トゥレンブラの書-The Book of Trumbrela- 作:式塚あきのり
暫く待って若き助祭リチャード・フォスターは戻って来た。
助祭の手にあるのは銀のトレーの上に3つのティーカップと1つのティーポットがある。ティーポットからは僅かに甘ったるい香りが漏れ出し、やがて部屋を満たす。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません……」
「いえ、さほど待ったわけでもありませんから」
クラリッサはフォスター助祭に劣らぬ爽やかな微笑を返しながら応じた。
二人は彼からカップを受け取り、それぞれ口をつける。
タカオは唇を湿すや否や、吐き気を堪えた。それは飲み物というより、蜜に溺れる罰のようであった。その紅茶はあまりにも甘かった。タカオは無理に一口飲みこむ。
「それにしても……外から人が訪れることなど、滅多にございません。私としても驚いております」
「そういえば……ウェンディちゃん、いえ、リード教授も最近来訪したと耳にしましたわ。教授はいったいいつ頃、この街に?」
クラリッサのカップはすでに半ばほど空になっていた。その速さに、タカオは信じられぬ思いで彼女の手元を凝視した。
「……え、リード教授は、トゥレンブラの出身ですよ?」
「えっ……?」
その一言は、沈黙を裂き、2人の心臓を冷たく打った。
「け、けれども……リード教授は≪未明の聖塔≫について詳しく語っておられましたのよ……?」
クラリッサの声音は、隠しきれぬ動揺に震えていた。
「≪未明の聖塔≫……とは、一体?」
「あぁっと、なんというか、その……」
魔術師以外に≪未明の聖塔≫については知られてはならない。その原則をクラリッサは失念していた。
「──うーん……私の知らぬ間に、街の外へ旅に出られたのかもしれません。その際、その≪未明の聖塔≫について知識を得られたのでしょう」
助祭は僅かに眉を寄せ、やがて結論づけた。彼はそれ以上≪未明の聖塔≫に触れる事をしなかった。2人にとって何よりもありがたい事だった。
「それでは、本題に戻りましょうか。"アルシバンデール"について……ですよね。」
彼は一口、紅茶で喉を潤してから語りはじめた。
「この街では、月に棲まう御方として崇められています。真理を司るのか、あるいは真理を覆い隠しているのか──それは誰にも分かりません。けれど我々にとってはただ……月そのものが神なのです」
彼の声は静かでありながら、影を孕んでいた。陶酔にも似た響きが、聞き手の胸の奥に潜む何かを掻き乱す。
「月を神に……」クラリッサが思わず呟く。
2人の思い浮かべられる月の信仰といえば、ギリシャのアルテミスや中国の嫦娥であった。だが、この街の信仰は明らかにそれとは別の系譜に連なるもののように思われた。
「我々は……月にこそ神が、
フォスター助祭の頬はわずかに紅潮し、その口調には陶酔のような狂気が滲んでいた。やがて彼は立ち上がり、手を組み合わせて窓の外を仰ぐ。クラリッサとタカオは完全に置き去りにされた。
「……嗚呼、なんて美しい光なのでしょう。なんて美しい微笑みなのでしょう。私は、その欺きが愛おしいのです。どうか永遠に隠したままでいてほしい。真実を知らされるより、欺かれている方がどれほど幸福か……お二方もそうは思われませんか?」
窓の外に視線を注いだまま、助祭は2人へ問いかけた。返答を見つけられず、2人はただ顔を見合わせて口を噤んだ。
「この世には、知れば不幸になる摂理ばかりが満ちています。人間とは無力であり……運命と言う冷たく狭い檻の中で生涯を終えるしかないのです。なんて、不条理なのでしょうか。なんて残酷なのでしょうか。」
「確かに、この世界はいつでも冷ややかな顔を見せるわ。そんな世界を知らぬまま、無知なまま自分の部屋に閉じこもれるのなら──きっと幸福なのでしょうね……」
クラリッサはブツブツとつぶやき始めた。その顔には昏い影が差し、何かに捕らわれているようだった。
タカオは彼女の過去を詳しく知らないが、その背後に深い傷が潜んでいることを察した。そして、同時に同じ傷を負っている者同士と言う仲間意識が僅かに芽生えた。
「えぇ……だから私は祈るのです。どうか我々に“真実を隠したまま”永遠に欺き給え、と」
タカオはしばし沈黙した。
無視論者である彼の理性は「愚かしい」と叫んでいた。
だが胸の奥には、奇妙な納得が芽吹いていた。生まれながらに挫折をしていた彼にとって、“欺きの中の安らぎ”という響きは、ひどく甘美に思われたのである。
