トゥレンブラの書-The Book of Trumbrela- 作:式塚あきのり
タカオはハーストと言う伝令係の男学生と共に、それなりに綺麗な校舎を歩く。ハースト以外に人の姿は全く見えない。
二人が向かうその先にはレジナルド・クラークと言う老人が居る。ローレンス学院の最高権力者であり、学院で一番軽蔑されてる人物。すぐ強硬手段に出ようとする老害。錬金術学の学部長でありながら錬金術学地位を揺るがして、貶めた張本人。
彼がウェンディとケビンからそんな恨み僻みに近い人物評は聞いていた。
それだとしても、学院の最高権力者に会う事はタカオにとって末恐ろしい話だった。過去に犯した罪が暴かれ、拒絶され追放させられるのが怖かった。
「クラーク学院長! ナカムラさんを連れて参りました!」
ハーストが重そうな木製の前で元気よく宣言した。すると、木の呻き声と共に木製の扉は勝手に開いた。タカオはクラーク学院長は魔法使いか魔術師である事が簡単に予想が付いた。証拠として、この街で一度も自動ドアを見た事無い事が挙げられた。
「さ、入ってください」その言葉に従ってタカオは部屋の中に入る。
部屋に入るなり木製の扉はバタンと閉まった。
タカオは驚き、部屋を見渡してみる。特に人の気配は見れなかった。それどころか、彼が知らない魔法道具が所狭しと置かれている。その様子はウェンディの研究室とどっこいどっこいな奇怪さだった。
「ナカムラくん。怖がる事勿れじゃぞ。わしはお前さんを取って食ったりはせぬからな。さ、少し先に進んで椅子に座りなさい」 疲れた老人の声。クラーク学院長は部屋の奥へと進むようにと指図した。
タカオは頼りない足取りで部屋の奥へと進む。部屋の奥には、応接間のような空間が広がっており、対を為すようにテーブルを挟んで椅子が置かれていた。
「し、失礼……しっ、します」
これまた頼りない声を出しながら、彼は座る。椅子もまた頼りなくギィと声を出した。
「すまないね。ナカムラくん。紅茶を淹れておってな。わしはこう見えても、実は紅茶についてはそこそこの拘りがあるのじゃ」
小休憩の末に出て来た老人は奇抜な恰好をしていた。
ゆったりとした臙脂のローブの着て、顔は白く長い髭に覆われており、髪自体も非常に長かった。そのローブは魔法使い達の趣味に思えたが、何よりも異様だった事が、目を布で覆っている事だった。
彼はその枝のような節榑る指を器用に使って、タカオの前にティーカップを差し出した。
「ナカムラくん、君はトゥレンブラの外の街から来たようだね。……一体、誰から……トゥレンブラについて教えて貰ったのかね?」紅茶を一口飲み終えた時、そう話しかけて来た。
学院長の話し口調は柔らかなんものであってが、どことなく推し量れない何かを感じ取り、彼は恐怖を抱く。
「そ、その……オフィーリア・クラークと言う方です」別に嘘を吐く必要はない。だから真実を語った。
タカオは正直に言葉を発してから、学院長と
しかし、所詮クラークの話である。もっと稀有な名前であれば、二人の関係性を疑ったかも知れない。しかし、クラークだなんて連合王国の地を歩いて居ればそこそこの確率で居るだろう。その結論に至り、タカオはそれ以上考えなかった。
「そう……か。」
学院長の表情は分かり易く変わる。学院長と
「……そうじゃ。ところで、時にナカムラくん。君は
「えぇ、人は優しいですし独自の信仰もとても興味深いと思います」
特に当たり障りのない事を言った。それは、タカオの本心から逸れない事実である。トゥレンブラの人々は基本的に優しい印象を受けていた。アルシバンデール教会などの独自の文化も蔑ろにする気は起きない。彼は、興味深いとだけ思っていた。
「そうか……。──もし、この街の景色が全て紛い物で、偽物だとしたらどう思うかね?」
「え……?」
何を言っているのか全く理解出来なかった。彼にとってこの学院長の話しはまるで戯言じみた夢の会話にように聞こえた。
