夏休みが終わった。
蝉の声が遠ざかり、夕暮れの風が少しだけ涼しくなった頃、僕は学校へ戻った。
あの人――夏油さんと話してから、ずっと考えていた。
力とは何か。
何のために使うべきか。
正しさとは、どこにあるのか。
彼の言葉は、まるで深い水の底に沈んでいくように、静かに、でも確かに僕の中に残っている。
すぐには答えは出なかったし、今も出ていない。
けれど、ひとつだけ決めたことがある。
――まずは、見てみよう。
この世界を。
この国を。
僕が守りたいと思う「誰か」が生きている場所を。
だから、僕は分身を旅に出した。
本体は学校で、いつも通りの生活を続けながら。
分身は、誰にも見えず、誰にも干渉されず、ただ静かに歩く。
海辺の町、山あいの集落、眠らない都市の片隅。
人々の暮らしの気配を、風の匂いを、空の色を、分身は黙って見つめている。
分身は一般人には見えない。だから、どんな場所でも、どんな時間でも、気にすることなく自由に動ける。
人混みの中でも、深夜の街でも、誰にも気づかれずに歩けるのは、少しだけ羨ましくもある。
もし、見える人がいたとしても、彼らは関わろうとはしない。
見えてしまったものに、積極的に触れようとする人は少ない。
それが何なのか、どんな危険があるのか、わからないからだ。
だから分身は、誰にも邪魔されず、誰にも干渉されず、ただ静かに旅を続ける。
僕は教室の窓から空を見上げる。
分身が今、どこにいるのかを思う。
***
分身たちが旅を終えた。
日本各地を巡り、誰にも気づかれず、誰にも干渉されず、ただ静かに世界を見てきた。
その記憶が、少しずつ僕の中に流れ込んでくる。
潮の匂い。
夜の駅の静けさ。
山あいの集落で聞こえた、遠くの犬の鳴き声。
眠らない都市のネオンの裏側で、誰かが泣いていた気配。
分身が見たものは、僕がまだ知らない世界だった。
広くて、複雑で、時に優しく、時に残酷で。
その広さに、僕は少しだけ圧倒された。
世界は、思っていたよりずっと広い。
でも、僕の手はまだ小さい。
すべてを抱きしめることはできない。
すべてを救うことも、きっとできない。
だからこそ、僕は思う。
届く範囲を、しっかりと抱きしめたい。
隣にいる誰かの痛みを見逃さないように。
手を伸ばせば届く距離にいる人の声を、ちゃんと聞けるように。
分身たちの旅は、僕にそれを教えてくれた。
見えないものを見ようとすること。
届かないものに焦がれるより、今届くものを大切にすること。
僕はまだ揺れている。
でも、その揺れの中で、少しずつ歩いていこうと思う。
この力を、誰かのために使うため。
まずは、僕の手が届く場所から。
***
そんなことをしていたら、もう桜がほころぶ四月になっていた。
街路樹の枝には淡い花が咲き始め、風に揺れるたびに、ひらひらと舞い落ちていく。
季節は静かに進んでいて、僕の中の揺れも、少しずつ形を変えていた。
僕は、もう中学生3年生。
そんな折、乙骨家に一通の知らせが届いた。
東京で一人暮らしをしていたお兄ちゃんが、何か問題を起こしたらしい。
それは、去年――2016年の11月のことだった。
ちょうど分身たちに全国を旅させていた時期だったから、そんなことが起きていたなんて知らなかった。
停学処分を受け、そのまま留年。
そして、今年――2017年の4月から東京都立呪術高等専門学校という場所に転校することになったという。
両親は、我関せずといった様子だった。
まるで、お兄ちゃんがもう触れてはいけない存在になってしまったかのように。
家族なのに、誰もその名前を口にしようとしない。
僕は、窓の外に咲く桜を見ながら、そんな両親の姿を少しだけ悲しく思った。
それにしても、東京都立呪術高等専門学校。
すごい名前だ。これでただの私立の宗教系学校って言われても、さすがに無理があるよなと思う。
――まぁ、でも。
ついに、呪術廻戦0が始まるのか。
お兄ちゃんが高校一年生になったのに、なかなか高専に転校しないから、もしかして原作が変わってしまったのか。
もしかして、僕のせいなのか。
そんなことを、ずっと考えていた。
でも、なんとかなった。
よかった。……いや、よかったのか?
