私は、あのシャーレの先生である。昼頃、仕事が一段落したので、少しコンビニ…エンジェル24で軽食でも買おうかと、扉を開けたときにそれは起こった。
"……サオリ?"
本当なぜだか知らないが、私の大切な生徒が、扉のすぐ目の前で、まるで重石のように、ずっしりと佇んでいたのだ。
………
…………
……………
"…とりあえず、座って、サオリ"
「ああ、失礼する」
ブラインドから少し差し込む光が暖かい。そんな日にはやはり、紅茶であろう。私はナギサから譲り受けた茶葉達をしっかりと蒸して、二つのティーカップへと注ぎ入れた。
生徒向けにするための砂糖と、檸檬をたっぷりと加える。最近では私もこの飲み方が好きだ。すらすらと飲めて、それでいて気軽で。…まあ、ナギサに言ったらすごい形相で睨まれたが。
"今日はいい天気だね。小鳥が囀って、雲も楽しげに泳いでいる。こんな日にはやはり、紅茶とスコーンが合うと思わないかい?サオリ"
私はまた、スコーンを出す。シンプルなバタースコーン。だけどこれも、風流というものだろう。
紅茶の透き通った香りと、スコーンの乳とした甘い香りがおそらくは原子レベルで交錯しあい、新たな分子を生み出している。その分子が円舞曲のように出会い、この上品な匂いを生み出している。
「…ああ、そうだな」
そんな穏やかな日であるというのに、サオリの顔はどこか浮かないような表情だった。
"…サオリ、どうしたんだい?"
本題へと入った。最後に会った日から聞いたのは、今はハジメと過ごしていることぐらいしか分からなかったが、なにかあったのだろうか。
サオリがもにょもにょと、口を開けようと悪戦苦闘している。…それほどまでのことなのか?いったい何が…。
瞬間、脳裏によぎる、『若気の間違え』…いや、そんなことは大丈夫だろう。どっちもちゃんとしてるし、自制心の塊のような人だ。きっと大丈夫。
…いや、よく考えなくても、未成年が二人きりで同棲してるというのはいかがなものか?もし私が学生の頃、もう猿のように愛に飢えていたころにそんな事があったらと想像してみる…。いや、無理だな。
そこからはもう、サオリの動作一つ一つが怖かった。いつ腹を擦り出すのではないかと気が気ではなかった。だらだらと冷や汗が流れ落ちて、ハンカチが手放せなくなった。
「先生?は、話すぞ。聞いてるのか?」
"ふぇっ!?あ、ああ!もちろん。きいているとも!!"
まずい、動揺が隠せない。紅茶を飲んで誤魔化そうとしても、ガタガタ震えて、琥珀の液体が少しずつテーブルへ零れ落ちるだけで、サオリの目線がさらに訝しむようになるだけだった。
「それならいいんだが……そうだ、もう知ってるかもしれないが、近頃、アリウスの生徒達が外の世界へと出ているらしい」
"ほっ…"
「ほっ…?」
いや、ほっとしてはいけない。アリウスの生徒達が外へ出るということは何も悪いことではないが、いかんせん彼女らは形容するなら悪魔のような偏見を未だに持たれている。
あのエデン条約の一件…死者こそでなかったが、数多くの負傷者がでたり、大切なものが壊れた子も多くいる。その子達の憎しみの発散先がアリウスの生徒達になるのは、ある種当然のことだ。
しかし、アリウス子達だって悪くはない。あれは全て、悪い大人による策略だ。決してあの子達自身がやりたくてやったわけでもない。ただ、生き残るためにしなきゃいけなかっただけだ。
でも、それをトリニティの子達に説明するのは至難の技だろう。当然だ、取り返しのつかないことになってしまった生徒もいるのだから。素直に認める子もいれば、駄目な子もいる。人間である限り、そこは仕方のないことだ。
"そうか…その話、どこで聞いたの?"
「ああ、ハジメから聞いたんだ。何でも、ブラックマーケットにいたって」
ブラックマーケット…私も何度か足を運んだことがあるが、あそこは酷い。よほど、健全な学生が行くところではない。
平気で人を殺せるような銃が売られていたり、危険な薬物、どこかから盗まれた芸術品など、本当にさまざまなものが売られている所だ。そこには人の根源のような欲望が渦巻いて、混沌を作り出している空間だ。
そこにアリウスの生徒がいるということ。それは看過できない問題だ。アリウスの生徒達は社会を知らない。それは想像で決めつけることすら許されるほどだ。となれば、道は一つ、悪い大人に、再び騙される。これが彼女らの終着点となってしまうだろう。
私の先生としての目的は、生徒全員をハッピーエンドへと導くこと。それには勿論、アリウスの生徒も含まれている。
つまりだ、これらの話をまとめると、私はさらに動く必要があるということだ。…そして、それには多くの疑念と、黒い憶測がついて回ることになるだろう。しかし、それでも私は構わなかった。私は決めたんだ、もう、間違えないって。後悔はしないって。
"ありがとう、サオリ……私がなんとかするよ"
「それは本当か!?ありがとう!先生。決して悪い奴らじゃないんだ。先生、あいつらのこと、よろしく頼む。私のことも、どのようにしてもいいから、利用してくれ」
サオリはそう言うと、すっきりしたような顔になった。しかし、しばらく経つと今度は少し顔を赤らめ始めた。そして、ぽつりと俯いてしまった。…また違う悩みであろうか?
