夏は駆け足のように過ぎ去る。肌にまとわりつく熱気と鼓膜の奥まで震わせる蝉の声も今は懐かしく、川面を撫でた風は一層秋の気配を含んでいた。そんな心地良い風が肌を撫でる感触を味わいながら夏の名残を目に焼き付けて歩く。こんな早い時間に陽が沈んだろうか、と思う頃には提灯が幾重にも灯っている。薄暮に浮かび上がる灯りはまるで黄泉からこの世を懐かしむ魂のようだ、と考えて女は口元を苦笑に歪めた。
あの日、一夜の極楽を見せた男は迎えが来るまでは今生にいると言った。明日を迎えること、その先の未来があること、願わくば今生でまみえる日がくることを祈る日々に不思議な感覚を覚える。
「〝刀〟の寿命など折れてしまえば終わりだと思っていたのにな」
自嘲混じりに漏れた言葉の端に覚えのある気配が掠める。突如背後に現れたそれを振り返って確かめることはできなかった。
「そんなことを言うものではない」
低く響く男の声を持つ気配は思ったよりも近い。このまま命を取られても不思議ではない距離まで接近に気付かなかった自分の腑抜けさに恨めしさを抱く。
「あんた……いつの間に」
「先刻よりおまえの背後を取っていた。随分と腑抜けたものだな、隠し刀」
「隠居じじいは気配ぐらいまとえ」
「そうか? これでも人の気配はさせているが」
「まだ今生にいたのか」
「どうやらそのようだ。この年でも尽きぬ欲に死神も呆れてるのやもしれん」
などと笑いながら背中に触れた男の大きな手が、慣れた手つきで腰まで撫でる。まるで、着流しの中に隠した女体の丸みを確かめる行為のようだった。
「死神も斬ったんじゃないか? 青鬼ならお手のものだろ」
「そうやもしれん」
楽しげに返ってきた答えと裏腹に、強い意志を宿した大きな手が女の細腰を抱き寄せていた。背中越しに体温が伝わるほど身を寄せられても女には抵抗するそぶりがない。低い笑い声が勝ち誇ったように耳朶をかすめて響く。悔しさやら苛立ちを覚えはしたが、柔らかく添えるだけの手を振り払う気にはならなかった。
「じじいのくせに盛るな」
「ほぅ、そちらの欲に取ったか」
「……っざけるな!」
ふつと沸いた感情を誤魔化すようにして振り返りざまに男の手を払う。そこにいたのは眉間と額に深い皺を刻み、立派な口髭もたたえる男だ。思い通りの反応が得られた手応えでニタリと笑う男はもう片方の手に持たれた物を見せびらかしている。
「今生には美味い物が多い。供物では食えんからな」
赤白緑と丸く団子が連なる串が二本持たれている。うち一本を女に差し出し、もう一本は口元に運ぶ。
「今宵は付き合え、梵」
「団子一本分ぐらいなら」
「交渉成立だな」
かつて青鬼として因縁を結んだ間部詮勝は、頑固じじいの顔にやんちゃ坊主のような笑みを浮かべて団子に食いつく。かたや、隠し刀として青鬼と生命を天秤に刃を交えた梵と呼ばれた女は眉間には不満げな気色を浮かべつつ受け取った団子を頬張っているのだった。
⚪︎⚫︎⚪︎
道を一本二本と町中に入れば祭りの気配がより濃くなる。寿司、団子、蕎麦と見慣れた屋台の合間には鰻屋すら色鮮やかな法被姿で威勢よく客引きに励んでいた。団子一本で間部と共にすることを決めはしたがそろそろ十分だろう。と、数歩前を歩く間部の袖を軽く摘んで呼び止めた。
「なんだ、腹が減ったか」
振り向きざま、さも当然と言わんばかりの顔で間部が問いかけた。
「食いたいものがあれば言え」
「あんたは私が常に腹を空かしていると思っているのか」
「違うのか。ではなんだ?」
考えていたはずの言葉は一言も出てこなかった。間部は視線をじっと梵の瞳に向ける。
「他に理由があるなら聞こう」
「なんでもない。いや、どこに向かっているのか気になってだな……」
しばし絡ませた視線は梵の方が気まずそうに逸らした。あまりにも言い訳が下手な様子にどうしたものかと間部は思わず天を仰いだ。
「団子一本じゃ腹が減っただろうと思ってな。それに、朝餉の約束も果たしていない」
「朝餉?」
「忘れたか?」
間部の問いに返事はない。代わりに所在なげに彷徨う視線と忙しない瞬きを横顔で確認する。こんなに隙だらけな女であっただろうかと驚きを覚えつつも、刀であろうとした女の本性を剥き出した優越感も抱く。
「忘れちゃいないさ」
「ならば行こうか」
そう言って間部が手を取るが梵はその場から動かない。
「どうした?」
「……花火を見たいんだ」
「花火? 確かに今宵の祭りでは打ち上がるが」
「花火は亡き人の魂を弔うものでもあると聞いた。だから……」
「そうか」
梵の話も聞き終えずに取った手を強く握ると強引に引っぱる。思ったよりも強い力で引かれながら往来の人混みの合間を進んだ。共に口をつぐんだまましばらく歩くと川沿いの土手まで戻ってくる。足を止めた二人の横では往来が途切れることはない。
