じゃり、じゃりと、四つほどの重い足音を聞きながら、私達は入った、アリウス自治区へ…私達の学校へ…。
ああ、久しぶりの感覚だ。先程私達がいたところもアリウス自治区であったが、私達が生まれて、育ったところとは違う。
錆びた匂い、止むことのない硝煙の匂い、風とともに流れる、無慈悲な冷たさ。そのどれもが、今は懐かしい。吸い込んだら、記憶がぶわっと、思い返されるようだ。
しかし、その記憶とまったく違うところがあった。それは
さらに、禍々しいものが増えている。いや、どんなものかは知らないが、とにかく暗い印象しか持てなかった。黒光りして、硬質な、残酷なような兵器が、煩雑に路地に転がっている。
「…おかしい。もともと人通りは少なかったが、今は人っ子ひとりいない…」
「そうですね…あと、いろんな物が増えてます…」
「…そうだね。私達がよく知る、けれど全く違うところになってる」
一同は不安そうな声を上げる。故郷にせっかく着いたが、どこか感じる違和感に身震いが止まらない。
…辺りには巡航ミサイルらしきものがある。こんなもの、アリウスには確かになかったはず…。
ミサイル…武器…何かが見えてきそうな気がする…。だが、その何かは…。
「…まって、誰かいる」
ミサキが小声で、しかし、私達にしっかりと通る声でそう言った。先生をがしりとつかんで、物陰に隠れる。
びちゃ、びちゃ。
「なっ…」
「ひ、ひい…!」
"…これは………"
口々に驚きの声を上げる。その声は隠すようにか細かったが、確かに莫大な恐怖を感じさせた。
そこにいたのは異形達であった。鈍く輝く蒼い鱗。無数に連なる吸盤。それとともにある8つの青い触手。どこからかしたたり落ちる、透明で、しかしよどんでいる、ねばねばとした粘液。それらが2mほどの姿でそこにあった。
その頭部は鱗に覆われ、目らしきものは見えなかったが、まっすぐに進んでいる。…それと同じ存在が5体、触手がコンクリートに打ち付けられ、奏でられる不協和音とともに、我が物顔で道を闊歩していた。
「…悪魔、いや、化け物…?」
ミサキがぽつりと呟く。その顔にはうっすらと水滴が流れていて、緊張がはっきりと伝わる。呼吸も浅い。…それは、私もだが。
"…なにかに似てない?皆"
この状況で、先生は何でもなさそうに言った。顔もいつもと変わらない…これが大人か。私は素直に尊敬した。
「似て…いる?」
先生の言葉に対して、必死に頭を回す。何か大きなヒントである気がする。鱗…蒼…私も、これを知っている気がする…。
「もしかして…ハジメさん、ですか?」
ヒヨリがこちらの顔をうかがうように、こっそりと言った。…ハジメ、ハジメか…。頭がかあっと熱くなる、しかし、豆電球が光るような錯覚に、突如陥った。
あの蒼い鱗…信じたくはないが、それは確かに、異形となったハジメに瓜二つであった。
間違いはないだろう。あの、禍々しいハジメは、忘れようと懸命に努力しても忘れられなかったから…。
それはあまりにも残酷で、私の心に傷をつけるのを十分な事実だった。
私を拒絶する目、どこか遠くへ行ってしまうハジメ、それを思い返して、唐突に得体のしれない恐怖が襲う。
「ああ、そう…だな。きっと、ハジメ関係の存在…なんだろう」
私はその恐怖を退けた。恐怖は剣となって私に突き刺さったが、私は耐えた、耐えてしまった。崩落はしなかった。…もう、痛みには慣れてしまったのだな…。
そんな悲しみに、心をゆらゆらと惑わされていると、一風変わった、トコトコ。と、硬い足音がした。
「ッ……!
後ろには青白く光るユスティナ聖徒会がいた。…まずい、逃げ場がない。…罠だったのか?体勢を咄嗟に立て直す。そうすると、ざざっと、砂嵐のような音がした。
『…行いには、意味があったのか』
凍えるほど冷たい声。体に、心に、深く刻み込まれた、忘れたくても忘れられない声。その声の主の名を、私は呟いた。
「マダム…」
ホログラムに映る、深紅の異形…どこか、ハジメをも感じさせる雰囲気。それは、私達がよく知るマダム…アリウスの支配者であった。
「…気づいてたんだね」
ミサキがそう言う。その声は過去を思い出し、子どものように怯えきっていた。それは私も同じだ。…まだ、過去を断ち切れていないのか…。
『ええ、当たり前では?ここは私の領土。ここで、私から逃げ隠れはできません』
どこか上機嫌そうな、そのまま歌でも一つ歌い出しそうな、不気味に明るい声色でそう言った。
『いえいえ…貴方達も愚かですねえ。自分たちの行いには意味があったとか、光があるとか、希望とか』
『全部意味なんて…光なんてないんですよ?すべて、私の掌の上…シャーレさえ、ゲマトリアさえ…異世界の人の子さえ…』
ホログラムには裂けんばかりに口角を上げるマダムがいた。その表情はよりおどろおどろしさを際立たせる。
その瞬間、ミネシス達が銃を放つ。すでに衰弱している私達には、無防備に銃弾を食らうのは大きすぎるダメージだった。
「ぐう……」
"サオリ!"
良かった、先生は無事だ。…本当に、あのタブレットにはどんな力が…?銃弾が避けていたぞ?
『おっと…あなたは…初めまして先生。そしてさようなら』
"…………!"