「……この街は必ずや、あなた方を受け入れるでしょう。ここは、他のどんな地よりも寛大で、素晴らしい街なのですから。月主もまた、祝福を与えられるはずです。」
フォスター助祭はそう言い、2人へ微笑んだ。クラリッサは彼の言葉に素直な感銘を覚えていた。しかし、タカオの黒い瞳には一瞬、深い思案の色が宿った。
「詳しいお話をいただき、感謝いたしますわ。とても興味深うございました」
そう言うとクラリッサは、先ほどまでの沈んだ表情を手際よく隠し、澄ました笑みを作り出した。営業の腕前にかけては、彼女はやはり一流であるらしかった。
「ところで……お2人はどなたからこの街のことを聞かれたのです? トゥレンブラは外界で名を知られることの少ない街故に……」
「私たちは、オフィーリア・クラークという魔術師から紹介を受けました。そういえば、彼女は何故あんなにもトゥレン──「あぁ、あの裏切り者のことですか……」
その声の冷たさに、2人は思わず息を呑んだ。
今まで、助祭には神を語る時の陶酔を除けば、ただ温厚で人当たりの良い青年という印象しかなかった。だがその一言は、まるで氷の刃のように鋭く響いた。
「えぇ……一体、どういう意味でしょうか?」
「いえ、何でもございません。……ただ、オフィーリア・クラーク氏はこの街では悪名高い人物でした。彼女はこの街に災いしかもたらさなかった。……学院に籍を置いていながら、常に問題を引き起こしたのです。」
自己の破滅を願うような言葉。厭世的な言葉たち。
そんなのに記憶に彩られているオフィーリアは、確かに2人にとっても好印象の相手ではなかった。故に、助祭の言葉に否応なく納得してしまう自分たちに気付き、何処か苦い物を感じた。
「申し訳ありません。この話はここまでにいたしましょう。彼女が裏切り者であったとしても、月主に仕える聖職者である私が人を悪く語るなど、決して許されぬことですから」
助祭はそう言って窓辺に向かい、外へ祈りを捧げはじめた。その姿はどこか気紛れで、しかし異様に真剣でもあった。
「あぁ、そうだ……フォスター助祭。この街の孤児院はどちらにあるのかしら? 私は、オフィーリアさんに『孤児院が医師を求めている』と聞いて、ここへやって来たのだけど……」
クラリッサの問いに、助祭は何も答えずに窓の外を凝視したまま沈黙した。
「……月が昇りました。我らの主が」
釘付けにされたように視線を離さず、助祭は呟く。その姿には、正気とは思えぬ執着と狂信が滲んでいた。
タカオも窓辺に屈み、外をのぞいた。夜空に、満月に近い月が昇っていた。
「御姿が……見えませんか? お2人には……白銀に靡く髪の、あの美しき──」
彼の声が震え、部屋の空気が歪む。タカオもクラリッサも言葉を失った。冷たい汗だけが背筋を這い蠢く。
「あのお美しい御姿が見えないのですか!? あの、白髪の──「あぁ! ちょっとフォスター助祭! あんたって人は、昔からほんとうにマイペースで! 人を振り回して!」
扉が音を立てて開かれ、声が室内を切り裂いた。現れたのは、助祭と同じ年頃に見える修道女。白いローブを纏うも、その意匠は助祭のものとは異なり、金の髪が揺れていた。
「おや……リスター修道女」
「お客人を困らせてどうするの! 本当に、ごめんなさいね。いつもこうで……ちょっと怖かったでしょう?」
リスター修道女と呼ばれた女は、一目で世話焼きな気質だと分かる人物だった。
「あ、いや……別にその……」タカオは歯切れ悪く答える。
「そんな気にする話じゃないわ。≪未明の聖塔≫には変人も狂人もごろごろいるのだから。多少の奇行には慣れているつもりよ」
クラリッサの言葉は到底フォローには聞こえず、タカオは思わず頭を抱えた。クラリッサは先ほどの失敗を繰り返しているのだ。そして、彼女の記憶について心配し始めた。
「≪未明の聖塔≫? なんかカッコいいわね。なぁにそれ?」
それも、助祭の時と違ってリスター修道女は詳しく聞き出そうとしている。クラリッサは一瞬悩んだ末、モゴモゴと口を開く。
「あぁっと、そのー。め、面倒臭い場所なのよ……本当に、様々な人の計略が蠢いている……。ははは」
「ふぅん……なんだか、私はそこまで深く触れてはいけない場所みたいね。……余計気になるわ!」
リスター修道女は興味津々で身を乗り出した。どうやら、この修道女は気になる事があると熱くなってしまうタイプの人間らしい。タカオもクラリッサも頭を抱える。
「えぇっと、その。図書館みたいな、学校みたいな……も、若しくは議会みたいな場所ですよ」
タカオは助け船としてそう言う。しかし、その言葉はあまりにも≪未明の聖塔≫の性質を全て言い当てている言葉だった。
