ラウンドトリップ・チケット 作:闇の三流記者
「鹿、か?」
「シマウマにしては大きいわよねえ?」
「いや、これは……」
篠葉の脳が混乱の符号で満たされる。
彼の記憶の中には間違いなく存在する、しかしもう話すこともないと思っていた存在だった。
「馬、だよ」
「「ウマ?」」
篠葉の言葉に応えるように、目の前の馬が高く嘶いた。
夜、そして冬の澄んだ空気に嘶きはよく響いた。
「しかし、なんでいきなり…」
「ん、よくわからないんだが、ウマ、と言うことはこの子も走るために生まれてきたのか?」
「まあ、マジで走るため、というかそれだけのためと言うか」
流石に赤裸々に競走馬のことを話すわけには行かないと口を噤む篠葉。
月明かりに照らされた青毛の馬体は、オグリとマルゼンの存在に違和感を感じているのか、二人に鼻先を向け、匂いを嗅いでいる。
「しかし、夜間放牧か。
馬体もしっかりしてるし、古馬かな」
「こば? リッキーか?」
「シニア級ってことさ」
牧柵のギリギリまで近寄り、オグリ、篠葉、マルゼンの順に首を伸ばして匂いを嗅ぐ馬。
人に慣れているようなその姿、篠葉の記憶におけるサラブレッドとして近いのはメイショウドトウやタニノギムレットだろうか。
「牛みたいだな、トレーナー、撫でていいか?」
「いや、一応こういうのはやめといたほうがいいんだ。
こっちに怪我させちゃったら馬の方に処分を課することもあるからな」
「こんなにおっきいけど、ワンちゃんとおんなじなのねぇ」
「あぁ、そうだな。
しかし、牧場だとすると、迷い込んだことを謝って、ついでにここがどこか教えてもらわないと……」
柵から伸ばす首に触れないようにしながら馬を遠巻きに眺めるオグリとマルゼン。
ふと、牧場が近くにあるということは人家もあるのかと思い篠葉はあたりを見回す。
人家は闇に溶けて見えない。 しかし、篠葉の耳にも馬たちの息づかいは聞こえてくる。
結構な広さな感じもするが、それなりに放牧場は埋まっているようだ。
たん、と、踏み出す音がした。
柵に沿って、オグリが早足で歩き出していた。
それに沿うように、馬も歩き出した。
早歩きとはいえ、ウマ娘のそれは人間に過ぎない篠葉からしてみれば一歩手前。
「はあ……マルゼン、止めて来て。 無理なら四割で走るように言ってきてくれ」
「ハイハイ、オッケーよん♪ 楽しそうなオグリちゃんを止めるのは、ちょーっと残念だけどね」
オグリの踏み込みよりも軽やかに、初速から速度を上げる。
そう時間はかからずに追いつくだろう、篠葉はそう思い、再度辺りに目を凝らす。
光が漏れないようにされてはいるだろうが、何処かに家屋がないかとの予想だったが、暗闇に目を凝らしていると、光が小さく灯った。
それと同時に、近づいてくる足音がした。
結構な距離があるため、懐中電灯がゆらゆらと揺れている。
篠葉がスマホのライトをつけると、一目散に明かりは篠葉に向かってきた。
待っている間にオグリはマルゼンに連れられて篠葉のもとに戻ってきて、それに付いてくるように馬も歩きながら篠葉の場所に近づいてきた。
「ちょっとちょっと、困るよお兄さん。
見学の時間は過ぎてるんだからさ。」
「すみません、ちょっと道に迷っちゃって……」
「道って、このあたりはウイニングスタッドとウチしかないはずなんですけど。」
色素の薄い髪の男性と、若く二十代になるかならないかの青年。
連れ立って歩いてきた二人に、篠葉は先ずは頭を下げ、謝意を示した。
「いや、ホントにちょっと僕らも訳わかんないんですけど、山道走ってたらここに出てきて」
「うーん。ウイニングスタッドに勤めてた人、でもないんですよね?
馬産関係の人? 馬商ではないように見えるけど……」
作業着を着ている薄い色の髪の男が独り言ち、篠葉を上から下まで見つめる。
防寒着を着こみ、立ち尽くす姿には馬泥棒特有の胡散臭さと無臭さがない。
表情から読み取れる困惑と恐縮の感情に、
そばにいた青年が柵をくぐり、馬に近づいてケガがないかを見ている。
勿論、歩いただけの馬に怪我か出来るわけもなく、ホッとした表情で青年は振り返る。
「社長、ミカヅキオーはケガもないですし歩きに変なところも見られません。」
「そうか、ありがとう、誠二君。
取り敢えず、事務所まで来てもらえますか?
