乙骨の妹   作:毎日読書

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やっと、やっとできたぞー!!!!!!!!


燃え尽き症候群

 やっと、やっと習得できたぞー!!!!!!!!

 

 宿儺の指を食べてから、もうすぐ一年。

 僕は中学二年生になり、お兄ちゃんは高校一年生。東京の高校に進学したけど、そろそろ高専に編入するのかな、なんて思う今日この頃。

 

 呪霊退治よりも修行を優先して、ほとんどの分身を鍛錬にまわしてきたこの一年。

 そしてついに――領域展開と反転術式、両方の習得に成功しました。

 すごい僕です。ほんとにすごいはずなんです。

 

 ……なのに、誰も褒めてくれない。褒めてくれる人が周りにいない。

 ちょっとだけ、寂しい僕です。

 

 もしかして、僕ってボッチだったのかな?

 

 そんな気づいてはいけない真実には、そっと蓋をして。

 今日は自分へのご褒美に、おいしいものを食べることにしました。

 

 普段からお金はほとんど使っていなかった。

 呪霊退治に修行、そして本体は学業までこなしていて、遊ぶ暇なんてまるでない。

 それに、呪霊退治で被害者からお礼でもらったお金や、出会っちゃった呪詛師から巻き上げたお金もあって、実はけっこう持っている。

 だからこそ、こういうときくらいは、財布の紐をゆるめてもいいよね。

 

 というわけで、近所で話題のクレープ屋さんで、クレープを爆食い中です。

 

 普段は分身からの情報処理で脳を酷使している僕にとって、甘味は生命線。

 「どれだけ食べても太らないはず」という理論のもと、遠慮なくたくさん食べちゃってます。

 分身もすべて解除して、いつぶりかわからない休息を、全力で満喫中。

 

 店内はほんのり甘い香りに包まれていて、耳に入るのはクレープを焼く音と、楽しそうな会話。

 僕はその中で、静かにクレープを頬張っていた。

 甘いものを食べれば、嬉しいはずだった。

 

 実際、口の中は幸せで満たされている。

 とろけるクリーム、もちもちの生地、ふわっと広がるフルーツの香り。

 五感は確かに「幸せだ」と言っている。

 

 でも――心は、なぜか追いついてこない。

 ふと、手が止まる。

 目の前のクレープはまだ残っているのに、次の一口が重く感じた。

 さっきまでの勢いが、どこかへ消えてしまったようだった。

 

 なんだろう、この感じ。

 満たされているはずなのに、ぽっかりと空いたような。

 そんな違和感が、じわじわと胸の奥に広がっていく。

 

 気分は、なぜか、少しずつ沈んでいく。

 

 一人でクレープを爆食い。

 なんて寂しいことだろう。

 誰かと一緒だったら、もっと楽しかったのかもしれない。

 

 そう思っても、学校ではそういう友達を作っていなかった。

 呪霊退治に修行、そして学業。忙しさを言い訳にして、誰かと繋がる時間を後回しにしてきた。

 でも今になって思う。それって、ただの孤独だったんじゃないかって。

 

 そもそも、僕はなんで強くなろうとしていたんだっけ。

 領域展開まで習得した今、もう十分なはずなのに。

 始めは――そう、ただ死にたくなかった。それだけだった。

 

 そこから、憐花ちゃんの意識との交流があって、

 お兄ちゃんを助けなきゃって思って、

 そのためにも強くならなきゃって、そう思っていたはずなのに。

 

 でも今、ふと映画のことを思い出す。

 里香ちゃんは成仏して、きれいなハッピーエンド?を迎えていた。

 あれで、物語は終わったんじゃないのか。

 僕の出る幕なんて、もうないんじゃないか。

 

 じゃあ――僕は、なんのために強くなったんだろう。

 もう、十分じゃないのかな。

 

 クレープの甘さが、少しだけ苦く感じた。

 分身も解除して、久しぶりの休息のはずなのに、

 心の奥にぽっかりと空いた穴が、静かに広がっていく。

 

 しばらく、クレープを食べながらぼんやりしていた。

 甘いはずなのに、心はどこか空っぽで、ただ口を動かしているだけ。

 そんなとき、店内が少し騒がしくなった。

 