「この街の景色が全て誰かの夢であり、君はその夢に不幸にも囚われているだけだったらどう思うかね?」
「この街が見せている夢。それは、人の魂を貪り食うだけの甘い夢だとしたらどう思うかね?」
まるで尋問を受けている気分になる気迫であり、彼は分かり易く肩を竦めた。学院長はそこで、自分が纏っている雰囲気が怖いことに気が付いたのか融和的な笑みを浮かべる。
「──すまなかった。ただ、お前さんには後悔の無い選択をしてほしいだけなのじゃ……満月の夜まで今日を含めて三日しかないのじゃよ。……お前さんは教会のシェパード修道士に会った事はあるかね?」
「え、えぇ……」
「そうか。あの男はわしがこの街で唯一信用をすることが出来る。この街で唯一"狂気"に染まっていない人物じゃよ。」老人はそう神妙そうな面持ちで言った。顔の大部分が布で覆われていると言うのに、その事はよく分かる。
「そ、その言い方は……無いんじゃないんですか? まるで、シェパード修道士以外はこの街の人は気が触れているとでも言いたげですね。」
「──この街の人は皆、哀れな被害者なのじゃよ。この街自体が歪まされているのじゃ。とある慈悲溢れる"魔導師"によって……。かの少女の慈善活動でこの街は出来たのじゃよ。」
彼は益々この老人が何を言いたいのかが分からなかった。
その威厳ある雰囲気で何を口走ると思えば、"魔導師"の神話を信じているらしい。タカオは内心、目の前の老人を馬鹿にし始めた。
「"魔導師"……だなんて。この世に存在しませんよ」
"魔導師"。それは運命と言う冷たい檻の中から抜け出した存在。この地球上に生きとし生ける者は全て、
「真実と言うモノは常に痛みを発するものじゃ。それ故に、わしは疾の昔にこの世界を視る事を拒んでしまったが、君はまだ若い。世界を視るべきじゃ」
学院長の話し方はまるで、眠らない子供に童話を聞かせるような温かく優しいモノだった。
「……君がもし、既にアリス・ローレンスと言う少女と出会っているのであれば、早くこの街を出てロンドンに戻ると良い。そうしなければ、君はこの街から永遠に出られなくなる」
「私は、もうそれで良いのです」
言葉が自分の口から零れ落ちるように出て来て彼自身でさえ驚いた。そして、なんて無様な様なんだろう。と自嘲する。
「──それでは、君は必ずや後悔するぞ。……君にも帰る家が、帰りを待っている家族が居るのじゃろう?」
「私は、その帰る家を。帰りを持っている家族を自分で壊したのです。……クラーク学院長先生。お手を煩わせて申し訳ありません。貴方の貴重な時間を使わせてしまいましたからね。……きっとここが私の新たな家になる街なのです。私は、もう。どうでもいいんです」
タカオは立ち上がる。
「あっ、オフィーリア・クラークさんは元気そうでしたよ。少し変な人ですが、きっと彼女は楽しく人生を生きていると思います」
そう付け加えて、彼は学院長の部屋から静かに出て行った。残されたのは、目に布を当てている学院長とまだ温かい紅茶だけだった。
「嗚呼、オフィーリア」その声音は神を想う時と同じものだった。
「……君は月の神を嫌い、呪おうとしていた。──"月の神への裏切りは、月の神の信仰へと繋がる"。ローレンス先生、貴方の忠告は正しかったのですね。」レジナルド・クラークは自身の目を覆う布を外しながら、呟く。
やがて、彼の澱んだ蒼い瞳が露わになる。その瞳は、この世に蔓延る全ての希望とそれが転じて発生した絶望を見届けた色をしていた。
「この街は哀しみと狂気の果てに生まれた"禁忌"から生まれた。」
誰か特に話し相手が居るでも無いのに、老人は静かに語り始めた。その眼差しの向こう側には、確かに月が昇り始めていた。
「私の敬愛する先生の罪だ。先生は月の裏側を覗き見て"真理"を得てしまったのだ。この地を覆いつくす“慈愛”を裏切り、その代償として、彼は祝福と呪いを同時に授かった。わたしは
「故に、この身も、この街も、“禁忌”そのものへと堕ちた。"
