やっと、やっと習得できたぞー!!!!!!!!
宿儺の指を食べてから、もうすぐ一年。
僕は中学二年生になり、お兄ちゃんは高校一年生。東京の高校に進学したけど、そろそろ高専に編入するのかな、なんて思う今日この頃。
呪霊退治よりも修行を優先して、ほとんどの分身を鍛錬にまわしてきたこの一年。
そしてついに――領域展開と反転術式、両方の習得に成功しました。
すごい僕です。ほんとにすごいはずなんです。
……なのに、誰も褒めてくれない。褒めてくれる人が周りにいない。
ちょっとだけ、寂しい僕です。
もしかして、僕ってボッチだったのかな?
そんな気づいてはいけない真実には、そっと蓋をして。
今日は自分へのご褒美に、おいしいものを食べることにしました。
普段からお金はほとんど使っていなかった。
呪霊退治に修行、そして本体は学業までこなしていて、遊ぶ暇なんてまるでない。
それに、呪霊退治で被害者からお礼でもらったお金や、出会っちゃった呪詛師から巻き上げたお金もあって、実はけっこう持っている。
だからこそ、こういうときくらいは、財布の紐をゆるめてもいいよね。
というわけで、近所で話題のクレープ屋さんで、クレープを爆食い中です。
普段は分身からの情報処理で脳を酷使している僕にとって、甘味は生命線。
「どれだけ食べても太らないはず」という理論のもと、遠慮なくたくさん食べちゃってます。
分身もすべて解除して、いつぶりかわからない休息を、全力で満喫中。
店内はほんのり甘い香りに包まれていて、耳に入るのはクレープを焼く音と、楽しそうな会話。
僕はその中で、静かにクレープを頬張っていた。
甘いものを食べれば、嬉しいはずだった。
実際、口の中は幸せで満たされている。
とろけるクリーム、もちもちの生地、ふわっと広がるフルーツの香り。
五感は確かに「幸せだ」と言っている。
でも――心は、なぜか追いついてこない。
ふと、手が止まる。
目の前のクレープはまだ残っているのに、次の一口が重く感じた。
さっきまでの勢いが、どこかへ消えてしまったようだった。
なんだろう、この感じ。
満たされているはずなのに、ぽっかりと空いたような。
そんな違和感が、じわじわと胸の奥に広がっていく。
気分は、なぜか、少しずつ沈んでいく。
一人でクレープを爆食い。
なんて寂しいことだろう。
誰かと一緒だったら、もっと楽しかったのかもしれない。
そう思っても、学校ではそういう友達を作っていなかった。
呪霊退治に修行、そして学業。忙しさを言い訳にして、誰かと繋がる時間を後回しにしてきた。
でも今になって思う。それって、ただの孤独だったんじゃないかって。
そもそも、僕はなんで強くなろうとしていたんだっけ。
領域展開まで習得した今、もう十分なはずなのに。
始めは――そう、ただ死にたくなかった。それだけだった。
そこから、憐花ちゃんの意識との交流があって、
お兄ちゃんを助けなきゃって思って、
そのためにも強くならなきゃって、そう思っていたはずなのに。
でも今、ふと映画のことを思い出す。
里香ちゃんは成仏して、きれいなハッピーエンド?を迎えていた。
あれで、物語は終わったんじゃないのか。
僕の出る幕なんて、もうないんじゃないか。
じゃあ――僕は、なんのために強くなったんだろう。
もう、十分じゃないのかな。
クレープの甘さが、少しだけ苦く感じた。
分身も解除して、久しぶりの休息のはずなのに、
心の奥にぽっかりと空いた穴が、静かに広がっていく。
しばらく、クレープを食べながらぼんやりしていた。
甘いはずなのに、心はどこか空っぽで、ただ口を動かしているだけ。
そんなとき、店内が少し騒がしくなった。
「えー、限定クレープ売り切れちゃったの!?」
僕と同じくらいの年齢に見える女の子の声が、少し残念そうに響いた。