 「えー、限定クレープ売り切れちゃったの!?」

 

 僕と同じくらいの年齢に見える女の子の声が、少し残念そうに響いた。

 その声に、なんとなく顔を上げてみる。

 彼女はメニュー表を見つめながら、肩を落としていた。

 

 その隣には、制服を着たもうひとりの女の子が立っていた。

 彼女は声を上げることもなく、控えめに残念がる女の子の袖をつまんで、

 「菜々子、仕方ないよ、人気だもん」と小さく囁いている。

 

 「美々子ぉ、でもさぁ~」

 

 明るくて感情が表に出やすい菜々子と、静かで遠慮がちな美々子――

 対照的なふたりが並んでいるのが、なんだか印象的だった。

 

 僕の目の前には、頼みすぎたクレープが並んでいる。

 甘味は必需品だと豪語していたけど、さすがにこれは多すぎたかもしれない。

 

 少しだけ迷ってから、僕は声をかけた。

 

 「そこの二人!」

 

 彼女たちが驚いたようにこちらを見た。

 

 「限定のやつ、頼みすぎちゃって。ひとりじゃ食べきれそうにないし……よかったら、一緒にどう?」

 

 言い終わったあと、少しだけ心臓がドクンと鳴った。

 変なやつだと思われるかもしれない。

 でも、誰かと一緒に食べるクレープは、きっと今よりずっと甘いはずだ。

 

 「えっ、マジ!? ほんとに!? やばっ、神じゃん!」

 

 声を上げたのは、明るくてギャルっぽい雰囲気の女の子――菜々子。

 目をキラキラさせながら、僕のテーブルを覗き込んでくる。

 その隣で、美々子が小さく首を振った。

 

 「でも……悪いよ。知らない人に、いきなりもらうなんて……」

 

 控えめで、声も小さくて、遠慮がちな様子だった。

 

 「いいよ。どうせ食べきれないし、限定のやつ、もったいないし」

 僕はそう言って、クレープの皿を少しだけ彼女たちの方へずらした。

 

 菜々子は「じゃあ遠慮なく~!」と笑いながら手を伸ばし、

 美々子は「……ありがとう」と小さく呟いて、そっと席についた。

 

 テーブルには、頼みすぎた山盛りのクレープが並んでいる。

 菜々子は一口食べるたびに「ん~!これマジでうまっ!」とテンション高めに感想を口にしていた。

 その声が、店内のざわめきに混じって、ちょっとだけ目立っている。

 

 僕はというと、口を動かしながらも、何を話せばいいのかわからず、視線をクレープに落としたまま。

 美々子も、僕と同じように静かに食べていて、たまに菜々子の言葉に小さく頷くだけだった。

 

 そんな中、菜々子が口を拭きながら、急に言い出した。

 

 「ねえねえ、そういえばさ、ちゃんと自己紹介してなくない?」

 

 菜々子が口を拭きながら、急に言い出した。

 

 「じゃあ、私からね!」

 菜々子は元気よく手を挙げる。

 「私は菜々子!中学二年!クレープとカラオケが大好き!よろしくね~!」

 

 「……美々子。菜々子とは双子。あんまりしゃべるの得意じゃないけど……よろしく」

 

 美々子は少しだけうつむきながら、それでもちゃんと僕の目を見て言ってくれた。

 僕は、少しだけ間を置いてから、口を開いた。

 

 「僕は憐花。中学二年。今日はちょっと嬉しいことがあって、贅沢してるんだ。こちらこそよろしく」

 

 自己紹介が終わると、菜々子がすぐに話題を切り替える。

 

 「憐花ちゃんはどれが好きだった?私はチョコのやつ!チョコとバナナのバランスが神だった~!」

 

 急に名前を呼ばれて、少しだけ肩が跳ねた。

 でも、菜々子の明るさに引っ張られるように、僕も答える。

 

 「えっと……いちごのやつ、かな。甘酸っぱくて、ちょうどよかった」

 「わかる~!いちごってさ、裏切らないよね! 美々子もいちご好きだっけ?」

 「……うん。好き」

 

 美々子の声は小さくて、でもちゃんと届いていた。

 菜々子はその返事に満足そうに笑っていた。

 