だけど今回、僕にできることは――お兄ちゃん関連は特になし。
だって、介入したら里香ちゃんが暴走するのは目に見えてる。
彼女は、僕の存在に強く反応する。
だから、下手に動くわけにはいかない。
とはいえ、東京や京都に放たれた呪霊の対処くらいは手伝おうと思っている。
それぐらいしか、今の僕にできることはない。
夏油さんは……どうしよう。
原作通りが一番なのかもしれない。彼には恩があるし、死んでほしくはない。
でも、彼がいなければ、お兄ちゃんは劇的な成長を遂げないだろう。
それに、里香ちゃんが成仏する機会も、そうそう訪れるものじゃない。
……そもそも、本当に原作通りに進むのか?
一度、夏油さんのもとへ行ってみようかな。
「お兄ちゃんには手を出さないでください」って、警告するような体で。
あるいは、「里香ちゃん相手はさすがに厳しいと思いますよ」と、忠告するような雰囲気で。
何を企んでいるのか、偵察も兼ねて。
僕にできることは限られている。
でも、だからこそ、できることはやっておきたい。
***
さすがに、まだ夏油さんもお兄ちゃんのことは把握していないだろう。
だから、今のうちに――お兄ちゃんの様子を見に行こうと思った。
呪術高専に転校したとはいえ、彼がどんな状態なのかはわからない。
両親はもう関わろうとしないし、家族の中で彼のことを気にしているのは、たぶん僕だけだ。
里香ちゃんのこともあるし、直接関わるのは危険だ。
でも、遠くから見守るくらいなら、きっと大丈夫。
それに、何かあっても――どうにかできるだけの力は、もう僕にもあるはずだ。
そう、思っていたんだけどな。
小学校で、お兄ちゃんと禅院真希が呪霊退治をしているのを遠くから見た。
里香ちゃんの気配が強すぎて、お兄ちゃんの居場所はすぐにわかった。
初めて見る五条悟は、ただならぬ強さを感じさせた。
でも、顔に包帯を巻いているのは……正直、やばいと思った。
久しぶりに見るお兄ちゃんは、少し気弱そうだったけど、元気そうで安心した。
帳が張られていたけど、中を覗くのは簡単だった。
領域展開を習得しようと帳をいじくりまくった経験が、こんなところで役に立つとは。
お兄ちゃんが巨大な呪霊に食べられたときは、さすがに心配した。
でも、里香ちゃんが容赦なくぼっこぼこにしているのを見て、ある意味安心した。
ただ、改めて強くなった今、里香ちゃんを見ると、その存在の異常さに驚かされる。
……やばすぎない?
お兄ちゃんが皆を背負って帳から出てきたときは、彼も成長しているんだなと感じた。
でも、本当にやばかったのはここからだ。
かなり距離を取って見ていたけど、六眼を持つ五条が怖すぎて、分身は帳が解除された瞬間に自らを解除した。
その経験が本体に戻った瞬間――憐花ちゃんが、発狂した。
最初に聞こえたのは、喉を裂くような嗚咽だった。
泣いているのか、叫んでいるのか、判別できない。
言葉にならない声が、意思が、僕の中に流れ込んでいく。
「違う……違う……ちがう……あれは、お姉ちゃんじゃない……!」
僕の中で、彼女の声が爆発した。
普段は静かに沈んでいる憐花ちゃんの意識が、まるで封印を破るように暴れ出す。
その叫びは、僕の思考を焼き尽くすほど鋭く、痛かった。
憐花ちゃんの声が、僕の中で暴れ回る。
耳を塞いでも意味がない。
彼女の痛みは、僕の中に直接流れ込んでくる。
視界が歪む。
身体が震える。
僕の自我が、彼女の悲鳴に押し流されそうになる。
「見たくなかった……あんなの、見たくなかった……!」
里香ちゃんの姿。呪力の塊でできた、異形の怪物。
かつて優しく笑ってくれたお姉ちゃんが、化け物になって現れた。
その現実を突きつけられ、彼女の心は再び引き裂いた。
「わたしは……わたしは……っ、いや……いや……いや……!」
僕は彼女の代わりに生まれた。
彼女が壊れないように、彼女の痛みを引き受けるために。
でも今、彼女の悲鳴があまりにも強くて、僕の自我が軋む。
「いやあああああああああああああああああ!」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
彼女の痛みは、僕が何も言えないほど深かった。
そして、彼女は崩れた。
泣きながら、叫びながら、心の奥深くへと沈んでいった。
***
何とか体の反応は落ち着いてきて、僕の精神も安定してきた。
あの瞬間、憐花ちゃんの悲鳴が僕の中を焼き尽くしたけれど、今は少しだけ、呼吸ができる。
