「くああ…」
トリニティの一角、陽気が黄色く照らすベンチにどかっと座り、伸びをしながら欠伸をかいているのは、俺、佐藤ハジメであった。
あの後、なぜだかアツコと俺はすでに帰路についていた。それも、もう別れる寸前の道で。
なんとも不思議な体験だった。森を抜けた先が、近代を象徴するようなビルの前だったのは、何とも言えない感覚であった。後ろを向いてみれば、そこには何も、強いて言えば信号機があるだけであった。
さて、そうすればなぜ俺がこんなところで座り続けているのか、理由は気になるだろう。その理由はというと…
"おまたせ!ハジメ!!"
…この、吹き抜けみたいな先生と、会合するためであった。
……
………
時は遡る。そう、あれはちょうど二時間ほど前。朝は過ぎたが、昼にはまだ早い、白い光が照らすような日であった。そんな我が家において暇を持て余し、一人の男が林檎の皮むきでもしようとしているとき、それは起こった。
プルル
その電子音とともに震える空気によって、ぼんやりとした目が覚めたのは、もはや言うまでもないだろう。このキヴォトスに来てから、おそらく初めての着信音であった。
急いでスマホの元へ向かう。その時の俺の心情は、怖いような、それでいて楽しみのような、そんな感情が入り混じっていた。
俺は、それこそが冒険なんだなぁ、と思う。そんな、恐怖と、好奇心とが溶け合った一日こそ、充実した一日と言えるのだろう。俺はそんな事を考えながら、スマホに映っている画面を見た。
それは先生から来ている連絡だった。興奮に駆られ、すぐさまスマホを耳に押しつけた。少し冷たいスマホが、とても心地が良かった。
『もしもし〜ハジメ?』
そう言うのは先生の声。電子音を組み合わせることによって作られた声であるので、本物の声とは違う存在であるはずなのだが、俺は湯船に浸かった時のような、そんな感覚があった。
「はい、ハジメです。…先生、どうしたのですか?」
しかし、これもなんと突然なのだろうか。特に脈絡もなく、兆候もなくに連絡があった。一体何だろう?そんな思いを剥き出しのままにして先生にぶつけた。
『そうそう、今暇?』
それは悪魔の言葉の一種であるだろう。自身に面倒事を押し付けられるか、それとも遊びになるか。しかし、そのどちらにとっても俺にとっては新鮮で、嬉しいことだ。俺は何も嘘をつく必要は無かった。
「暇…ですが」
『ああ!良かった。実はね、一緒にトリニティにいきたいなって』
先生のその言葉に、俺は電流が走ったようになった。一緒に、トリニティ。…これは、キヴォトスでの初めての男との遊び、と言えるだろう。
実のところ、俺はこの女性しかいないキヴォトスに疲れを感じていた。明らかに短すぎるスカート。露出が激しすぎるその服装。
一度だけサオリにも言ったことがあるのだが、怪訝な顔をされて、ただ流されるだけで、意味なぞなかった。
だから、そんな気遣いのような事をしなくても良い外出というのは初めてだ。俺は心の底から笑みがこぼれ出た。やった、とも思った。
「ええ勿論。是非とも行かせてください!」
俺は少し食い気味に答えた。なぜかというと、万が一にもないとは思うが、やっぱり無理などといわれれば、俺は一生の後悔をすることとなることが、明確であったからである。
『ありがとう、ハジメ!じゃあお昼頃にトリニティ大公園で!』
先生はそう言って電話をぷつりときった。…こんな風に、大まかに説明するのもまた、先生の魅力の一つであろう。
いやあ、俺が女じゃなくて良かった。と思う。もし俺が女であったら、他の人の嫉妬の渦に巻き込まれていたと思うと、もう恐ろしい。先生は一体何人もの生徒を誑かしたのだろうか。それはもはや誰にも分からないだろう。
しかし、俺の性別は男。まあ僻みこそされるにせよ、ドロドロとした、泥のような嫉妬はおそらくない…と信じたい。
俺は少しばかりの恐怖の最中、時計をちらりと見た。移動時間的には、これから準備をして行くのには十二分に時間がある。俺はゆっくりと支度をすることにした。
「おい、ハジメ」
その瞬間、サオリの声がした。どうやら今日はバイトはないとのことで、家で英気を養っている。
そうだ、折角だったら何かお土産でも買っていってやろう。何が良いだろう、やはり定番は菓子折り等だろうか。
そんな事を考えていると、サオリは言葉を続けた。
「…お洒落って…しってるか?」
サオリは少々視線を俺から離して、か細い声でそう言った。…これは一体、どういう意味だろうか?そんな疑問が、頭の中で反芻する。
もしや、今の格好が物凄く醜いとかか?今の服装は…白いシャツに、青いネクタイ、それと灰色のズボンだ。
なんの変哲もない制服コーデ。しかし、サオリはこれを『ダサい』…と思っているのか?
違う可能性も確かに捨てきれない。しかし、今の俺の脳内にはその可能性だけが充満して、他のことなぞ全くもって考えさせることはできなかった。
よく考えてみれば、サオリは華の女子高生。対して俺は、特にキラキラともしていない男子高校生。ファッションセンスに差があるのは当然のことだ。
そうだとすれば、トリニティですることができた。俺は服を買わなくてはならない。それもうんと華やかな服を。
確かにこの…抵抗ともとれる行為は、醜いものだろう。しかし、俺はわかっていたとしても、しなくてはならない理由があったのだ。
俺は抵抗しなければ、善処しなければならない。これはもう決めたのだ。最低限、恋が叶わなくとも、諦めるということはしない。それはあの島で決めたことだ。俺は、決め事を破りたくはない。
「………わかった。実はな、今日トリニティに行ってくるんだ。だからその時に解決してくるよ」
俺はビシッとサムズアップをして、サオリにそう返した。そうするとサオリは片手で頭を抑え、下を向いてしまった。…おそらく、出資のことでも気にしているのだろうか?