"ほら、紅茶を飲みな。顔が暗いよ"
そう言って、私はサオリへ催促した。本当に倒れてしまいそうな表情だ。体調が悪いのだろうか?いずれにしよ、早く返してあげたほうが良いだろう。今のうちにタクシーの手配でもしておこうと、私はスマホを取り出した。
「…唐突ですまないが、もし、先生に好きな人がいたら……どうやってデートに誘う?」
………その瞬間、私の忘れかけていた、甘酸っぱくて、それでいて燃え尽きた青春がドバっと、穴を開けた米俵のように飛び出した。
こういう瞬間、この、生徒の青春を眩しくも感じられる瞬間にこそ、私は先生としてのやりがいを感じるものだ。そう、私は植物だ。特に、葉緑体がみしみしと、鮨詰めのようにぎゅうぎゅうに詰め込まれているようなそんなもの。そして、生徒は太陽だ。それは私に光という栄養を与えてくれる。そして私は酸素という名の指導を放出し、それが巡り巡って、世界平和へと恒久的に作用するのだろう。うむ、そうに違いない。
「…先生?聞いているのか?」
"ああ、ごめん、サオリ。聞いてるよ"
おっと、私としたことが。つい妄想の世界へと入ってしまった。嫌な癖だ。緩んだ顔を先生の顔に戻して、サオリと向き合った。
"もし好きな人がいたらかあ……そうだね、私だったら遠回しに言うかな"
「遠回し?」
自慢ではないが、私には少なからず恋愛経験がある。その時のノウハウは、今もなお、男として染み付いているのだ。
"直接的にやっちゃあだめなんだ。『おい、デート行くぞ』だなんて。そうしたら相手は、『そうかデートか』って思っちゃう"
「それの何がいけないんだ?」
ああ、思い出すなあ。必死になって恋愛本を読み漁っていた時期が、私にもあったなあ。今は流石にもうそんな事はないが、男たるもの、一度は恋愛に興味を持つと思うんだ。
"いやね、そうしたら『もしかしたら』っていうドキドキがないんだよ。ほら、もしかしてデートのお誘い?だなんて思ったら、つい意識しちゃうよね?"
「そ、そうなのかも、しれない」
サオリが顔を染めて俯いた。やはり疎いのだろう。ニマニマとしたくなる。しかし、今それをやっては恐ろしく気色が悪いと、客観的に分析した結果として出てきたので、私は自分を抑え、淡々とした表情を作り出した。
"そうだよ。だから、『遊園地行きたいな』とか、『映画見に行きたいな』とか、そんなことを言って、そこから繋げていくんだ"
私をそれを熱をもって力説した。普段落ち着いている子こそ、こういう場では思い切り教えてあげたほうがいいと思う。確かに自分で考えるのも大切だと思うけど、まずは肥料を蓄えた土壌を育て上げるのがいいと、私は思うんだ。
サオリが妄想をしているのか、ぽけーっと天井を見上げている。まばたき一つしないで。
しばらく経つと、ぐつぐつと湧き立つような音が聞こえてくる。それと同時に、もはやサオリの顔は、焼かれた石炭のようにまっかっかに変色していた。
「そ…そそそ、そんなこと、私にはできない…は、恥ずかしすぎるう…」
頭上から湯気を出しながら、サオリは顔を押さえて俯いた。本当にいいものだ。このキヴォトスにはあまり男の子がいないから、色恋沙汰はそこまで聞かなかったけど…やっぱり、いいものだと思う。
こんな、いい意味の葛藤を味わえるなんて、大人になったらそうそうないだろう。大人の恋愛は、火炎と言うより将棋だ。気持ちのぶつかり合いというよりも、なにか違う感じがする。
勿論、大人の恋愛もまた良い。しかし、青春の恋愛の眩しさには残念ながら遠く及ばない。それを思うと私も胸が痛むが、その痛みもまた、贅沢な痛みなのだろう。
"ほら、勇気を出して、サオリ。…………ハジメが、奪われちゃうよ?"
私はサオリの耳元で、ヒソヒソ声でそう言った。すると、ぽーっと、蒸気機関車のような音を上げて、サオリが飛び跳ねた。その衝撃で、私の顎先に重い衝撃が走った。痛い。
そんな痛みに悶えていると、未だに赤い顔で、荒い呼吸をしているサオリがこう言った。
「ハ…ハジメと決まった訳では無いだろう!?」
いや、もう確定だ。この表情。これは図星の時の顔だ。まさか、いつもクールなサオリがこんな表情をするとは。新たな発見だ。写真に収めたくなるが、それはおそらく、私の仕事ではないだろう。
"ああ、ごめんごめん…あ、ごめんサオリ。もう仕事しなきゃ。ごめんだけど…"
もう空が暗くなり始める頃だ。流石に仕事に取り掛からなければいけない。今さっき増えたばかりなのだから。
「分かった…それじゃあ」
サオリは顔を戻して…いや、完全には戻せてはいないが。踵を返して扉へ向かった。
"…ハジメによろしくね?"
私はわざとらしく、からかうようにそう言った。案外、サオリは面白い子なのかもしれない。…先生に向いてると思うんだけどなあ。
「先生っ!……いや、わかった」
その言葉を最後に、彼女は真っ白な廊下へと消えていった。…おそらくタクシーはいらないだろう。あんなに浮足立っていれば。
これからのあの子らの将来を思うと、不思議とにこやかになる。どちらもいい子だ。片方が片方を支え合って、それで成り立つ。いわゆる一心同体のような、人馬一体のような。
"さて、やるか"
私はパソコンへと向き直り、伸びをしてから、再び仕事を始めた。ブラインドから差し込む光は、もう青白い光へと、置き換わるように変わっていた。
To be continued
てえてえなあ…
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