今話のラスト――どうか、楽しみにしていてください。
side : 憂太
あれから、僕がどう反応したかは、正直よく覚えていない。
ただ、逃げるように高専に戻ったことだけは、はっきりと覚えている。
足が勝手に動いていた。頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。
憐花の言葉が、表情が、あまりにも重すぎて、僕の中に収まりきらなかった。
それから、僕は家入さんと五条先生にこのことを相談することにした。
受け止めると決めたはずだった。妹のすべてを、向き合うと誓ったはずだった。
でも――僕だけでは、抱えきれなかった。
情けないと思った。
兄として、呪術師として。
それでも、誰かに話さなければ、僕自身が壊れてしまいそうだった。
憐花の中にいた“彼女”の言葉が、ずっと頭の中で響いていた。
「僕はもう自分を信用できない」
その言葉が、僕の胸に突き刺さって離れなかった。
――里香ちゃんの件で、僕は、僕の温かな家族を壊してしまった。
それは、里香ちゃんがいた当時から、ずっと実感していたことだった。
家の空気が変わった。両親の目が、僕を避けるようになった。
言葉は交わされても、心はもう、届いていなかった。
そして、僕は知っている。
両親とは、もう二度と仲直りできないことも。
それでも、せめて――
里香ちゃんがいても、僕に優しく接してくれた妹だけは、守りたかった。
憐花は、僕のことを怖がらなかった。
呪いに囚われた僕を、見捨てなかった。
その優しさに、僕は救われていた。
だからこそ、守りたかった。
憐花だけは、僕のせいで壊したくなかった。
なのに――
僕が。僕が……。
言葉にならない感情が、喉の奥で詰まった。
後悔、罪悪感、無力感。
それらが混ざり合って、僕の胸を締めつける。
守ると誓ったはずだった。
なのに、僕は、壊してしまった。
妹の心を。
僕のもう一つの居場所を。
僕は、憐花を守れなかった。
そして今も、どう守ればいいのか、わからない。
だから、僕は人に頼った。
家入さんの静かなまなざしに、五条先生の軽い口調の奥にある真剣さに。
少しでも、救いを求めて。
***
医務室には、静かな空気が流れていた。
窓の外では午後の光が差し込み、白いカーテンがわずかに揺れている。
部屋の中央に、乙骨憂太が座っていた。
その表情は沈みがちで、言葉を選びながら、ゆっくりと話していた。
向かいに立つ五条悟は、いつもの軽い調子を少しだけ抑えていた。
腕を組み、壁にもたれながら、乙骨の言葉に耳を傾けている。
その瞳は、冗談を言うときのものではなかった。
家入硝子は、椅子に腰掛けていた。
無言のまま、乙骨の話を聞いていたが、その視線は鋭く、そしてどこか優しかった。
彼女の指先は、無意識にペンを転がしていたが、話の節々で止まる。
乙骨は、憐花のことを語っていた。
妹の中にいた“彼女”の言葉。
自分の無力さ。
守れなかったという後悔。
「……僕だけじゃ、抱えきれなかったんです」
その言葉に、家入は静かに目を伏せた。
五条は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情を曇らせた。
沈黙が、医務室を満たす。
それは、誰もが言葉を探していたからだった。
軽々しく慰めることもできず、ただ、乙骨の痛みに寄り添うしかなかった。
やがて、家入が口を開いた。
「……それでも、話してくれてよかった」
その声は、静かで、温かかった。
五条は、壁から背を離し、乙骨の肩に手を置いた。
「そうだね、相談してくれなきゃわからないこともある。憂太、よく話してくれた」
その言葉に、乙骨は小さくうなずいた。
医務室の午後は、少しだけ、柔らかくなった。
窓の外では夕方の光が差し込み、壁の時計が静かに時を刻んでいる。
ソファに腰掛けた五条悟が、軽い調子で口を開いた。
「それでだ、憂太は妹をどうしたい? 正直言って、憂太がこのまま呪術師を続ければ、妹一人を養うくらいのお金は余裕で稼げる。このまま何もしないでそっと見守るか。それとも、現状を変えるつもりか――どっちだ?」
