下手くそ、と囁いた男の声は静寂の中へと溶け込んだ。隙間風が肌を撫でる粗末な家屋の、固い板間と変わらぬ感触の煎餅布団の上で女が組み敷かれている。
「俺たちは夫婦なんだ。閨事だって当然ある。なのにあのよがり声はなんだ? 畜生だってまだ艶のある声を出すぞ」
押し殺した声にまとわせた怒気を間近で浴びる女は声を奪われたかのごとく唇だけを動かす。
ごめんなさい、だろうか。やめてくれ、だろうか。月明かりに浮かび上がる白い顔には男に対する恐怖が滲む。見開かれた大きな双眸が儚げに揺れる様を見るのは初めてではない。あの時も月影に女の怯えに満ちた顔を見た。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
言葉にするよりも早く大きな手が衿を掴み、乱暴に女の着物を剥いた。歳に不相応な幼い顔で小柄な女には、これまた不釣り合いな二つの果実がたわわに実っていた。月明かりに浮かび上がる乳房は娘盛りの張りはすでに失われ、その重さに耐えられぬように形を崩している。
これが情交を排除して剣にのみ生きてきた女の末路だ。と、返り血などには染まらぬ白い柔肌に指を埋めただけで昂る衝動が女にも伝わったのだろう。下半身に押し付けられる硬く満たされた雄の気配に小さく頭を振る素振りを見せた。
「これも任務のためだ。雌らしく啼く鍛錬をしようじゃないか」
そう言って、男が浮かべたのは壬生浪の笑みであった。
⚪︎⚫︎⚪︎
木々の木漏れ日を吹き抜ける風に、いつの間にやら秋の気配が濃厚になっていると気付いた。あの件は夏の気配がし始めた夜のことだったな、と見上げた空にはまだ夏の陽射しが残っている。
今年の夏は長いな。
いつまでもジリジリと焼かれるような熱さに目を細め、長屋までの道を再び歩き始めた。
長屋の主は差し出した手土産と男の顔を見比べていた。幾度も視線を往復させ、これは手にして良い物かを見定めているようでもある。
「安心しろ、近藤さんからの土産だ」
「ならば受け取る」
ようやく手を出した女は長屋の前で突っ立たせていた男にも上がれと促す。ロクでもない手土産であれば追い返す気満々じゃないかとは思うが、すでに何件かの『前科』があるので強くも言えないでいた。
「あんたの好みはアレだからな」
「悪かったな」
受け取った手土産を確かめながら吐き捨てられたセリフに男は露骨に眉間に皺を寄せた。
「その顔であの嗜好なのは非常に残念だな。眉をひそめた顔すらいい男なのに」
五月蝿いな、と反論しかけて見下ろした女はじっと見上げていた。
男の名は土方歳三、新撰組の鬼の副長と名を馳せている青年である。周囲からも血生臭い噂しか立てられない土方にいい男と言ったのは隠し刀の梵だ。
「なんだ、好みの顔か?」
「バカなことを」
けらけらと笑う梵に一蹴される。しかし、意に介した様子もなく土方は腰を下ろした。
「今日は何の用件だ?」
「そろそろ新撰組に戻ってこないか?」
一瞬だが土産を確認する手を止めた梵は、素知らぬ素振りで丁寧に結ばれた菓子折りの紐を解く。中にあるのは色とりどりの花を模した菓子であった。
「桔梗庵の菓子だ」
「近藤は風情を嗜む男だな」
「俺にはないみたいに言うな」
「間違ってはいないだろ」
ため息混じりで視線を向けた先では土方がじっと見据えている。
「案ずるな、わたしにもそのような質はない」
苦笑まじりの言葉に浮かんだ梵の笑みに土方も笑うのみだ。
「あの件が理由で出入りを禁じられたのならば、わたしが戻る場所はあるまい」
「そうでもないさ」
やけにはっきりと言い切った土方を訝しげに見つめる。梵が口にしたあの件とは、宿所の裏手で土方と酔った勢いで交わした交合のことだ。風紀を乱すのを理由に近藤が出入りを禁じても十分納得のいくことだった。
「おまえが、その、俺の女ということであれば連れ戻す事ができる」
「……はぁっ⁉︎」
