かつかつと鳴らしながら、俺は真っ白な廊下を一人で歩む。寂しいともとれる行為だが、不思議と快感が生まれた。
俺は今、先生と相談をするためにここに来ている。これからのアリウスのこと、…そしてサオリのこと。
先生に話をするのは野暮だろうが、やはりサオリと先生のことについては話しておきたい。俺はあいつの家族そのものなのだ。たとえ血がつながっていないとしても。…つまり、先生は俺の家族となる可能性も十分あるということ。そうならば、やはりきちんと話はしておきたい。
でも、だけど、心にヒビがミシミシと広がるのを感じる。歩くことさえままならず、思わず壁に寄りかかってしまう。
こんなになるまで、俺はあいつの事が大切なのか。そう思うと、あの、人を愛すに愛せなかった俺から、だいぶ成長したなと思う。でも、こんな形で感じたくはなかったが。
「まあ…しょうがないか」
シャーレの執務室の扉の前へと辿り着いた俺は、そこの前で少しばかり心の準備をつけてから、開けるために手をかけた。
しかし、その手は途中で止められた。他でもない自分自身に。なぜだろう?という問を向けていると、目の前から隔たれた声が聞こえてきた。
「先生と…………サオリ、か。はは、…俺がどうこうするよりも、先に進んでるんだな」
意外でもなければ、当然でもあるような組だった。そして、それは俺が一番望んでいて、表裏的に、一番恐れていた光景でもあった。
理性は去ることを示している。しかし、俺の本能、欲望は、冷たい金属製の扉へと、耳を押し当てることを示していた。
赤く染まった耳にぴたりと触れる、その氷のような感触が、今はただ、暖かい。それがなければ、おそらく俺は、立ち直れないかもしれないから。
「…………先生は、好きな人がいたら、どうデートに誘う?」
ああ、聞きたくない。けれど、聞きたいという欲求が溢れる。サオリの顔は見れないけど、おそらく紅潮しているのだろう。それを思うと、さらに心が締め付けられて、果実のように弾け飛んでしまいそうになる。
もしそうなったのなら、俺は、サオリと先生らへと賛美という名のシトラスノートを送るだろう。あの人達は優しい。きっと、にこやかに受け取るであろう。
でも、その裏あるのは、べちゃべちゃとした、堕ちて、枯れて、悪辣に腐った果肉だけだ。そしてそれを見るのは、他でもない俺自身のみだ。
ああ、そうなのなら、その最後もいいだろう。いくら腐ったいえども、醜くあろうとも、果肉を落とすことにかわりない。その果肉は、新しい土壌の肥料へと、消えるようにして生まれ変わるのだから。
まだ会話は続いている。しかし、聞きたい、という欲求は、これもやはり、木から落ちるようにして消えてしまった。
音を立てないように、すっと立ち上がる。俺はできるだけ静かに、邪魔をしないように、祝福を送りながら、早足で空間から抜け出した。
「……佐藤ハジメは、クールに去るぜ…………」
そんな、敗北宣言にもよく似た、自己防衛のための、おどけるように言った独白を、納得しろ。と自分へかけながら、俺はシャーレのよく洗われた、綺麗な空気をずんずんと切り裂いた。
もはや、呼吸すらもしたくなかった。
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シャーレ近くの花屋。そこに俺は、吸い込まれるようにして入り込んでいた。
特に何を買うわけでもないし、別に花が特段好きというわけでもない。しかし、無性に花屋へはいりたかったのだ。
「いらっしゃいませ!」
店員の人が挨拶をしてくれる。俺も挨拶をしようと口を動かすが、喉が渇いているのか、それとも別の何かが原因で、声がでなかった。仕方なく俺は、お辞儀をするのみにとどまった。
辺りを見回してみる。街角にある、少し小さい花屋だが、種類は大手に引けを取らない。
中でも一際目を引くのが、橙や、黄色に彩られた花々であった。ふわりと、秋の気配を感じさせる配色で、俺はそれに魅入った。
ふわふわと柔らかく漂うのは花の甘く、それでいてすっきりとした清涼感がある香り。それが鼻腔を通り抜け、脳まで届き、俺の心を優しく癒やしてくれた。
もっと深く観察してみる。真ん中にはぶつぶつとしたものがたくさんあって、花粉をふんだんに感じさせた。風がほんの少し吹いている故、黄色い粉塵が顔に当たり、こそばゆかった。