その言葉に、乙骨憂太は少しだけ目を伏せてから、静かに答えた。
「妹には元気でいてほしい。少なくとも、今の生活は体に悪いし……できれば外に出て、人と関わってほしい」
その声には、切実な願いが込められていた。
守りたいという気持ちと、届かない現実の狭間で揺れる思いが滲んでいた。
五条は腕を組み、天井を見上げるようにして息を吐いた。
「でも、肝心の妹がな……」
家入は、カルテの端を指でなぞりながら、ぼそりと呟いた。
「本人は、自分が信用できず、何もしたくないんだろ」
三人の間に、沈黙が落ちた。
それぞれが、それぞれの立場で、憐花のことを考えていた。
どうすれば、彼女を外へと導けるのか。
どうすれば、彼女自身が「自分を信じよう」と思えるようになるのか。
「どうするかな……」
誰ともなく漏れたその言葉が、医務室の静けさに溶けていった。
沈黙の中、家入硝子が静かに口を開いた。
「とりあえず、乙骨、お前はこの件から離れろ」
その言葉に、乙骨憂太は目を見開いた。
椅子の背もたれから身を起こし、声を荒げる。
「なんでですか!? 僕の妹なんですよ!」
家入はその勢いに動じることなく、淡々と答えた。
「だからこそだ。お前では関係が近すぎる。このままでは、お前の精神状態も危うい」
憂太は言葉を失った。
反論したいのに、できなかった。
自分が限界に近いことは、誰よりも自分がわかっていた。
「それは……」
絞り出すように声を漏らすが、それ以上は続かなかった。
そのとき、壁にもたれていた五条悟が口を挟んだ。
「まぁ、ここは僕たちに任せな。こういうのは、大人に任せて、憂太は修行にでも専念しとけばいいんだよ」
軽い口調だったが、その目は真剣だった。
冗談のようでいて、そこには確かな信頼と責任があった。
憂太はしばらく黙っていた。
俯き、拳を握りしめ、何度も言葉を飲み込んだ。
そして、ようやく顔を上げる。
「……わかりました。妹を、頼みます」
その声は小さく、けれど確かだった。
憂太は立ち上がり、医務室の扉へと向かう。
振り返ることなく、静かにその場を後にした。
残された家入と五条は、しばらく無言のまま、扉の閉まる音を聞いていた。
扉が完全に閉まると、五条が肩をすくめて言った。
「さて、憂太には“任せな”なんて言っちゃったけど……どうしようか」
その声には、いつもの軽さと、少しだけ困ったような響きが混ざっていた。
家入はカルテを閉じ、椅子にもたれながらぼそりと呟いた。
「私は精神は専門外なんだよな。治すのは体だけで精一杯」
五条は頷きながら、天井を見上げる。
「でもなぁ、若者には青春を謳歌してほしいし、何よりひきこもらせるには勿体ないんだよね。なかなかのレベルで鍛えていたし」
その言葉に、家入が眉をひそめる。
「ん? 五条、お前会ったことがあるのか?」
五条は首を振った。
「いや、直接会ったことはないけどさ。例の里香ちゃんが現れた小学校で、僕たちをのぞき見してた術師がいたんだよね。それが、憂太の妹なら――彼女は相当の術師だよ」
家入はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「そうか……まぁ、どうするにしても、彼女の精神状態はもとより、その健康状態も心配だし。どうにかしてあげたいんだがな」
二人の間に、静かな時間が流れる。
憂太の妹――憐花。
その存在は、まだ謎が多い。
けれど、彼女のことを助けたいという気持ちは、確かに二人の心の中にあった。
そして、何よりも、彼女を“ひとりにしたくない”という憂太の願いが、二人の胸に静かに響いていた。
「ひとまず、僕が様子を見に行ってみるよ。直接話せるかはわからないけど、雰囲気くらいは掴めるだろ」
家入は少しだけ目を細めて、五条を見つめる。
「無理はするなよ。あの子、今は誰にも触れてほしくない状態かもしれない」
「わかってるよ。僕だって、空気くらいは読むさ」