その声に、なんとなく顔を上げてみる。
彼女はメニュー表を見つめながら、肩を落としていた。
その隣には、制服を着たもうひとりの女の子が立っていた。
彼女は声を上げることもなく、控えめに残念がる女の子の袖をつまんで、
「菜々子、仕方ないよ、人気だもん」と小さく囁いている。
「美々子ぉ、でもさぁ~」
明るくて感情が表に出やすい菜々子と、静かで遠慮がちな美々子――
対照的なふたりが並んでいるのが、なんだか印象的だった。
僕の目の前には、頼みすぎたクレープが並んでいる。
甘味は必需品だと豪語していたけど、さすがにこれは多すぎたかもしれない。
少しだけ迷ってから、僕は声をかけた。
「そこの二人!」
彼女たちが驚いたようにこちらを見た。
「限定のやつ、頼みすぎちゃって。ひとりじゃ食べきれそうにないし……よかったら、一緒にどう?」
言い終わったあと、少しだけ心臓がドクンと鳴った。
変なやつだと思われるかもしれない。
でも、誰かと一緒に食べるクレープは、きっと今よりずっと甘いはずだ。
「えっ、マジ!? ほんとに!? やばっ、神じゃん!」
声を上げたのは、明るくてギャルっぽい雰囲気の女の子――菜々子。
目をキラキラさせながら、僕のテーブルを覗き込んでくる。
その隣で、美々子が小さく首を振った。
「でも……悪いよ。知らない人に、いきなりもらうなんて……」
控えめで、声も小さくて、遠慮がちな様子だった。
「いいよ。どうせ食べきれないし、限定のやつ、もったいないし」
僕はそう言って、クレープの皿を少しだけ彼女たちの方へずらした。
菜々子は「じゃあ遠慮なく~!」と笑いながら手を伸ばし、
美々子は「……ありがとう」と小さく呟いて、そっと席についた。
テーブルには、頼みすぎた山盛りのクレープが並んでいる。
菜々子は一口食べるたびに「ん~!これマジでうまっ!」とテンション高めに感想を口にしていた。
その声が、店内のざわめきに混じって、ちょっとだけ目立っている。
僕はというと、口を動かしながらも、何を話せばいいのかわからず、視線をクレープに落としたまま。
美々子も、僕と同じように静かに食べていて、たまに菜々子の言葉に小さく頷くだけだった。
そんな中、菜々子が口を拭きながら、急に言い出した。
「ねえねえ、そういえばさ、ちゃんと自己紹介してなくない?」
菜々子が口を拭きながら、急に言い出した。
「じゃあ、私からね!」
菜々子は元気よく手を挙げる。
「私は菜々子!中学二年!クレープとカラオケが大好き!よろしくね~!」
「……美々子。菜々子とは双子。あんまりしゃべるの得意じゃないけど……よろしく」
美々子は少しだけうつむきながら、それでもちゃんと僕の目を見て言ってくれた。
僕は、少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「僕は憐花。中学二年。今日はちょっと嬉しいことがあって、贅沢してるんだ。こちらこそよろしく」
自己紹介が終わると、菜々子がすぐに話題を切り替える。
「憐花ちゃんはどれが好きだった?私はチョコのやつ!チョコとバナナのバランスが神だった~!」
急に名前を呼ばれて、少しだけ肩が跳ねた。
でも、菜々子の明るさに引っ張られるように、僕も答える。
「えっと……いちごのやつ、かな。甘酸っぱくて、ちょうどよかった」
「わかる~!いちごってさ、裏切らないよね! 美々子もいちご好きだっけ?」
「……うん。好き」
美々子の声は小さくて、でもちゃんと届いていた。
菜々子はその返事に満足そうに笑っていた。
僕と美々子は、どちらも話すのが得意じゃない。
でも、菜々子が間を埋めてくれるおかげで、沈黙が怖くなかった。
なんだか不思議な安心感があった。
誰かと一緒にいるって、こういうことなのかもしれない。