葉の方も素晴らしい。深い緑と淡い緑がごちゃりと混ぜ合い、そうであるというのに、花弁を主役として目立たせるための、脇役としての役をしっかりとこなしていた。
俺この、脇役という部分にいたく感動した。なぜなら、それは俺と同じだと思ったからだ。誰も深くは注目しない、花の葉。だけど、それは確かに花を美しく際立たせている。
それに引き換え、俺はその役割を果たせているのだろうかと疑問が生まれた。この葉のように、立派にできているだろうか?と。
『普通』の生活。それを送るのも、悪くはないと思い始めたのは、実は最近のことだ。あの一件以前は、俺は『特別』にひどく執着していた。
でも、アレがあってからは、普通でもいいか、と俺は思い始めた。下手に特別になろうとして人を傷つけたり、自分を傷付けたりするのは、俺にとっては耐えきれない苦痛であることが、あの事件でわかったのだ。
俺は花の葉へと触れた。少しザラザラしてて、粉っぽい。それさえ、少し俺と同列に見てしまう。
なんて愛らしいのだろうか。アリウスにいた頃…いや、日本にいた頃にだって、あまり生まれなかった感情だ。まるで、ムチュ・チッシュの頂上にでも登り、朝焼けでも見たような気分だ。
ぽろり
「…あれ?なんで…」
ああ、なぜだろう。涙がちょちょぎれる。あまりにも感動的だったからだろうか?…いや、違うのだろう。
推測するに、やはり、どうやっても花へは愛は届かないことを理解してしまったのだ。葉では、花とは釣り合わないし、釣り合おうとする行為すら、できることはない。
分かっていたんだ。そうじゃないか、ずっと分かってた。希望すら持たなかった。だから、これは当然なんだ。
でも、それならなんで涙が出るんだろう。とっくに分かっていたなら、それが出る道理さえないはずなのに。
…いや、知っている。知っているとも。そうだ、俺は期待してたんだ。認めたくはないが、そうとしか考えられない。心の何処かで、葉っぱである俺も、花と釣り合えるのでは?と驕っていたんだ。
でも、それはただのバカバカしい空想だった。それがわかってしまったのが悔しくて、悔しくて、堪らなかったんだ。
「う…ぐあ……」
うめき声が溢れる。ここの花屋に、あまり人がいなくてよかった。こんなとこを見られたら、身が焼けるどころの騒ぎではない。
しかし、迷惑であることにはかわりはない。そのため、俺はまた、逃げ出すために道をゆく。逃げ続けることもまた、人生であると信じて。
「…あれ?ハジメ?」
そう玄関口へ歩もうとすると、見知った声が正面から聞こえる。白いワンピースとともにある、その薄い紫の髪。握れば砕けてしまいそうな、細くて儚い、そんな玉のような女性は…。
「……アツコ?」
俺は声を整え、できるだけ涙を押さえてそう言った。こんな姿、アツコに見せられるわけがない。俺は必死に、頼れる『佐藤ハジメ』を演じた。
「そうそう、花を買いに行こうと思って……なんで泣いてるの?………なにが、あったの?」
アツコが俺に駆け寄ってそう言った。気持ち、最後の部分は黒い何かがあったように感じた。…隠しきれなかったか。身が焼けるような気分に陥った。だがしかし、こんな状況の事実を言うのは忍ばれる。
『失恋して泣いてる。相手はサオリ』だなんて、格好が悪いにも程があるだろう。幻滅させてしまうかもしれないし、引いてしまうかもしれない。そう思い、なにかないかと頭をうねらせていると。
「ほら」
「うわっ?!」
顔をぐっとつかまれて、顔と顔とを近づけられる。アツコの透き通った赤い目が俺を反射しているのをじっくりと見えた。そこに映った俺は、ひどく醜かった。
「何が、あったの?」
怒ったような表情で、アツコはそう言った。俺はやはり、敵わないな、と思った。昔からそうだ。アツコは一番年下なのに、ものすごい行動力があって、芯があって…とにかく、すごいんだ。
その理論で行くと、こいつも花であろう。ああ、先生は大変だな。このキヴォトスにはまともな男が少ないから、先生はいつも追われる立場だ。心配すら感じる。恋敵ではあるはずなのに。
「はあ…わかった、アツコ、話すよ」
