ひとしきり泣いたあのあと、阿慈谷さんとは別れて、俺は玄関の前へと立っていた。帰り道の途中で、走ったような足跡があったのを覚えているが…なんなのだろうか?
まだサオリは帰って来る時間じゃない。今からご飯を作っても間に合うだろう。ちゃんと材料もあるしな。そうだ、こんな日こそ、サオリともこれからのことについて話さないと。アリウスをどうしていくかだったり…ちょっと怖いけど、これからの俺の外出許可だったりを。
ほんの少しの恐怖と、大部分の希望に身を包んだまま、俺はドアノブへと手をかけた。
「ただいま」
誰に言うわけでもないが、癖となった言葉を呟く。そして暗い部屋に電気をつけようと、細い引き紐を引いた。
カチリ
一、二回ほど点滅した後に、ぱっと辺りに光がともった。いつも通りの、俺以外誰もいないこの部屋。少し寂しいが、これも後少しの辛抱だ…いや、まて、俺一人…?
なにか違和感に気づいた。なぜなら目の前には、長い髪をだらんと垂らし、俯いたままであるサオリがいたのだから。
「うわあ!サオリ!?いたのか?!」
思わず尻もちをついてしまった。腰が抜ける。血の気が引いていくのを鮮明に感じる。あれほどまでに外に出るなと言われていたのに、もう、何を言われるかわからない。
がたり、とサオリは席を立った。俺より少し小さいはずの身長が、いまや山のように高く感じた。
サオリが活火山とするのなら、俺は麓の農村だろう。もはや絶望という溶岩を待つしか、道はないのだ。
きゅっと硬く目をつぶり、来るであろう衝撃へと、俺は覚悟を決めた。
「……ごめんなさい」
意外にも、かけられた言葉はらしくない謝罪と、弱々しい抱擁だった。
バイトによってであろう土の匂いと、サオリ特有の匂いに包まれながら、俺は驚愕の嵐に直面していた。
「ど…どうしたんだ、サオリ。そんな急に…」
無言で固まる俺達。それは奇しくも、あのとき、あの、俺が死にかけた時のような、そんな情景の再現のようになっていた。
ホー、ホー。
フクロウの声だけが、張りつめた空気に広がって聞こえる。そこは、もはや風の音さえ聞こえない静寂だった。
「私のせいで……自由を奪って…好きなことをさせてあげられなくて……傷つけてしまって……本当に、本当に…すまない…」
ところどころ詰まりながらも、サオリはそう言った。…こんなこと初めてだ。サオリがこんな事を考えていたのかと感心すると同時に、こんなに追い詰められたことに気づかなかった自分に腹が立った。
すぐとなりで過ごしているやつ一人さえまともに面倒をみてやれないのかと、誰かしら…いや、他でもない己に、説教をされているような気分になった。
ぽたり、ぽたりと、肩に水気が伝う。…女を泣かすな、とはよくある言葉だが、本当に心からそう思ったのは、もしかしたら今回が初めてかもしれない。
俺はそう思い、サオリの背へと手を伸ばした。
「…ハジメ?」
「なにも…言わないでくれ」
あまりにも格好つけすぎて、顔が真っ赤に染まるのを感じる。キザだなあとも思う。こんな事、俺がすることじゃない。どちらかというと、先生とかの、余裕がある、大人っぽいやつがやることだ。
そうはいっても、俺の脳ではこれが最適解なので、これを行うしか道はなかった。さすさすと背中をさする。背筋の感触が心地よい。
「…………」
両者の熱がどんどん強まるのを感じる。汗さえ、滝のように出てくる。別にそんな季節ではないのに。
お互いの汗さえ溶け合い、一体となっているのにも関わらず、長い間一緒にいる俺とサオリは、未だにお互いを理解し合うことはできていなかった。俺はそれに、どうしようもない悔しさを感じた。
「私な…見たんだ。お前とヒフミが、一緒にいるところを」
沈黙の後に、ぽつり、とサオリが呟いた。…見られていたのか、少し恥ずかしいな。今でこそ格好をつけているが、あの時は…うう、思い出したくもない。
「…すまない。こんな、束縛だなんて…嫌だよな、苦しいよな…だからもう、逃げてもいいんだぞ…」
ぶるぶると震えている。声ではそう言っているが、明白な拒絶の意がそこにあるのは、いくら俺でも見て取れた。…サオリのやつ、もしやなにか、勘違いをしているな?