そう言って、五条は軽く手を振りながら医務室を後にした。
家入はその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
「……頼んだよ、五条」
医務室には再び静寂が戻った。
けれど、その静けさの奥には、確かに動き出した何かがあった。
***
五条は、憂太から聞いた住所を頼りに、静かな住宅街の一角に足を運んでいた。
昼下がりの陽射しが街を柔らかく照らす中、彼の足取りは軽いが、目は真剣だった。
目的はただ一つ。
憂太の妹――憐花の様子を見に行くこと。
玄関前に立ち、インターホンを押す前に、五条は少しだけ息を整えた。
「さて、どんな子かな」
ピンポン、と軽い音が鳴る。
しかし、家の中からは何の反応もない。
「乙骨憐花ちゃん? 僕は五条悟。高専の教師で、憂太の担任。ちょっとだけ話せるかな?」
沈黙。
それでも、五条は焦らなかった。
壁にもたれ、軽く笑みを浮かべながら、インターフォンに向かって語りかける。
「君のこと、憂太がすごく心配していてね。担任の僕が様子を見に来たんだけど」
まったく反応がない。五条は少しだけ眉を上げた。
「おーい、憐花ちゃん?」
沈黙が続く。まじで反応がない。
「んー……今日は顔見せ程度にしとくよ。じゃ、また来るね。今度はお土産でも持ってくるから」
そう言って、五条は扉の前から離れた。
一度は諦めたように見えたが、その背中にはまだ、探る気配が残っていた。
数日後、五条悟は再び憐花のもとを訪れた。
昼下がりの住宅街は穏やかで、鳥の声が遠くに聞こえる。
だが、前回と同じく、インターホンを押しても反応はなかった。
「憐花ちゃん? また来たよー。憂太の担任の五条だよー」
声をかけながら、五条は扉の前で待つ。
しかし、沈黙は続き、家の中からは物音ひとつ聞こえない。
そのとき、背後から視線を感じた。
振り返ると、近所の住人らしき中年女性が、警戒した様子でこちらを見ていた。
「あの……どちら様ですか?」
五条は一瞬だけ困ったように笑い、包帯を指でほどいた。
白い布の下から現れた整った顔立ちに、女性は目を見張る。
「高専の教師でして。乙骨憂太の担任なんです。ちょっと妹さんの様子を見に来てまして」
その言葉に、女性は少しだけ警戒を緩めた。
「……ああ、乙骨さんの。なら、まぁ……」
何とか誤解は解けた。
五条は軽く頭を下げて、再び扉に向き直る。
「いやぁ、見た目って大事だね」
そう呟きながら、その日は諦めて帰った。
――そして、三度目の訪問。
同じ時間帯、同じ道を歩き、同じ扉の前に立つ。
五条はインターホンを押す前に、少しだけ笑みを浮かべた。
「三度目の正直、ってやつかな」
ピンポン、と音が鳴る。
しばらくして、扉の向こうで気配が動いた。
そして、ゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは、長い髪を無造作に束ねた少女。
目元には疲れの色が濃く、表情は無感動に近かった。
だが、その瞳の奥には、何か鋭いものが潜んでいた。
五条は驚いた様子も見せず、柔らかく微笑んだ。
「やあ、はじめまして、憐花ちゃん。少しだけ僕とおしゃべりをしようか」
憐花は答えなかった。
ただ、扉の隙間から五条をじっと見つめていた。
***
side : オリ主
お兄ちゃんと話してから、何日も経った。
お兄ちゃんは来ない。
きっと、忙しいんだ。
きっと、僕のことなんて、もう……
いや、違う。
お兄ちゃんは、僕のことを見捨てたりしない。
そう思いたいのに、心の奥では、やっぱり僕は――って、思ってしまう。
誰にも必要とされない。
自分ですら、自分のことを信用できない。
何もしたくない。
何も、できない。
そんなふうに、布団の中で丸くなっていたときだった。
――ピンポン。
インターホンの音が鳴った。
一瞬、心臓が跳ねた。
でも、動かなかった。
「乙骨憐花ちゃん? 僕は五条悟。高専の教師で、憂太の担任。ちょっとだけ話せるかな?」
……五条悟?
