トゥレンブラの書-The Book of Trumbrela- 作:式塚あきのり
「この街は狂っているぞ。──狂気の月に支配されているんだ。」
シェパード修道士の言葉は、嫌にタカオの耳にこびり付いた。それは焦げついた鉄鍋の残滓のように、いかなる洗浄にも剥がれぬ白衣の汚れのように。
もし今見ている光景が、自らが犯した罪に対する罰でないのならば──それは、不条理という名の別の道理であろう。
人は嘆く権利を与えられている。惨めであっても、なお呻き声を上げる自由を。……だが、その権利すら奪う甘美なる毒を手にしたとき、人は飲み下すべきなのか。それは、人が人である所以を喪う行動ではないのか。
「お前は、まだ狂気の月に支配されていない。お前は、まだこの月の街から逃げ出す事が出来る。」
修道士の声は続いた。それが慈悲の響きなのか、あるいは魔法使いである傲慢なのか、タカオには測れなかった。
「……まぁ、お前が本当に人間を辞めて、人間と言うこの世界で最も祝福され見放された存在から抜け出したいのであれば……勝手にすればいい。それはお前の判断だ」
タカオは己の人生で、自らの判断を下したことが殆どなかった。
協調とは、人が群れで生き延びるために尊ばれる性質だ。だが、病的な協調は個を切り捨てる。
弱き人間が紡ぎ出した生存の策。その渦に、タカオは絡め取られていた。
「まだ、間に合う。……満月の日までに。それまでに決着を付けろ」
そう告げ、修道士は去った。残された応接間には、冷めきった紅茶と、タカオだけが取り残された。
――――――
僕は段丘状の街をただ下り、月光に照らされながら商業区の宿へ戻った。
「……も、戻るのが遅くなり、申し訳ないです」
宿に足を踏み入れたが、僕の謝罪に誰の返事は無かった。この宿には僕以外の気配が無かった。
そう言え、と思い起こした。教会を出る時、あの時に大勢が集まっていたはずだ。人々の影は皆、陶酔した信徒のように月へと身を委ねていたのが嫌に印象的に残っている。もしかしたら、宿の女主人のソフィ夫人も其処に居たのかも知れない。
──この街は月を崇める街。礼拝が夜に行われることなど、不思議でもない。をう自然に思考回路が導いた。
「けど……クラリッサさんは、何処に?」
先に教会を出たはずの彼女の姿は見えなかった。
宿の3階へ続く階段を登る。初めて宿に来たときは、外の騒めきが数かに聞こえていた。しかし、今は──耳にまとわりつく重苦しい沈黙しか無い。
──病的な静寂は、人を狂わせる。
僕は、まるで非論理的であるが、確信めいた予感を抱え彼女の部屋の扉を押し開けた。そこに彼女はいないと、何故か僕は知っていた。
整然とした客室。
物で溢れた僕の客室とは対照的に、彼女の部屋はあまりに静かで、整っていた。それは、ある意味病的とも言えるほどにだ。
「……クラリッサさんは、何処に行ったのだろう?」
彼女の言葉が甦る。『確かに、この世界はいつでも冷ややかな顔を見せるわ。そんな世界を知らぬまま、無知なまま自分の部屋に閉じこもれるのなら──きっと幸福なのでしょうね……』
「あの人も、僕と同じ傷みを……彼女が抱いている……のかな?」
そう呟いた刹那。視線の先にある机上には日記帳があった。[Diary]と記された、ロンドンの文房具屋だったらどこでも買えるようなありふれたノート。
好奇心は猫を殺す。だが、魔術師は好奇心により生まれる。僕は、生憎にも魔術師だった。好奇心は抗えず、頁を開いた。
彼女の日記はあまりにも平凡な内容だった。
勝手に他人の日記を覗き見しながらも、何処かつまらないと傲慢な感情を抱いた。彼女の日記は大抵が1行でまとめっている。
【今日行った"アイビー・アンド・ティーカップ"のベルガモットは美味しかった】【久々にロンドンも晴れた。きっといいことがあるはず】と言う具合にあまりも特筆すべき点が無かったのだ。多分、魔術師としての日常は書かない主義。若しくは、書いたとしても別のノートに記すと決めているのだろう。
【我々の仕事を忘れる事勿れ】
【戒めろ。我々は所詮、盤上遊戯の
【この街に来た"真の意味"を胸に刻め】
【我々の目的は───】
まさに殴るように書く、殴り書きそのものだった。
その字に僕の心臓はドクンッと大きな振動を鳴らした。
最後の最後の一番大切な部分はインクのような物で執拗に塗り潰されており、分からなくなっていた。
「……──他人の、それも女性の日記を勝手に見るだなんて、酷い人だこと」
冷たい女の声が聞こえた。僕の罪が他者に暴かれた恐怖から急いで日記を閉じ、周囲を見渡した。しかし、部屋には誰も居なかった。
「招かざる客人。愚かなる魔術師の男。……されども、されどね、トゥレンブラは来る者全てを拒まない。同時に去る者全てを赦しはしないのだよ。」
声は続く。