G1馬に近づいて、はいさよならってわけにはね。」
「はい、本当にすいません。」
競走馬という経済動物に不用意に近づいてしまったことに恐縮しっぱなしな篠葉に、社長と呼ばれた男性が苦笑する。
「まあ、いいです良いです。
本来こんなところ、人が来ようとしたらすぐわかるところなのにいきなり現れたのは、本当に迷ったんでしょう。
けど、ホントにミカヅキオーを見に来たんじゃないんですね?」
「すみません、僕ら単なる訓練中の元アスリートでして。
ミカヅキオー、さん? のこともよく知らなかったんです。
刺激したり、怪我させるつもりは全く無くてですね」
さてどう身の証を立てようか、と篠葉が困っていると、うれしそうな声でいななく声が聞こえた。
オグリとマルゼン、二人がミカヅキオーと呼ばれた馬が寄せて来る顔を優しく撫でている。
「G1、この動物にもその区分があるのか
多分すごいんだな」
「そうねぇ、きっとそうなんだと思うけど……
すごいお馬さんだと思うと、額のマークもルドルフのものに見えてくるわね」
「ん、あぁ、確かに。
体の色はフジの髪の色に似てるけど、額のマークは左右逆だが、確かにルドルフだ」
あまりにも普通に撫でている光景に、その場にいた全員の毒気が消え、緊張が霧散した。
「二人とも………」
「む、すまないトレーナー。
どうもこの馬? に呼ばれた気がして」
話しながらもオグリはミカヅキオーの馬面に手を当てたまま、首を伸ばしたミカヅキオーは気持ちよさそうに目を閉じている。
マルゼンも物珍しそうにミカヅキオーのたてがみをいじっていた。
オグリの雰囲気というか、そんなもののせいか、緩い空気が流れた。
「このあたりだと社長は有名なんですけどねー。
お兄さん、二階堂ファームとか、ウイニングスタッドって聞いたことない?」
青年の探るような言葉に、篠葉は前世の記憶を探る。
思いつく馬産地の有名牧場に、二階堂だのウイニングだのといった名前はなく、ひょっとして帰ってきたわけではないのかと、篠葉はほんの少しだけ落胆する。
「いえ、その…」
「ウイニング…?」
「チケゾーちゃんのチームか何かしら」
「二人とも、ちょっと下がってて」
ウマ娘二人と、目の前の牧場関係者二人。
計四人に対し、何をどの順番でどう説明したものか、とこめかみに手を当てる篠葉。
だが、篠葉の目線の端にいる社長と呼ばれた男は呆けた顔をして篠葉からは完全に目線を外していた。
目線の向き先はミカヅキオー、を越え、その向こうでミカヅキオーのたてがみをいじるマルゼンスキーにピッタリと固定されていた。
雷に打たれたような衝撃が彼の全身を走り、その思考が強制的に止められる。
駿の視界の中、夜の闇で暗いはずのマルゼンの周りだけがスポットライトに照らされたように光り輝き、色鮮やかに浮かび上がった。
目の前の女性に、憧れの影が重なる。
脚の置き方、胸の張り、背線の流れ――どれもが、かつて夢に見た理想の馬体そのものだった。
だが、それを重ねているのは間違いなく人間の姿。
それでも、駿の脳裏に血統表や写真でしか見たことのない理想のサラブレッドが呼吸をする姿で蘇る。
「マルゼン、スキー……?」
「社長?」
固まって動かなくなった社長を誠二が揺らすが、その目線は動かない。
だんだんと顔が赤くなり、かすかなうめき声だけが薄く開けられた喉から漏れた。
「社長っ!」
「うわっ!!」
「あ、戻った」
耳元に大声。
直接的、かつ物理的に冷水をかけられて、頭に登っていた血が下がったのか、今はチラチラとマルゼンの方を見ながら顔を赤くするだけにとどまっている。
「あー、ごほん。
俺はこの二階堂ファームの社長の、二階堂 駿です」
よろしくお願いします、との言葉に、隣の男子も挨拶をする。
青年の名は、前原田 誠二。
駿の赤面と緊張が珍しいのか、誠二はマルゼンと駿の顔に、何度も視線を往復させていた。
「社長、女の人に反応するんすね。」
「誠二君、俺をなんだと思ってるのかな?」
「いや、マジで馬以外に社長がこんなにでっかい反応するの、見みたことなくて……」
従業員と社長、そんな間柄なのだろうと言葉からは滲ませつつも、どこか家族のような身近さを篠葉は感じていた。
駿の赤面を嬉しそう見つめる誠二。
そんな二人に、自己紹介を返すべきかと、篠葉がコホンと喉を鳴らす。
二人の視線が自分に向いたことを感じ、篠葉は頭を下げた。
「俺は篠葉 夏樹(しのは なつき)って言います。
一応、トレーナー、なんですけど、今は現役の面倒は少し休んでる感じですね。
で、こっちが…」
篠葉に促され、ウインクしながら一歩前に出るマルゼン。
ジャージ姿ながら、駿が見惚れた美貌はやはり特別で、距離はあるのに少し近寄っただけでまたうっすらと駿の顔が赤くなる。
「私、マルゼンスキーよ」
何を言っているのか、と、誠二が思った。
ああ、道理で、と、駿だけが思った。
別々の理由で思考で止まった男たちの前に、また一人歩み出る。
「オグリキャップだ、よろしく頼む」
赤と灰、二色の耳と尻尾が動き、二人の姿を月明かりが照らした。
世界に選ばれたかのような一筋のスポットライトに照らされた二人のウマ娘に、一瞬の沈黙が満ちる。
言葉の意味を理解し、名前の文字を脳内に描き、自分の記憶と結びつけた二人の心からの困惑の叫び声が北海道の夜に響いた。
もっと会話を増やしてサクサク行きたい。