 僕と美々子は、どちらも話すのが得意じゃない。

 でも、菜々子が間を埋めてくれるおかげで、沈黙が怖くなかった。

 なんだか不思議な安心感があった。

 

 誰かと一緒にいるって、こういうことなのかもしれない。

 

 誰かと一緒に食べるクレープは、やっぱり甘かった。

 

 ***

 

 クレープの山も、三人で食べればあっという間だった。

 「やばっ、もうほぼないじゃん!」と菜々子が笑い、美々子も小さく頷く。

 僕も、少しだけ笑った。こんなふうに誰かと一緒に食べる時間が、こんなに早く過ぎるなんて思っていなかった。

 

 そのときだった。

 店の入り口のベルが鳴り、視線を向けると、ひとりの男が入ってきた。

 袈裟をまとい、長い髪を後ろで束ねた姿。

 その歩き方も、空気の揺らぎも、ただ者ではない。

 僕の背筋が、自然と伸びる。

 

 どう見ても――特級呪詛師、夏油傑。

 

 菜々子と美々子は、彼の姿を見て、まったく驚く様子もなく立ち上がった。

 

 (やっぱり……菜々子と美々子って、あの夏油傑の義娘だったのか)

 

 僕は心の中でそう呟いた。

 

 「菜々子、美々子。そろそろ帰るよ」

 

 夏油の声は静かで、けれど店内の空気を一瞬で変える力を持っていた。

 ふたりは素直に頷き、席を立とうとしたそのとき、夏油の視線が僕に向けられた。

 

 「……君は?」

 

 僕は少しだけ戸惑いながらも、立ち上がらずに答えた。

 

 「憐花です。えっと…」

 

 僕がどう事情を話せばいいか迷っていると、菜々子がすかさず口を挟む。

 

 「夏油様!憐花ちゃんはね、限定クレープ売り切れててさ! それで、分けてくれたの!しかもめっちゃ美味しいやつ!」

 「……そう。君が、菜々子たちにクレープを?」

 

 夏油の目が、少しだけ柔らかくなった。

 

 「ありがとう。礼を言うよ」

 

 そう言って、袈裟の袖から財布を取り出そうとする。

 僕は、すぐに首を振った。

 

 僕はすぐに首を振った。

 

 「いえ……代金なんて、いりません。食べきれなかっただけですから」

 

 夏油は一瞬だけ僕を見つめて、そして財布をしまった。

 その仕草は、どこか僧侶のように静かで、威圧感があるのに不思議と礼節も感じられた。

 僕は、少しだけ迷ってから口を開いた。

 

 「じゃあ……代わりってわけじゃないですけど、今度、人生相談とか……してもいいですか?」

 

 菜々子が「えっ、憐花ちゃん、人生相談!? まじめ~!」と笑い、美々子は「……でも、夏油様って、そういうの得意そう」とぽつりと呟いた。

 

 夏油は僕を見つめたまま、何も言わずにほんの一拍、沈黙を置いた。

 その瞳の奥には、冷たい計算が潜んでいる。

 (くだらない。猿の悩みなど、聞く価値もない)

 心の中では、そう冷ややかに思っていた。

 

 けれど――義娘たちにクレープを譲ってくれた少女に、無下な態度を取るのも違う。

 何より、菜々子と美々子が楽しそうにしている今、この空気を壊す必要もない。

 

 夏油は、柔らかな微笑を浮かべて言った。

 

 「もちろん。困ったことがあれば、いつでもどうぞ」

 

 その声は穏やかで、まるで本物の僧侶のようだった。

 

 「ありがとうございます」

 

 僕は、少しだけ頭を下げた。

 夏油はふたりに「行くよ」と声をかけ、菜々子と美々子は「またね~!」と手を振りながら店を出ていった。

 

 残された僕は、空になった皿を見つめる。

 クレープの甘さは、まだ口の中に残っていた。

 

 誰かと笑い合う時間も、誰かに頼る瞬間も、少しずつ遠ざかっていった。

 強さの先にあるはずの安心は、手に入ったはずなのに、どこか虚しい。

 

 (……あの人なら、何か言ってくれるだろうか)

 