誰かと一緒に食べるクレープは、やっぱり甘かった。
***
クレープの山も、三人で食べればあっという間だった。
「やばっ、もうほぼないじゃん!」と菜々子が笑い、美々子も小さく頷く。
僕も、少しだけ笑った。こんなふうに誰かと一緒に食べる時間が、こんなに早く過ぎるなんて思っていなかった。
そのときだった。
店の入り口のベルが鳴り、視線を向けると、ひとりの男が入ってきた。
袈裟をまとい、長い髪を後ろで束ねた姿。
その歩き方も、空気の揺らぎも、ただ者ではない。
僕の背筋が、自然と伸びる。
どう見ても――特級呪詛師、夏油傑。
菜々子と美々子は、彼の姿を見て、まったく驚く様子もなく立ち上がった。
(やっぱり……菜々子と美々子って、あの夏油傑の義娘だったのか)
僕は心の中でそう呟いた。
「菜々子、美々子。そろそろ帰るよ」
夏油の声は静かで、けれど店内の空気を一瞬で変える力を持っていた。
ふたりは素直に頷き、席を立とうとしたそのとき、夏油の視線が僕に向けられた。
「……君は?」
僕は少しだけ戸惑いながらも、立ち上がらずに答えた。
「憐花です。えっと…」
僕がどう事情を話せばいいか迷っていると、菜々子がすかさず口を挟む。
「夏油様!憐花ちゃんはね、限定クレープ売り切れててさ! それで、分けてくれたの!しかもめっちゃ美味しいやつ!」
「……そう。君が、菜々子たちにクレープを?」
夏油の目が、少しだけ柔らかくなった。
「ありがとう。礼を言うよ」
そう言って、袈裟の袖から財布を取り出そうとする。
僕は、すぐに首を振った。
僕はすぐに首を振った。
「いえ……代金なんて、いりません。食べきれなかっただけですから」
夏油は一瞬だけ僕を見つめて、そして財布をしまった。
その仕草は、どこか僧侶のように静かで、威圧感があるのに不思議と礼節も感じられた。
僕は、少しだけ迷ってから口を開いた。
「じゃあ……代わりってわけじゃないですけど、今度、人生相談とか……してもいいですか?」
菜々子が「えっ、憐花ちゃん、人生相談!? まじめ~!」と笑い、美々子は「……でも、夏油様って、そういうの得意そう」とぽつりと呟いた。
夏油は僕を見つめたまま、何も言わずにほんの一拍、沈黙を置いた。
その瞳の奥には、冷たい計算が潜んでいる。
(くだらない。猿の悩みなど、聞く価値もない)
心の中では、そう冷ややかに思っていた。
けれど――義娘たちにクレープを譲ってくれた少女に、無下な態度を取るのも違う。
何より、菜々子と美々子が楽しそうにしている今、この空気を壊す必要もない。
夏油は、柔らかな微笑を浮かべて言った。
「もちろん。困ったことがあれば、いつでもどうぞ」
その声は穏やかで、まるで本物の僧侶のようだった。
「ありがとうございます」
僕は、少しだけ頭を下げた。
夏油はふたりに「行くよ」と声をかけ、菜々子と美々子は「またね~!」と手を振りながら店を出ていった。
残された僕は、空になった皿を見つめる。
クレープの甘さは、まだ口の中に残っていた。
誰かと笑い合う時間も、誰かに頼る瞬間も、少しずつ遠ざかっていった。
強さの先にあるはずの安心は、手に入ったはずなのに、どこか虚しい。
(……あの人なら、何か言ってくれるだろうか)
袈裟をまとい、義娘たちに優しく接していた夏油傑。
外面だけは完璧な“僧侶”のような彼なら、この虚しさを、少しくらい聞いてくれるかもしれない。
もちろん、本音ではどう思っているかなんてわからない。
でも、あのとき「いつでもどうぞ」と言ってくれた。
それだけで、少しだけ、心が動いた。
(……今度、話してみようかな)
誰かに話すことで、何かが変わるかもしれない。
この空っぽな強さに、意味を見つけられるかもしれない。
菜々子と美々子の笑い声が遠ざかっていく。