「おまえの、その、はっきりした性格が俺は、好きだ」
梵の口から飛び出したのは素っ頓狂な声だった。それを好きだと言った土方の顔が言葉とは裏腹に引き攣っていた。腹の底に収めた本音を雄弁に物語り過ぎている。
「そうだな……、少し考えさせてくれ」
日頃の様子とは異なる、歯切れの悪い答えを返して薄紅色の菓子を一つ口に放り込んだ。
「おまえ、いつの間に戻ってきたんだ……?」
数日後のことであった。近藤に呼ばれて部屋を訪ねた土方は先に訪れていた女の姿に思わず声を上げた。小柄で童顔の女は遠慮など微塵も持ち合わせていない様子で胡座をかいている。
「近藤に呼ばれたので来た」
「おい、ここでは近藤さんと呼べと言ってるだろ」
「構わないよ」
新撰組を統べる近藤を臆面もなく呼び捨てた梵を咎めた土方は二人を視界におさめる位置に腰を下ろした。梵は土方に咎められた程度じゃ意に介する様子もない。今にも口に出しそうな不満を堪えているような面構えで近藤を見据えているだけだ。一方の近藤はそんな視線などどこ吹く風とばかりに穏やかな笑みを貼り付けている。
「彼女には嫌な役回りを引き受けてもらった。反抗心の一片や二片は持ってもらわないと困るんだ」
「どういうことだ?」
「先日の調査報告を覚えているか?」
「街道沿いの農村での神隠し、だったな。神隠しなんてあるものか」
「同じ意見だよ。だが、調査に向かった役人すら誰一人戻ってこない。相当の手練れを送り込んでも、だ」
近藤が口にした手練れという言葉に土方の視線がちらりと梵に向けられる。
「まさか、こいつを行かせるのか?」
「そのまさかだ」
酷く不機嫌な声音が梵の口からこぼれる。
「わたし一人で行けると言うのになぜ……」
「君一人で行けば如何にもと思われてしまうだろ」
「だからと言って、なんで土方と夫婦として潜入することになるんだ」
「……はぁ?」
どこかで聞いたような頓狂な声を上げた土方が二人の顔を見比べる。近藤の穏やかな笑みは相変わらずで、梵の顔には不満が露骨に滲んでいた。
「長期間の潜入になるかもしれない。その間は武芸を嗜んでいない女を演じる必要があるが、農村に一人でいるのは如何にも怪しいだろう。そのために夫婦役を演じる相手も必要になる」
「で、俺が? こいつと……?」
「夫婦となれば当然、閨事もあるだろ。彼女が相手では不満か?」
土方がちらりと梵を見やる。もはや隠す気すらない不満を満面に浮かべた顔ではない。その下の、着流しの下でさらしに押し込められている二つの豊かな乳房の方にである。
「先日の件、局長としては咎める必要があったので梵を出入り禁止にした。それは今でも変わらない。彼女は、我々に利用されるていで潜入する」
「なぜわざわざそんな手の込んだことを?」
「彼女を慕う者が増えすぎた。女として身の危険を伴う状況が想定される潜入に難色を示す者も少なからずいる」
「わたしは問題ない」
「我々はそうはいかないのだ。剣士としてなら共に危険な地に身を置こう。だが、君の貞操と引き換えなら話が違う」
何かを言いかける梵の横顔を横目で確認して、なるほどと土方はようやく合点がいった。
「それで俺はこいつを守ればいいんだな」
近藤の了承よりも早く梵が鋭い視線を投げつけていた。剣士としてならば土方に遅れを取ることはない女だ。それが守られる側になるなど矜持に関わる事態であることは容易に想像が出来た。
「世間知らずのおまえにはわからん事かもしれないが、世の夫婦ってのは男が女を守るんだよ。どんなにかかあ天下だって変わらん」
「そうなんだよ」
「……わかったよ」
反論しかけた言葉は近藤の柔らかな説得の前に飲み込んだ。かなり年の離れた兄に甘える妹のような素直さを目の当たりにして、喉の辺りに苦しさを覚えて呼吸が乱れたことを土方は自覚する。
かくして、土方と隠し刀の擬似夫婦は神隠しの村へを潜入するに至ったのである。