 袈裟をまとい、義娘たちに優しく接していた夏油傑。

 外面だけは完璧な“僧侶”のような彼なら、この虚しさを、少しくらい聞いてくれるかもしれない。

 

 もちろん、本音ではどう思っているかなんてわからない。

 でも、あのとき「いつでもどうぞ」と言ってくれた。

 それだけで、少しだけ、心が動いた。

 

 (……今度、話してみようかな)

 

 誰かに話すことで、何かが変わるかもしれない。

 この空っぽな強さに、意味を見つけられるかもしれない。

 

 菜々子と美々子の笑い声が遠ざかっていく。

 僕は空になった皿を見つめながら、残った甘さと、心の奥に広がる虚しさを噛みしめていた。

 

 そのときだった。

 再びベルが鳴り、誰かが店に戻ってきた。

 振り返ると、袈裟をまとった男――夏油傑が、ひとりで立っていた。

 

 「……場所を伝えてなかったね」

 

 彼はそう言って、静かに僕の席へと歩み寄る。

 

 「私の寺院は山のふもとにある。“黒い灯籠”が目印だ。門をくぐれば、すぐにわかる」

 

 声は穏やかで、まるで本物の僧侶のようだった。

 僕は、少しだけ驚いて、そして頷いた。

 

 「ありがとうございます」

 

 夏油は懐から小さな紙片を取り出し、僕の前に置いた。

 墨で書かれた寺院の名前と、簡単な道順。

 それだけなのに、どこか重みがあるように感じた。

 

 「来るかどうかは、君の自由だ」

 

 その言葉には、柔らかさが感じられた。

 まるで、無理してこなくてもいいんだよ――そう言ってくれているような、優しい響き。

 でも僕は、どこか違和感を覚えていた。

 

 夏油傑の微笑みは、完璧だった。

 僧侶のように穏やかで、礼節を忘れない。

 けれど、その瞳の奥にあるものは――冷たい選別だった。

 

 (金も呪いも集められない猿は、来るな)

 そんな本音を、彼は決して口にしない。

 でも、僕にはわかる。

 その“自由”という言葉の裏にある、静かな拒絶の気配。

 

 それでも、僕は紙片を手に取り、そっと握りしめた。

 

 「……はい」

 

 夏油はそれ以上何も言わず、静かに店を後にした。

 扉が閉まる音が、妙に静かに響いた。

 

 ***

 

 紙に書かれていた住所は、僕の住んでいる宮城県仙台市から少し離れていた。

 電車を乗り継ぎ、さらにバスで山のふもとまで向かう必要がある場所。

 日常の延長線上にはない、少しだけ“異界”に近いような距離感だった。

 

 だから僕は、夏休みを利用して、夏油さんのところを訪ねることにした。

 

 行こうと決心した理由は、はっきりしていなかった。

 ただ、あのときの「いつでもどうぞ」という言葉が、ずっと心に残っていた。

 

 もちろん、危険なことはわかっていた。

 相手は特級呪詛師。油断すれば命を落とす可能性だってある。

 でも、彼は呪術師には優しい。

 他人の僕でも、敵対しなければ殺されるようなことはないだろう。

 

 まぁ、僕が夏油相手に殺されるかといえば――逃げることだけなら、余裕だ。

 彼には呪霊という手数があるけれど、僕にも分身という手数がある。

 真正面からぶつかっても、負けることはないだろう。

 ……別に戦うつもりはないけど。

 

 それでも僕は、彼に会いに行こうと思った。

 呪術師から呪詛師へと転落した男。

 その人生を、知りたいと思ったのだ。

 

 あの微笑みの奥にあるものを、少しだけ覗いてみたかった。

 僕の“空っぽな強さ”と、彼の“最強に最も近く、それでいて取り残されてしまった孤独”が、どこかで重なる気がした。

 

 蝉の声が遠くで鳴いていた。

 夏の空は、どこまでも高くて、少しだけ眩しかった。 

 

 ***

 

 案内され、広間の奥に進むと、袈裟をまとった男が静かに座していた。

 障子越しの光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。

 その姿は、まるで本物の僧侶のようだった。

 

 僕が一礼すると、夏油傑はゆるやかに顔を上げた。

 微笑みを浮かべながら、穏やかな声で言う。

 