必死に辺りを見回して声の在処を突き止めようとするが、自分以外誰も見つける事が出来なかった。否、自分さえも喪っているのかも知れない。
「ねぇ、中邑孝雄くん。君はこの街をどう思ったのかい?」
自分の名前は声の主に一度たり名乗っていない。なのに、呼ばれた。その事実は僕を恐怖の淵へ落とし込むには容易だった。
……山での声掛けに答えるな、という幼い時分に優しい祖母から聞いた古い戒めを思い出す。山の声。それは妖の声。それは決して人のものではない。
「ふむ……成程、黙り込むわけかね? ……そうだ、確かに君は"正しい"。されど、正しき人間の道から逸れた君にとっては……"正しさ"は既に忘れたも同義であるとは思わないのかい?」 茶化すようなその物言いにタカオは、僅かながらに怒りを抱いた。
「それとも、君は深夜の横断歩道ですら律儀に守る大真面目小僧と言う訳かい? 人の生命を。魔法使いの生命を地面に落ちている屑程度に思っていないのにかい?」
無視をした。必死に無視をした。これは、悪魔の囁きである。悪魔の囁きには耳を貸してはならない。そう誰かに教わった。
「私はね、悲しいのだよ。魔術師の個人的欲求の為に、無辜なる魔法使いの命が奪われ続けると言う現状が……」
女の声は淡々と進む。
「それでも、安心して。中邑孝雄くん。私はそんな君ですら拒む事は無いから……私は、哀れな少女の為に……私は、愚かしき男の為に……そして、否定する事しか出来ない自分自身の為に……この街を楽園にしてあげるから」
女の言葉は慈愛に溢れたモノであったかも知れない。
しかし、その声音は冷たく低く僕の背筋を静かに凍らせた。僕はその悍ましさに耐え切れなくなり、自分の泊っている部屋に戻り、全てを忘れる為に眠りに着いた。
――――――
朝、目覚めると街の活気はすっかり戻っていた。
「知らない……部屋……?」
呟いた途端思い出した。僕は職を求めてトゥレンブラと言う街にやって来ていた。
その事を思い出せば、さっさとベッドから抜け出し着替えを済ませる。そして、1階へ降りて行く。昨日の教会で慌てて出て行ったウェンディと10時に会おうと約束した事実をぼんやりと思い出していたからだ。
「おや、タカオさんじゃないかい! おはよう。ウェンディがあと5分もすれば来るよ!」
宿屋の女主人であるソフィ夫人はそう快活な声で僕に言った。
僕はこう言う時にどんな表情をすればいいのか分からなかった。ただ、いつの日か、大抵の事は笑えば済む。と言われた事を思い出した。僕は不器用ながら笑みを浮かべてみた。
「ほら、タカオさん。そこに座って待ってなさいな」
正しい反応だったようだ。
僕は、夫人が指さした椅子に静かに座った。そうして、数分もすれば、ウェンディが満面の笑みを浮かべながらやって来た。
「ふへぇ……申し訳ないです。昨日は、無礼を働いてしまい……」
「い、いえ……別に。大丈夫です」
僕は、先ほどと同じくどうにか口角を上げ笑みを作り出した。僕は昔から会話と言うものが特に苦手な性分だった。
「では……今日はどうしますか?」
ウェンディは、優し気な笑みを浮かべながら問いかけてくる。僕に笑みを浮かべながら話す人は、今までに居ない。そんな非日常感が僕の心に永遠に滞在し、少し気持ち悪くなってきた。
「……えぇっ、と、その。ロー、レンスが、学院。と、と言う……ところに案内。してくれませんか? ゆ、許されるのならば……そ、その……わたしは其処で働きたいので……」あまりにも言葉が拙い。30年以上生きて来た結果がこれとは、反吐が出そうだ。
「えぇ、そうしましょう。そうしましょう!」
ウェンディはヘーゼル色の左目を輝かせながら言い、軽い足取りで進み始めた。
彼女はそこまで僕の拙い言葉に気にしていないようだ。僕は安堵の息をトゥレンブラの空気に混ぜ、ウェンディに置いて行かれないように、進み出した。
「その、学院は……どのような、こう……雰囲気なのでしょうか?」
何度も凸凹な石畳の道に引っ掛かりながら、僕は聞いた。無言のまま歩き続ける事に気不味さを覚えたのだ。
聞いた瞬間、ウェンディは笑顔を引っ提げて、僕の方へ振り返って来た。
「そう……ですねぇ。皆が皆、自分の探求したい事を自由に探究できる風土が整っていますよっ」
彼女の表情は、爽やかなものだった。きっと自分自身が最高の学府に所属出来て居る事を誇りに思っているのだろう。
「昨日も申し上げました通り、今現在錬金術学は衰退の一途を辿っているのです。だからこそ、タカオさんには私の研究室に属してほしい。そうではなくとも、錬金術学の研究者。若しくは教授として学院に所属してほしいのです」
自分が教授をしている姿など、上手く想像出来なかった。多分、学生に舐められ貶められるような教授になるのだろう。
……少し憂鬱になった。
