞こえたそれに隠し刀の表情がすうっと消えた。やってしまったと気付いた時にはすでに手遅れで、隠し刀のまなざしはどこか遠くを見るように高杉以外に向けられている。
「部屋に戻るぞ」
食べかけの包子を皿の上に置いて高杉が立ち上がる。それを見上げるだけの隠し刀の手を取ると強引に店から連れ出した。往来はいまだ人の多い時間である。人の間を縫うように抜け、人一人分の裏路地へと身体を滑り込ませる。右へ左へと慣れぬ者には迷路のような細い路地を進み一軒の家の前で足を止めた。
「お戻りですか」
「今夜は誰も部屋に寄越すな」
言葉尻にはらんだ感情を聡く察して家の前に立つ男が深々と頭を下げる。そんな事には一片の関心も寄せずに高杉は家の中へと隠し刀を連れ込むのだった。
二人で滞在するには少々手狭な部屋には一組の布団が敷かれたままである。横浜に滞在している間はこの布団で体温を分け合って眠っているのだ。幾夜も艶めいたことは一切存在せずに眠るだけであった。高杉は強引に連れ帰ってきた隠し刀を放るように突き飛ばす。得物を持てば並の剣士など敵ではないはずなのに、ただの娘のように容易く布団の上に倒れ込んでしまう。
「消えたいのも、死にたいのもあんたの自由だ。それにとやかく言いはしない」
「……高杉?」
「だがな、毎夜隣で安眠される男の気がわからんことは許しがたい」
男の言葉を微塵も理解できていなような顔で見上げる隠し刀の目の前で高杉は羽織を脱ぎ捨てる。そしてしゃがみ込んで伸ばした手が隠し刀の襟元を掴み強引に引き寄せた。
「なに、わざわざ死なずとも極楽を見せてやろうという話だ。悪くないだろ?」
死神のように冷たい高杉のまなざしが、瞳の奥まで見透かすようにじっと隠し刀に向けられていた。
「触るなっ!」
思ったよりも強い拒絶が隠し刀からは返ってきた。褥の上には二人の姿がある。素直に高杉を受け入れたかに見えた隠し刀だったが、襟元に手を寄せて中へと滑らせようとした時に強烈な反応を見せたのだ。
「……悪い」
思わず謝罪を口にするほどの拒否を見せた隠し刀は胸元を隠すよう身を屈めている。
「そんなに嫌だとは思わなかった」
「これは……醜い。おまえに見せられるものではない」
「醜い、だと?」
「そうだ。あいつに常々言われてきた。そんな醜いものを見せるな。人目になど触れさせるなと」
「あいつ……、片割れのことか?」
隠し刀からは否定も肯定もない。訝しがる高杉の声には気付かない様子であった。ただ、しっかりと胸元を守るのみだ。
「そんなわけがあるか。あんたを自分のものにしたかっただけだろ」
「……は?」
「あんたら揃って唐変木だな。片割れはあんたの乳房を独り占めしたかったんだよ」
「なぜだ」
「なぜ? 好いた女が他の男に見初められるなんざ我慢できるわけないだろ」
「好いた……? 何を言ってるのかわからぬ」
「わからなくていいから俺に見せてみろ」
「だからこれは醜いと……!」
「それは俺が決める。だから、見せろ」
高杉に気迫に押し負けたのだろう。隠し刀の手が自ら襟元を掴み躊躇いに震える手でゆっくりと開かれた。
さらしに押し込められた乳房は秘めたる大きさを想像するには十分だった。手を伸ばしそっとさらし越しに触れる。それだけのことで女の細い肢体がびくりと跳ねた。
「念のために尋ねるが、あんた、男は知ってるんだろうな?」
「何を知っていれば、わたしはその問いを肯定して良いのかがわからぬ」
「何をって……まさかあんた、そこからなのか?」
「わ、悪かったな。武芸を極めるのに男も女もないだろ。仕留める相手が女子供でも関係ないように」
高杉から漏れたのは演技じみたほど盛大なため息だった。さぞや落胆に満ちた顔なのだろう、そう考えて身構えた隠し刀の目の前で高杉は低い笑いを溢し始めていた。
「あんた、そんなことも知らずに消えるつもりだったのか。そうかそうか、ならば俺は止めん。あんたの好きにしろ。手土産に極楽を見せてやるから」
くつくつと笑いを漏らしながら隠し刀に向けられたのは、手に入れた獲物を味わう高揚感に満ちた雄のまなざしであった。
待て、と抗う隠し刀を無視して腕の中に掻き抱くと剥き出しの白い肌に唇を落とす。柔肌の奥で身を強張らせるがお構いなしに強く吸い上げて歯を立てた。鋭い痛みに上がる悲鳴すら耳に心地良く、幾つもの跡を残して最後は悲鳴すら直接吸い上げてしまう。口吸いすら不慣れなのであろう。抵抗したいのか、それとも受け入れたいのかもわからぬような不器用さで捩らせる身を体躯の差に任せて押し倒した。