「おまえは誰の魂を弔うつもりだ」
思ったよりも詰問めいた口調に聞こえて梵は返す言葉を迷った。
「まさか殺生をいちいち覚えているわけではあるまい」
共に得物を手に刀となり、誰かの刃として生きてきた。今こうして生きているのは、あの時生きたかった誰かを屠り続けた結果であるのだ。
「奪ったものなど記憶に留めておくか」
「……奪われたものはあるだろ」
ストンと沈黙が落ちる気配がした。喉の奥に嫌な感触が詰まる。だが言葉は取り戻せない。
「あんたにだって……守りたくても守れなかったものがあるだろ」
今でもまだ青鬼と隠し刀であれば、即座に胸ぐらでも掴まれていたのだろう。握られたままの手が間部の中で巡る逡巡を露骨に語りパッと離れた。
たったひとつの言葉で崩れてしまいそうなほどの張り詰めた空気に突如軽快な声が割り込んだ。互いに敵の接近を許したかの如き殺気を纏わせて振り返った先にはひとつの屋台がある。その店先では頭の先からつま先までころころと丸い男が満面の笑みを浮かべていた。
「そこのご隠居! 可愛い孫娘の前でいいところ見せないかい!」
「的当てだって」
「子供の遊びか」
ご隠居と孫娘、なるほどと妙に納得しつつ間部を見ると一瞬でも取り乱したことを恥じるかのように眉間の皺を深く刻んでいる。これが青鬼と呼ばれ、黒船で片割れの片腕を奪い、命を対価に思想を戦わせた男だったのか。そんな疑問を抱くほどには人の気配のする姿で、思わず梵は笑いをこぼしていた。笑われた理由のわからない間部は訝しげな視線を向ける。
「手裏剣の的当て、だってさ。ご隠居」
仏頂面なご隠居の眉尻がピクリと動いたのを梵は見逃さなかった。
「子供の遊びじゃなかったのか?」
「その通りだ。他愛もない」
「隠密が祭りの屋台で本気を出すなよ。おやじも可哀想に」
「元、隠密だ」
二人の姿は河川敷にあった。相変わらず仏頂面の間部の手には折詰が持たれている。ずしりと重いその折詰の中身は饅頭だった。先刻、子供の遊びと一蹴した手裏剣での的当てにて隠密の実力を遺憾なく発揮した結果である。赤子の手を捻るように次々と景品を当てていくので、当初は喜んでいた屋台の丸っこい店主はみるみると顔色を変えて最後はやめてくれと懇願した。間部も景品が欲しいわけでもないので投げるのをやめたがその時にはもう獲得した景品の山となっていたのである。
「……大人気ない」
「何か言ったか?」
「いや、何も」
もう店じまいだ、と景品を渡そうとする店主に、そんなものは要らぬ、と頑なに受け取らない間部との問答の末に得たのが近所では有名な菓子屋の饅頭だったのだ。
「あやつが河内堂の店主と旧知だったとは」
「そういやあんた、饅頭が好きだったな」
「河内堂の饅頭は美味いぞ。茶でも飲めるならすぐに開けるんだがな」
そう言って周囲を見回せど花火のうち上がる直前の河川敷にそのような場所などあるわけがない。それどころか激しくなった往来と人混みにはぐれてしまわぬように手を繋いで歩くほどである。これでは本当に孫娘のようではないか、と考えるが大きくて骨張った手が握る強さに心地良さも覚えていた。
あの夜、この固い手に幾度となく極楽へと導かれた。別れた後も感触を反芻した男の手が自分の手の中にある。時折強く握るとすぐに握り返されて、言外の想いを確認するかのようでもある。
やがてどちらからともなく指を絡めた。硬く乾いた指先が梵の手の甲を撫でる。女にしては無骨な手の手骨を確かめるように指先が往復していた。
「女の手だな」
今更のように間部が呟いた。そんなことなど言われなくてもわかっている、と喉まで出てきた反論は包み込む大きな手の温かさの前に飲み込んだ。誰かの手に守られた記憶は遠い昔のことで、庇護を求める相手などいないと心に決めて生きてきたのである。
黒船でのあの夜に。
突然、喉の奥に詰まった嫌な感触を吐き出そうとするかのごとく咄嗟に手を振り払おうとした。しかしすぐに握りしめられてしまう。
「大丈夫か?」
思いもよらない問いに見上げると優しげなまなざしが向けられていた。それはあの朝にも見たと記憶と重なる。
「大丈夫とは、何が……?」
「随分と心音も呼吸も早い。褥の上のようだが……、あぁ、そうだったか」
何事でもないようにさらりと言うと握っていた手を解き梵の肩を抱き寄せた。人混みの中で護るように抱く様子に安堵よりも先に戸惑いを抱く。見知らぬ間部を垣間見たようであった。
「孫娘ってのはこうするものなのか?」
「おまえが孫娘は無理がある」
「じゃあなんだ」
「娘か妻か……、いや、何でもない」
「……なんだよ」