僕は空になった皿を見つめながら、残った甘さと、心の奥に広がる虚しさを噛みしめていた。
そのときだった。
再びベルが鳴り、誰かが店に戻ってきた。
振り返ると、袈裟をまとった男――夏油傑が、ひとりで立っていた。
「……場所を伝えてなかったね」
彼はそう言って、静かに僕の席へと歩み寄る。
「私の寺院は山のふもとにある。“黒い灯籠”が目印だ。門をくぐれば、すぐにわかる」
声は穏やかで、まるで本物の僧侶のようだった。
僕は、少しだけ驚いて、そして頷いた。
「ありがとうございます」
夏油は懐から小さな紙片を取り出し、僕の前に置いた。
墨で書かれた寺院の名前と、簡単な道順。
それだけなのに、どこか重みがあるように感じた。
「来るかどうかは、君の自由だ」
その言葉には、柔らかさが感じられた。
まるで、無理してこなくてもいいんだよ――そう言ってくれているような、優しい響き。
でも僕は、どこか違和感を覚えていた。
夏油傑の微笑みは、完璧だった。
僧侶のように穏やかで、礼節を忘れない。
けれど、その瞳の奥にあるものは――冷たい選別だった。
(金も呪いも集められない猿は、来るな)
そんな本音を、彼は決して口にしない。
でも、僕にはわかる。
その“自由”という言葉の裏にある、静かな拒絶の気配。
それでも、僕は紙片を手に取り、そっと握りしめた。
「……はい」
夏油はそれ以上何も言わず、静かに店を後にした。
扉が閉まる音が、妙に静かに響いた。
***
紙に書かれていた住所は、僕の住んでいる宮城県仙台市から少し離れていた。
電車を乗り継ぎ、さらにバスで山のふもとまで向かう必要がある場所。
日常の延長線上にはない、少しだけ“異界”に近いような距離感だった。
だから僕は、夏休みを利用して、夏油さんのところを訪ねることにした。
行こうと決心した理由は、はっきりしていなかった。
ただ、あのときの「いつでもどうぞ」という言葉が、ずっと心に残っていた。
もちろん、危険なことはわかっていた。
相手は特級呪詛師。油断すれば命を落とす可能性だってある。
でも、彼は呪術師には優しい。
他人の僕でも、敵対しなければ殺されるようなことはないだろう。
まぁ、僕が夏油相手に殺されるかといえば――逃げることだけなら、余裕だ。
彼には呪霊という手数があるけれど、僕にも分身という手数がある。
真正面からぶつかっても、負けることはないだろう。
……別に戦うつもりはないけど。
それでも僕は、彼に会いに行こうと思った。
呪術師から呪詛師へと転落した男。
その人生を、知りたいと思ったのだ。
あの微笑みの奥にあるものを、少しだけ覗いてみたかった。
僕の“空っぽな強さ”と、彼の“最強に最も近く、それでいて取り残されてしまった孤独”が、どこかで重なる気がした。
蝉の声が遠くで鳴いていた。
夏の空は、どこまでも高くて、少しだけ眩しかった。
***
案内され、広間の奥に進むと、袈裟をまとった男が静かに座していた。
障子越しの光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。
その姿は、まるで本物の僧侶のようだった。
僕が一礼すると、夏油傑はゆるやかに顔を上げた。
微笑みを浮かべながら、穏やかな声で言う。
「ここを訪れるのは初めてかな?初めまして。私は夏油。どんな悩みを抱えているのかな」
その言葉には、丁寧さと優しさが滲んでいた。
まるで、誰にでも平等に耳を傾ける聖職者のように。
けれど――その瞳の奥では、別の思考が静かに巡っていた。
(呪いの気配は……ない。金持ちでもなさそうだし……はずれか)
(猿の中でも、特に価値のない部類だな)
そんな本音を、彼は決して表に出さない。
外面だけは完璧に保ち、礼節を崩すことはない。
僕は少しだけ戸惑いながら、言葉を選ぶ。