僕が様子を見に行こうなんて思わなければ――。憐花ちゃんが、またあんなふうに苦しまなくて済んだかもしれない。
彼女の中に眠っていた痛みを、僕が無理に揺り起こしてしまった。
里香ちゃんの姿を見せるなんて、あまりにも残酷だった。
彼女にとって“お姉ちゃん”は、優しくて、あたたかくて、守ってくれる存在だったはずなのに。
せめて、夢で事前に相談しておくべきだった。
でも、夢での出会いは不定期だ。
タイミングを見計らうことなんて、できるはずもなかった。
どうすればいい。
最悪、里香ちゃん関係は原作通りに進むとすれば、何とかなる。
僕が無理に介入しなくても、流れは保たれるはずだと――信じるしかない。
だったら、僕は何もせず、憐花ちゃんのことに専念すべきかもしれない。
彼女の痛みを受け止めるために生まれた僕が、今、彼女のために動かないでどうする。
ここ最近、夢で会う頻度も少しずつ高くなっていた。
彼女は僕の悩みを聞いてくれるくらい、元気になっていた。
笑ってくれた。
それだけで、僕は救われていたのに――だめだった。
彼女は、崩れた。
あの瞬間、過去の傷が一気に開いてしまった。
僕の存在が、彼女を守るどころか、追い詰めてしまった。
ごめん。
憐花ちゃん、ごめんよぉ。
***
side : 五条
「……消えたか」
帳が解除された直後、五条は空を見上げながら呟いた。
六眼に映っていた微かな気配が、ふっと途切れた。
呪力の残滓はある。だが、痕跡はあまりにも薄い。
「先生?」
乙骨が近づいてくる。
気配の変化に気づいたのか、心配そうな顔をしていた。
五条は振り返り、いつもの調子で笑ってみせる。
「あはは、なんでもないよ。さあ、皆を病院に運ばないとね」
「……はい」
乙骨は素直にうなずく。
その純粋さに、五条は少しだけ目を細めた。
(さっきの奴……何者かな)
気配は一瞬だった。
だが、あの呪力の質は、ただの野良呪詛師とは思えない。
上層部からの回し者か。
それとも、里香を狙う呪詛師か――。
(はぁー……この後、上層部に報告しにいかないといけないし。“先生”っていうのも、楽じゃないねー)
五条は軽く肩をすくめて、乙骨の背中をぽんと叩いた。
その笑顔の裏で、彼の思考はすでに次の手を探っていた。
***
side : 夏油
「完全秘匿での死刑執行対象者を、悟が引き取ったねぇ」
夏油は、薄暗い部屋の中で独り言のように呟いた。
指先で資料の端をなぞりながら、口元に笑みを浮かべる。
「何か、悟が気にするものでもあったのかな。……調べてみるか」
・
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調査結果が届いた。
数枚の報告書をめくる。
呪術高専の内部記録、上層部の処理履歴、そして家族構成の断片。
「特級被呪者、乙骨憂太。それに、特級過呪怨霊――祈本里香。ふむ」
視線が資料の端に止まる。
家族欄に記された、もう一人の名前。
「乙骨の家族構成……両親はただの猿だが、妹がいる。名前は、乙骨“憐花”」
夏油は目を細める。
その名に、何か引っかかるものを感じた。
「兄妹共に、異端だったか。呪術の系譜にしては、随分と歪んでいる。先祖に何か、厄介なものでも混ざっていたのかもしれないね」
資料を閉じ、立ち上がる。
窓の外には、夜の帳が静かに降りていた。
「今度、その特級過呪怨霊――祈本里香を見に行こうかな。ついでに、憐花ちゃんにも挨拶しておこうか」
その声には、好奇心と警戒、そして微かな愉悦が混じっていた。
この小説は、祈本里香の影響で壊れてしまった乙骨憂太の家族――妹・憐花ちゃんに焦点を当てて、彼女の壊れた姿を前にした憂太などの反応を描きながら、少しばかり愉悦したいなと思って書き始めたものでした。
……が、作者の技量が追いついていません。
まぁ、頑張って書くつもりではあるのですが。
ただ、ひとつ大きな問題が。
憐花ちゃん(”僕”じゃないよ、”わたし”の方)の将来が、まったく決まらない!!
とりあえず精神をぶっ壊しておけば何とかなるかなと書いていたら、気づけば終着点が見つからなくなってしまいました。どうしよう……。
本当にどうしよう…。更新遅れるかも。
ごめんなさい。
なんか時系列がおかしくね?と思い、確認したところ、乙骨憂太は留年していました!
知らなかった…。
そのため、留年関係の話を書き足して、もろもろ修正しました(10月17日 9:12)
色々未熟な作者ですいません。