お兄ちゃんの担任!?
なんで、こんなところに!?
頭が真っ白になった。
心臓の音がうるさい。
息が浅くなる。
僕は、パニックになっていた。
それでも、僕は部屋から出ることはなかった。
二度目の訪問には驚いた。
でも、何かトラブルがあったらしく、勝手に帰っていった。
正直、もう来ないでほしいと思った。
なのに――三度目があった。
そもそも、なんで平日の昼間に訪問するんだよ。
非常識だろ。
こっちは、誰とも会いたくないって思ってるのに。
……とか、色々思ってしまうけど。
ここまで来ると、僕が出るまで永遠に来そうで怖い。
それに、両親も不審がっているみたいだった。
「また来てたわよ、あの包帯の人」って、昨日も言ってた。
五条悟――最強の呪術師。
憐花ちゃんとはまったく関係ない人。
なら、憐花ちゃんも大丈夫だよね。
何も起こらないよね。
怖くないよね……?
そう自分に言い聞かせながら、僕はそっと布団をめくった。
足が震えていた。
でも、久しぶりに部屋の扉に手をかけた。
カチャ、と小さな音が鳴る。
それだけで、心臓が跳ねた。
僕は、びくびくしながら――それでも、部屋を出た。
***
扉の隙間から覗く憐花の唇が、かすかに動いた。
「……僕に、何の用ですか」
小さな声だった。
風に紛れそうなほどの、か細い問いかけ。
けれど、確かに五条の耳に届いた。
五条は、返事が来たことにただ微笑を深めた。
「用ってほどのことじゃないよ」
彼は壁にもたれながら、柔らかく言葉を続ける。
「君のこと、ちょっとだけ見に来ただけ。憂太がすごく心配してるからね」
その言葉に、憐花の表情がわずかに曇った。
そして、震える声で言葉を返す。
「だったら……もう帰ってください。もう来ないでください」
「もう何もしたくないんです」
その言葉には、疲れと諦めが滲んでいた。
憐花の瞳は、五条を見ているようで、何も見ていなかった。
五条はしばらく黙っていた。
その沈黙は、言葉を探すためのものだった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「そっか。じゃあ、今日は帰るよ」
そう言って、五条は扉の前から一歩下がった。
けれど、その声には、どこか柔らかな余韻が残っていた。
「でもね、憐花ちゃん。何もしたくないって思うときこそ、誰かがそばにいるのも悪くないよ」
憐花は何も言わなかった。
ただ、扉の隙間からその背中を見送っていた。
それは、拒絶のようでいて、ほんの少しだけ――迷いの残る視線だった。
玄関のチャイムが鳴った。
憐花は、ため息をつきながら扉の前に立つ。
三度目の訪問で終わると思っていたのに、四度目が来た。
扉を少しだけ開けると、そこにはまた五条悟が立っていた。
包帯姿に、いつもの軽い笑み。
まるで昨日の続きのように、自然にそこにいた。
「……なんでまた来たの? もう来ないでって言ったはずです」
憐花の声は冷たかった。
けれど、その瞳にはわずかな揺れがあった。
五条は肩をすくめて、少しだけ首を傾ける。
「えー、そんなこと言ってたっけ? 僕、記憶力はいい方なんだけど、都合の悪いことは忘れるタイプでね」
憐花は無言で睨む。
五条は続ける。
「それに、憂太が“妹のこと頼みます”って言ったんだよ。あれ、けっこう重い言葉だったよ。だから、僕としては任務継続中ってことで」
憐花は眉をひそめる。
「……任務?」
「うん。“憐花ちゃんの笑顔を取り戻す作戦”ってやつ。まだ成果ゼロだけど、継続は力なりって言うしね」
その軽口に、憐花は少しだけ口元を引き結んだ。
怒っているのか、呆れているのか、自分でもわからない。
五条は、ふと空を見上げるような仕草をして言った。
「憐花ちゃん、ちょっと外に出る気はない? 今日、天気いいし。空、青いよ」
「やだ」
五条は笑った。
「即答だね。いいね、反応があるってことは、元気な証拠だ」
憐花は扉を閉めようとした。
けれど、五条の次の言葉が、その手を止めた。
「正直言って、僕たちは憐花ちゃんのことをかなり心配している。精神状態もそうだけど、特に、その不健康な体」
五条の言葉に、憐花は一瞬、呼吸を止めた。
扉の隙間から見える彼の顔は、いつものように柔らかく笑っていた。
けれど、その言葉の意味が、憐花の胸をざわつかせた。
――僕が、憐花ちゃんの体を不健康にしてる?