「タカオさん、ここですよ! この学院こそ、トゥレンブラの源流となる場所です!」ウェンディの明るい声が僕の心を現実に押し戻す。
顔を上げると、絢爛豪華な白い建物が僕の目に飛び込んできた。
白い建物だと言うのに、外装はとても美しく保たれており、細かいレリーフがこの建物を作り上げた職人の腕の高さを物語っていた。教会の時と同じく、月を模った紋章が多かった。
「さ、入りましょ」ウェンディに誘われるままに僕は学院の中へと入って行く。
学院内は整然としていて、明るくそして人っ子一人居なかった。
「あまり……今の時間は人が居ないんですね……?」独り言のように、それでもウェンディに問いを投げかけるように言葉を発する。
「えぇ、ローレンス学院が主に活動する時間帯は日没後なのですよ。今の時間はあまり人が居ません」
そこで、確かに昨日のウェンディが夕方頃に学院に戻った事をすっと思い出した。
「そ、その……ウェンディさんは、つ、疲れてませんか? す、睡眠不足だったりしませんか?」
自分で言って、その問いは気持ち悪いと感じられた。他人に睡眠の心配をされる程、お節介な事は無いし、それどろこか異性に心配されるだなんて、気持ち悪い事この上無いだろう。
「いえいえ、全然大丈夫です! ……と言うのも、少し不眠症で。寝れないなら活動をした方がよっぽど効率的です!」
「そ、そうですね……」
僕自身、そんな生活を十何年と繰り返してきた。だからこそ、自分にはその生活について説教をする資格はないと瞬時に悟った。
「さて、私の研究室に向かいましょう。まだ、共同研究者が居る筈です」
ウェンディは慣れた歩調で近くの階段を上がって行く。
上がった先のフロアもまた誰も居なかった。酷く綺麗で酷く不気味なそのフロアを抜けて、古びた様子の渡り廊下を通る。ここまで、人っ子一人目撃出来て居ない事が不気味に思えて来た。
「……すみませんね。私の研究室が少し遠い場所なんですよ。」
そう言うなり、ウェンディは階段を下がり始める。
この校舎は校舎はあとから作り足されたような構造になっている。その所為で、こんなにも複雑怪奇な様子になっているのだろう。きっと自分だったら、半年は迷い続けるに違い無い。
今まで居た校舎を出て、中庭のような場所を歩き出した。中庭には草木が生い茂り、自然豊かな空間だった。
普通の大学などであれば、こんな場所があれば学生たちがフリスビーやバドミントンでもやっている筈だ。しかし、ローレンス学院にはそんな学生は居なかった。
「錬金術学はこの学院内で1番最初に開講された科目です。それ故に、学院の奥の方に校舎があるんですよ」
「成程……歴史があるが故にこの複雑さ……なんですね」
「そうですね。ははは」ウェンディは乾いた笑いを見せた。多分、彼女にとって喜ばしい話ではないのだろう。
次は、古びた木製の校舎に入って行く。
電灯すら最初からついておらず、蝋燭の灯りが曖昧に廊下を照らしていた。昼間だと言うのに、夜みたいな暗さだった。
「あともう少しですから! すみませんね、歩き回らせちゃって……」
「いえ、全然。……全然、構いませんから……」
次は上へ向かう階段を登る。今度の階段は木製で目に見えて腐敗がある。少し不安だったが、第一歩を踏み出してみる。
──ギィっと鳴るは階段の悲鳴。
この階段は早急に修理でもしてもらいたいが、それは叶わなそうだった。恐らく、この学院では錬金術が軽んじられている、と言う話に続くのだろう。予算を与えられていないようだ。
「ほら、ここですよ。」
階段を上がり暫く歩いた先には木製の扉があった。壁には≪錬金術学第8研究室-内視的錬金研究室-≫と言う札が掲げられていた。その言葉に僕は一切ピンとこなかった。
ウェンディは扉を押し開け、部屋に入って行く。僕も少し緊張した足を無理矢理前へ動かして、中に入って行く。
室内は整然としている。クラリッサさんの客室と同じように整然としていた。
「おや、リード教授。今日はお早いんですね」人の声が聞こえた。
そちらの方を見ると、長い金髪を束ね眼鏡をかけている人物が居た。
その人物は一見すると見た目では性別を推し量れない(今の時代はそのような狭い価値観にとらわれるべきでは無いとは思うが……)。しかし、その人物……彼は確かにがたいが良かった。その為、彼が男であると分かった。
「おや、貴方がタカオ・ナカムラさんですか? リード教授から話は聞いておりますよ。僕の名前はケビン・スターリング。この研究室の助手です」
彼は人の良さそうな笑みを浮かべ、そう言った。その笑みはあまりにも輝いていて、眩しかった。
Tips
ケビン・スターリング Kevin Stirling:
ウェンディの研究室錬金術学第8研究室-内視的錬金研究室-の助手。
長い金髪を束ね、眼鏡をかけている。僅かにがたいが良いので男性だと分かる。