あまりに露骨な反応を見せた梵を間部はじっと見下ろした。
「武家や商家の妻が相当に若いことは珍しくない。金も権力も持てばあとは色だ」
「あんたもそうだったのか?」
「そんなことを聞いてどうする」
「だって、あんた、幕府の……」
互いの過去を蒸し返して何の得があろうか。ましてや、敵対した時代よりも過去のことなど。わかっていたはずだが、梵は問わずにいられなかった。
わたしは何人目の女か、と。
喧騒の中に落ちた沈黙が答えだったのか。間部からはあいもかわらず他人事のような調子で返ってくる。
「そんなことを聞いてどうする」
「それも、そうだな」
「おまえの方はどうなんだ?」
「……わたしか?」
「おまえはあれから他の男と何かあったか?」
「わたしがそう見えるならどうかしている」
「おまえほどの女が勿体無い。褥の上では存外いい女であったぞ」
そう言いながら肩を抱いていた手が背を撫で細い腰を包み込む。悔しさすら覚えるほどの慣れた手つきである。
「これからの時代は得物など持たずに生きていけるだろ」
「今さら娘の真似事でもしろと言うのか?」
抱き寄せた腕の中で抗議の声を上げる梵だが、本人が思うよりもずっと娘のように隙もあれば揺れ動く情を隠しもしない。その刃が感情すら削ぎ落としていた頃が信じられないほどにそこには生身の女がいた。
「おまえの器量なら十分にできるだろう。刀として朽ちていくのは惜しい」
間部としては率直な感想であった。これまで出会った中でもとりわけ己の意思を貫いた女の一人だ。自然と幸せを願うものである。隠し刀にも生まれた時と場所が異なれば女としての普通の幸せがあったかもしれないのだと。
「帰る」
「突然どうした」
「どうもこうもない。わたしは帰る」
唐突に梵の口から出た言葉に驚いて視線を向ける。身を捩って腕の中から脱出しようとする梵の腰をしっかりと抱え込んだ。片腕で押さえ込んでいるだけなのでその気になれば逃げ出せるはずの女だが、抵抗する様はどうにも本気ではないように見えた。
「今度は何が気に食わんのだ」
呆れ混じりの問いには沈黙が返ってくる。こうなると子供の駄々だと小言が口を突きかけた間部はふと思い至った。
「睦言が欲しいならそう言え」
どうやら正解のようであった。途端に大人しくなり、抗議に満ちたまなざしを向けるがそこに敵意は微塵もない。羞恥の極みといった風情で一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたいと願うような様である。
「そんなんじゃない」
「欲しいなら欲しいと言え。いくらでもくれてやるぞ」
「そんなのは要らん」
「では何だと……!」
思ったよりも強い抵抗を示した梵が腕の中から飛び出した。すでに流れの激しい往来に身を投じようとする小柄な体躯を慌てて掴んで引き寄せる。屋台のおやじから半ば巻き上げた饅頭の折詰が手元から落ちるのも意に介さない。今度は逃げ出さないように両腕でしっかりと胸元に抱え込んだ。
「危ないだろうが」
「あんたにとってわたしは何だ?」
「……梵?」
「腹が減ったかと心配され、人混みでも危ないと守られる。わたしはあんたの子供か」
胸元から聞こえる押し殺した声が喧騒に消えるとまたも梵は逃げ出そうとして暴れだす。それを阻止する間部の腕は先刻よりずっと力強い。往来の傍らで暴れる若い女を腕の中にしっかりと抱きかかえる様子を怪訝そうに横目で見ていく者も多かった。
「帰したくない」
「……は?」
腕の中からは全く色のない反応が返ってきた。それでも緩めることのない腕の中では次第に抵抗が弱くなっていく。体温を感じるほどに身を寄せているのだ、驚くほど速い拍動も梵には隠し切れてはいないだろう。
「本音が聞きたいのだろ?」
「それって……?」
梵の疑問を空気をつんざいた破裂音が飲み込んだ。夜空に咲く色とりどりの大輪に歓声が上がる。人々の喧騒が全て空を彩る花火に奪われ、誰もが艶やかな華に見惚れていた。間部の腕に抱きしめられたまま背中越しで幾重もの破裂音を聞いてた梵だったが、不意に腕が緩んだ気配がして顔を上げる。花火の閃光で赤に青にと染められる間部が見つめていた。頬には大きな手が触れ、親指の腹が唇の柔らかな感触を確かめている。
「人が……!」
「大丈夫だ。皆、花火を見ている」
煙火の咆哮ですら言葉を掻き消すことが出来ない距離だった。その音を聞いたのは耳だったのか。それとも触れた唇が伝えた振動だったのか。あの一夜以来、記憶の中から何度も呼び覚ました濡れた粘膜の感触が体温を伴いながら梵の唇の上で静かに蠢いていた。
その後、無情にも人々に踏まれ続けて形を歪めて臓物が飛び出した饅頭の折詰だけが残されているのであった。