「あんたもそんな顔をするんだな。血塗れのあんたも十分にそそるが、女の顔はそれ以上だ」
肩口にかろうじて引っかかっていた着物を力任せに剥ぐと強引な手付きのままにさらしを緩める。乳房の解放された感触に隠し刀は抵抗する素振りを見せるが、その両腕も掴んで夜具に押し付けた。
「こいつはいい眺めだ」
眼下に広がるのは彼女が誰にも見せることなく押し込めてきた真っ白な乳房だ。これは誰の目にも触れさせたくはないだろう、と唐変木の思惑に同感しつつもこれから存分に堪能出来る期待に昂る衝動に満たされるのを感じていた。
「高杉も醜いと思うだろ?」
先刻より隠し刀があらんかぎりに顔を背けた理由はやはり醜いものを晒す羞恥のようだった。こんなに豊満で柔らかそうな魅力に溢れた二つの乳房を醜いとしか思わせなかった唐変木の言葉はどれほど酷いことであったか。
「俺が醜いと言ったらどうするんだ?」
「頼む……見ないでくれ。おまえには見られたくない」
「そうもいかんな」
高杉は組み敷かれてすっかり大人しくなっている隠し刀の肢体に跨ると下半身を擦り付けて密着する。隠し刀も下半身に感じた男の重みと、太腿に感じる硬い塊の感触に強い違和感を覚えて視線を高杉に向けていた。
「俺のイチモツもこの通りだ。あんたの胎内なかで果てたくて堪らん」
「うそだ……あれは、そんなことじゃ……」
「なんだ、あんたちゃんと唐変木のイチモツも知ってるみたいじゃないか」
「違う。あれは……!」
「何が違うかなど知らんし、俺には関係ない。だがな、これだけは覚えておけ」
ぐいっと顔を寄せられて慌てて顔を背けようとした隠し刀の顎を高杉の手が押さえ込む。唇が触れそうなほどの距離まで迫られていた。
「男ってのは好いた女を独り占めしたいもんなんだ。褥で他の野郎のことを考えるなど、死んでも許せないんだよ」
唇は乱暴に塞がれ、乳房を強引な手付きで揉みしだかれる。しなやかな指先で三味線を奏で、艶やかな声で唄う男の面影はそこには微塵もなかった。剥き出しの劣情を指先と唇から迸らせて柔らかな女体を余すことなく蹂躙し続けるのであった。
空が白んできたと気付いた時にも女はまだ嬌声を溢し、腹の奥底から湧き上がる悦びに身を打ち震わせていた。これが何度目かはわからない。ただ、男も女も悦楽に興じるには体力が有り過ぎたのだ。
ほんの数刻前までは男を知らぬ、魅惑的な乳房でさえ醜いと信じて交わりを拒んだのが信じられぬほどの変わりようだった。夜具をじっとりと濡らすのは汗か、あるいは異なる体液か。刀として生きた人間を女として花開かせ情欲を貪る獣とさせた。その充足感もまた高杉を幾度となく絶頂へと導いたのである。
「あんた、まぐわいは好きなようだな」
見慣れた穏やかな笑顔で高杉が問いかけた。隠し刀はまだ夜具の上で背を向けたまま身を丸めている。
「嫌いではないらしい」
「おいおい……。まぁいい、昨夜は消えなくて良かっただろ?」
「……そうだな」
短い答えだったが、確かに隠し刀の情が滲む声だった。
「あんたは大事なことは何一つ言わないからな。一人で抱え込んで、動けなくなって、消えてしまいたいとさえ望む」
白い背中からは答えがない。それでも高杉は言葉を紡ぐ。
「俺に出来ることはないかもしれない。でも、あんたには何かしてやりたいんだよ。俺も、桂さんも」
「すまなかった」
「謝るな。弱みにつけ込んだ俺とおあいこだ」
「なんだそりゃ。割に合わんだろ」
「合わないってのは、どちらが?」
丸まる肩に手をかけて高杉が覗き込んだ。不貞腐れているかに思えた隠し刀は頬を染め、恥じらいに満ちたまなざしを高杉へと返す。昨夜の記憶を反芻するたびに湧き上がる羞恥心が、雌の顔など嘘であったかの如く少女のような表情をさせている。
「全部、おまえのせいだからな」
「そいつはいいね。責任は全部背負う。あんたが明日生きたいと思う希望も全部だ」
隠し刀の瞳を掠めた光を高杉は見逃さなかった。彼女は生きたいと望んでいる。生きたいが故に、消えてしまいたいと思うほど自分を追い詰めてしまうのだと。
「先のわからぬ時代に生きてるんだ。せめて明日は生きようじゃないか。お互いにな」
にこりと笑みを浮かべた高杉が掛け布団を手繰り寄せて被る。もちろん背中を丸める隠し刀も一緒だ。
「こんな時間だがな、寝るぞ」
「昼飯は美味いものを食わせろ」
「あぁ、とびきりの飯を食わせてやる」
布団の中で分け合う体温はまだ熱を帯びている。昨夜の名残を互いの素肌から感じつつも、二人の意識はするりと眠りに落ちたのであった。