「成程……即ちは、この街の外の"社会"そのものって訳ですね!」
「えぇ! そう。まるでそうなの!」
≪未明の聖塔≫とは正に魔術師の"社会"そのものだった。ただ、2人としては早くこの会話を終えたかった。これ以上自分達から失言を零れ堕としたくなかった。会話を切り上げられるならば早い方が良い。
「けれども、私が知っている外の街の"社会"とは、少し違──「リスター修道女、もうおやめなさい。お2人は随分困っておられるでしょう。≪未明の聖塔≫とは、恐らくあまりに複雑で、我々の知るべきでないものです。月主も、きっとそう仰せでしょう」
思わぬ助け舟を出したのは、他ならぬフォスター助祭だった。つい先ほどまで恐怖の対象だった彼が、今は救いの光に見えるから不思議だった。
「けど……リチャード? あなたはそうは思わないでしょうけど、隠されたものを探し求める──その探求こそが生を豊かにし、渇きを癒やす道を開くのよ! 人生とは、まさにそれを追い求めるためにあるのだから!」
リスター修道女はなおも引かず、頑なで熱に満ちた眼差しを向けていた。
「やれやれ……お前たちはいつまでやっているんだ」
呆れた声が部屋の入口から響いた。
そこには、四十代後半ほどに見える大柄の男が立っていた。白いローブはほつれ、煤け、彼の疲れ切った面差しには幾多の苦労の影が刻まれていた。黒髪には白いものが混じり、荒んだ生活を隠しきれない。
「シェ……シェパード修道士!? 貴方という人は……毎度毎度、礼拝を怠った挙げ句、今度はどこをほっつき歩いていたのですか!」
「街で聞きましたよ。酒と煙草に溺れていると。あなたに本当に月主に仕える者の自覚があるのですか!」
リスター修道女もフォスター助祭も、声を揃えてその男──シェパード修道士に噛みついた。
「まったく……俺はな、そんな真面目ちゃんな2人が、不覚にも礼拝をすっぽかしそうになっていると聞いて、憂えて来てやったんだ」
その一言に、修道女と助祭は青ざめ、互いに顔を見合わせるや否や、修道士の脇を駆け抜けるようにして走り去った。
「……落ち着きの無い奴らで、すまんな。あの2人はまだ“若い”んだ」
「あ、ありがとうございます……た、助けていただいて……」
タカオはすっかり疲れ果てた顔で呟いた。しかし、シェパード修道士の表情は揺らがず、むしろ冷ややかに二人を見下ろしていた。
「お前たちは……≪未明の聖塔≫の者か。俺は──魔法使いだ。お前たちは俺を殺すのか?」
修道士の言葉に、場の空気が凍りつく。
魔術師──それは赤い血を持つ人間でありながら、
その探究の道は往々にして残酷にして血に濡れたものだ。最もありふれた“努力”は、魔法使いを捕らえ、嬲り殺し、魔力を奪うことにほかならない。
「……もう、そんな野蛮なことから足を洗いました」クラリッサは真っ直ぐな声でそう告げた。
「お前は──……まぁいい。とにかく、お前たちはここに来てまだ1日も経っていないはずだ。満月まではまだ数日残されている。まだ遅くはない。思い出せ、自分の役割を。そしてロンドンに戻れ。お前たちの居場所は、ここではない」
修道士は淡々と、冷ややかに言葉を重ねた。
「……私の居場所はロンドンには無い。私は全てを失った。私は切り捨てられた……盤上遊戯の
クラリッサは言い切ると、タカオを置き去りにして去っていった。
日本人の中でも平均的な背丈のタカオは、大柄なシェパード修道士の圧に抗しきれず、ただ立ち尽くすしかなかった。無情にも、その黒い瞳が彼を射抜く。
「おい、錬金術師……お前はリード教授に既に会ったな」
声は低く、確信を帯びていた。
「あれもまた哀れな錬金術師だ。愚かしい考えに絡め取られ、身を汚し、崩れ堕ちた。……お前も同じだ」
その言葉は、魔術師を愚かと断ずる呪詛の響き。傲慢にして、典型的な魔法使いの声そのものだった。
「……錬金術師よ。お前が歩んだ道が血に濡れていようと、これから赤く染まろうと、黄金に染まろうと俺の知ったことではない。……だが、俺は親切な男だ。だから忠告してやろう。」
修道士は静かに口を開いた。
「この街は狂っているぞ。──狂気の月に支配されているんだ。」
Tips
リチャード・フォスター:
アルシバンデール教会の若い助祭。アルシバンデールを月主として非常に崇めている
リスター修道女:
助祭と同い年くらいの女性。金色の髪を持つ。
世話焼きな人で尚且つ頑固。
敬虔な信者であるが、どこか助祭とは思想が違う。
シェパード修道士:
40代後半に見える草臥れた中年男性(大男)。礼拝には参加しないらしい。
魔法使いである。クラリッサとタカオに忠告を行った。