「お久しぶりです、夏油さん。憐花です。以前、仙台のクレープ屋で……菜々子さんと美々子さんと一緒にいたときに」
夏油の眉が、わずかに動いた。
「……仙台?」
「はい。限定のクレープが売り切れてて、僕が分けたんです。菜々子さんが“めっちゃ美味しいやつ!”って言ってて……」
夏油は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと僕を見た。
その瞳に、わずかな記憶の光が灯る。
「……ああ。あのときの子か」
声は穏やかで、表情も変わらない。
けれど、確かに思い出してくれたようだった。
「よく来たね。ここでは、誰の言葉も否定しないよ」
その言葉は丁寧で、まるで救いのようだった。
でも僕は知っている。
その奥にあるのは、呪術師と“それ以外”を分ける冷たい線だ。
夏油はきっと、僕のことを呪術を扱えない“猿”だと思っている。
そして、そう思っているうちは、話を表面上は聞いているようで――きっと、ちゃんとは聞いてくれない。
だから、僕は最初にそれを否定することにした。
「……その前に、少しだけ見てほしいものがあります」
そう言って、僕は静かに呪力を練った。
空気がわずかに揺れ、畳の上に淡い気配が広がる。
夏油の瞳が、わずかに細められた。
驚いているようだった。
けれど、表情は変えない。
外面だけは、完璧に保ったまま。
僕はすぐに呪力を収めた。
敵意がないことを示すために。
「もちろん、敵対するつもりはありません。ただ、ちゃんと話を聞いてほしくて」
夏油は一拍の沈黙のあと、ゆるやかに頷いた。
「……なるほど。術師だったのか。それなら、話す価値はあるかもしれないね」
まぁ、術師と非術師を見分けることは、六眼でもなければ難しい。
だからこそ、僕は最初に示した。
この話が、ただの“猿の悩み”ではないことを。
僕は正座を整えながら、静かに口を開いた。
「かつて特級呪術師を務め、そして今は呪詛師になった夏油さんに……話を聞いてほしいと思ったんです」
夏油は何も言わず、ただ静かに僕を見つめていた。
その沈黙が、逆に話す勇気をくれた。
「最近、ふと考えることがあるんです。自分が、どうして呪術を学んで、どうしてここまで強くなろうとしたのか。その理由を、ちゃんと整理したことがなくて……でも、今になって、どうしても気になってしまって」
僕は話した。
自分がなぜ強さを求めたのか――その理由を、ゆっくりと。
「……最初は、自分の身を守るためでした。呪術の世界にいる以上、危険は避けられない。だから、強くなれば安全が手に入ると思ったんです」
夏油は黙って聞いていた。
「でも、強くなってみると……周りには誰もいませんでした。振り返っても、ずっとひとりで。安全は手に入ったのに、孤独でした」
僕は少しだけ目を伏せて、言葉を続けた。
「だったら、この強さで誰かを守ろうと思いました。大切な人を、守れるようになりたいって。でも――僕の大切な人は、僕に守ってもらわなくても、十分強くなってしまうんです」
夏油の瞳が、わずかに揺れた気がした。
でも、何も言わなかった。
「じゃあ、僕の強さって、何のためにあるんでしょうか。誰かを守るためでもなく、自分を守るためだけのもの。そんな、空っぽなものが残っているだけで……」
僕は、少しだけ息を吐いた。
「僕が強くある意味って、なんなんでしょう。僕がここにいる意味って、なんなんでしょうか」
一呼吸置いて、僕は問いかけた。
「夏油さん、力とは何のためにあるんですか?」
その問いに、答えを求めていたわけじゃない。
ただ、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
この空っぽな強さのことを。
この、居場所のない自分のことを。