ちらりとサオリのそばに煩雑に横たわる、少し草臥れた雑誌へと目をやる。なになに…『必読!男を落とす方法30選』だって?…先生のことか。そうか、そう考えると少し合点がいく気もする。
きっと、俺は練習台のようなものなんだろう。俺を踏み台にして、先生へとステップアップする。その為のものだ。
俺がサオリから恋愛的な意味で好かれているという幻想を無に帰せて考えると、それがもっとも現実的だ。…いくら俺がサオリに感情を持ってても、サオリが持ってるのはただの家族愛だけだ。
俺は恋愛に対しては、恥ずかしながら疎い。しかし、サオリが俺に恋する理由なぞ、徳川の埋蔵金のように、絶対的な不首尾であるのだ。
そうであると、サオリはきっと悔しいのだろう。俺が阿慈谷さんと一緒にいるのを見て、ただのテストであるはずなのに、失敗したような気がしているのだろう。
しかし、サオリは勘違いをしている。失敗なんかしていない。ただ、俺と阿慈谷さんは、友愛的な目的だああなったのだ。で、あるから、失敗ではないし…なんなら、成功とも……。いや、そこまで考えると、やはり恥ずかしい。俺は赤らむ顔を汗で冷やしながら、必死に表情を無に戻した。
サオリが俺の肩の袖を強く握りしめながら、額を強く押し当てている。いやあ、いと近し、というべきだろう。心臓がこれでもかと早鐘をうち、うるさくさせている。
「…ほら、サオリ。顔上げろって」
俺がそう言うと、サオリはゆっくりと顔を上げた。その顔はあらゆる水でびしゃびしゃで、ひとしきり泣いた児童のような表情で、そこに普段の、冷徹で、淡白な錠前サオリはなかった。
そのかわりに、もはや奥底へと追いやられた記憶である、あの、今より少しだけ小さかったサオリの姿が頭をよぎった。
「なんちゅうひどい顔してるんだ。…ほら、ちーんしろ、ちーん」
携帯しているティッシュをポケットから抜き出し、一、二枚ほど取り、サオリの鼻へと押し当てる。驚いたような表情だったが、素直に行動へ移してくれた。
「よし、いい子だ」
そう言って頭を撫でてみる。…本当に何をしているんだ?俺は。思わず冷汗三斗な気分になる。
しかし、サオリの表情は読めないが、少なくとも俺は楽しい。猫を撫でてるような、そんな気がする。ゴロゴロ、とでも言ってくれればいいのに。
頃合いを見てぴたりと止めてみる。「あっ…」という声とともに、サオリの手が少しだけ動いて、そしてまた下ろされた。
…いったい何の意味がある行動なのだろうか。もしや、先生意外に頭を触られた嫌悪から、俺を殴ろうとでもしていたのであろうか。そうであったら、ここでやめるのは賢明な判断だったといえる。
「なあ、サオリ。お前は多分、誤解してるんだと思うぞ」
俺はそう言った。できるだけ優しい声で、諭すように。先生を憑依させて言った。サオリはそれに反応し、こちらに素早く顔を向けた。何か、幾望のような表情だった。
「別に俺とヒフミはそう言う関係じゃないし…俺とサオリの関係も、どうなるわけでもない」
だけど、先生とサオリは…そう考えると、胸がチクチクと痛む。サオリが久方ぶりに、嬉しそうな顔になる。昔から良くする表情だ。隠そうとはしているが、隠しきれていないものが溢れているのだ。
やはり、サオリと先生はいつしかそうなるのだろうか。いやしかし、先生は強敵だ。あの性格なら、狙う生徒は数多に渡るであろう。その道は辛く、苦しいものとなるのは確かだった。