だが、今回の俺はなんと、先生にお金を借りようとしているのだ。狡いとでも、なんとでも言ってくれ。金は大事だ。本当に大事なんだ。
そうこうすると、もう出なければいけない時間となった。俺は急いで支度をし、玄関口へと向かった。
「それじゃあ、いってきます」
踵版を抑ながら、俺はそう声を出して、染み渡る閃光の下へと身を乗り出した。…サオリにも何か買っていってやろう。そんな事を思いながら、俺は家をあとにした。
「…ちょっとまて!……ハジメのやつ……だれと、行くんだ?」
その黒ずんだ鉛のような声は、俺には届かなかった。
……
………
「それで先生。今日はどうするんです?」
そして場面はトリニティ大公園へと戻り、俺は先生へと質問をぶつけた。そう、大まかすぎてよくわからなかったからである。
"そうそう、今日はね……なんと、トリニティ交流会だ!"
先生はそう大声で、そして明るい声で言うと、手を大きく振って、『おーい!』と何かに向けて叫んだ。
そしてその後、近くの草むらからひょっこりと出てきたのは、真銀に生えた長い髪と、それと一体化しているような羽が美しくそびえ立つ少女。そして、桃と薄紫の髪が混合した、星形のヘアピンが特徴的な元気な少女であった。
「…俺と先生だけじゃ…ないのかよ」
ピキリ、とでもいうような感覚が、俺を裂いて割った。
俺の、気を使わずに楽しむという野望はついには途絶えた。俺は崩れ落ちるような感覚だった。またしても、スカートの中身をみないように絶対に目線を下げなかったり、破廉恥な男と思われぬよう、胸へと行く視線を抑えるなんていう事をしなければならないのか…。
しかし、その思いとは裏腹に、心のうちでは喜びがあった。それは否定できない。やはり、新しい人間関係というのはやはり、嬉しいものだ。どんどんとこの世界に認められていく感覚が体を伝う。
"紹介するね、この真面目そうな子がスズミ、そして元気いっぱいなのはレイサだよ。仲良くしてね!"
「よろしくお願いします。ハジメさん」
「よろしくです!佐藤ハジメ!」
第一印象。それは人間関係にとってとても大切だ。陸上競技でいうところのスタートダッシュにあたるそれは、今のところ成功といっても過言ではないだろう。
静と動というか、穏と激というか、そんな言葉が、目の前の二人を表すのには十分な言葉だろう。
白髮の子…スズミ、だったかな、は、何とも真面目そうだ。人によっては冷徹ともとれるだろう。しかし、俺は知っている。その眼の奥にあるのは、確かに燃える正義感である。俺はこれに、アズサを重ねた。
もう一つの、紫の子。レイサは、これまた対照的で、燃え上がる情熱を抑えられていない。それは仮初に作られたものでもなく、真実の炎である。
しかし、これまた不思議に、その眼の奥には、俺が言うには不躾だが、弱さがあった。何とも儚げな弱さで、手に取るのも難しいような、そう言ったタイプの弱さだ。しかし、俺はこれに絶大的な共感を抱いた。
事実、このキヴォトスには弱さがない…というのは違うが、少ない人間が多い気がする。どのような人間も皆、乗り越えてしまうものだ。
しかし、俺は違う。俺は特別じゃない。俺が俺を乗り越えられたのは紛れもない運の力だ。スクワッドらと先生の尽力によるもの、俺の力では決してない。
俺は、自分自身で何かを乗り越えたり、達成したりということがなかった。昔から、いや、生まれたときから、そういうような人種だったのだ。
だが、こんな俺でも変われると信じたい。そう思ったのは最近のことだ。あの、皆がそれぞれの光を放ち、自分の闇と向き合い、付き合い方を考える。…そんな力が、俺にも欲しかった。
でも、その力は受動的には決して手に入らない。それは能動的な行為により、得られる力なのである。
だから、そのために俺は勇気を出した。これでもかという勇気を出した。とんがる決意をしたのだ。
『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である』
なんていう言葉がある。その言葉を借りれば、『人間』というのはこの世界の住民のことで、『人類』というのは俺のことと置き換えることが可能だ。
だから、俺と同じような弱さを抱えたこの人と会うのは、筆舌に尽くせないほどの喜びだった。そうすれば、俺は遂に、俺自身の結論へと到れる確信があった。
この事を纏めると、俺はこの二人に良い印象を抱いているということで、俺はこの二人と仲良くしたいという思いが生まれたということである。不思議な感情だ。元は先生だからとトリニティの地に足を踏み入れたと言うのに…。
俺は、自己紹介をすることにした。目の前の人と、新しいつながりを持つために。
「…俺は、佐藤ハジメ……普通の、高校三……いや、二年生だ」
『普通』という自然言語の、俺自身の結論を得るために、俺は確かな一歩を踏み出した。眩しい今日の淡い晴天は、俺を祝福するように照らしてくれていた。
To be continued
いやあ…この人選は悩みましたねぇ……なにせ普通と呼べるトリニティ生徒が少ないもんで…