僕の問いが空気に溶けていく。夏油はすぐには答えなかった。
代わりに、静かに首を傾ける。
「……言いたいことは、わかったよ。けれど、なぜ私なんだい?」
その声は穏やかで、微笑も崩れていない。
でも、その瞳は鋭く、僕の奥を見ていた。
「先ほどの呪力放出――かなりのものだった。それに、直前まで私に気取られない呪力制御。きっと、いい師がいたんだろう?」
僕は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
「それに、君ほどの術師なら……高専に行けばいい。悟もいる。あれほどの術師がいて、仲間もいて、環境も整っている。なのに、なぜわざわざ呪詛師の私のところに?」
夏油の声は、どこまでも静かだった。
けれど、その言葉の端々には、確かな試すような気配があった。
僕は、少しだけ息を吸って、答えた。
「……僕は、独学です」
その瞬間、夏油の瞳がわずかに揺れた。
驚いたようだった。
「独学、か……」
その言葉を繰り返す声は、少しだけ低くなっていた。
まるで、自分の中の前提が静かに崩れていくのを感じているように。
「先ほどの呪力制御。あれほどの練度を、誰にも師事せずに?」
僕は頷いた。
「はい。誰かに教わったことはありません。ただ、必要だったから。生きるために、守るために、鍛えました」
夏油は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、再び僕を見つめる。
「……それは、なかなかに異端だね。術師の多くは、誰かに導かれて育つものだ。それに君はまだ若い。独学でここまで来た者は、そう多くはない」
その声には、わずかな敬意と、ほんの少しの警戒が混じっていた。
まるで、予想外の存在に出会ったときのように。
「なるほど。君がわざわざ私に問うてきた理由も、少しだけ見えてきた気がするよ」
僕は続ける。
「呪術界は、あまり信用できないんです。お金がほしいわけでもないし、高専に行く理由もない。それに、高専には――答えがない気がした」
「五条悟は、強すぎる。あの人にとって“強さ”は、疑問に思うものじゃない。でも、夏油さんは……強さを問い続けた人だと思ったから」
夏油の微笑が、ほんのわずかに深くなった。
それが、肯定なのか、皮肉なのかはわからなかった。
夏油は、しばらく黙っていた。
広間に蝉の声が遠く響く。
その沈黙は、ただの思案ではなく、記憶を辿るような静けさだった。
やがて、彼はゆるやかに口を開いた。
「力とは――本来、誰かを守るためにあるものだと、私は思っていたよ。呪術は、非術師を守るためにある。そう信じていた。かつてはね」
その声は穏やかだった。
けれど、言葉の奥には、深い断絶があった。
「私も、君のように考えていた時期がある。強くなれば、誰かを守れる。守るべきものがあるから、強くなる。それが、術師としての在り方だと」
彼は、ふと視線を障子の向こうに向けた。
まるで、遠い過去を見ているように。
「だが、守るべきものが、守られることを望まないこともある。あるいは、守る価値がないと知ってしまうこともある。そのとき、力は――ただの空虚になる」
僕は、息を呑んだ。
その言葉は、まるで僕の胸の奥に直接触れてくるようだった。
「君は、強くなった。独学で、誰にも頼らず、ここまで来た。それは、称賛に値する努力だ。だが、強さの意味を問うなら――それは、君自身が見つけなければならない」
夏油は、僕を見つめた。
その瞳は、静かで、どこか寂しげだった。
「今の私は、守るために使っていた力を使って“選んで”いる。誰を残すか、誰を切り捨てるか。それが正しいかどうかは、もう考えていない。ただ、そうするしかなかった。そうしなければ、私の力は――本当に空っぽになってしまうから」