僕が、憐花ちゃんの体を……?
頭の中で言葉がぐるぐると回る。
混乱と自己嫌悪が、静かに胸を締めつけていく。
憐花は目を伏せた。
その様子を見ていた五条は、ふと声の調子を変えた。
少しだけ明るく、少しだけ軽く。
「ねえ、憐花ちゃん。散歩でもしない? ほんのちょっとだけ。外の空気、吸うだけでも違うよ」
憐花は顔を上げた。
その瞳には、迷いと戸惑いが浮かんでいた。
「……やだ」
即答だった。
けれど、その声には、前ほどの拒絶はなかった。
「そっか。でも、ちょっとだけ考えてみて。外に出て、日光を浴びることは体にいいことだから」
憐花は黙ったまま、扉の隙間から五条を見つめていた。
その沈黙は、拒絶ではなく、揺れる心の証だった。
しばらくして、憐花は小さく呟いた。
「……少しだけなら」
五条の笑みが、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「よし、じゃあ決まり。靴、履いておいで」
憐花は扉を開けた。
その動作はゆっくりで、ぎこちなくて――けれど、確かに前へ進んでいた。
***
包帯で目元を隠した男と、無表情な少女が並んで歩く。
昼下がりの住宅街。
その光景は、通りすがりの人々の視線を集めた。
「……あれ、なんか危なくない?」
「え、あの子大丈夫なの?」
そんな声が、背後からひそひそと聞こえてくる。
憐花はうつむき、五条は気にも留めず歩き続ける。
「気にしなくていいよ。僕、見た目はちょっと怪しいけど、心は清らかだから」
五条は軽口を叩くが、憐花は返事をしない。
ただ、彼の少し後ろを歩いていた。
それでも、風は心地よかった。
陽射しは柔らかく、空は青い。
憐花の頬に、久しぶりに外の空気が触れる。
「どう? 外って、案外悪くないでしょ」
五条が振り返る。
憐花は少しだけ顔を上げた。
「……うるさいです」
その言葉に、五条は満足げに笑った。
返事がある。それだけで、十分だった。
二人の歩幅はまだ揃わない。
けれど、並んで歩くその姿は、どこか不器用で、どこか優しかった。
五条は、包帯の下からちらりと憐花の横顔を見て、ふと口を開いた。
「憐花ちゃんはさぁ、かなり強いでしょ」
憐花は即座に返す。
「僕に“ちゃん”はいりません。それに、別に強くないです」
その言葉に、五条は肩をすくめて笑った。
「えー、いや結構強いと思うけどな。まぁ、それはいいや」
少し間を置いて、五条は歩きながら言葉を続けた。
「それでね、憐花。君、高専に来ない? 確か来年高校生でしょ?」
憐花は足を止めた。
その瞳には、はっきりとした拒絶の色が浮かんでいた。
「いやです。上層部と関わりたくありません。それに、何もしたくないって言ったじゃないですか」
五条は立ち止まり、憐花の顔を見た。
その表情は、笑っているようでいて、どこか真剣だった。
「うん、言ってたね。ちゃんと覚えてるよ。だから、無理には誘わない。でもさ――“何もしたくない”って言葉の中に、“何かしたい”って気持ちが隠れてることもあるんだよ」
憐花は黙った。
その沈黙は、拒絶ではなく、考えるための時間だった。
少しして、五条は、歩きながらふと立ち止まった。
憐花も自然と足を止める。
彼は空を見上げるような仕草をしながら、軽い調子で言った。
「じゃあさ、一度来てみない? 高専に。もちろん、入学って意味じゃなくてさ」