しかし、このサオリの顔を見てほしい。光をそのまま表すような目。光は障壁がない限り直進を続けるという。そうなのであれば、サオリも同じなのであろうな。
ああ、サオリと先生が、ともに手を繋いで歩いているのを考えると、焼けるような気持ちになる。愛情を込めて育てた花が、種をばら撒いて、新しい命を循環させているような、なにか終わりのような気持ちさえも、今のセンチメンタルな心からは、溢れんばかりに吐き出されている。
でも、命の循環というのは美しい。花が美しいようにな。だから俺はそれを、拍手をしながら見送ることしかできないんだ。
「だから、サオリ。お前の好きなようにしてもいいんだぞ」
「っ…!!」
俺がそう言うと、サオリが身を乗り出し、再度抱きついてきた。…やはり、俺には家族愛とか、そんな感情しかないのだろう。もし恋愛ならば、こんなに距離が近いなんてありえない。
そのハグという行動は確かに愛を示す行動だが、俺の心を複雑に切り裂くには十分な威力を孕んでいた。
「ごめん…!そして、ありがとう、ハジメ…こんな私を、許してくれて……本当に…」
胸のあたりに頭を擦り付けられながら、サオリのくぐもった声が聞こえる。少しこそばゆい。
「ああ、いいってことよ。それよりもさ、そろそろ飯にしよう。もう、フクロウが鳴いている頃だぞ?」
「……ああ、そう、だな……ちょっと待ってろ!」
サオリはそう言って離れると、思い出したように物置へと駆け出した。ぱたぱたと、お転婆のごとく。
一体なんだろう?そんな疑問に想像を働かせながら待っていると、サオリはすぐにも戻ってきた。
「これだ!どうだ!」
そこにあったのは少し小さいエプロンだった。つぎはぎで、使い古されているが、俺は確かに、とサオリに賛同した。
「一緒に作る…ってことか?」
「ああ!久し振りに……どうだ?だめ……か?」
ああ、そんな顔をされたら、断るに断れない。サオリにはしっかり休んでいてほしいが…まあ、たまにはこんな日があってもいいか。俺はひとり納得した。
「いいや?駄目なんかじゃない。…皿、割るのだけはやめろよ」
俺はそう冗談げに言った。前科持ちだからな、こいつ。そう言うとサオリは、ぷくり顔を膨らませ、ぷいとそっぽを向いた。
「ハジメ、私がまだそんなだと思ってると、後悔することになるぞ。いくらバイトでいろんなものを捌いて、焼いてきたと思ってる」
怪しい笑いとともに、サオリはそう言った。俺はすこし、ゾクリと震えた。
「それ…健全なバイト、だよな?」
「さあ?どうだろうか」
…俺はもう、何も聞かないことにした。このキヴォトスは、やはり怖いし、闇が深い。学園都市だというのに、ひどくよどみ、透き通ってなんかいない。
でも、そんなキヴォトスが、俺は好きだ。皆が皆、全力を出して青春を試みているのが、本当に好きだ。
ふとサオリを見てみる。その涙痕は光沢を持っており、透明な、クォーツのような美しさだった。
でも、その美しさを見ていいのは自分ではない、と理解すると、少し痛みさえ出てきた。でも、その痛みでさえ、きっと青春だ。俺が味わった、青春なんだ。
ホー、ホー。
フクロウが鳴いた。呼び寄せた幸運は、ある者にとっての不幸となり、ある者にとっての幸運となり、二面性を伴わせた刃となって、幾億もの星が見える運河へと、確かに届いていった。
To be continued
勘違いに次ぐ勘違い……性癖!へけぇ!
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