「君は、まだ探している。それは、悪いことじゃない。強さの意味を探すことは、術師としての“最後の贅沢”かもしれないね」
僕は、何も言えなかった。
ただ、夏油さんの言葉が胸の奥に沈んでいくのを感じていた。
それは、答えではなかった。
でも、問いに寄り添ってくれるような重みだった。
「……最後の贅沢、か」
僕は、ぽつりと呟いた。
自分でも気づかないうちに、言葉が漏れていた。
夏油さんは、微笑を崩さずに言った。
「君が今、強さの意味を探しているのなら――それは、まだ誰かを信じている証拠だよ。信じるに値するものがあると、どこかで思っている。それは、術師としての希望だ。私には、もう残っていないものだがね」
その言葉には、皮肉でも自嘲でもない、静かな諦念が滲んでいた。
「……でも、信じることは、時に残酷だ。信じたものに裏切られたとき、力は牙になる。それでも君が、誰かを守りたいと思えるなら――その強さは、空っぽじゃない」
僕は、少しだけ顔を上げた。
夏油さんの瞳は、変わらず静かだった。
けれど、その奥には、かつての理想を手放した者だけが持つ、深い痛みがあった。
「……ただし、私の言葉は参考程度にしておきなさい。かつて、私も誰かの言葉に答えを得た気になって――そのまま、道を誤った」
その声は穏やかだった。その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「問いに答えを与えることは、時に呪いになる。だから私は、もう誰にも“正しさ”を渡すことはしない。君が自分で探すしかない。それが、術師としての責任だ」
僕は、ゆっくりと頷いた。
それが、何かを肯定する仕草だったのか、自分を納得させるためだったのか――自分でもわからなかった。
でも、少なくとも今、僕は一人ではなかった。
問いを置いた場所に、誰かが静かに向き合ってくれた。
それだけで、少しだけ、強さの意味が変わった気がした。
別れのときに夏油さんは言った。
「何か迷いができたらいつでもおいで。誰かに言えるうちは、まだ壊れてない。一人で抱え込んではいけないよ」
その声は、優しさと痛みが混ざったような響きだった。
まるで、かつて誰にも言えなかった自分への、静かな祈りのように。
僕は、深く頭を下げた。
そして、夏油さんはそれ以上何も言わず、背を向けて、離れていく。
その背中は、壊れた理想の上を、静かに歩いていた。
***
side : 夏油
問いを持っている者は、まだ壊れていない。
そう言ったのは、彼女に向けた言葉であると同時に、かつての自分に向けた、遅すぎた忠告でもあったのかもしれない。
――悟。
あの頃、私達は“最強”だった。
そう言い合って、笑って、喧嘩して、それでも私は隣に立ち続けた。
私では、もう届かない場所。
君は、今もその場所にいるのだろう。
呪術は弱者を守るためにある。
そう信じていた。
君は理想論だと笑ったけれど、私のその言葉を、どこかで指針にしていたことも知っている。
けれど、理想は強さより脆かった。
守るべきものに、その価値がなかったとき――その瞬間、力はただの重さになる。
あの少女は、まだ迷っている。
だからこそ、まだ歩ける。
問いを抱えている限り、術師としての誇りは残っている。
私はもう、誰かを守ることはしない。
答えを渡すこともない。
ただ、問いに耳を傾けることくらいは――まだできる。
それだけで、十分だ。
……少し、昔を懐かしみすぎたかな。
まぁ、それぐらいは許してくれ。
――親友。
途中で、夏油から夏油さんに表記が変わっているけど、これは憐花が夏油に対して敬意を持った感じです。
夏油のキャラってこんな感じかな?
試行錯誤中。
ちなみに、作者は別に燃え尽きているわけではありません。…たぶん。