 「ここを訪れるのは初めてかな?初めまして。私は夏油。どんな悩みを抱えているのかな」

 

 その言葉には、丁寧さと優しさが滲んでいた。

 まるで、誰にでも平等に耳を傾ける聖職者のように。

 

 けれど――その瞳の奥では、別の思考が静かに巡っていた。

 

 (呪いの気配は……ない。金持ちでもなさそうだし……はずれか)

 (猿の中でも、特に価値のない部類だな)

 

 そんな本音を、彼は決して表に出さない。

 外面だけは完璧に保ち、礼節を崩すことはない。

 

 僕は少しだけ戸惑いながら、言葉を選ぶ。

 

「お久しぶりです、夏油さん。憐花です。以前、仙台のクレープ屋で……菜々子さんと美々子さんと一緒にいたときに」

 

 夏油の眉が、わずかに動いた。

 

 「……仙台?」

 「はい。限定のクレープが売り切れてて、僕が分けたんです。菜々子さんが“めっちゃ美味しいやつ!”って言ってて……」

 

 夏油は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと僕を見た。

 その瞳に、わずかな記憶の光が灯る。

 

 「……ああ。あのときの子か」

 

 声は穏やかで、表情も変わらない。

 けれど、確かに思い出してくれたようだった。

 

 「よく来たね。ここでは、誰の言葉も否定しないよ」

 

 その言葉は丁寧で、まるで救いのようだった。

 でも僕は知っている。

 その奥にあるのは、呪術師と“それ以外”を分ける冷たい線だ。

 

 夏油はきっと、僕のことを呪術を扱えない“猿”だと思っている。

 そして、そう思っているうちは、話を表面上は聞いているようで――きっと、ちゃんとは聞いてくれない。

 だから、僕は最初にそれを否定することにした。

 

 「……その前に、少しだけ見てほしいものがあります」

 

 そう言って、僕は静かに呪力を練った。

 空気がわずかに揺れ、畳の上に淡い気配が広がる。

 

 夏油の瞳が、わずかに細められた。

 驚いているようだった。

 

 けれど、表情は変えない。

 外面だけは、完璧に保ったまま。

 僕はすぐに呪力を収めた。

 

 敵意がないことを示すために。

 

 「もちろん、敵対するつもりはありません。ただ、ちゃんと話を聞いてほしくて」

 

 夏油は一拍の沈黙のあと、ゆるやかに頷いた。

 

 「……なるほど。術師だったのか。それなら、話す価値はあるかもしれないね」

 

 まぁ、術師と非術師を見分けることは、六眼でもなければ難しい。

 だからこそ、僕は最初に示した。

 この話が、ただの“猿の悩み”ではないことを。

 

 僕は正座を整えながら、静かに口を開いた。

 「かつて特級呪術師を務め、そして今は呪詛師になった夏油さんに……話を聞いてほしいと思ったんです」

 

 夏油は何も言わず、ただ静かに僕を見つめていた。

 その沈黙が、逆に話す勇気をくれた。

 

 「最近、ふと考えることがあるんです。自分が、どうして呪術を学んで、どうしてここまで強くなろうとしたのか。その理由を、ちゃんと整理したことがなくて……でも、今になって、どうしても気になってしまって」

 

 僕は話した。

 自分がなぜ強さを求めたのか――その理由を、ゆっくりと。

 

 「……最初は、自分の身を守るためでした。呪術の世界にいる以上、危険は避けられない。だから、強くなれば安全が手に入ると思ったんです」

 

 夏油は黙って聞いていた。

 

 「でも、強くなってみると……周りには誰もいませんでした。振り返っても、ずっとひとりで。安全は手に入ったのに、孤独でした」

 

 僕は少しだけ目を伏せて、言葉を続けた。

 

 「だったら、この強さで誰かを守ろうと思いました。大切な人を、守れるようになりたいって。でも――僕の大切な人は、僕に守ってもらわなくても、十分強くなってしまうんです」

 

 夏油の瞳が、わずかに揺れた気がした。

 でも、何も言わなかった。

 

 「じゃあ、僕の強さって、何のためにあるんでしょうか。誰かを守るためでもなく、自分を守るためだけのもの。そんな、空っぽなものが残っているだけで……」

 