憐花は眉をひそめる。
五条は続けた。
「高専には、僕の同期で優秀な医者がいるんだ。硝子っていうんだけどね。君の体、ちょっと診てもらった方がいいと思うんだよ。あとついでに、見学とお試し入学みたいな感じで」
憐花は黙ったまま、五条の顔を見つめた。
その瞳には、警戒と迷いが入り混じっていた。
「……医者、ですか」
「うん。腕は確かだよ。あと、性格は……まあ、ちょっと毒舌だけど、悪い人じゃない」
五条は笑いながら言ったが、憐花の表情は変わらない。
それでも、完全な拒絶ではなかった。
「あくまで君の体を診ることが目的。見学も強制じゃない。制服もいらないし、授業も出なくていい。ただ、君の体と心が、少しでも楽になるなら――それだけで十分」
憐花は視線を伏せた。
風が頬を撫でる。
その感触が、少しだけ彼女の思考をほどいていく。
しばらくして、憐花は小さく呟いた。
「……考えます」
五条は満足げに笑った。
「よし、それで十分。考えるってことは、もう半分動いてるってことだからね」
憐花は何も言わなかった。
けれど、その歩幅は、さっきより少しだけ五条に近づいていた。
***
side : 憂太
五条先生がやってくれた。
本当に、あの人はすごい。
僕の妹――憐花が、外に出てくれた。
それだけでも、僕にとっては奇跡みたいなことだった。
最初は、ほんの短い散歩だけ。
それが、少しずつ距離を伸ばして、ついには高専を訪れるようになった。
僕たちとは、ほとんど関わらない。
憐花は、医務室にいるらしい。
家入さんの診察を受けているそうだ。
始めは、週に一度くらいだった。
でも最近は、泊まって高専に滞在するようにもなった。
その話を聞いたとき、僕は思わず笑ってしまった。
嬉しかった。
ひきこもっていた憐花が、外に出てくれただけでも。
あとは――壊れてしまった憐花も、少しずつ戻ってくれたら。
そんなことを考えていた矢先、家入さんに呼ばれた。
「医務室に来てほしい」とのことだった。
僕は自分で反転術式を使えるから、医務室を利用することはほとんどない。
だから、なんだか新鮮だった。
少し緊張しながら、扉を叩く。
「失礼します」
そう言って中に入ると、そこには――
「ママー!」
家入さんに抱きついて、はしゃぐ妹の姿があった。
僕は、混乱した。
いや、待って。
誰?
この元気な女の子、誰!?
憐花って、あの憐花だよね!?
僕の妹だよね!?
ひきこもってて、無表情だったあの憐花だよね!?
僕はその場で固まり、口を開けたまま言葉が出なかった。
理解が追いつかない。
これがもしかして、五条先生の使う『無量空処』!?
家入さんは、憐花を抱きとめながら、僕に軽く手を振る。
「おー、憂太。来た来た。ちょっと話があるんだけど――その前に、妹ちゃんのこのテンション、どう?」
どうって言われても。
僕の中の常識が、今、音を立てて崩れてるんですけど。
憐花は僕の視線に気づいて、はっとして顔を背けた。
その仕草は、確かに憐花だった。
でも、さっきの「ママー!」は何だったんだ。
僕は、医務室の床に立ち尽くしていた。
にゃははははは!!!
なんだかよくわからん方向に進んでるぞ!
多少のキャラ崩壊? 気にするな!
これからの展開をどうしようか悩んでいたはずなのに、気づけば――4日連続投稿。
ノリに乗ってるぜ!
……さすがに、更新頻度はそろそろ落ち着きます。たぶん。