「なんと崇高で、なんと哀しい娘であろう。そうして、
月に手を伸ばしながら老人は語り出す。宵闇へと駆け出すその空に月は静かに輝き始めて、その空には銀髪の女が浮かんでいた。
「……貴方のその様子を見て、学生や教授、研究者は謂うでしょう。『学院長は狂っている』『学院長は病んでいる』っと」
男の声が学院長の部屋にやって来る。それでも、学院長は振り返る事無く、瞳を零れ落ちんばかりに見開いて月を見つめている。
「もう辞めてください。学院長、貴方がそんな人だから……貴方がそんな事を口走るような人だから、彼女は貴方の元から逃げ出してしまった。そして……この街からも逃げ出してしまった」
漆黒のように暗い髪に黄金の瞳を持ち、メガネをかけた男が学院長のすぐ後ろまで進み出て来た。
「──けれども、あんなにも破天荒だったオフィーリアはトゥレンブラの住民としての役割は果たしたようで良かったです。」
「ヘンリー。わしは例え君であったとしても、そのような事を言うのは許さぬぞ」
その弱い光を灯している蒼い瞳をヘンリーと呼んだ男の方へ向ける。
「許す? 誰が貴方に人を許す権利を与えたのですか? わたし達は、"楽園の魔導師"様によってこの楽園を生きる事を赦されているのですよ、クラーク学院長。わたし達は、"慈愛"と言う名の歪んだ優しさの手に絡められない唯一の生命体なのですよ。私達は、トゥレンブラと言う楽園に対して感謝しなければなりません。……トゥレンブラを呪うかのような言動。貴方こそ、赦されない存在でしょう!」
ヘンリーは学院長に迫りながらそう言った。
「君は、何も分かっておらんのじゃ。何も知らぬのじゃよ。愚かな男が成し得た偉業と言う名の禁忌を、かの無垢な少女と哀れな女の約束。全て、知らぬからこそ君はそのような事が言える。この世界はこの街と言う毒の所為で、滅んでいく運命にあるのじゃよ。」
「それはそれぞれ誰なのですか?」
その問いに対して、学院長は長い間考え込んだ。彼は真実を言うか否かを悩んでいるように見えた。その様子にヘンリーはやがて苛立ちを覚え始めた。
「言えないのですか? その登場人物は貴方の作った童話に過ぎないのですか?」
「わしは何度も何度もこの街の住民に忠告を行って来た。しかし、全ての住民がわしの忠告を無碍にした。」
「誰も貴方の童話に付き合うほど暇では無いのですよ!」
ヘンリーは強い口調で言った。学院長の表情は依然として変わらない。それどろか、目の前のヘンリーを蔑むような瞳をしていた。
「なんなのですか! この街の人が自分以外皆、愚かだと。白痴だと言いたいのですか?」
「答えは急がない方が良い。それどころか、答えはトゥレンブラには与えらえる事は無い。」
学院長はのんびりとした声音で言った。その声は、ヘンリーの苛立ちを更に増幅させるには十分だった。
「では、答えは何処へ? 禁書入り本棚ですか? ローレンス先生の家ですか? 月の裏ですか? 貴方の瞳の裏ですか?」
「ヘンリー。君はもう帰ると良い。彼女がこの街を見ている。彼女に見られている間には、余計な事をしない方が吉じゃ。余計な事をすれば、錬金術学の者共のように気が狂ってしまう」
「貴方に! 言われなくとも、帰りますよ。失礼しました。老害学院長!」
ヘンリーは罵倒言葉を学院長室に残して立ち去った。学院長は、はぁーっと長い溜め息を吐いた。
「嗚呼、この地をその血の通わぬ眼差しで眺めている"
「嗚呼、誰かの望みを否定する事しか出来ぬ出来損ないの"否定卿"よ。 わたしのこの望みすら"否定"して見せるのか! その黒き血はやはり冷たいのだな。」
「嗚呼、アリス・ローレンスの狂気の魔法使い、アルテミシア・カーライルよ。貴様は何者だ! 何故、我々を苦しめる。魔法使いよ、我らの矜持はそこまで堕ちたモノでは無いっ!」
狂ったようにレジナルド・クラークはその老いた喉を酷使して叫び続ける。その声は、街に響く事無く学院長室の窓を揺らすに過ぎなかった。