 僕は、少しだけ息を吐いた。

 

 「僕が強くある意味って、なんなんでしょう。僕がここにいる意味って、なんなんでしょうか」

 

 一呼吸置いて、僕は問いかけた。

 「夏油さん、力とは何のためにあるんですか?」

 

 その問いに、答えを求めていたわけじゃない。

 ただ、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

 

 この空っぽな強さのことを。

 この、居場所のない自分のことを。

 

 僕の問いが空気に溶けていく。夏油はすぐには答えなかった。

 代わりに、静かに首を傾ける。

 

 「……言いたいことは、わかったよ。けれど、なぜ私なんだい?」

 

 その声は穏やかで、微笑も崩れていない。

 でも、その瞳は鋭く、僕の奥を見ていた。

 

 「先ほどの呪力放出――かなりのものだった。それに、直前まで私に気取られない呪力制御。きっと、いい師がいたんだろう?」

 

 僕は何も言わず、ただ黙って聞いていた。

 

 「それに、君ほどの術師なら……高専に行けばいい。悟もいる。あれほどの術師がいて、仲間もいて、環境も整っている。なのに、なぜわざわざ呪詛師の私のところに?」

 

 夏油の声は、どこまでも静かだった。

 けれど、その言葉の端々には、確かな試すような気配があった。

 僕は、少しだけ息を吸って、答えた。

 

 「……僕は、独学です」

 その瞬間、夏油の瞳がわずかに揺れた。

 驚いたようだった。

 

 「独学、か……」

 

 その言葉を繰り返す声は、少しだけ低くなっていた。

 まるで、自分の中の前提が静かに崩れていくのを感じているように。

 

 「先ほどの呪力制御。あれほどの練度を、誰にも師事せずに?」

 

 僕は頷いた。

 

 「はい。誰かに教わったことはありません。ただ、必要だったから。生きるために、守るために、鍛えました」

 

 夏油は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 そして、再び僕を見つめる。

 

 「……それは、なかなかに異端だね。術師の多くは、誰かに導かれて育つものだ。それに君はまだ若い。独学でここまで来た者は、そう多くはない」

 

 その声には、わずかな敬意と、ほんの少しの警戒が混じっていた。

 まるで、予想外の存在に出会ったときのように。

 

 「なるほど。君がわざわざ私に問うてきた理由も、少しだけ見えてきた気がするよ」

 

 僕は続ける。

 

 「呪術界は、あまり信用できないんです。お金がほしいわけでもないし、高専に行く理由もない。それに、高専には――答えがない気がした」

 「五条悟は、強すぎる。あの人にとって“強さ”は、疑問に思うものじゃない。でも、夏油さんは……強さを問い続けた人だと思ったから」

 

 夏油の微笑が、ほんのわずかに深くなった。

 それが、肯定なのか、皮肉なのかはわからなかった。

 

 夏油は、しばらく黙っていた。

 広間に蝉の声が遠く響く。

 その沈黙は、ただの思案ではなく、記憶を辿るような静けさだった。

 やがて、彼はゆるやかに口を開いた。

 

 「力とは――本来、誰かを守るためにあるものだと、私は思っていたよ。呪術は、非術師を守るためにある。そう信じていた。かつてはね」

 

 その声は穏やかだった。

 けれど、言葉の奥には、深い断絶があった。

 

 「私も、君のように考えていた時期がある。強くなれば、誰かを守れる。守るべきものがあるから、強くなる。それが、術師としての在り方だと」

 

 彼は、ふと視線を障子の向こうに向けた。

 まるで、遠い過去を見ているように。

 

 「だが、守るべきものが、守られることを望まないこともある。あるいは、守る価値がないと知ってしまうこともある。そのとき、力は――ただの空虚になる」

 

 僕は、息を呑んだ。

 その言葉は、まるで僕の胸の奥に直接触れてくるようだった。

 

 「君は、強くなった。独学で、誰にも頼らず、ここまで来た。それは、称賛に値する努力だ。だが、強さの意味を問うなら――それは、君自身が見つけなければならない」

 

 夏油は、僕を見つめた。

 その瞳は、静かで、どこか寂しげだった。

 