『冥土の土産に教えてあげましょう…私の名前はベアトリーチェ。あなたはよく知っているでしょう、ゲマトリアの一員です』
"あなたか、アリウスの生徒会長というのは…"
先生は静かに、しかし確実な怒気を孕ませた声で言った。…怒っているのか、私たちのために。なんてことだ。自分を殺しかけたもののために、先生は怒りを向けているのだ。私たちにではないものに。
『ふふふ…私のことが気になるでしょう。どうやってアリウスを手中に置いたか。そのタネを』
"いらない。聞く必要はない"
先生は、ばちりと、断ち切るような声でそう言った。その拒絶は鋭く、焼けてしまいそうだった。
『…そうですか。まあ、いいでしょう。どうせ結果は変わりません』
少し不機嫌そうになったマダムは、ワントーンだけ声を落とした。そして、少し演劇のようにこう続けた。
『あなたはエデン条約という楽園を信じているのでしょう?夢、希望、友情。そんな聞こえがいい言葉だけの、生徒たちが作ったただの幻想を』
"…………"
『いやあ、単純ですねえ、随分と。ふふふ、愛する生徒たちには、真実を教えなくてはですよね?先生?』
『その楽園こそ…怠惰、傲慢、憤怒、強欲、色欲、暴食、そして…嫉妬。全ての原罪が始まったところだと、ね?』
ぐちょぐちょな笑顔。嫌な笑顔だ。大人の笑顔、影で子どもを薄ら笑っている、そんな笑顔。
ピシリと、体が鉄になったかのように動けなくなる。それは恐怖から来ていた。見知った、けれど慣れない恐怖から。
もう嫌だ、寒いのは、痛いのは、苦しいのは。心の井戸に閉じ込めていたトラウマが、波のように一気にせり上がってくる。
"黙れ、ベアトリーチェ"
しかし、それはあんなに怖かった『大人』の声によって打ち砕かれた。
"あなたは、私の生徒を、教えを、学びを侮辱した"
あんなに嫌だった大人の声、それが今となっては、私たちの唯一の太陽となって、道という空をとても明るく照らしていた。
"私は大人として、あなたを赦すことはできない"
『…そうですか。まあ、どうでもいい…あなたは今から死ぬのだから』
流石に面食らったようで、顔をぴくぴくと引き攣らせている。体はのけぞり、今にでも逃げてしまいそうだ。…こういう私も、先生が私に向けてあんな怒りを向けてきたら普通でいられるかわからない。先生は絶対的な威厳を漂わせながら、そこに立っていた。
『行きなさい、私の
私は少し引っかかった。マダムでさえ、あの存在を『謎』と表現していることに。それは、やはりというべきか、マダムは関与していないのであろう。
"…ベアトリーチェ、最後に聞きたい。あの青い異形は、いったい何なんだ?"
謎の蛸…。確かに、そうとしか言えないな。もし、ハジメしか関わっていないなら…。
『さあ?なんなんでしょうね?いきなり現れては、生徒たちを襲っていますよ。しかし…まあ、どうでもいいです』
そう言うと、ぷつんとホログラムが切れ、マダムの声はどこかへ消えてしまった。そして、その声と入れ替えるように、鉄の音が響いた。
…あの蛸はきっと、私達の大きな障壁となる。アレは……私達に向けられた試練である。そう思わないとやっていけない。勧善懲悪。これに、私は酒のように意識を溶け出させた。
『行くよ…アリウススクワッド!』
「…ああ!」
私達は更に固い決意で結ばれた。先生がいれば一つの目標に向けて全力を投じれる気がした。
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「…ふう」
私、ベアトリーチェは今バシリカで『儀式』の用意をしていた。ついに崇高に到れるのだ。胸には高揚と希望でいっぱいだ。
ただ…不確定要素は拭えなかった。安堵は、確実な平穏だけは、ついには手に入らなかった。
「あの…蛸。いったい何なのでしょうか…?」
そうだ、あの蛸…青い、鱗を持った異形…あれだけが不安だ。
曰く、あの鱗は何者も通さない。曰く、その怪力は全てを壊す。曰く…それは悪魔であると。
突如として出現したそれは、アリウス内全てを蹂躙して回った。生徒、ミネシス、建物、木々…全てを破滅させた。
その様子は八つ当たりのような、何か強烈な思いをぶつけているような動きであった。
別にアリウスがどうなろうと、私が崇高に到れれば問題ない。それは分かっている、しかし、糸のような緊張は、忌々しくも私から離れなかった。
もうチェックメイトの局面なはずなのに、なぜかここから敗北する気がしてならない。それはどうしても、気の所為だとは思えない。
あの鱗…まさか、佐藤ハジメ?…いや、違う。あの凡人があんな真似できるわけがない。あれはただの人間そのものだ。ほんの少し生まれが特殊なだけの、大衆の一人でしかない。ダニのような
「落ち着け…落ち着くのです、ベアトリーチェ」
そうだ…ここから負けるはずがない。たとえ奇跡が起きようとも、もはやゲームは終わっているのだ。
今は相手の
私は無理やり自分を抑えた。もう、何も考えないほうが良いのかもしれない。
「…少し、眠りますか」
雪崩のように押し寄せる不安から身を隠すように、私は思考からの逃避行動を選択した。…もう少しなんだ。大丈夫。
私は、ほんの少しばかりの祈りを捧げて、逃げるように眠りについた。その祈りは、無意味な行為だと知りながら。
ほんの少し見える光は、まるで見物人のようだった。
…この世に絶対はない。チェスは終わらない。たとえ終わったとしても、それは終わりではない。
さて、汝は、果たして神を信じるか?
To be continued
ベアおば登場!さあ、動かしていくぜい。
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