俺は、アツコに全てを包み隠さずに伝えることにした。情けなく、小っ恥ずかしい行為だったが、どこかすっきりとした行いだった。
…………
……………
「…うん、だいたいわかったよ、ハジメ」
「そうか…それはよかった」
俺の話を聞いているアツコは真剣で、しかし途中から少し嫌な顔すらしていたが、まあとにかく聞いてくれた。
「結論から言うとハジメは…」
「お、おう」
アツコはぴんと指を立て、天へと高く上げながらぴたりと静止した。そしてためを作っているかのようにしてこう続けた。
「勘違いしている!」
「…なに?!」
…どういう事だろうか?勘違いする要素なんてどこにもないように感じるが…。そのアツコは震えながら、俺を見据えて言った。
「そもそもね、ハジメがサっちゃんから家族愛しか貰ってないっていうのがおかしいの。サっちゃんも大変だなあ、こんな鈍感な男持っちゃってさあ」
…本当になにを言っているのだろうか?どこをどう考えても、あれは家族愛とか、友愛とか、そっちの方だ。でなければ、あそこまで距離を近くできないだろうに。
しかし、アツコはつんとした態度で、お前が悪いとでも言わんばかりに話していた。なんとことだ。
「ええ…」
そうしていると、アツコの背後に、何か大きいものがあるのがぼんやりと見えた。
それは強く、逞しく、されど美しく。そんな印象を思い出させるような生物だった。
その気配にアツコが気づいたのか、ばっと振り返る。俺も、アツコに隠れて見えなかった全容がみえた。
「こ…これは…」
「馬!?」
ヒヒーン!!
そう声を上げ、その馬は首をふるふると振った。…本物だ、本物の馬だ。
光沢を持つ毛艶、真っ黒で、気品をこれでもかと醸し出す黒いたてがみ。木の肌を思い浮かばせる、その茶色の鹿毛。顔の真ん中にある、つうっと鼻筋を通る流星、ぺろりと少しだけ出している鮮やかな舌。
そして何より、隆々としているその筋肉。鬼でも浮かんでいるかのような筋肉に、俺は心を奪われた。
「ああ、お客様。この子はですね、近所の森に住んでる子で、たまにここに来るんですよ」
店員さんがこちらに近寄り、そう言った。確かにあるが、馬がいれるほどに広い記憶はなかったのだが…。
そうしていると、その馬はぱくりと花を食べてしまった。俺達はひどく驚き、思わず飛び上がってしまう程であった。
「そうそう、この子のことは、『お嬢さん』って呼んであげてくださいね。名前はわかりませんが、こう言うと喜ぶんです」
そうやってその馬…いや、お嬢さんを撫でている店員さんは言った。手つきは手慣れていて、確かに日ごろから来るのだろうな、ということがわかった。
「ねえ、ハジメ。すごいね」
アツコがそう言った。そうとしか言えないだろう。本当にすごい。本から出てきたような馬だ。
というか、この馬は牝馬なのか。この、ボディビルダーのように筋骨隆々な馬が。
そう思って、花を一心不乱に食しているその馬を見る。…確かに可愛らしい。きゅるんとしたその黒い瞳は、つぶらで、あざとかった。
ぶるるっ
花を食べ終わったそのお嬢さんは、俺達の元へと向かってきた。少し緊張したが、それよりも嬉しさが勝った。
そわそわとまっていると、お嬢さんは前足で、アツコのワンピースを引き寄せた。俺達はまたしても驚いた。馬が、こんな事をするのか、と。
そうするとその馬は、くるりと回転し、店の出口へと歩を進めた。俺は、何かその馬に、運命的なものを感じた。
「…アツコ!ついてってみよう!」
年甲斐もない声を出してしまった。しかし、心の底からの熱がこみ上げるのを感じる。
「うん。私も同じ事思ってたところ」
店員さんの『ありがとうございました』を背後に受けて、俺達はその馬へとついて行った。その馬の後ろ姿は、大きく、大きく、そして可愛らしいものだった。いや、それは馬ではなく、駿なのだろうな。
ぴゅうっと風が吹く。その風は、寒いやら暖かいやら、よく分からなかったが、とにかく花の香りが、ぷんぷんと感じられた。俺はそれに、轟々とした期待をずっしりと乗せた。
To be continued
すれ違いっていいよね(迫真)
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あと実は…今回出てきた馬。元ネタがあります…。気づいたらコメントしてね