 「今の私は、守るために使っていた力を使って“選んで”いる。誰を残すか、誰を切り捨てるか。それが正しいかどうかは、もう考えていない。ただ、そうするしかなかった。そうしなければ、私の力は――本当に空っぽになってしまうから」

 

 「君は、まだ探している。それは、悪いことじゃない。強さの意味を探すことは、術師としての“最後の贅沢”かもしれないね」

 

 僕は、何も言えなかった。

 ただ、夏油さんの言葉が胸の奥に沈んでいくのを感じていた。

 それは、答えではなかった。

 でも、問いに寄り添ってくれるような重みだった。

 

 「……最後の贅沢、か」

 

 僕は、ぽつりと呟いた。

 自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。

 

 夏油さんは、微笑を崩さずに言った。

 

 「君が今、強さの意味を探しているのなら――それは、まだ誰かを信じている証拠だよ。信じるに値するものがあると、どこかで思っている。それは、術師としての希望だ。私には、もう残っていないものだがね」

 

 その言葉には、皮肉でも自嘲でもない、静かな諦念が滲んでいた。

 

 「……でも、信じることは、時に残酷だ。信じたものに裏切られたとき、力は牙になる。それでも君が、誰かを守りたいと思えるなら――その強さは、空っぽじゃない」

 

 僕は、少しだけ顔を上げた。

 夏油さんの瞳は、変わらず静かだった。

 けれど、その奥には、かつての理想を手放した者だけが持つ、深い痛みがあった。

 

 「……ただし、私の言葉は参考程度にしておきなさい。かつて、私も誰かの言葉に答えを得た気になって――そのまま、道を誤った」

 

 その声は穏やかだった。その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。

 

 「問いに答えを与えることは、時に呪いになる。だから私は、もう誰にも“正しさ”を渡すことはしない。君が自分で探すしかない。それが、術師としての責任だ」

 

 僕は、ゆっくりと頷いた。

 それが、何かを肯定する仕草だったのか、自分を納得させるためだったのか――自分でもわからなかった。

 

 でも、少なくとも今、僕は一人ではなかった。

 問いを置いた場所に、誰かが静かに向き合ってくれた。

 それだけで、少しだけ、強さの意味が変わった気がした。

 

 別れのときに夏油さんは言った。

 

「何か迷いができたらいつでもおいで。誰かに言えるうちは、まだ壊れてない。一人で抱え込んではいけないよ」

 

 その声は、優しさと痛みが混ざったような響きだった。

 まるで、かつて誰にも言えなかった自分への、静かな祈りのように。

 僕は、深く頭を下げた。

 

 そして、夏油さんはそれ以上何も言わず、背を向けて、離れていく。

 その背中は、壊れた理想の上を、静かに歩いていた。

 

 ***

 

side : 夏油

 

問いを持っている者は、まだ壊れていない。

そう言ったのは、彼女に向けた言葉であると同時に、かつての自分に向けた、遅すぎた忠告でもあったのかもしれない。

 

――悟。

あの頃、私達は“最強”だった。

そう言い合って、笑って、喧嘩して、それでも私は隣に立ち続けた。

私では、もう届かない場所。

君は、今もその場所にいるのだろう。

 

呪術は弱者を守るためにある。

そう信じていた。

君は理想論だと笑ったけれど、私のその言葉を、どこかで指針にしていたことも知っている。

 

けれど、理想は強さより脆かった。

守るべきものに、その価値がなかったとき――その瞬間、力はただの重さになる。

 

あの少女は、まだ迷っている。

だからこそ、まだ歩ける。

問いを抱えている限り、術師としての誇りは残っている。

 

私はもう、誰かを守ることはしない。

答えを渡すこともない。

ただ、問いに耳を傾けることくらいは――まだできる。

 

それだけで、十分だ。

 

……少し、昔を懐かしみすぎたかな。

まぁ、それぐらいは許してくれ。

――親友。

 




途中で、夏油から夏油さんに表記が変わっているけど、これは憐花が夏油に対して敬意を持った感じです。

夏油のキャラってこんな感じかな?
試行錯誤中。

ちなみに、作者は別に燃え尽きているわけではありません。…たぶん。
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